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「ただいま」
リビングのドアを開けると、まずお母さんの背中が目に入る。キッチンで忙しなく動きながら、こちらを見向きもせずに「遅かったね」と言った。
顔を見たわけでもないのに、あまり機嫌がよくないことが察せられた。
「今日日直だったし、ちょっと寄り道しちゃったから。ごめん」
「そう」
おかえり、すら返ってこない。いつものことだけど。
挨拶は大事だって教えてくれたのお母さんじゃなかったっけ。あれ、幼稚園か小学校で習ったんだっけ。
主婦にとって朝と夕方は戦争だと聞く。こっちを向いて「おかえり」のひと言を口にする、ほんの一、二秒さえ惜しいのかもしれない。
「お姉ちゃん、おかえりー‼」
リビングのソファーに座ってアニメの録画を観ていた幼い弟と妹が一目散に駆けてきた。抱きつくとか飛びつくとか可愛らしいものではなく、ほとんど体当たりや突進に近い。
小さな身体でも、ふたり同時に来ると衝撃でよろけてしまう。
「ただいま」
両手でふたりの頭を撫でると、頬がとろけそうなくらい顔を綻ばせた。
まだ四歳の蒼葉と三歳の葉月。未来は夢や希望で満ちていると信じているような、屈託のない笑顔に癒される。
「お風呂沸かして、そのまま入っちゃって」
私だって疲れてるのに、ひと息つきたいのに──という文句を飲み込んで、足元にいる子供たちに微笑みかけた。お風呂に入れるのは、いつからか私の仕事になっていた。
「お風呂入ろっか」
「うん!」
可愛い。本当に可愛い。だけど同じくらい、もしかしたらそれ以上にお世話をするのは大変だ。
三人で入るお風呂では、伸ばしっぱなしのぼさぼさの髪にトリートメントをすることはおろか、ゆっくり湯舟に浸かることさえできない。子供にとってのお風呂は一日の疲れを癒す時間ではなく、楽しい楽しい水遊びタイムなのだ。ありとあらゆるアイテムを駆使して、お湯が水になりかけるまで遊び尽くす。
どうして一日中、体力の限界を超えてまで全力で遊び続けられるんだろう。子供のパワーは計り知れない。
お風呂から出るとご飯ができていた。それを四人で食べ終えると、お母さんは子供たちを寝かしつけに寝室へ行くから、私は後片付けをする。
お母さんはおそらくまた一緒に眠ってしまうだろう。けれど今「おやすみ」を言い合うことはない。私の鼓膜に届くお母さんの声は、いつだって小言かため息かお父さんの愚痴。
お母さんと実のお父さんは、私がまだ幼い頃に離婚した。そんな私に歳の離れたきょうだいがいるのは、四年前、私が中学に上がるタイミングで今のお父さんと再婚したから。そしてすぐに蒼葉が産まれ、一年後に葉月が産まれた。
だけどお父さんは仕事が忙しく、残業と出張で家にはほとんどいない。お母さんにとって十数年ぶりの子育てはほぼワンオペで、さらに家事とパートにも追われている。
だから私が手伝うのは当然のこと。
高校生である私に構う暇なんてないのも、行き場のないストレスの捌け口に私を選ぶのも、当然のことなのだ。