この神社に初めて来たとき、なんとなく懐かしい気がした。気のせいではなく、実際に懐かしい場所だったのだ。
子供の頃、一度だけこの神社に来たことがある。確か離婚してすぐくらいだったと思う。
当時、私はお母さんとふたりで近所のアパートに住んでいた。そして散歩していたときにたまたま見つけて、一緒にお参りした。美桜と同じ名前の神社だねって、ふたりで笑い合った。
あのとき私は、「お母さんが早く元気になりますように」と祈った。心の底から神様の存在を信じて、純粋にお母さんの幸せを願っていた。
お母さんになにを祈ったのか訊いたら、お母さんはこう言った。
美桜がずっと笑顔で幸せに暮らせますようにって神様にお願いしたんだよ、と。
教室でずっとひとりぼっちだったとき、どれだけ辛くても学校を休まなかったのは、毎朝お母さんの「いってらっしゃい」と笑顔がそこにあったからだ。
私が階段から落ちて怪我をしたとき、背中を押されたと主張したとき、お母さんは見たことがないくらい取り乱していた。
泣き寝入りしたのは、菓子折りを持って謝罪に来られたからとか、担任に幻滅したからだけじゃない。
その姿を見て安心したからだ。私のことを本気で心配してくれている、愛してくれているのだと感じた。同時に、これ以上お母さんに心配かけたくないとも思った。だからまた頑張れると、頑張らなければいけないと思った。
だけど今度こそ限界を感じた。だからあの日、お母さんに言った。
──今日、学校休みたい。
どうして頑なに仮病を使わなかったのか、今やっとわかった。お母さんに気づいてほしかったからだ。
辛かったねって、無理しなくていいんだよって、抱きしめてほしかった。
ただそれだけで救われる気がした。また頑張れる気がした。
生きていける気がした。
私が辛いとき、咲葵はずっとそばにいてくれた。蓮は息ができる場所に連れて行ってくれた。私がなんとか立っていられるのは、孤独という深い闇から抜け出すことができたのは、そういう存在がいてくれたからだ。
お母さんの笑顔がなくなってしまったのは、そういう存在が──心の拠りどころがないからではないだろうか。お母さんは私にそれを求めていたのではないだろうか。
それを身勝手な強要だと解釈して、ほっとくしかないと決めつけていた。