一瞬、高良は顎に長い指を添え、難しい顔で考え込む素振りを見せた。
 小春がどうしたのだろうと疑問を口にする前に、彼はふるりと首を横に振る。

「……屋敷からは出ないでおこう。俺も久方ぶりに、表の仕事も、裏の仕事もない日だ。小春とただ一緒にいたい」

 殺し文句つきで微笑まれたら、小春としては是とする他ない。
 高良の表の仕事とは、父の会社の手伝いだ。高良父は『樋上商会』という大きな会社を持ち、貿易の他にも手広く事業を行っている。

 最近の高良は手伝いを越え、社長代理としても活躍しており、その手腕は音に聞くほど……ただ仕事においては冷淡な判断も下すため、〝鬼の若様〟などという異名もある。

(社員の人にも、高良さんは畏怖されているんだっけ)

 そんな彼が無条件で、甘く優しい顔を見せるのは小春の前でのみだ。
 また異名に関しては、裏の仕事でも別の意味で呼ばれており……。

「――奥様とおくつろぎのところ、失礼致しますよ」

 そこで開けっ放しの扉から、上質な三つ揃えに身を包み、モノクルをつけた青年がスッと部屋に入ってきた。
 途端、一気に高良の眉間に皺が寄る。

「常々言っているが、俺の許可を待たずに入るな」
「これは失敬。ですが緊急事態ですので」

 冷ややかな高良の態度にも臆すことなく、タレ目を緩めて平然と返すのは、高良の専属秘書である真白涼介だ。高良にとっては幼馴染であり、共に育った兄弟のような間柄でもあった。
 真白は茶色い長封筒を手にしていて、寝台まで来て「これを見てください」と、高良に手渡す。高良は訝し気に封筒を眺めた。

「なにか入っているな……」

 封筒はこんもり膨れていて、固く丸い物が入っているようだ。宛先に高良の名があるだけで、送り主の名前はない。
 なにより纏わりつく黒い靄に、高良の横で小春も身動ぎをする。

「高良さん、これって……」
「ああ、瘴気だな」

〝瘴気〟とは、人の負の感情の集合体。

 他者への怒りや憎悪、妬みや強い欲などは、胸奥から外へ滲み出て時に瘴気へと変わる。そして瘴気は〝鬼〟という化け物を生み、人々に知らず知らず悪影響を及ぼすのだ。
 荒唐無稽な話だが、封筒に蔓延る瘴気が一目瞭然な証拠。……とはいっても、瘴気は誰にでも見えるわけではない。

 一部の者に宿る〝見鬼の力〟が必要だ。
 ただこれは、あくまで見えるだけの力である。

「私や奥様のように見鬼の力があっても、当然ながら瘴気は祓えません。その封筒は郵便物に紛れておりましたが、ここは高良様の判断を仰ごうかと」

 カチャリと、真白はモノクルを指先で上げる。

 彼の言うように、小春もこの屋敷に来てから見鬼の力が目覚めた口だが、瘴気を清めて浄化することは、〝祓い屋〟と呼ばれる、さらに一握りの才ある者たちにしかできない。
 その中でも〝鬼の血〟を引く高良は、一等強い力の持ち主である。

「……この瘴気は祓っておくか」

 高良は封筒を手にしたまま、長い睫毛を伏せる。そのまま集中して念じると、封筒にボッと橙の火が灯った。

「わっ! ひ、火が……!?」
「〝鬼火〟だ。小春に見せるのは初めてだったか?」

 これは高良にだけ使える特殊な能力で、彼の生み出す火は瘴気や鬼だけを燃やせるのだという。
高良は亡き母が祓い屋の一族の出であり、その一族がまた、祓い屋の中では特殊な位置づけだった。先祖が鬼を喰うことで祓ってきたため、鬼の血を取り込んで他とは違う力を手に入れたわけだ。

 高良の鬼の血の特性は、小春にも知らぬことがまだまだありそうだ。

(てっきり、火事かと焦っちゃったよ……)

 胸を撫で下ろす小春の横で、パチパチと爆ぜる火と共に、黒い靄はあっという間に消滅した。

「こんなところか……」

 瘴気がなくなったところで、ビリッと高良は乱雑に封筒の口を開ける。
 中には一枚の手紙と、黒い括り紐のついた、一寸にも満たない小さな赤い鈴が入っていた。膨らみの正体はこれだったらしく、高良は紐を摘まんで持ち上げる。

 錆びているのか、持ったくらいでは音は鳴らなかったが、左右に揺らせば微かに鳴った。
 リィンと、どこか物悲しい音。

「瘴気のもとはこの鈴だな。封筒の内側には術がかかっている……ある程度は術で瘴気を抑えていたようだが、完全には抑え切れず、封筒から漏れていたようだ」
「では送り主は、祓い屋さん関係でしょうか?」
「ああ。この雑な術の掛け方には覚えがある」

 素早く高良は手紙にも目を走らせ、クシャリと鈴ごと握り潰すと、渋々といったふうに立ち上がった。
 高い位置から、片手でポンポンと小春の頭を撫でてくる。

「できるなら、お前とゆっくりしたかったが……少し確認を取るために、火急で向かわなくてはいけない場所ができた。昼過ぎには戻るから、先に菓子を作っておいてくれるか?」

 やはり、祓い屋関係でよからぬことが起きているらしい。

(詳しく聞きたいけど……無理に首を突っ込むのもよくないよね?)

 小春は「お気を付けていってらっしゃいませ」と笑みを繕う。
 高良も「行ってくる」と返した。
 車を出すよう、真白に指示する高良の背中を見つめながら、小春も思考を切り替えて、多忙な高良を癒せる菓子を作らねばと気合いを入れた




「――できた!」

 樋上邸の広い台所にて。
 小春は髪を手拭いでまとめ、青い紗の着物を襷掛けした格好で胸を張った。
 目の前の台には、皿に載せられた四角く黄色い、軽い弾力のある菓子が何皿か置かれている。西洋の菓子、カスタードプディングだ。

「凄いです、小春様! 私、プディングって見たことはあっても、食べたことはなくて……簡単に作れてしまうのですね!」

 共に作業をしていた千津が、キラキラした尊敬の眼差しを小春に注ぐ。
 小春は「私も作ったのは初めてで」と苦笑した。

 カスタードプディングは、牛乳や玉子、砂糖などを混ぜて、香料にレモン汁を足し、型に入れて蒸したもの。庶民の間ではまだまだ馴染みが薄く、ハイカラな食べ物という認識だろう。
 小春も皿の傍に広げてある、作り方の書かれている帳面がなければ、完成などさせられなかった。

(亜里沙(ありさ)さんにお借りしておいてよかったな)

 高良の従妹である十歳の少女・亜里沙は、大好きな高良お兄様に近付く小春を初めは敵視していた。

 しかし、鬼に取り憑かれた彼女の愛猫を、小春が助けるのに一役買ったことで、今や小春を『お姉様』と呼んで慕っている。
 プディング以外にも菓子の作り方をまとめた帳面は、もともと亜里沙の家の使用人が所持していたものだ。それを亜里沙が興味本位で譲り受けて、小春にも快く貸してくれたのである。

「帳面をお返しする時に、亜里沙さんにお礼しなくちゃね。でもここ数日、なんでかこちらにいらっしゃらないよね。ちょっと前までは、学校が終わってからとか、頻繫に寄っていらしたのに……」
「巷で物騒な事件が相次いでいますから。さすがにお転婆な亜里沙様も、自由に出歩けないのではないかと」
「物騒な事件……?」

 隣の千津が漏らした情報は、小春には初耳だった。
 きょとんとしていると、千津は「あれ? 小春様、ご存じありませんか」と驚き、詳細を教えてくれる。

 なんでもここ数日の間に、帝都のあちこちで何件もの傷害事件が起きているという。普段は大人しい者がいきなり凶暴化し、その辺の無関係な人々に殴りかかったり、物を振り回して暴れたりしているそうだ。
 加害者は本当に正気を失っているようで、フッと糸が切れたように落ち着いた後は、暴れた記憶すらないとか。
 おかげで加害者も被害者も増える一方で、警察も手を焼いているそうだ。

「加害者は薬物の類いでおかしくなったのでは、とも囁かれておりますが、そうではないようで……。謎だらけで怖いですよね」
「そんなことが……私、まったく知らなかった」

 よく考えたら小春が最後に屋敷から出たのは、赤坂の別邸へ高良父に挨拶しに行った日だ。結局、高良父には会えなかったわけだが……あの日は仕方なく、高良と外食だけして帰宅した。
 あれ以来なら、世情にも必然的に疎くなってしまうだろう。

(高良さんが屋敷から出ないでおこうって言ったのは、もしかして事件のせい? そんなことが続いているなら、珠小路家の皆さんは大丈夫かな……)

 高良も無事に帰ってくるのか、小春は俄然不安になってくる。
 浮かない様子の小春に、千津は要らぬことを教えたと反省したようだ。「あっ、で、でも!」と、一生懸命にお茶を濁す。

「一過性の事件というか、夏の暑さでおかしくなっているだけですよ、きっと! すぐに解決します!」
「そ、そうだよね……うん」
「そんなことより! プディングを先に、使用人のみんなへ差し入れしに行きましょう! 高良様にお出しする前に、みんなで味見です!」

 お盆にさっさと、皿を載せていく千津。彼女のこういう楽天的なところには、小春も励まされている。
 ふたりは揃って台所を出た。するとちょうど、廊下の先に真白の背中を見つける。彼は高良を送り出しただけで、今回は同行していなかったらしい。

「真白様! 見てください、小春様がプディングを作られて……!」

 タッと駆け寄る千津を、小春も追う。
 真白は「おや、千津さんに奥様?」と振り返るも、その顔は常に冷静沈着な彼にしては、強い焦燥が見て取れた。数時間前にはなかった表情だ。

 先ほどの不安が頭をもたげ、小春は嫌な予感を抱く。

「あの、真白さん……なにかありました?」
「ええ……高良様がいらっしゃらない間にこのようなこと、頭が痛いのですが……亜里沙様がお怪我をされたのです」
「亜里沙さんが!?」

 小春は驚愕の声を挙げ、千津もお盆を落としかける。
 嫌な予感は的中していた。