時は大正――。
 新しい文化が花開き、人々の生活も目まぐるしく変化するこの時代。

 小春は齢十六になった。

 料亭を追い出されてからは、縁あって華族である珠小路子爵家の女中になり、体の弱い珠小路家の一人娘・明子の身代わりとしてここ、樋上家に嫁いできたわけだが……小春は現在、その波乱万丈な半生を思えば、比べものにならないほど穏やかな生活をしていた。

(カラッと晴れた、清々しい朝だなあ)

 季節は夏。
 帝都の空は青く澄み渡り、生温い風が小春の癖のない真っ直ぐな髪を撫でる。

 下働きから女中時代まで、早起きが骨の髄まで染み付いている小春は、たとえ仕事がなくとも陽が昇れば目が覚めてしまう。二度寝もできず、そっと寝台を抜けて庭の散歩に出たわけである。

「あ、芙蓉の花だ!」

 大きな葉に、白い大輪の花がついている。
 庭で一際目立つ、沈丁花の木は花の見頃を終えたが、こちらも華やかで目に楽しかった。

 神田にあるこの樋上邸は、庭はもちろん建物も立派だ。二階建ての洋館と和館を組み合わせた、近年人気の和洋折衷な造り。小春たちが生活しているのは主に洋館で、白壁に柱や梁の骨組みが表に出たハーフティンバー様式が美しい。
 和館の方は小春が来るまで、ある事情により封鎖されていたが、それも今となっては解決済みだ。度々、小春も出入りしている。

(もう少し歩いたら一度部屋に帰って、今日はお休みの高良さんのためにお菓子でも作ろうかな)

 その後も家でゆっくり過ごすか。
 どこかにぶらりと、ふたりで出掛けるのもいいかもしれない。
 まだ寝ている夫となる人の麗容を頭に浮かべ、小春がふふっと笑みを漏らしていると、そこにプロン姿の少女が走ってくる。
おさげ髪にソバカス顔の彼女は、樋上邸の新人女中である千津だ。

「小春様、ここにいらしたのですね! 高良様が……わわっ⁉」
「千津さん!」

 なにもないところで転びかけた千津を、咄嗟に小春は支える。
 千津は「ももももも申し訳ございませんっ!」とあわあわ謝り、急いで体勢を起こした。

 千津はこの通りドジな言動が目立つものの、小春とは歳が近く仲がいい。小春が本物のお嬢様……明子ではないと明かした時も、騙されたと怒ることもなく、真っ先に受け入れてくれたのが彼女だった。

 明子のフリをしていた小春を、千津は『奥様』と呼んでいたが、今は小春が名前で呼んで欲しいと頼んだ形だ。
 小春が気さくに「怪我がないならいいの、それでどうしたの?」と聞けば、千津は改めて要件を言い直す。

「高良様が、起きたら小春様がいないとお探しで……今すぐ高良様のお部屋へ向かえますか?」
「高良さんが? す、すぐに行きます!」

 もう彼が起きていたとは驚きだ。
 芙蓉の花と千津に背を向け、小春は駆け出す。
 かつて『おはじきさん』と呼んでいた、大好きな彼のもとへ、慌ただしく足を急がせた。

「お、おはようございます、高良さ……わふっ!」
「……小春」

 ノックをして部屋に入れば、いきなりむぎゅっと抱き締められた。
 六尺近くもある、高身長でしなやかな体躯に、小柄な小春はすっぽり覆われてしまう。

「高良さんったら、朝から甘えん坊さんですか?」

 もぞもぞと顔を上げれば、整った相貌が至近距離で目に飛び込む。
 黒檀色のサラリとした髪に、シャープな輪郭の顔にはパーツが完璧な配置で収まり、とりわけ切れ長の瞳は魅力的だ。この家の次期当主でもある樋上高良は、誰もが認める美男子である。

(こんな美しい人が、私の旦那様になるんだよね……)

 おはじきさんと呼んでいた頃に比べ、少女のような線の細さは消えて、男らしい色気も身についている。
 おまけに普段着は洋装の多い彼だが、今は寝間着の紺の浴衣姿。それもまた艶っぽくて、見慣れてきたはずの小春でさえドキドキした。

 高良は寝起きの掠れた声で「起きたら隣に、小春がいなくて肝を冷やした」と囁く。

「どこかにいなくなったのかと思ったぞ」
「す、すみません! 先に起きたんですけど、よく眠っていらしたので……高良さんを起こさないように、気を付けて庭の散歩に出ていました」
「そういう時は起こしてくれ。せっかく小春と共寝できる朝は、夫婦らしく迎えたいんだ」
「夫婦らしく……わ、わかりました」

 コクコクと赤い顔で頷いた小春に、高良はやっと腕を緩めてくれた。
 ただ『夫婦』といっても、ふたりはまだ籍も入れていなければ祝言もまだで、何度か共寝しているだけの清い関係だ。普段の寝室だって今のところ別々である。

 というのも、高良父から結婚のお許しが、まだ正式に出ていないのだ。

 息子と華族令嬢の政略結婚を目論んでいた高良父は、小春との結婚に烈火のごとく怒って反対した。そこを高良が説き伏せ、どうにか高良父が住む赤坂の別邸にて、手始めに小春との初顔合わせを取り付けたのが、つい先週のこと。
 しかしその大事な場は、直前でおじゃんになった。高良父に急な出張の仕事が入り、延期になったのだ。
 その間でまだしつこく、高良に「今からでも考え直せ」と訴えているようで、もう高良は勝手に祝言を挙げる強硬手段も考えているとか。

(高良さんのお父様がおっしゃる通り……花街育ちで教養もない私では、身分不相応だということもわかっている)

 華族のご令嬢と比べられると、どうしても引け目を感じてしまう。その戸惑いが時折、小春の胸に暗い影を落としていた。
 そんな小春に対し、高良の方は一刻も早く結婚して、小春を囲い込みたくてたまらないようだ。離れ離れになっていたところ、やっと手元に来た小春を手放す気はないらしい。

(私だって、高良さんともう離れたくない。お父様にも認められて、早く正式な夫婦にもなりたいよ。けど……)

 小春は縋るように、高良の着物の裾をさりげなく握る。

(……やっぱり私は、高良さんにふさわしくないのかな)

 結婚を控えた世の花嫁は憂いを覚えるともいうが、小春のこれもそうなのか。高良といられる今が幸せなほど、どんどん不安になっていく。
 けれど高良に悟られたくはなく、後ろ向きな気持ちを振り払うよう「た、高良さんは一日お休みでしたよね?」と、小春は明るく話題を変えた。

「今日はどうやって過ごしますか? 私は西洋のお菓子を作りたいなと思っていて、高良さんに食べてもらえたらと……あっ! よかったらまた、勉学も教えて頂きたいです!」
「小春の作る菓子は楽しみだ」

 寝台にふたりで腰掛け、並んで予定を立てる。
 高良はすぐ話題に乗ってくれた。

 彼の部屋には余計な調度品はなく、この簡素だが質のいい寝台と、中央に無垢材の机があるだけだ。その分、小春たちの声はよく通る。
 ふたりきりの会話を楽しむ様は、まるで在りし日の、料亭での秘密の逢瀬のようだった。

「勉学も小春は覚えがいいからな。俺としても教え甲斐がある」
「そ、それは、高良さんの教え方が上手いからで……」
「謙遜することはない。小春ならきっと、女学校に通っていてもいい成績を取れただろう」
「学校ですか」

 尋常小学校にも通っていない小春が、明子のような良家の子女しか行けない女学校など、夢物語である。

(それこそ、ご令嬢としての教養がないとついていけないよね。勉強は好きだし、憧れないことはないけれど……) 

 現状、小春は高良に教えてもらえるだけで満足だった。

「じゃあ今日は、お菓子を作って、お勉強をして……お出掛けなどはされますか?」
「いや、外出は……」