今宵も、向島にある花街には灯りが絶えない。
 居並ぶ店先で、ゆらゆらと揺れる提灯の光に合わせ、あちこちで男女が艶を含んだやり取りを楽しんでいる。

 その店の中の一軒である、老舗料亭『蝶乃屋』もまた、千客万来でお座敷はどこも大賑わいだ。呼ばれた芸者たちが唄に踊りにお囃子と、宴を盛り上げてはやんややんやと客に喜ばれていた。

 ここで下働きをしている吉野小春は、そんな座敷にあくせくとお酒と料理を運んで忙しくしていた。着古した木綿の着物を翻し、休む間もなく板張りの廊下を駆けていたのだ。
 それが今……なぜか小春は、仕事中にいきなり腕を掴まれたかと思えば、料亭の中庭に連れ出され、少女と見紛う美少年に睨まれていた。

「あの……おはじきさん、どうされたんですか?」
「…………」

 片腕を掴んだまま、少年は答えない。

『おはじきさん』と呼ばれた彼は、絹のような黒髪に、野暮ったい眼鏡を掛けていてもわかる、端正な顔立ちをしている。齢は十三になる小春より、三つか四つほど上。店の太客である社長の息子なだけあって、身形もいい。

 小春では逆立ちしても手の届かない、上質な正絹の着物を纏って、帯にはこれまた値の張りそうな蒔絵根付をつけていた。

「ええっと、聞いています?」
「ああ……」
「なにか怒っています、よね」
「…………」

 やっと少し反応を返してくれたが、また無言。
 小春はちょっと困ってしまう。

 しかし本来なら、彼はこうして一対一で小春が言葉を交わせるような相手ではないのだ。身分や立場が違い過ぎる。
 きっかけは体調不良の彼を小春が気遣ったことからで、それ以来父親と店に来る度、彼はなにかと小春を構ってくれていた。
 親切で優しい彼のことが、小春は大好きだ。

 物心ついた頃には母を亡くし、この料亭に預けられてからの過酷な労働生活。お給料もろくに貰えなければ、尋常小学校にも通わせてもらえず、大女将に怒鳴られてばかりの毎日で、彼の優しさは小春の救いだった。

 だからそんな彼から、わけもわからず睨みつけられているこの現状は、正直とても悲しい。

「ごめんなさい……私がなにか、おはじきさんを怒らせることをしてしまったんですよね。理由を教えてくれたら、もっとちゃんと謝りますから……」
「っ! 違う、小春は悪くない!」

 おはじきさんは勢いよく否定する。大きな声は僅かに庭木の葉を揺らした。

「くそ……っ」

 あくまで今は、庭の片隅で密会中なことを思い出したのか、バツが悪そうにする。
 小春の腕を解放し、彼はくしゃりと片手で髪を崩した。すると眼鏡がずれ、素の切れ長の瞳が露になる。月明かりのない暗い夜でも輝く、特徴的な金の瞳。

 何度見ても、小春は魅入られてしまう。

(やっぱり、おはじきみたいで綺麗だなあ)

 正しい名を知らぬ彼の、『おはじきさん』というあだ名はここから来ている。いつか名前を教えてもらい、ちゃんとその名前を呼んでみたい気もしたが、それこそ高望みというものだろう。
 彼は眼鏡を直し、深く息を吐き出した。

「……俺の方こそすまない。小春に不埒な行動を取った客に、勝手に俺が腹を立てていただけだ」
「ふらちなこうどう……?」
「酔っ払いに絡まれて、ベタベタと体を触られていただろう」

 一拍間を空けて、小春は「あっ、あれかな?」と思い出す。

 配膳を終えてお座敷を出たところで、廊下で如何にも成金な小太りのスーツの男に、小春は確かに絡まれた。
酩酊状態の男には、小春が『半玉』と称される芸妓見習いにでも見えていたようで、「小さくて可愛らしいなあ、私が旦那になってやろうかぁ?」などと嘯き、小春の肩や腰を無遠慮に撫で回してきたのだ。

 小春とて、不快な思いをしなかったわけではない。
 だが悲しいかな、花街の料亭で働いていれば、あんなことは日常茶飯事だ。

 あしらい方も心得ているので、やんわりと対処して自力で逃げた。おはじきさんに言われるまで、小春はそのことをすっかり忘れていたくらいだ。

「向かいの廊下から見えたんだ。すぐに駆けつけて助けてやりたかったが……父の手前、出遅れた。己の不甲斐なさから、小春に当たるような真似をした。みっともなかったな」
「そ、そんなことないです! 心配してもらえて、あの、嬉しいです」

 小春は小さくはにかむ。
 助けようとしてくれた、彼のその気持ちが有難い。小春の笑みに、やっとおはじきさんも相好を崩す。

「小春は強いな。……だが、やはりこんな瘴気の多いところに、俺は長くお前を置いておきたくない。あの酔っ払いの男だって、今にも鬼を生みそうな、醜悪で欲深な気配が遠くからでもわかった」
「また『瘴気』に『鬼』ですか」

 おはじきさんの使う変わった表現は、小春にはイマイチ意味が理解しがたい。学のない小春にはわからない、高尚な世界なのかもしれない。
 そして決まって、おはじきさんはそれらの表現を持ち出した後、小春にこう言ってくれる。 

「俺がいずれ、小春をここから連れ出す。必ず改めて迎えに行く」

 ……と。

 胸躍る申し出だが、小春は「はい、お待ちしております」と答えながらも、本気にしないように気を付けていた。
実現でもしようものなら、死んでもいいというくらいきっと幸せなことだろうが、現実問題としてなかなかに厳しいだろう。心に予防線を張ることは大事だ。

「……信じていないな、さては」
「え、えっと」

 しかしながら、小春の浅はかな予防線は、おはじきさんにしっかり見抜かれていたらしい。彼は眼鏡の奥の瞳を鋭くさせる。

「本気だぞ、俺は」
「で、ですが、あの……」
「何度も忠告するが、ここらは治安がよくない。先日だって、小春と同い年ほどの少女が、かどわかしに遭(あ)ったという事件も起きただろう」
「あの事件……高良さんもご存じなのですね」

 とある大会社の社長の娘が、向島から大川にかかる吾妻橋を渡った先で、父と兄と夜の浅草見物をしていた。だが好奇心旺盛な娘は、花街の灯りに惹かれてこちら側に来てしまった。
 
 そのまま、行方を眩ませて……といった内容だ。
 目撃証言によれば、娘は何者かに連れ去られたようである。身代金の要求などもなく、現在も捜索が続けられている。

「実は数日前、その娘さんのご家族がうちの料亭にも、なにか知っていることはないか聞き込みにいらしていたんです。その子のお兄様だそうで……とてもとても、心を痛めておいででした」

 その兄は、高良とそう歳の変わらぬ少年であったが、妹を見失ったことで責任を感じている様子だった。
 固く握り締めていた拳に血が滲んでいて、小春はつい「よかったら、こちらを使ってください」と手帛を差し出していた。気休め程度だが励ましの言葉も送れば、その兄は驚きながらも、礼を言って手帛を受け取ってくれた。

「一刻も早く、ご家族のもとに帰って来てくれるといいですよね」

 母を喪い、父は消息さえ不明で、天涯孤独の小春からしたら、家族はいるだけで貴重な存在だ。無事を祈らざるを得ない。
物憂げな表情の小春に、おはじきさんは「俺はお前の身を案じる話をしていたんだがな」と苦笑している。

「まあいい……他人を全力で思い遣るのが、小春らしいからな。もう仕事に戻るだろう? これをこっそり食べていけ」
「あっ、また……!」

 着物の懐からお菓子の小箱を取り出し、おはじきさんは中身をコロンと、小春の水仕事で荒れた手に握らせた。ふた粒あるそれはキャラメルだ。
 高価な食べ物で、小春がおいそれと食べられる代物ではない。
 けれどおはじきさんは、初対面時に礼だと小春に与えてから、その施しを毎回のように行っていた。

(もちろん、初めて食べた時からキャラメルは大好きだけど……!)

 こう頂いてばかりいては、贅沢に慣れてしまいそうだ。今日こそ思い切って、小春はキャラメルを突き返そうとするも、おはじきさんに「お前が要らないなら捨てるだけだ」と先手を打たれる。

「俺は小春に与えるためだけに買っているからな。捨てるなんて勿体ないこと、お前はさせないだろう?」
「……ズルいです」

 負けた小春は、ううっと唸りながら着物の中にキャラメルを仕舞った。おはじきさんが優美に口角を上げる。

(本当に、この人とずっと一緒にいられたらいいのに)

 彼の笑みに惚れ惚れしながら、やはり願ってしまう。
 届かない遠い月にでも、小春は手を伸ばしている気分になった。
 おはじきさんと別れて仕事に戻り、クタクタになった一日の最後に口にしたキャラメルは、極上の甘さと少しのほろ苦さを含んでいたのだった。

 ――この出来事のあとに程なくして、おはじきさんは料亭にぱったり来なくなる。

 彼のいない間に、小春は癇癪を起こした大女将に店を追い出され、雪の夜に生死をさ迷うことになった。このまま凍え死んで、二度とおはじきさんとは会えないと絶望したものだ。

 そこから奇跡的に助けてもらい、彼と再会して結ばれるにはまた紆余曲折あった。
 政略結婚の身代わり花嫁として、彼のもとに嫁いで再会を果たし、互いの正体がわかって、気持ちを確かめ合い……と、なんとも数奇な運命だ。

 けれど、どんな運命を辿ろうと、小春はおはじきさんと交わした言葉も、もらったキャラメルの味も、なにひとつ忘れてはいなかった。
 すべてがすべて、小春にとって大切な思い出なのだ。