ふたりぼっち兄弟―Restart―



「ようこそ。未だに、ババアと繋がりを持つ親父さま。我が家へ」

 頭の良い兄さまは、お母さんにだけに留まらず、おれ達を見捨てたお父さんに脅しを仕掛けた。
 それは、自分達の虐待について警察に包み隠さず話す、というもの。別の家庭を持つお父さんにとって、なにより堪えられない話のようだ。

 もしも、その話が警察に届いたら、間違いなく児童相談所に通達がいく。
 そして警察は、お母さんはもちろん、血の繋がりのあるお父さんに事情を聴こうとするだろう。
 どう言い訳しても虐待に見て見ぬ振りをしていたのは事実。おれ達が訴えれば、警察は動くだろうし、その家庭にも話が届く。家庭は崩壊する。

 お父さんはそれが怖いらしい。

 今まではお母さんがこの家の支配者というのもあって、お母さんさえどうにかすれば愛すべき家庭に魔の手は伸びないと考えていたようだ。

 それがこの夏。
 兄さまが支配者となり、お母さんが下僕となった。立場が逆転した兄さまは、その地位を利用して、家に呼び出したお父さんに告げる。自分達は警察に行く、と。

「警察が動いてくれねーなら、あんたの家に行ってやるさ。騒ぎを起こせば、おれ達は未成年の犯罪者になるだろう。けど、俺達には失うもんなんざねえ」

 今さら犯罪者になったところで、ちっとも怖くないと兄さま。

「けど、あんたはどーなんだ。マスコミが黙っちゃいねーだろうぜ。マイホームパパを演じている、その皮下は不倫パパで虐待の共犯者。いや、不倫は向こうの家庭だっけか」

 ソファーに座って、せせら笑う兄さまに、お父さんが逆上して掴みかかった。

「に、兄さま!」

 慌てるおれに一笑し、兄さまは瞬く間に力でねじ伏せてしまう。お父さんの顔は床に叩きつけられた。


「不良とつるんでいて良かったよ。こういう時に、力ってのは役に立つんだからな。あいつらを呼んで、リンチにしてもらうのも手かな」


 その顔を踏みつける兄さまに勝てる人間なんて、もう、この家には誰もいない。


 社会の地位を失いたくないお父さんは夏休みの間、毎日のように家に通った。
 力で訴えても無駄だと分かるや、お金で解決しようとした。お父さんは察していたんだと思う。兄さまが、自分にとって不都合な弱みをいくつも握っているのだと。

 悪かったと、お前達を見捨てたつもりはないと情に訴えて、何度も思い留まるよう、兄さまに説得していた。

 変な気持ちになってしまう。
 見捨てたつもりがないなら、どうして今まで助けてくれなかったんだろう。おれも兄さまも、お父さんに沢山助けてって言ったのに。

「あーやだやだ。オトナってのは、すぐに手のひらを返す」

 不快感を示しながら、兄さまは条件をつける。

「あんたとババアに守ってもらいたい条件は三つだ」

 一つ、兄弟が来年この家に出る許可。
 一つ、兄弟が家を出た後の生活援助。
 一つ、兄弟が就職するまでの学費負担。

 これらを守ることができないなら、今すぐにでも警察に駆け込む。
 警察が動かないなら、児童相談所に行く。それも無理なら、せめて、お父さんの大切にしている家庭に飛び込む。兄さまはそうお父さんに、何度も脅しを掛けていた。

(家を出られるんだ。おれ達)

 兄さまはいつも夢を口にしていた。
 いつか、必ずこの家を出よう。ふたりで自由を手に入れよう。ふたりで生きていこうって。


 現実になったのは、翌年の三月。
 晴れて私立の有名大学に受かった兄さまと共に、おれは兄さまと育った家を後にした。

「マンションにすりゃあ良かったな。狭いし、ぼろい」

 隣町でアパートを借りた、一階の101号室が新しいお家だった。
 今まで一軒家暮らしだったせいか、2DKのベランダなしはとても狭く見える。

 しかも、ちょっとぼろい。

 兄さまは不満そうに、「あのクソ親父」と、舌打ちを鳴らしていた。


 だけど、おれにはこの部屋がすごくキラキラして見えた。
 もう、お母さんの罵声や冷たい目、暴力に怯える必要もない。お父さんの冷めた家族愛に悩む必要もない。近所の目を気にすることもない。完全におれと兄さまだけの部屋。

「あっ……ぁぅ……」

 そう思うだけで涙が溢れた。
 これから住む新しい部屋を見回して、暫くはしゃいでたおれだけど、色んな気持ちが爆発して、とうとうその場にしゃがんで泣いてしまった。

「那智、どうした。嫌だったか、この部屋」

 勘違いをした兄さまが焦ったように、膝を折ってくる。
 ちがうよ。おれはうれしいんだよ。兄さまと、今から二人で暮らしていける、この部屋が。怖いものも何もない、この部屋は素敵だよ。世界で一番の部屋だよ。

 おれは兄さまに抱きついて、わんわんと泣いた。
 そこで気持ちを吐き出す。毎日がつらかった。お母さんが怖かった。お父さんが冷たかった。近所の人の目が嫌いだった。
 兄さまが、おれの兄さまで良かった。本当に良かった。おれは弟で幸せものだと。
 ここで死んでも、おれは悔いをしない。むしろ、これ以上の幸せなんてないんじゃないかな。

 だったら、ここで死にたい。もう、つらいのも、苦しいのも、怖いのもいらない。

「ばかだな。今からなんだぞ。ここで死んでどうするんだよ」

「だっ、だっで」

 兄さまは、いつものようにおれを泣き虫毛虫だと笑い、涙を拭ってくれる。

「俺がここまで頑張れたのは、お前が傍にいてくれたからなんだ。那智、お前だけはいつも、俺を見捨てずにいてくれた」

 それは兄さまもだよ。ちょっとしたことで、すぐ泣くおれを、兄さまはいつも慰めてくれた。いつも守ってくれた。いつも微笑んでくれた。

「さあ那智。胸を張れ。お前はもうオトナに虐められる、可哀想で惨めな子どもなんかじゃねえ。周りの人間と同じ、普通の人間だ。俺もお前も、普通になったんだ」

 これからは、普通の暮らしを送る、普通の学生だと兄さま。

 他の家庭と変わりない、普通の人間なのだと強く主張した。


「ただな。ひとつだけ約束してくれ。これからも、兄さまの傍にいるって。おまえの一番だって。俺はそれ以上、何も望まない。お前さえ居てくれたら、それでいいから」

 どうか他人を信じないでくれ。好意を寄せないでくれ。おれを一番に置いてくれ。兄さまをひとりにしないでくれ。

 力いっぱい抱きしめてくる兄さまが飛びついてきた。大きい体を受け止められるわけもなく、その場に押し倒されてしまう。

 あいてっ、畳に頭をぶつけてしまった。

「にい、さま?」

 兄さまがおれの肩に顔を押しつけてくる。
 震える声と、じんわりと湿った服の感触で、兄さまが泣いていることを知った。お父さんにもお母さんにも勝った、あの兄さまが泣いている――ああ、そうか。兄さまも、ずっと怖かったんだ。親が、周りの目が、あの家が、とても怖かったんだ。

「だいじょーぶ。兄さま、だいじょーぶ。おれはずっと、兄さまの傍にいます。お約束です」

 いつも兄さまがしてくれるように、頭をいい子いい子と撫でた。声を上げて泣き出す兄さまが落ち着くまで、いい子いい子を続けよう。


(神様。どうか、これから始まる二人暮らしを楽しいものに、幸せなものにしてください)


 そんな願いを胸に秘めながら、おれは大好きな人のぬくもりに目を閉じ、またひとつ頭を撫でた。

【Chapter01:普通】
 ┗普通の生活に溶け込めきれない矢先、ちょっとしたストーカー事件が起きた。



【1】


 ぱちぱちと台所から聞こえてくる、油のはねる音。

 勢いの良いそれを耳にした俺は、ゆるりと重たい瞼を持ち上げ、気だるく体を起こす。
 弟が作る朝食の音は、俺の目覚まし代わり。それを聞いて、目を覚ますのが日課となっている。

 ああ、もう朝が来たようだ。

 まだ寝ぼけている頭を掻いて、大あくびを二つ、三つと零していると、起きた俺に気付いた那智が振り返ってくる。

「おはよう、兄さま。今、食パンを焼きますね。ジャムがいいですか? それとも目玉焼きを焼いているから、パンの上にのせます?」

 俺より一時間も前に起きていたんだろう。質問を投げてくる弟の声は、朝っぱらから元気が良い。半分くらい瞼が下りている俺を笑ってくる。

「気分的にしょっぱい系がいい。那智、バターあったっけ?」

「あー切らしちゃってます。とろけるチーズはありますよ」

「んじゃ、それを頼む。珈琲はミルクだけな」

 そう言って布団の上に寝転がると、「また寝ようとする!」
 起きろと言わんばかりに、那智から布団を引っぺがされた。

 そんなことを言われても、兄さまは眠いんだよ。まーじ眠い。夜中の三時までレポートを書いていたから、究極に眠いんだ。三時間くらいしか寝てねーんだ。もう少しだけ寝かせてくれ。

「もう。昨日、おれに『明日は一時限目から授業だから起こせ』って、兄さまが言ったんでしょ。出欠が点数に響くのどうのこうのって」

 そうだった。確かに、俺はそう言った。
 しっかりと昨日の約束を果たしてくれる優秀な弟は、俺を布団から追い出すと、てきぱきとそれを畳んでしまう。いつまでも布団があるから、目が覚めないのだとお小言を口にして。
 うへえ、お前は俺の母親か? 口喧しい母ちゃんになっちまって。

(まあ。いいことだ。那智の奴、めっきり泣くことも少なくなったし)

 実家を出て早一年。
 過剰なまでに母親に怯え、すぐに自分を責めていた泣き虫毛虫だった弟は、二人暮らしを経てずいぶんと頼もしくなった。

 中学に上がったこともあり、自分で考えて行動することが多くなった。

 学業の傍らバイトをして、少しでも生活の足しにしようとする俺の姿を目にし、家事全般を引き受けると宣言してきた。
 さすがに全部を任せるのは悪いと思って、半分こにしようと提案するも、兄の負担を減らしたいのだと、那智は大主張。その目は燃えていた。役に立ちたいと燃えていた。


 その時の俺は、那智のことだから、三日も続かないだろうと高を括っていた。させるだけさせてみて、だめだったら半分引き受けようと思っていたんだ。

 けど俺の認識は甘かった。
 那智は三日どころか、一ヶ月経っても、三ヶ月経っても、音を上げずに家事を続けた。それどころか、本屋で料理本や掃除に関する本を立ち読みして、より家事の腕を上げていった。

 いやあ、弟の成長を感じたぜ。まじで。
 俺の身の周りの世話を焼く姿なんて、小さな主夫だ。主夫。那智はいい主夫になりそうだ……結婚なんざ、ぜってぇ認めねーけど。

「見て見て。兄さま、こんなに育ちましたよ」

 着替えと洗顔を済ませて、折れ脚テーブルに着くと、那智が朝食と一緒にハーブが植えられたプランターを持ってきた。朝一に報告したかったんだろう。得意げにそれを見せつけてきた。

「お、ずいぶん育っているな。あー……その、ミント」

 だったよな。
 プランターを一瞥し、苦い珈琲を啜る。
 お、今日の朝食はパンと目玉焼きとベーコンか。美味そう。

「あ! また間違えた! 兄さま、これはバジルですって。ミントはあっち。全部兄さまの大学の近くにある花屋さんで買っているんですよ?」

 ぶうっと脹れる那智が、台所の窓を指さす。

「そんなこと言われても、花屋になんて寄らないしなぁ」

「毎度、おれが説明しているじゃないですか」

 おっと、こりゃまた失礼しました。兄さまはお前と違って、植物にてんで知識がないんだ。ハーブを見たところで、どれも同じ葉っぱに見えるんだって。

「これ、今度パスタを作る時に入れますね。楽しみにしておいて下さい」

「お前は本当に植物を育てることが好きだな。もっと買っていいんだぞ」

 那智が楽しいことなら、バイト代だって惜しまない。親の金もあるしな。

「じゃあ、兄さまと一緒にカモミールを育てたいです。楽しいですよ」

「……兄さまは三日で枯らす自信がある。水の分量とか、全然わかんねーんだよ」

 それに、植物は愛情とやらを注いでも応えてくれない。綺麗に花を咲かせる程度。那智は花を咲く過程が楽しいみたいだけど、餓えた俺には満足ができない。どう足掻いても枯らす未来しか見えねーや。

(まあ、那智の趣味が増えたことは良いことだな)

 二人暮らしを始めてから、弟は家事を率先してやるようになり、料理のレパートリーを増やすことに喜びを覚え、植物を育てることが大好きになった。
 ああ、それからテレビっ子で何かとテレビで見た豆知識やら、芸能人の真似をしたがる。アニメやドラマは俺以上に観ている。実家暮らしだったら到底考えられなかった幸せだ。


「あの、兄さま……」

 とろり、と溶けたチーズをパンと食む。
 塩気たっぷりのチーズを咀嚼しながら、俺は那智に視線を流した。

 今し方、活き活きとしていた姿が萎んでいる。どこか後ろめたいような、罪悪感に駆られているような、そんな落ち込んだ姿に俺は瞬きをする。

「どうした那智。もしかして、学校のことか?」

「……今日も図書館でお勉強しようと思って」

 顔色を窺ってくる那智が、ただただおかしい。

「ばかだな。兄さまはいつも言っているだろ。お前のペースで行けって。学校だけが、お前の居場所じゃねーよ」

 弟は頼もしくなった。
 その一方で、虐待の傷が癒えたわけでもない。

 那智は中学に上がって早々登校拒否を起こしている。
 理由はクラスに馴染めなかった、ではなく、生徒達に虐待の痕を見られたから。ただ見られるならまだしも、やたら校則と時間に厳しい体育の教師によって、皆の前でその体をさらけ出されたんだ。

 当時、自分の体を見られたくない那智は、周囲の目を気にして着替えられずにいたらしい。
 そのせいで、時間に遅れてしまい、体育の教師からこっ酷く怒られた。
 それだけならまだしも、自分ひとりだけジャージを着ていた。教師に注意されても、どうしても脱げずにいた。

 ここで勘の良い教師なら、この生徒に何か事情があるんだと思って、個別に呼び出すなり、事情を聴くなりするだろう。が、そいつは察しの悪い、頑固頭のクソ野郎教師だった。

 集団訓練の一環だとか、皆と同じになれとか、そういう言葉を投げつけて、那智のジャージを無理やり脱がせてしまった。あろうことか生徒達の前で。

 通う中学は二つの小学校が総合されている。
 那智の家庭事情を知らない生徒も多い。反対に噂で家庭事情を知る生徒もいる。教師を止める生徒がいたらしいが、那智のさらけ出された肌に『気持ち悪い』と心無いことを言ってしまう生徒もいた。

 俺みたいに気が強ければ良かったんだが、生憎、那智は気が弱い。虐待の痕を見られたショックと、投げられた言葉と、教師の仕打ちに混乱し、その場から逃げ出してしまった。


 あの時は本当に大変だった。

 学校から連絡を受けた俺が大慌てで迎えに行くと、那智はトイレに閉じこもって出てこようとしない状況となっていた。
 担任や体育教師、養護教諭が説得しようとしても、まったく応じようとしなかった。

 俺がドアをノックし、迎えにきたと声を掛けたことで、ようやく鍵を開けてくれた。腕を引っ掻き回していたようで、爪も指先も真っ赤だった。

 俺を見るや火が点いたように泣きじゃる那智の姿を、今でも鮮明に憶えている――泣きながら言っていたっけ。

 自分は普通じゃない、普通じゃないのだと。せっかく兄さまが普通にしてくれたのに、普通じゃない、と。


(普通じゃない、か……普通ってなんだろうな)


 誰にも体験したことがない、過酷な環境で育った那智は、周りから見れば普通じゃない。
 小さなことで傷付いたり、泣いたり、怯えたり……そういうのって他人から見れば、那智は弱い人間で終わるんだろう。

 でも、俺は那智と同じ環境で育ったから、こいつがどんなに強い人間か知っている。
 那智は強かった。母親に虐められても、父親に見捨てられても、逃げることなく俺の傍で強く生きていた。

 そんな弟が、俺は可愛くて仕方がない。

 正直、あの騒動は有り難かった。
 あれの一件で那智が登校拒否になったのだから。他人と接触する機会がグンと減ったのだから。
 たまに保健室へ登校することもあるが、本当は保健室に登校しなくてもいいとすら思っている。

(普通の兄貴は弟に、こんな感情なんざ抱かないんだろうなぁ)

 結局、俺も普通の人間に成り下がれたわけじゃないってことだ。
 あーあ、やだね。自由を掴んでハッピーライフ。人生バラ色だと思っていたのに、現実は非常にキビシイ。

「兄さま。おれ、このままでいいんでしょうか。ずっと、兄さまに迷惑ばっかり掛けていますけど」

 物思いに耽っていると、那智が胸の内を明かしてくる。『このまま』じゃねえと、俺が困るんだよな。
 お前が俺みたいに、外の世界に枯れた感情を持っているなら話はべつだが、那智は本当の意味でまだ外の世界を知らない。憧れだって抱くことだろう。

「俺にとって大切なのは、那智が元気で傍にいてくれること。そんだけだ」

「生活のお金を稼いでいるのは、兄さまじゃないですか」

 残念。ほぼほぼ哀れむべき親父殿と、お袋殿の懐から出ている。

「おれもバイトした方がいいのかなぁ」
「中坊がバイトなんてできねーだろ」
「うう……」
「バイトが出来ない代わりに、お前は家事全般を引き受けた。少しでも俺の支えになろうと思って。そうだろ?」

 こくり、那智が頷く。

「なら、それでいいじゃねえか。ちゃんと、自分にできる精一杯のことをしているんだから。那智、お前は俺みてぇに気が強くねえし、要領も良いとは言えねーけど。俺には持っていないものを沢山持っている。それを自分で認めてやれよ」

 くしゃくしゃに頭を撫でてやると、弟が嬉しそうに頬を崩して、背中に飛びついてくる。
 後ろに体重を掛けてやると、「重い」と言って笑った。そんでもって反撃代わりなのか、小生意気にもこんなことを言ってくる。

「早く食べないと遅刻しますよ」

 だってさ。
 ったく、調子の良い奴だな。お前は。