ふたりぼっち兄弟―Restart―



 緩みそうになる口を必死に引き締めて、俺は担当医から説明と助言を受けた。
 半分くらい聞き逃しちまったが、大したことじゃないだろう。
 ああもう、単純な俺だから、病室に帰る足取りはすごく軽やかだった。ガキみてぇにはしゃぐ俺がいる。体に出るくれぇ那智が俺に依存している。嬉しくないわけねえ。ああ、もっと、もっと那智が俺に依存してくれたらいい。

「兄さま。どこに行っていたんですか?」

 病室に戻ると、日記を書いていた那智が手を止めて、俺に視線を投げてくる。
 ご機嫌な俺に首をかしげているが、構わずにくしゃくしゃと頭を撫でて誤魔化した。

「那智。明日は俺も歩行練習に付き合うからな」

 途端に那智が目を爛々と輝かせてきた。

「ほんとですか。え、でも、あの用事とかは」

「明日は予定を空けている。だから歩行練習も、心理療法(セラピー)も一緒にいるよ。それこそ朝から晩まで一緒にいるから、那智のがんばりを兄さまに見せてくれよ。さみしい思いばっかさせてちゃ、兄さま失格だろ?」

 俺の言葉を反芻した那智は、見慣れた泣き虫毛虫の顔になった。

 ずっとずっと我慢していたんだろう。
 本当は歩行練習に付き合ってほしいとか、心理療法(セラピー)を一緒に受けてほしいとか、もっと留守番する頻度を減らしてほしいとか、わがままを沢山ぶつけたい気持ちに駆られていたに違いない。

 だけど俺が日常の整理に奔走していることを、誰よりも那智が知っていた。
 だから電話で声を聞きたい、とか夕飯を一緒に食べてほしいとか、褒めてほしいとか、そうやって本音を隠していたに違いない。

(歩行練習後は落ち込んでいた。そりゃたぶん、親子連れを目にしていたんだろうな。親の存在が羨ましかったんだろう)

 俺達には無い親の存在、愛情、優しさを他人が持っている。
 それは那智にとって羨ましいことであり、妬ましいことだ。俺にそういう気持ちがねえと言えば嘘になるが、那智は俺ほど割り切れていねえ。感情の処理が追いつかなくなったんだと思う。
 ばかだよな。もっと言っていいのに。もっと兄さまに依存していいのに。

 腹痛ではちっとも見せなかった泣き顔を必死に隠そうと、手の甲で目元をこする那智の額を軽く人差し指で押す。

「なに我慢してるんだよ。那智らしくねえな」
「だって、だって……兄さま、いつもがんばってるのに。おれだけっ、わがままで」
「お前もがんばっているだろ? 甘えたい時に甘えるのを我慢したんだから。周りは付き添いがいるのに、ひとりでずっと歩行練習したんだ。がんばっているよ。だから」

 だから、遠慮せず兄さまに甘えていい。
 そう言ってやると、那智がとうとう涙をこぼし始める。

「ゔぅっ……泣き虫は卒業したいのに。したいのに」

 震え声で呟いて、愚図って、少しだけ癇癪を起こした後に抱きついてきた。
 きつく抱きしめ返してやると、那智が本格的に愚図り始めた。溜めに溜めていた感情が爆ぜてしまったようだ。

「どうしてっ、どうじでお母ざんっ、優じぐないの兄さま」
「いつも叩くもんな。俺達の母さん」
「お父ざんだって、ゼンゼン優しくなくて」
「うん。そうだな」
「みんなのお父ざんお母ざんっ、優じいのに、おれぁああアァア、ゔぁあアア」

 火が点いたようにワァワァ泣き始めた。
 幼児のように愚図って、俺に抱擁や抱っこをねだってくる。
 いつもは聞き訳が良いし、現実を冷静に見据えて、自分達の母親は周りとは違うと分かっているんだが、今回ばかりはまじで感情処理が追いついていないようだ。

 間が悪いことに柴木と勝呂が益田の使いを受けて、病室にやって来たが、ご覧のありさま。お取込み中で手が離せない。

「やだっ、にいざまヤダァアア! 行っちゃヤだっ!」

 柴木と勝呂を見るや、那智はヤダを連呼し始めた。
 兄貴を取られると思ったんだろう。いまは自分の番だと凄まじい癇癪を起こして、喚いて、俺の体を叩いてくる。こうなるとしばらく元に戻らないだろう。久しぶりだな、那智がここまでダダっ子になっちまうの。本当に我慢していたんだな。

「大丈夫、兄さまはどこにも行かないよ。ごめんな。さみしい思いをさせたな」

 那智は大粒の涙を零したまま、何度も首を縦に振った。さみしかったと言ってきた。素直でよろしい。

「いっしょがいいっ、いっしょっ、にいざま」
「ああ。明日は一緒にいるよ」
「ずっと、いっしょ」
「朝から晩まで一緒にいる。大丈夫」
「やだ。はなれちゃやだっ。さみじぃ。ひとりはヤダよ。やだよぉ」

 俺は那智をソファーに連れて行くと、膝の上に弟をのせ、ダダっ子くんの背中を優しく叩いてやる。一層、声を上げて泣き始めた。その一方で、心の底に眠る本音を吐き出す。優しいお父さんお母さんがほしい。叩かない親がほしい。愛してくれる親がほしい。どうして自分の親はみんなと違うのだ、と。
 思った通り、那智は羨ましかったんだろう。妬ましかったんだろう。リハビリ室で見かけた親子の微笑ましい光景に。

 肩で息をし始める那智は、優しい親がほしいと繰り返していたが、背中を叩き続ける兄貴の存在を思い出すと、顔をくしゃくしゃにして俺の胸に顔を押しつけてきた。
 怖い親なんていらない。兄さまがいたらそれでいい、と泣きじゃくる那智に頬を緩ませると、小さな頭を抱きしめてやる。それこそ那智が泣き止むまで、ずっと抱きしめてやった。


「――すみません。どうしても、これを下川のお兄さんに渡してほしいとのことで」


 那智を落ち着かせることに成功した俺は、病室の前で待っていた柴木から封筒を受け取った。

 中身は益田お手製の報告書。
 ストーカー事件及び通り魔事件の捜査の進み具合や、マスコミの動き、親父の傷害事件、先日襲ってきた連中の取り調べ状況について事細かに記されている。
 もちろん、これは公式の書類じゃない。
 俺限定に向けた益田お手製の報告書で、俺が知らない情報を益田は沢山握っていることだろう。まあ、建前でも報告しておくべきだと益田は思っているんだろうな。

 あとで目を通しておくか。

「益田に受け取った旨を伝えておいてほしい。言っておかないと、あいつ直々に病室に来るだろうしな」
「はい。益田には私から伝えておきます」

 柴木がひとつ頷いたところで、勝呂が俺の背後に視線を投げながら控えめに「大変ですね」と気遣ってきた。

 それは那智の愚図りを指しているのだろう。

 俺は背後に隠れている弟を一瞥する。
 那智は俺の右手を握って、口をへの文字に曲げていた。目は真っ赤だ。感情任せに泣いたせいで疲労の色も見え隠れしている。

 それでも那智は俺の手を離そうとしないし、傍を離れようともしない。
 病室で待たせようもんなら、また火が点いたように泣いちまうことだろう。
 ちらりとこっちを見てくる那智の訴える目に気づき、俺は苦笑いを浮かべると、「話はもう終わるよ」と言って、わしゃわしゃと頭を撫でてやった。
 なおも不機嫌に口を曲げているダダっ子は、早く自分に構ってほしいようだ。握る手が強まった。

「弟さんはいつも、こうなんですか?」

 勝呂の疑問に、「まあ」と曖昧に返事した。

 那智はもちろん、俺も一度感情任せになると、自制が利かないほど駄々をこねたり、泣き喚くことがある。心理療法(セラピー)の担当医にも問診を受けた際、そのような状況になったことがないか、と聞かれたことがあった。どうも俺達は育った環境のせいで、感情の制御(コントロール)が人より下手くそらしい。
 俺が駄々をこねた時は那智が宥めてくれるし、あんまり問題視してなかったんだが、周囲の反応を見る限り、そうでもなさそうだ。

「こうなった弟を落ち着かせるのは骨が折れるけど……いつものことだしな。すごく可愛いし」
「か、可愛い?」

 コイツ何を言っているんだって言わんばかりの顔をされたが、大真面目に可愛いと思っている。

「だって、あれだけ泣きじゃくりながら兄貴を求めているんだぜ? そりゃあ可愛いよ――めちゃくちゃ愛されているって感じがするじゃん? 弟にはもっと泣き喚いて、兄貴を求めてほしいね」

 思いっきり顔を引き攣らせている勝呂と、表情ひとつ変えない柴木に、滅多に向けない笑みを浮かべた。

「俺は那智が求めてくれるなら、何度だって駄々をこねてくれていいよ」

 家族ってそういうもんだろう?  
 おとな二人に向かって言葉を投げると、俺は不機嫌に口を曲げている那智と視線を合わせるために膝を折った。

「お話は終わったぞ。那智、良い子に待っていたご褒美にジュースを買ってやるよ」
「ジュース?」
「休憩所の自販機で買って来てやるから、好きな物を言えよ」
「やだ。兄さま、いっしょにいるって言いました」
「ジュースいらないか?」
「ほしい。でもいっしょがいい」
「じゃあ、いっしょに自販機まで行こうか。おんぶしてやるから背中にのれよ。車いすを取ってくるの面倒だしさ」

 うんうん、那智は二度頷いて、俺の背中にのってくる。
 少しだけ機嫌を直したのか、那智はココアが飲みたいとおねだりしてきた。その際、いっしょに飲もうとおねだりしてくるもんだから、俺もココアを飲むことが決まってしまう。
 ココアは俺にとって、ちと甘すぎるんだが……たまにはいいだろう。

「じゃあ、俺達は行くぞ」

 俺はこちらの様子を見守る刑事に声を掛けると、弟をおぶったまま休憩所の自販機へ向かった。
 刑事二人が俺の発言にドン引いているのは、もちろん分かっていた。本音を漏らしたのは当然わざとだよ、わざと。
 弟に求められた今晩の俺はご機嫌もご機嫌、誰かに家族愛を見せつけたい気分だった。

「兄さま。あのね」
「ん?」
「ココア、いっしょに飲みたい」
「ああ。いっしょに飲もうな」
「あとね」
「うん?」
「今日いっしょに寝たい」
「お前、腹を怪我してるだろ? いっしょに寝て、兄さまが那智の腹蹴っ飛ばしたらどうするんだよ」
「やだ。いっしょのお布団で寝たい」
「ったく、そう言われちゃダメって言えねえな」

 薄暗い廊下を歩き、休憩所に向かう道すがら、那智と他愛もない会話を繰り広げる。
 今日の那智は本当にわがままで聞かん坊だけど、俺は快く弟のわがままに耳を傾け続けた。親に得られなかった愛情を、兄貴に求めている。それを分かっていたからこそ、俺は那智の内なる声に耳を傾ける。求められるってのは本当にいいな。自分の存在価値を見出せる。

「那智」
「うん?」
「兄さまといっしょに寝ような」
「うん!」

「俺達にはお父さんもお母さんもいねえけど、血の繋がった兄弟がいる。お前は兄さまにとって、大切な家族だからな――そしてお前の家族は『俺』だけだ。忘れるなよ。分かったか?」

「はーい」
「良い子だ」

 昔からこうやって那智に言い聞かせては、やっていいこと、ダメなこと、怖いこと、気を付けることを教えていたっけ。
 どこまでも素直な那智だから、今回だって兄貴の言葉を一心に受けてくれるに違いない。お前は良い子だもんな。兄さまの教えはちゃんと守ってくれる。そう信じているよ。


【10日目/365日】


たくさんイイコトがあったよ!
だって今日いちにち、兄さまといっしょだったんだ!
ひさしぶりに兄さまとふたりでいっぱい過ごして、うれしくて、ふでが、ふでが……なんていうんだっけ?
とにかく日記を書くことが楽しいんだ。
じゅんばんに今日あったことを書こう。


◆朝
兄さまとごはんを食べた後、ほこう練習まで勉強を教えてもらった。
英語をがんばろうと思ったけど、兄さまは「まずは国語」だって。
うう、漢字ができない自覚はあるよ。

兄さまに漢字問題を出された。
『けっかん住宅』の『けっかん』を『血管』って書いたら、兄さまがすごい声でうなっていた。
「ここまで漢字ができないのかよ……お前」だって。
日本語むずかしいね!

◆朝ごはん
白ごはん、みそ汁、切りぼしだいこん、にまめ、牛乳。
だからどうしてごはんと牛乳をいっしょにするの?
全然合わないよ……みそ汁と牛乳も最悪なのに。

◆ほこう練習
リハビリ室でほこう練習をがんばった。
いつもはひとりで歩く練習をするんだけど、今日は兄さまがいっしょ。
となりにほめてくれる人がいるっていいよね。
同じ時間に親子づれがいて、いつもほめられている様子を見ると心やお腹が苦しくなっていたんだけど……。
今日はなんとも思わなかった。
心もお腹も苦しくない。
さみしかったんだ、兄さまがいなくて……。
困らせると思って日記にも書かなかったけど、兄さまにはかくせなかった。
まだまだ子どもだと思う。ちょっとだけくやしい。

傷をかばって歩くこともなくなってきた。
すぐほこう練習も卒業できるよって先生が言ってくれた。うれしい。

ほこう練習が終わった後は売店でアイスを買ってもらった。
がんばったごほうびだって。
チョコレートアイスおいしかった。

◆昼ごはん
ロールパン、キャベツサラダ、ちっちゃいオムレツ、オレンジ、牛乳。
病院食は和食より洋食の方が好きだけど……。
兄さまとアイスを食べた後だから、あんまりテンションが上がらない。
アイスおいしかったなぁ。
もしょもしょ食べていたら、兄さまが大笑いしてきた。
「しょうじきな顔だな」だって。
うう、そんなに顔に出てたかな……。


◆セラピー
今日はジグソーパズルをした。
ひまわりのジグソーパズルをはめて、絵を完成させるんだけど、むずかしかった。
だけど完成させることできたよ。兄さまといっしょだったから。

いつもよりも楽しくて、たのしくて。
それが梅林先生にもばれちゃったみたい。
「那智くん。よかったね」って言われちゃった。
はずかしかったけど、うれしい気持ちが強かったから、おれはいっぱいうなずいた。

だけど梅林先生から「今日はお腹痛くない?」って聞かれちゃって……。
うう、兄さまに毎日お腹痛くなってたことばれちゃった。
こわい顔をしてた。ごめんなさい。

ほこう練習が終わると、お腹痛くなってたことをしょうじきに言った。
日記に書けなかったのは、兄さまを困らせると思ったから。
そう言ったら兄さまが「なにかあってからじゃおそいんだぞ」って、心配してくれた。
今度から体調が悪くなったら兄さまに言うね。日記にもちゃんと書く。約束。

梅林先生からも「お兄さんをたよりなさい」って言われちゃった。
もういっぱいたよっているんだけど……。
兄さまみたいにたよれる人になるのって、どうすればいいかな。

セラピーが終わったら、兄さまから「がまんさせてごめんな」って言われた。
兄さまは悪くないよ。がんばっているの知ってるもん。
なにかおれに手伝えることがあればいいんだけど……。

◆夜ごはん
白ごはん、えびふらい、にんじんサラダ、コーンスープ、りんごゼリー。
兄さまと一日いっしょにいるから、ごはんも好きなのばっかりだった!
えびふらいは兄さまとはんぶんこした。
おいしいものは、はんぶんこしたいもんね。


◆夜
お風呂あがり、兄さまがふれたいって言ってきた。
消とう時間はすぐそこだったけど……。
兄さまはタイミングをねらっていたみたい。
いいよって言ったら消とう時間後、ソファーでキスしたし、かみつかれた。

首、肩、うで、いっぱいかまれた。
本気でかまれたし、手かげんのかみつきもあった。
この前とチガうのは、兄さまが注意ぶかく、おれの反応を見ていたこと。
少しでも反応があったら、そこをたくさんかんできたし、なめてきた。

やっぱり耳がイチバンよわくて、かまれても、なめられても、カラダがはねた。
がんばって声をがまんしたけど、それを見た兄さまがすごくいじわるになった。
ずっと耳ばっかりかんでくるようになった。

声が出そうだから、そろそろやめてって言ったんだけど……。
兄さまは「出せばいいじゃないか」って言ってきた。
でもお母さんみたいに、うるさくなるのはヤダしなぁ。
あとカラダが熱いって言ったら、「感じてるんだな」って言われた。

こうなったらおれも耳をこうげきしてやる!
そう思って、兄さまの耳にかみついた。なめた。声を出させてやろうとがんばった。
なのに兄さまから「くすぐってぇ」って笑われた。

もっと、もっと何かあると思ったのに!

兄さまいわく「那智のせい感たいは、耳なんだろうな」だって。
人によって感じるところチガうんだってさ……。
ずるい。おれも兄さまに感じてほしい。
そう言ったら、兄さまがもう感じているって言ってきた。

「那智が兄さまの手で感じる、それが最高にこうふんする」って。

兄さまは本当にうれしそうだったし、しあわせそうだった。

けっきょく、声が出るまで耳をかまれた。
さいごに息できなくなるキスして、ふれあいはおわり。
ただ兄さまは少し物足りなさそうにしていた。
退院するまでは、これくらいにしておく、だって。

がまん……しなくていいのに。

兄さまは優しいから、おれのカラダを気づかってくれたんだろうな。


ごめんなさい兄さま。
はやく退院できるようにがんばります。

そして今日はいっしょにいてくれて、本当にありがとう。
すてきな、いちにち、だった。

【7】


 異母兄弟である福島朱美と手を組んだ俺は、朝っぱらから親父が暮らしていた高層マンションに足を運んでいた。
 そこは俺らが住むアパートからバスで20分、実家からバスで1時間掛かる距離の住宅街にそびえたっていた。まさに一等地で、近辺は新築一軒家や新築マンションばかり並んでいる。金持ちの住宅街と言っても過言じゃない。
 高層マンション18階の一角に、親父は仕事用の部屋を設けていたそうだ。

「待ってたわ。行きましょう」

 メモを頼りに親父の暮らしていた高層マンションに辿り着いた俺は、エントランスで待ち人になっていた福島と無事に合流。
 異母兄弟の案内の下、親父の書斎を訪れることができた。
 家賃ウン十万の良い部屋と契約しているのだから、さぞご立派な書斎だろうと踏んでいたが、部屋に入った俺の第一声は「(きたね)ぇ」
 呆気にとられてしまった。

「なんだこの部屋。やべえな」

 親父の書斎には立派な本棚やアンティークな蓄音機、レコードを納めるための収納棚。木製のデスクにワークチェア。シックな革製のソファーやテーブル、小じゃれたミニワインセラーが設置されている。誰もが憧れるような書斎の造りをしている。が、それを台無しにするくれぇに散らかっていた。
 ソファーには脱ぎっぱなしのスーツやシャツ、靴下が散乱しているし、テーブルの上にはビールの空き缶やカップ麺の空が占領しているし、灰皿は吸殻の山。四隅には燃えるごみ袋が八つも鎮座している。燃えないゴミすら燃えるゴミに押し込まれている。フローリングもよく見ると、砂埃でざらついている。まじで(きたね)ぇ。

「適当に座って」
「……どこに座れっつーんだよ」

 俺は汚部屋と化している書斎に顔を顰めると、ワークチェアに目をつけ、それを引き寄せて座ることにした。親父の抜け殻が散乱しているソファーに座る気分にはなれなかった。抜け殻を退かせばいいんだろうが、触りたくもねえ。ばっちい気持ちが強い。

「福島。この部屋に警察は家宅捜査したのか?」

「ええ。あたしは立ち会わなかったから、詳しいことは分からないわ。この汚部屋を見て、さぞ警察も行天したでしょうね。まったく、警察に捕まるなら、ある程度片してから捕まってほしいわよ。ろくでもない親父ね。お兄ちゃんもそう思わない?」

「ろくでもねえ親父なのは同意するが、お前の兄貴になった覚えはねえ。殴り飛ばすぞ」
「冗談くらい受け流しなさいよ。短気ね」
「うぜぇお前」
「ああ、そうだ。この後、那智くんに会わせてよね」

 福島がデスクの引き出しを漁りながら、念を押すように話題を振ってくる。
 俺は盛大な舌打ちを鳴らしてワークチェアに座ると、肘置きのうえで頬杖をつき、不機嫌にイエスの返事した。

 この女はよほど那智に会いたいのか、親父の書斎に案内する条件として『那智のお見舞い』を出してきた。
 小癪にも応じなければ親父の書斎に案内しないと先手を打ってきたせいで、俺に選択肢は与えられず、ただただ頷くしか選択肢はなかった。

 那智を他人に会わせたくない。弟に特別な感情を抱いている福島なら尚更のこと。

 それでも、福島と手を組むと決めたのは俺だし、親父の書斎に赴いて手掛かりを掴みたい気持ちも強い。利用できるところは利用した方が賢明だろう。
 冷静に考えても、那智に会わせるだけで情報が掴めるんだ。お得もお得。超お得。バーゲンセール並にお得と言ってもいいくらいに。

(那智と福島を会わせたくないのは、俺個人の気持ちの問題だ)

 福島は那智に正体を明かさないと言っていたが、その約束が破られる可能性は十分ある。
 一方的に那智を弟として見ている福島だ。俺の見ていないところで正体を明かし、那智に半分だけ血の繋がった姉だと告げることで距離を縮めることだってあり得る。それこそ俺の立ち位置を脅かすことだってあり得るわけで……。

 なによりも、福島には怪しい点がいくつもある。

 たとえば福島が俺ん()のアパートの賃貸借契約書と合鍵を俺に返してきた行為。
 親父が所持していたものを、一時的に福島が預かっていた。
 それはつまり、いつだってあの部屋に忍び込むことが可能だということ。
 契約書には住所が載っている。合鍵とワンセットなら、堂々と玄関から入ることができる。福島の行動力を持ってすれば、考えられる範囲だ。なにせ異母兄弟を知るために、わざわざ俺と同じ大学を受験したり、那智の通う花屋のアルバイト店員になったんだからな。怖え女だよ。

 手を組んだから歯牙(しが)に懸けない、というのはあまりにも愚かだ。
 手を組んだからこそ俺自身、福島の言動を間近で監視できる。見張れる範囲で福島を見張りたい。異母兄弟に憎しみを抱いていたと知っているからこそ、な。

「聞いてる下川?」
「あんだよ」

 いつの間にか自分の思考に耽っていた俺は聞いてなかった、と鼻を鳴らして返事をする。
 そうだと思った、と言って呆れる福島は分厚い書類の束を持って、ソファーの肘掛けに腰掛ける。
 どうやら福島も親父の抜け殻が散乱しているソファーには座りたくないようだ。わざわざ肘掛けに抜け殻がないかどうかを確認してから、腰を下ろしていた。

「那智くんに今日の話はしているのかって聞いてるの。突然、お見舞いに行っても迷惑だろうし」
「じゃあ来るなよ」
「ガキ」
「うっせぇーな」
「で?」
「……チッ。見舞いの話はした。昼過ぎに来ることは知っている。ただ、あいつは俺以外の人間と筆談でしかコミュニケーションが取れない。だからズケズケと話し掛けるんじゃねえぞ。那智がテンパっちまう」

 那智の筆談コミュニケーションは今も健在だ。
 退院の目途がついても、他人相手だとまったく声が出せず、本人も悩んでいる。心理療法(セラピー)を受け始めたから、少しは声が出せると高を括っていたそうだが、変化は見受けられない。
 俺はちっとも構わないが、那智は自分の心の弱さがそうしているのではないかと落ち込み、これが弱点になるかもしれない。声が出せないことで支障が出るかもしれない、と俺に相談してきた。

 それについては少しだけ思うこともある。
 那智が俺以外の人間と話すことができない。それは心躍る状況だが、裏を返せば“何か遭った時”に声が出せなくて弱点となってしまうやもしれない、ということ。
 犯人が捕まっていれば、そういう懸念もないんだが、生憎犯人は逃走中。声は出せた方が良いだろう。

 はあ。理想と現実がここまで相反するなんてな。


「兄貴のあんたとは話せているんだから、よっぽど那智くんはあんたのことを信頼しているのね」
「んだよ。文句あるか?」
「べつに? ただあんたのド変態なブラコン心が喜んでいそうだと思っただけ」
「よく分かっているじゃねえか」
「げっ、皮肉に喜んでいるし」
「那智相手なら、どう言われようと構わねえよ。俺はあいつを丸ごと欲しているわけだしな」

 それは兄として、家族として、血の繋がりを持つ者として。
 弟相手に欲情しているといえば、まあ、そう言わざるを得ない時もあるしな。
 それは性的ではなく、本能的な欲情。兄として弟の存在・愛情・命が丸ごと欲しい。支配したい。束縛したい。そうすればあいつは永遠に俺の傍で生き続ける。ふたりだけの世界から離れていくことはないのだから。思った傍から欲しくなってきた、那智が欲しいな。すごく欲しい。
 ああ、最近、本当にその想いが強くなってきた。

 惜しみなく本心を曝け出すと、福島が露骨に引いていた。

「あんた……まじで歪んでいるわよ」
「くくっ。そりゃ光栄なこった」
「弟を可愛がるってレベルじゃないんだけど」
「世間の基準なんて知らねえよ。俺なりに那智を可愛がっているだけだ」
「まさか、あんたじつの弟に手を出したなんてこと」

「――さあな? ご想像にお任せする」

 含み笑いを浮かべる俺に、ますます険しい顔を作る福島は「アタマ痛くなってきた」とこめかみをさすり、早々に話題を打ち切った。
 まともに話すだけばかを見るのは自分だと思ったようだ。
 なんだよ。もうちっと聞いてくれてもいいじゃねえか。喜んで素を曝け出してやるのに。

「下川、これが見積書よ」

 袋とじされている書類を差し出される。
 さっそく受け取って中身を確認するも、俺は書類の題名から眉を寄せてしまった。

「株式会社チェリー・チェリー・ボーイ? ずいぶんシモイ名前だな」
「アダルトグッズを売っている会社らしいわ」
「なるほどね。だからシモイ名前なのか」
「中身はアダルトグッズの見積書になっている」
「アダルトグッズの見積書?」

 福島の言うとおり、中身はアダルトグッズの見積書だった。
 商品名らしきアダルトグッズが羅列され、それぞれに値段が記載されている。
 お手頃な値段の千円台から、一万超える物まで載っている。何の変哲もない見積書だ。親父のストレス発散のための道具類だと言われたら、それで終わりだが……俺は見積書の後半部分に違和感を覚えた。

 商品名の隣に記載されている値段の桁がおかしい。
 最高でも一万円台だったアダルトグッズの値段が、後半から百万円台になっている。
 個数こそ載っていないが平然と三百万円、五百万円と商品名の隣に金額が記されている。

 合計金額はおおよそ『12,000,000』。

 個人でアダルトグッズを購入するにしても、遥か度の超えた金額だ。専門店でも開きたかったのか? あのクソ親父は。

 見積書をめくると、なんと驚き。
 俺達の住んでいるアパートの住所や俺や那智の性別、年齢、身分、性格、通っている学校名が載っていた。ページをめくっていくと、俺や那智の一日の行動が事細かに綴られている。実家の電話番号も載っているようだ。親父の手帳でも見た内容だ。