強い意志を持って今日という日を迎えた私は、授業なんて集中できたもんじゃなかった。

 説明を聞く時も、問題を解く時も、目の前は教科書の文字があるのに、脳裏にはどうしても先輩の姿が鮮明に映ってしまう。

 初めて出会った頃に見た、勇敢な姿と優しい笑顔。また、この学校に入ってから度々目にする先輩の姿。そして、昨日の屋上の出来事。

 浮かぶたびに様々な感情が湧き上がってきて、鎮めるのに精一杯だった。早く、この時間が過ぎて欲しい。早く、春休みになって欲しい。

 そうして、待ちに待った昼休みが、チャイムと同時に訪れる。スピーカーから音が鳴った瞬間に、私は立ち上がっていた。誰よりも早く、教室から出る。

 道中、莉央の視線を背後から感じたが、気がつかないふりをした。ごめん、莉央。今は声をかけないで欲しい。やりたいことがあるから。その後だったら、いくらでも話そう。

 心の中で親友に話しかけ、私は屋上の扉を開けた。ふわっと風が目の前から吹きつけて、髪をかき上げる。

 青が薄められた空色が広がる世界の下で、先輩はいた。瞳を見開いたまま、私を見つめる西谷先輩が。

「君は……?」
「こんにちは、西谷先輩」

 頑張って、表情だけは作った。ぎこちなくてもいいから、とにかく笑顔を必死に浮かべた。と言っても、側から見れば多分笑えていないんだろうけど。

「私、一年の星河原(ほしがわら) 華菜って言います。莉央の……、日乃川(ひのかわ) 莉央の親友です」
「ああ、君が莉央のか……」

 先輩はそう呟いた後、表情が少し固くなった。言い方からして、私のことは知っていたのだろう。もしかしたら、私の先輩に対する想いまで知られているかもしれない。
 

「あの、先輩。今少し、お話ししてもよろしいですか?」
「えっ、あ、うん。別に構わないよ」

 なんてさりげないように笑ってくれたけど、多分内心では困っているんだろうな。すいません、先輩……。

「西谷先輩、私のこと、覚えていますか?」
「えっ、覚えてるって……?」
「すみません、変な質問しちゃって。実は私、中学に入学する前に先輩に会っているんです」
「そうなの!?」

 先輩の声に、私の心は沈む。本当に覚えてないんだ。まぁ、覚えられるようなことじゃなかったんだけどね。

「はい。知らない人に絡まれていた時、先輩は私を助けてくれて……。すごく、嬉しかったんです」

 話をするだけで、その時の記憶が蘇って胸がドキドキする。あの頃はただ、純粋に恋に落ちた、それだけだった。

「そして、その時、私は先輩に一目惚れしました」
「そっ、か。そんなこと、あったんだな」
「私、小学校の頃は不登校だったんです。だけど、先輩にもう一度会いたいって思いで、学校も頑張ってきたんです。そしたら、学校生活がすごく楽しいって気づいて。今の私があるのは、全部先輩のおかげなんです」
「そんな。俺はそんな奴じゃないよ。君自身が変わったからなんじゃないかな?」

 西谷先輩は顔を上げて空を仰ぐ。自分が覚えていない記憶を探すように、じっと空色を見つめている。

「先輩」
「ん?」
「あの……私……」

 言葉がつっかえてうまく言えない。言いたくないって気持ちもある。だけど、言わなきゃ。そして、終わらせなきゃ。

「私、ずっと……先輩のこと、好きでした。ずっとずっと、見てました」
「……そうだったんだ」

 返す言葉が見つからないのか、先輩はそれだけ言って気まずそうに視線を逸らす。でも、意を決したのか、再び私を見た。

「でも、その、ごめん。俺、好きな人がいるんだ。……君の、親友が」
「はい、知ってます」

 ぐちゃぐちゃに馴染んでいく視界の中、私は必死に笑った。頰に熱いものが伝って、どうしようもない感情が込み上げてきてもなお、ここだけは笑顔を貫いた。

「叶わないんだって、知ってます。だから、私の想いを聞いてもらえるだけで、良かったです」
「……ごめんね。でも、この想いだけは変えられない」
「はい、分かってますよ。私の声を聞いていただき、ありがとうございました」

 ペコリとお辞儀する。瞳からこぼれ落ちた涙が、地面にシミを作った。ポタリ、ポタリと。

 灰色が黒になっていく地面が私の心のようで、居た堪れなくなって顔を上げる。

「さよなら」

 そして、駆けた。先輩に背を向けて。涙がこれ以上落ちないように、目を抑えて。昨日と同じ行動。だけど、胸の内の感情だけは違う。

 私は駆けながら、不意に笑った。なんか、心が軽い。全部、今まで悩んできたことが吹っ切れた。

「はぁ……はぁ……」

 屋上から降りた扉の前、冷たい壁に背をつけて息を整える。悲しいのに、辛いのに、それでもなんかスッキリした。

 これでいいんだ、もう。これで……。

「華菜……?」

 私を呼ぶ声がして、横を向くと莉央がいた。彼女の顔は、戸惑いと罪悪感が滲んでいる。

「あの、私……」
「いいよ、莉央」

 私はもう、彼女が何を話すのか大体見当がついていた。だから言う。

「だから、そんな顔しないで」
「でも私……っ!」
「いいから」

 ぽん、と私は莉央の肩に手を置いた。そして、笑いかける。

「大丈夫、私は大丈夫。だから、自分の心に素直にね」

 莉央は泣きそうだった。なんであんたが泣くのって言いたくなる。
 
 大丈夫、大丈夫だ。人間なんて、星の数ほどいる。だからきっと、運命の人だって見つかる。

 私はもう一度、探してみせる。