あれは、夏祭りの夜の出来事だった。
 12歳、私がまだ、小学生だった頃のこと。


「ねぇお姉ちゃん、本当に行かなきゃダメ?」
「だーめ。大丈夫、絶対楽しいから!」

 浴衣を見に纏ったお姉ちゃんがにっこりと笑う。普段はカジュアルな服装なのに、今日ばかりは和服。菫色に全身を染めて、お団子に結った髪の毛には林檎色の簪が付いていた。

 すごく大人っぽくて、綺麗な女性が、そこにいた。雰囲気も姿も性格も完璧なお姉ちゃんは、こんな風にも美しくなれるんだ。

 対して私は、デニム素材の短パンにTシャツという地味な格好。そもそも、夏祭りに行く気はなかったから。

 もし、学校の人と出会ってしまったら。もし、近所の人と出会ってしまったら。人付き合いが苦手な私にとって、それは最悪の状況。

 私は、学校に行ってないから。

 始まりは、友人関係の拗れからだった。友達と喧嘩して、自分が悪者だと言いふらされた。周りから何かを言われるのが怖くて、数日間、引きこもった。

 そして久しぶりに登校した日。教室に入った途端、冷たい視線が刺さった。嫌な予感がしつつ席に来ると、目を疑うような光景が待ち受けていた。

 机に書き殴られたたくさんの暴言、ぐちゃぐちゃにされたプリントの山、さらには椅子に置かれた画鋲。

 固まる私の耳に、クスクスと何処からともなく笑い声が聞こえてきた。振り返れば、全員が私を見て口元を歪めている。

 そこでようやく、確信した。私はいじめられているのだと。そして、その日から学校の子と会うのが怖くなって引きこもり、所謂不登校というやつになってしまったのだった。

 きっと私は、これからも誰とも馴染めずに生きていくんだろうな。

「お姉ちゃん、やっぱり私、家に……」
「だーめだってば。ほら、見えてきた!」

 お姉ちゃんに手を引かれるままにやってきたのは、神社。普段は質素なそこは、今日ばかりは彩られていた。

 柔らかな提灯がいくつも並び、数多の屋台が出ている。同時に、不思議な香りが漂っていた。香ばしく、甘い、幸せを誘う香り。だけどもそれは危険な香りでもある気がして、足がすくむ。

「お、お姉ちゃん、行かなきゃダメ?本当に?」
「そんな怖がらなくても楽しめるからダイジョーブ」

 キラキラと輝くお姉ちゃんの笑顔は、少しだけ、眩しすぎた。

「それじゃ、私飲み物とか買ってくるから」
「えっ、待って……」

 止める間もなく、お姉ちゃんは人混みの中に消え去ってしまった。知らない人だらけの中でポツンと取り残される。

「どうしよう……」

 どっちを向いても知らない人ばかり。人人人……。その中で、学校の子らしき姿を見つけた。

 やばい、と思った時には走り出していた。意思よりも先に体が動いていた。

 人を押し除けて、とにかく走る走る。できるだけ離れられるように、遠くに行けるように。

 ひたすらに走り続けて、落ち着いたのは数分後。

「はぁ……はぁ……」

 止まった途端に疲労が押し寄せてきて、膝に手をつく。息が苦しい。少し、整えないと。

 深呼吸を繰り返し、ようやく余裕ができる。それで周囲を見渡した瞬間、重大なことに気がついた。

「お姉ちゃん、何処だっけ?」

 声に発すると同時に頭が真っ白になった。さっきまで握っていてくれたお姉ちゃんの手の温もりはない。私の手のひらは、少し冷たい風が吹き抜ける。

「お、お姉ちゃん……?」

 不安と焦りと孤独感が同時に迫り上がる。

 目に涙を溜めながら、私は必死に走った。人の流れに逆らって道ゆく人々の波をかき分けて、憧れであり私のヒーローである姉の存在を探す。

 着物が崩れてきて、また足が痛くなってもなお走り続けた。目頭が熱くなって、呼吸が苦しくなった。それでも私はお姉ちゃんを探す。

 足が疲れて、一度止まった時のことだった。

「ねぇねぇそこの君〜」

 呼ばれて振り向くと、いかにもチャラチャラした男の集団が、いやらしい笑みを浮かべて近づいてきた。

「もしかして一人?誰とも回ってないの?」

 男は私の手首を掴んでくる。

「いやっ、離して……っ!」

 必死になって振り解こうとも、男の力は強くてびくともしなかった。

「そんな暴れんなって。なぁ、一人ならさ、俺たちと回らね?」
「嫌、です……っ!私はお姉ちゃんを探しているので……」
「じゃあそのお姉ちゃんが見つかるまで一緒にいようよ?」
「嫌だっ。離して……」

 視界が滲む。どれだけ力を込めて抵抗しても、男は私を離すばかりかもう片方の手首も掴んできた。

「ほらほら行こうよ〜」
「やめてくださいっ」

 もう怖くて声も出なかった。
 男は力づくで私を引っ張って行こうとする。私は何とかその場にとどまろうとするけど、下駄が土と擦れ合って地面に線を引いているのがわかった。

「大丈夫だって。ほら、楽しもうよ」

 男は私のことなんか全く気にしない。

「誰か、助けて……」

 こんな小さな声、誰にも届くはずがない。だけど、今の私にはこれが精一杯だった。

 そんな時。

「おいっ、何してんだっ!」

 突然、威勢の良い声が飛んできた。
 その瞬間、私の腕は男から離され、新たに背後から伸びてきた腕によって引き寄せられる。

「うわっ」

 グッと引っ張られた重心は傾き、後ろに倒れかかった。そんな私を、温かい腕が抱き留める。

「えっ?」

 弾かれたように顔を上げると、眉間に皺を寄せた男子が私を腕で包んでいた。
 彼の前髪から見えた額には、随分と前につけられたのに消えない、深い傷がある。

「この子が困っているだろっ!無理やり手を出すのはやめろっ!」

 男子は私を包む腕にグッと力を込めてそう叫んだ。
 ドクン、と私の胸が脈打つ。

「はぁ?何だテメェは?俺たちが見つけた子だ」
「そんなのは関係ない。この子は困っていた」
「んなの関係ねぇよ。さっさとどっか行けよ」
「どっか行くのはお前らだろ」

 男たちにいくら圧をかけられても、男子は怯まない。むしろ、堂々とした立ち振る舞いで正論をぶつける。

 その姿が、とても勇ましくてカッコよかった。けれど、男たちにとってそれは邪魔でしかない。

「ったく。さっさとどけろよ。じゃなきゃ、痛い目あっても知らねぇぞ?」

 男は拳を合わせて、指の骨をポキポキと鳴らした。その音が何を合図するのか、想像するのは容易い。私は体をこわばらせた。が……。

「いいさ、やってみろよ」

 男子は怯えるどころか、むしろ腕まくりをした。
 この状況でやり合うというのか?

 私は驚きで声が出なかった。
 男子の予想外の行動に、男たちは一瞬動きを止め、そしてその中の一人がハッとしたように目を見開いた。

「いや、お前やめた方がいいぞ」

 その驚きを顔を表した男が、今にも男子に襲いかかりそうな男に告げる。

「はぁ、何でだよ?お前怖気ついたのか?」
「いや、そうじゃなくて」
「じゃあ何だよ?」

 先頭の男は殺気立っていた。対して後方の男は青白い顔で言った。

「その人は、美登宮(みとみや)中の番長、西谷光輝(にしたにこうき)さんだ……っ!」

 青白い顔の男がそう口にした途端、周りにいた男たちも、殺気立っていた男でさえ動きを止めた。
 その顔が、徐々に強張っていく。

「は、はあ?お前何言ってん……」
「た、確かに西谷さんだ……っ!」
「あの、伝説の……!?20人を相手にしたっていう……」

 男たちの間で、その困惑は広がっていく。

「な、何言ってんだよお前ら!?んなわけねぇだろ」
「いや、でもその傷……。それに、ネックレスだって……」

 男が男子の胸を指す。私も釣られて見ると、銀のチェーンにロケットが吊り下がっているものが視界に入った。

 男たちも同じものを見て、どんどん顔色を悪くする。

「ま、マジかよ……」

 拳を握っていた男は腕を力無く下ろした。そして、

「しっ、失礼しました〜!」

 先ほどの威勢を微塵も感じさせない醜態で逃げ去った。

「……何とかなったか」
「あ、あの……」

 ふぅ、と息を吐いた男子に、私は恐る恐る声をかける。
 すると、彼は私を見た後に思い出したかのように「ああ」と呟いた。

「ごめん。もう大丈夫だから」

 フワッと離させる体。消える温もり。

「君、怪我はない?あいつらに酷いことされなかった?」
「え、あ、はい。大丈夫です……」
「そっか。なら良かった」

 男子はそう言って、にっこりと笑った。
 さっきの男たちとは全く違う対応に、私は戸惑う。

「あの、助けてくれてありがとうございます……。えっと、あなたは一体……?」
「ああ、俺?」

 男子は自分を指差した後、苦笑いを浮かべながら頭を掻いた。

「さっきの奴らの話を聞いていたと思うけど、西谷 光輝。美登宮中の一年だ」
「西谷、さん……?」
「そうだ。そんで、なんか知らんけど番長とか言われてる。でも怖がらないで。別に俺、悪い奴以外に危害を加える気はないから」

 不意に真面目な表情でそう言い出した西谷さんは、とてもカッコよくて頼りになる人だと思った。

「ま、なんて言われても困るよな。とにかく、これから気をつけな。変な奴に絡まれないようにしろよ」

 じゃ、と西谷さんは手を振って歩こうとした。

「あ、あの……っ!」

 咄嗟に私は声を出した。
 西谷さんは驚いたように振り返る。

 目を丸くした彼の姿に、ドクンと胸が高鳴る。激しく鼓動する心臓にギュッと手を置いて、私は言った。

「助けてくれて、ありがとうございました。あなたのこと、ずっと忘れませんっ!」

 最初はポカンとしていた西谷さんは、フッと嬉しそうに口元を緩めた。

「ありがとう。気をつけてな」

 そうして今度こそ、彼は人混みの中に消えていった。

 西谷さんの姿が見えなくなった後も、私の心臓は相変わらず煩い。ドクドクと大きく脈打つ胸が、心地よい苦しさを全身に駆け巡らせた。

 運命だと思った。彼こそ私の王子様だと思った。

「西谷、光輝……」

 聞いた名前を再び口にする。
 そしたら、顔が火を帯びたみたいに熱くなる。鼓動は激しいし、彼の姿が目に焼き付いて消えない。

 夢見心地のような、ふわふわとした気分に酔っていた私は、しばらくその場に立ち尽くしていた。


「あっ、やっと見つけたー!」

 人ごみをかき分けて手を振る浴衣姿の女性が現れる。お姉ちゃんだった。

「もう、離れちゃダメでしょ華菜(かな)……って、どうしたの?」
「ねぇ、お姉ちゃん」

 私はゆっくりと顔を上げて、瞳を輝かせた。

「美登宮中って、私が来年行く中学校だよね?」