学校で話しかけないでほしいという知夏ちゃんの意図はわからない。けれど理由がわからないまま告げられた言葉は心に引っかかっていた。
せっかく仲良くなれたと思ったけれど、知夏ちゃんにとって私は関わりを知られたくないような存在なのだろうか。そのことに複雑な気持ちになる。
今週はシフトが被っていないので、知夏ちゃんと次にバイト先で顔を合わせるのは来週だ。会うのが少しだけ気まずい。
「楓〜? 次体育だよ!」
「あ、ごめん! 準備する!」
授業の教科書を仕舞って立ち上がり、机の横にかけていた体育着を入れているトートバッグを手に取った。そのまま美来と廊下に出る。
「アンケート、順調に集まってる?」
「結構集まってるよ。でも部活の人たちは来週にならないとわからないみたい」
美来がこうして展示のことを気にしてくれたことに、変化が出てきていることを実感する。あのとき、手伝ってほしいと言えてよかった。
「じゃあ、まとめるのは来週か再来週くらいかな〜」
体育着の入ったカバンを持ち上げながら、美来が伸びをした。
「てかさ、藤田くんって意外と怖くないね! 普通に会話してくれるし」
「バイト先でも困ったときはすぐフォローしてくれて優しいよ」
「へー! 今まで喧嘩っ早いとかそういう話ばっかり聞いてたから、キレやすい人なのかと思ってた!」
タバコに暴力。そういった噂がひとり歩きしている。だけど話してみれば、美来みたいに思う人だっている。私もそうだった。
角を曲がると、お喋りをしている男女の姿が目にとまった。男子ふたりと話している女子は緩く巻かれた髪を耳にかけていて、フープピアスが見える。
——間違いなく知夏ちゃんだ。
出会ってしまったことに戸惑いながらも、彼女の望む通りに知らない人のふりをする。美来と一緒に階段を下っていくと、女子三人組とすれ違う。その瞬間、「うわぁ」と蔑んだような声が聞こえた。
「岡辺、また男といる」
「男しか喋ってくれる人いないからじゃん?」
嫌悪を含んだ話し方をしながら、嘲笑っている三人の女子たち。〝岡辺〟と言ったように聞こえて、胸騒ぎがする。
一階につくと、美来が一度振り返ってから声を潜めるようにして言った。
「商業科、怖いなぁ」
「……今の子たちみんな商業科なの?」
「そうだよ〜。あの派手な子、クラスでかなり嫌われてるらしくってさ」
派手な子というのは、おそらく知夏ちゃんのことだ。明るくて人懐っこくて、友達に囲まれていそうな知夏ちゃんが嫌われているなんて、思いもしなかった。
「クラスの友達の彼氏奪ったんだって。それで揉めたときに、謝りもせずに自分はなにもしてないとか開き直ったらしくてさ」
「……そう、なんだ」
「しかもそのあとも人の彼氏と仲良くしたとかで、さらに揉めたんだって」
男好きだとか、人の彼氏を欲しがるだとか、そんな風に言われているらしい。
本当に知夏ちゃんの話なのかと疑いたくなる。バイト先での知夏ちゃんは性別とか関係なく話しかけているように見える。それに藤田くんに対しての接し方も、さっぱりとしていた。
「女子が多いクラスだから、揉めると大変みたい。あの子、クラスの女子たちから無視されてるんだって」
噂されている内容と、私の知っている知夏ちゃんは別人のようだった。
私がまだ知夏ちゃんをよく知らないからなのか、あるいは藤田くんの噂のように知夏ちゃんの件も誤解が生まれている可能性もある。
知夏ちゃんが話しかけないでと言ったのは、私が親しげに話しかけると飛び火してしまうと心配してくれたからなのだろうか。
***
週末、藤田くんとバイトのシフトが被り、朝から忙しく過ごしていた。平日とは比べ物にならないほど、オーダーが入る。
「笹原、パフェの注文入った」
「え、でも……私」
ソースの見分けがつかない私が作っていいものなのか困惑する。
「いいから、作って」
「う、うん」
ソースは藤田くんに確認すればいいという意味なのかもしれない。タブレットで工程をおさらいした後、自力でできる工程までを作っていく。
「冷蔵庫、見て」
そう言われて、調理台の下にある冷蔵庫を開けると、並んでいるソースに見慣れない横長のなにかがついている。
「え……これ」
「ラベルシール。それなら見分けつくだろ」
指先でラベルシールをなぞると、つるっとした質感で水に濡れても弾きそうだ。
「これ、藤田くんが作ってくれたの?」
「あった方が便利かと思って」
涼しげな表情でなんてことないように彼は言うけれど、私にとっては貼ってあるのとないのとでは、大きく異なる。ソースを使うメニューでの不安もなくなり、これで問題なく作れるようになった。
「ありがとう! パフェ作るときも、迷わないでできる!」
嬉しくて少々興奮気味にお礼を告げると、藤田くんが目を細めて笑った。
「いいから早く、作れって」
口調から厳しさは感じなくて、最初よりも素っ気なさがなくなっている。
私の中でも藤田くんに対して変化が生まれている。今では緊張も綺麗さっぱり消えて、むしろシフトが被っているとバイトの時間が楽しく思えていた。
半日のバイトがようやく終わり、外に出るとまだ空は明るい。家に帰ったらなにをしようと考えていると、裏口のドアが開いた。
「おつかれ」
「あ、おつかれさま」
私よりも藤田くんの方がお店から出るのが遅いのは珍しかった。それに横切っていくこともなく、私に歩調を合わせるように歩いている。
「なんかあったわけ?」
「え?」
「今日、最初様子おかしかったから」
知夏ちゃんのことで、藤田くんに聞いていいものなのか悩んでいたときのことだろうか。だけど結局切り出す言葉が思い浮かばなかったのだ。
「俺になんか聞きたいことありそうに、チラチラ見てきてただろ」
そんなに見ているつもりはなかったけれど、無意識に藤田くんに視線が向いていたらしい。
「学校で、知夏ちゃんを見かけて」
「あー……そういうことか」
なにについての話なのか、すぐに察したみたいだった。
「藤田くんは知夏ちゃんが話しかけてほしくない理由、知ってたの?」
「一応知ってる。学校で女子たちに、文句言われてんの聞いたことあったから」
「そうだったんだ」
信号に差し掛かり、藤田くんが足と止めて私の腕を掴む。
「赤」
「あ……うん。ありがとう」
大きな手はすぐに離れていった。熱がほのかに手首に残っていて、空いている方の手でそっと触れる。藤田くんは優しい。ぶっきらぼうでわかりにくいものの、気遣いは接していると伝わってくる。
「俺らにできることないだろ。本人が関わるなって言ってたんだから」
「でも、」
「岡辺だっていずれ笹原に知られるってわかってたから、ああ言ったんだろ。話しかけるなってことは、無理に助けようとしたり、気に病むなってことだよ」
クラスの女子たちから無視をされて、陰口を叩かれている知夏ちゃんの状況を見て見ぬふりをすることに抵抗があった。だけど、確かにできることはない。
「一番厄介なのは中途半端な同情じゃね。他人が口を出したら、エスカレートする可能性もあるだろ」
中途半端な同情。私の今抱いている感情は、そういうものなのか形容し難い。藤田くんが言いたいこともわかる。覚悟がないまま首を突っ込めば、知夏ちゃんに余計に被害がいくことだってあるのだ。
「もしも同じクラスだったら、できることもあったのかな」
「そういうの見て見ぬフリするやつなのかと思ってた」
息をのみ、喉に針が刺さったような痛みと違和感を覚える。藤田くんはおそらく、クラス内での私のことを言っているのだ。
「……そうだね」
私はそういう人だ。ひとりになっためぐみのことから目を逸らして、美来が言うめぐみの悪口も笑顔で流していた。それが私の自分の居場所を守る方法だった。
「私……人の表面上しか見ていなかったのかもって最近思うんだ」
信号の上の絵が光り、青に変わったようだ。けれど私は動けなかった。
私は最初、藤田くんのことを悪い噂と第一印象で決めつけていて、赤色だからこういう人だって勝手に分類していた。だけど意外な一面を知ったり、優しさに触れて、自分の視野が狭かったことを思い知らされたのだ。
「前までは噂に流されてたと思う。だけど、噂を鵜呑みにしちゃいけないってよくわかったから」
だから聞いた噂話だけで知夏ちゃんのことを判断したくなかった。
「俺も噂がどこまで真実でなにが嘘かまでは知らないけど、岡辺が話してくれたら、それを信じればいいんじゃねぇの」
「……そうだよね」
知夏ちゃんとは今まで通り接するのが一番で、本人も気遣われることを望んでいない。助けを必要としていたら、きっとあの夜に知夏ちゃんは打ち明けていた。あえて話しかけないでと言ったのは、巻き込まないため。
頭では理解しているものの、複雑な感情はなかなか消えなかった。
***
月曜日の放課後、日直だったため居残りをして日誌を書き上げていると、思いの外教室が賑やかだった。
「設計図こんな感じかな?」
「ここの板って、空き部屋に残ってる板使うんだっけ」
文化祭に向けて作業しているようだ。展示について話し合いをしている人たちや、既に決まっている小物をハサミやカッターなどを使って作成している人たち。
その輪から弾かれるように、私はひとりで席に座って日誌を書いていることが、虚しく思えた。同じクラスの一員なのに、私だけ別のクラスの人みたいに作業風景を眺めている。
「え、なにその形! 下手くそすぎでしょ!」
「えー! だって、この形難しくない?」
真剣に作業に取り組んでいる人たちはキラキラとして眩しい。その光景が羨ましい。だけど今更団結している人たちの中に飛び込むのは、少し勇気がいる。
ペンを持ってなにかを書きながら話し合っているめぐみが、ふいにこちら側を向いた。目があったものの、すぐに逸らされてしまう。
鈍い痛みが胸を刺す。自分だって二学期からめぐみのことを避けていたくせに、自分が目を逸らされたら傷つくなんて身勝手だ。それに手伝いたいなんて言っても、困らせるだけに決まっている。急いで日誌を終わらせて、私は逃げるように教室を出た。
職員室まで行き、先生に日誌を提出すると一気に脱力する。
私のオーラは、相変わらず灰色に濁っている。自分のしたいことがあるはずなのに、それが怖くて踏み出せない。だけど変わるって簡単なことじゃない。
自分の臆病なところが嫌で、どっちつかずな発言で自己防衛をするところも嫌で、たまに思考を放棄しようとするところも嫌だ。自分への負の感情がどんどん蓄積されていく。
職員室の前で立ち止まっていると、隣の進路指導室のドアが開く音がした。中から出てきたのは藤田くんだった。訝しげな顔をして私の横に立つ。
「こんなところで、なにしてんの」
「あ……えっと、日誌の提出してきたところ」
「ふーん」
藤田くんに続いて進路指導室から担任の先生が出てきた。私と藤田くんが話しているのを見て、物珍しそうにしている。
「先生、日誌机に置いておきました」
「おー、わかった。ありがとな。気をつけて帰れよー」
特に私たちについて触れてくることはなく、先生は隣を通過すると職員室へ入っていった。
「藤田くんは、なにしてたの?」
「定期検査」
一体なんの?と首を傾げる。藤田くんは疲れた様子で、いつもよりも声のトーンを落としながら話し出す。
「タバコ持ってないかどうかのチェック。学校の中じゃ前科もちってことになってるから。毎月一度カバンの中身チェックするんだとさ。こんなの形だけだけどな」
定期検査の日程が決められているらしく、確かにあまり意味がない。もしも本当に吸っているのなら、検査日に持ってこなければいい。けれど無実の藤田くんにとっては、理不尽なことのように私には思えた。
「……本当のこと、先生にも話さないの?」
「嘘だって証明するものがねぇし。もうどうでもいいって」
俯きがちに目を伏せた表情が傷ついているように見えて、胸が締めつけられる。他の人の罪を背負ったまま、藤田くんはこれからも高校生活を過ごさなければならない。だけど、それよりも友達に罪をなすりつけられたことの方が辛いのではないだろうか。
「藤田くん!」
私は思い切って声を上げる。
「自販機に行こう!」
力が入りすぎてしまって、僅かに裏返ってしまった。藤田くんはわけがわからないという様子で眉の間に深くしわを刻む。
「なんで?」
「え、えーっと、気晴らしっ!」
藤田くんに気分転換してもらえる方法が、私にはこれしか考えつかない。
断られる覚悟していると、藤田くんが噴き出した。笑っている姿は、教室での人を寄せつけないピリピリとした雰囲気とは異なり、あどけなさを感じる。
「似合わねぇ、気遣い」
「えっ」
気遣いというよりも、ただ元気をだしてもらいたかった。それだけだった。でも上手い言葉が思い浮かばなかったのだ。
「まあでも、気晴らしするか」
藤田くんの口角が僅かに上がった。不意打ちの笑顔に妙な緊張感を覚えて、目を逸らしたくなる。けれど瞬きさえ惜しいほどに見つめてしまう。心なしか顔が熱い。
「行かねぇの?」
「行く!」
自動販売機がある食堂の方面へ歩いていく。放課後なので人が少なくて、残っている人がいても教室で文化祭の作業をしている人たちがほとんどだ。
もしも生徒がたくさんいたら、私はこうして堂々と彼の隣を歩けただろうか。
そう考えて、心に影が落ちる。藤田くんと仲良くなりたい。この関係を大事にしたい。それなのに周りを気にすることがやめられない。
「時々こうして話せるやつがいるっていいな」
意外な言葉に目を丸くする。つい数秒前までの自分の感情が情けなくて、藤田くんの顔が見れない。私は自分の保身ばかりだ。
「ひとりが楽だって考えてるのは変わらねぇけど。でも話し相手がいた方が楽しいって最近思う」
バイト先ではシフトが被れば他愛のない会話をするし、帰りは分かれ道まで一緒に歩く。学校でもこの間、ミルクティーをアイスに交換してもらったり、展示のスケジュールのことだって話し合いをした。今もこうしてふたりで話している。
だけど藤田くんにとって、なにも特別なことではないと思っていた。
「私といて、退屈じゃない?」
藤田くんは足を止めると不服そうに睨みつけてくる。眉がつり上がっていて怒っているように見えた。
「俺が今退屈そうに見えるわけ?」
「それは……」
見えないと答えたい。だけど人の本心なんてわからない。
「楽しいって言ってんだろ」
私といて、楽しい。その言葉によって、胸の奥から温かい感情がせり上がってくる。私みたいなのでも必要としてもらえているようで、鼻の奥がつんとした。
「めんどくせぇ性格してんな」
「……言い方酷い」
「相手にどう思われているか気にしすぎで、笹原がどうしたいのか全く見えねぇ」
——もっと自分勝手に生きてもいいんじゃね。
バイト先での藤田くんの言葉を思い出す。
私は、今どうしたい?
自分に問いかけて、灰色の手を握り締めた。
「ほら、また考え込みすぎなんだよ」
灰色の手を藤田くんが掴むと、ぐいっと引っ張った。止まっていた足が一歩踏み出す。二歩、三歩と進んでいくと、藤田くんの手が離れていく。
そのまま私は彼の背中を追いかけるように、早歩きで進む。不思議と重たくなっていた心は軽くなっていた。
自動販売機の前に着くと、ふたりでラインナップを吟味する。
「藤田くん、なににする?」
「冬仕様になって、少し変わったんだよな。あ、これにする。コーンポタージュ」
「ええ、これ買うの?」
「なんだよ」
文句があるのかと凄まれてしまう。狼狽えながらも、私はコーンポタージュに視線を向ける。
「買う人、珍しいなって思って」
粒々が入っていて飲みにくいし、他の飲み物とはジャンルが違っている。好んで藤田くんが選ぶとは思わなかったのだ。
「寒い時期しか飲めねぇじゃん」
「な、なるほど?」
珍しいからこそ買うらしい。私はカバンからお財布を取り出して、硬貨を入れていく。そしてコーンポタージュのボタンを押した。
「はい、これ。この間のサイダーのお礼」
受け渡し口から取り出した缶を差し出す。動揺しているのか、藤田くんが珍しく口籠る。
「え、いや……別に俺が勝手にしたんだからいいのに」
「嬉しかったから。だから私も、藤田くんにお返しがしたいなって思って。それに、ラベルシールのお礼も」
藤田くんがバイト先にいてくれてよかった。彼の気遣いのおかげで、私はバイトを続けられて、不安を払拭できた。
「じゃあ、遠慮なく。ありがと」
コーンポタージュを藤田くんに手渡して、私は小さいサイズの温かいお茶を買う。
ふたりで自動販売機の横にしゃがみ込み、飲み終わるまでの僅かな時間で、バイトでの話をぽつりぽつりとしていく。
陽が傾き始めた放課後の、いつもとは違うちょっとだけ特別な時間。
藤田くんの隣は居心地がよくて、些細な言葉に心が跳ねる。きっとこの時間が特別に感じるのは、隣にいるのが藤田くんだからだ。
名残惜しく思いながらも飲み終わり、ペットボトルをゴミ箱へ捨てた。
「帰んの?」
「……うん」
教室でのことを思い出して、歯切れ悪くなってしまった。そのことに藤田くんは私がまた言いたいことを飲み込んだと思ったらしく、もどかしそうに見てくる。
「なんだよ、言いたいことあるなら言えって」
「文化祭の作業、まだ結構あるよね?」
「まあ、そうじゃねぇの」
「わ、私でもできることってあるかな」
「他のグループの作業を手伝いたいってこと?」
こくこくと何度か頷く。器用なわけでもない私にできることなんて雑用くらいかもしれない。でも展示の作業に携わりたい。
「聞けばいいじゃん」
「でも、」
「手伝いたいのは悪いことじゃないだろ。気になってんなら、聞きに行けって」
教室でめぐみに目を逸らされてしまったので、私が声をかけにいって迷惑そうにされたら心が砕かれそうだ。
でもめぐみは私に話しかけにくいはずなのに、スケジュールのとき声をかけてくれた。けれど私はクラスの行事よりも、私情を優先して尻込みしている。
「また考えすぎ。深呼吸してみ」
「え」
「いいから」
言われた通りに、肺まで深く空気を吸い込んで、ゆっくりと吐いてを繰り返す。身体の力が、程よく抜けた気がした。
「手伝いたいんだろ」
「……手伝いたい」
「じゃあ、聞いてこいよ。悩むくらいなら行動してこい」
拒絶されるのは怖い。だけど、このまま動かなかったら私は何日もウジウジしてしまうはず。私は行く決意をして、足元に置いていたカバンを肩にかける。
「藤田くんは帰るの?」
「帰るけど」
「……そっか」
心細いからといって彼を巻き込むわけにはいかない。気持ちが萎んでしまわないうちに動き出さないと、私はまた同じことで悩んでしまう。
「私、行ってくるね!」
そのまま大きく一歩を、今度は自分から踏み出した。軽くステップを踏むような足取りで、藤田くんとバイト帰りに星屑を散りばめたような道を歩いたときのことを思い浮かべた。
私はどうしたい?
迷いや不安が邪魔をして、自分自身に問いかけても、ずっとわからなかった。辿り着く場所がその答えだ。後ろから「頑張れ」と、背中を押してくれる声が聞こえた気がした。
走って教室の前までたどり着くと、私は一旦足を止めた。逸る気持ちを抑えて、乱れた呼吸を整える。
肩にかけたカバンの持ち手を握りしめて、教室へと足を踏み入れた。
カッターやハサミを使ってなにかを作成している生徒たちや、紙になにかを書き込んで話し合いをしている生徒たち。その中で、めぐみは輪の中心になって、話し合いをしているようだった。
私が近づいてきたことに気づいためぐみは言葉を発することなく、困惑しているようにも見える。
「あの……」
私の声に数人が振り向く。集まってきた視線に、心臓の鼓動が速くなり冷や汗が背中に滲む。
何度経験しても自分の言葉で気持ちを伝えるって、勇気がいる。どんな反応されるんだろう。困らせてしまうかな。手伝いはいらないと言われるかもしれない。不安が過ぎるけれど、もう後戻りはできない。したくない。
「っ、私にも手伝えることってないかな!」
声を振り絞って言うと、一瞬場が静まり返る。何人かちらりとめぐみを見たのがわかった。きっと私たちの関係を察している人もいるのだと思う。
膝が震えそうになったけれど、歯を食いしばって足に力を入れた。
「ありがとう」
めぐみが一言口にすると、場の空気が柔らかくなった。きっと彼女は、私が入りやすくしてくれたのだ。気を遣わせてしまったかもしれない。
ひとりの子が、大きな目をまん丸くしながら華やいだ声を上げる。
「人手が増えるの嬉しい! もしよかったらこれ一緒に考えてくれない?」
うれしそうな表情で、こっちこっちと私を手招きしてくれて、拍子抜けするくらい簡単に私は空いた椅子に座った。
「いろんな人の視点があった方がいいからさ〜! これが設計図なんだけど、楓ちゃん的に見て、なにか問題点とかあると思う?」
「え、あ……ちょっと見てもいい?」
A3用紙には、展示の概要が書いてあった。
テーマは〝海の世界〟。ただの展示ではなく、記念撮影をするためのフォトスポットにする予定らしい。大きな木の板を三枚使うと書いてある。高さは二メートルほどらしく、これは買うのも運ぶのも大変な大きさだ。
「この木の板って、どこで調達するの?」
「卒業した先輩たちが文化祭で使った余りの大きな木の板があるんだって。だからそれを使う予定だよ」
青のペンキを塗り、縦長にして三枚並べ、支える足を後ろに打ち付けて壁にするようだ。そしてスチレンボードを木の上の部分に頑丈に貼り付けると書いてある。
その他には透明のビーズカーテンなどを吊す予定みたいだ。足場はシフォン生地で透けている青色の布を使って海を、そして黄緑の布で海藻を表現するらしい。
「あとは海の生物だよねぇ。なに作ろう」
海といえば、単純に魚が頭に浮かんだ。クマノミとか可愛らしい見た目なら写真映えしそうだ。
「クマノミとか熱帯魚は?」
「サンゴとか魚は背景の板に描く予定なんだ。他に目立つやつを作りたいんだよね」
せっかく輪に入れてもらったのに、全くいい案が思い浮かばない。海から水族館を連想して、中学生の頃に行ったときの記憶を引っ張りだす。ペンギンは無理だし、チンアナゴもちょっと違う。イルカは大きすぎるし、もっと小さな生物。
「あ……」
思い浮かんだけれど、これは既に出ていそうな気もする。
「……どうしたの」
「え?」
めぐみに声をかけられて、弾かれるように顔を上げた。
「なんか考え込んでるから」
中途半端な案を出しても微妙だと思われるかもしれない。いつもなら〝そんなことないよ〟と言って、適当に流してしまっていた。だけど、それをしてしまったら、なんのためにここに来たのかわからない。
「クラゲはどうかな……?」
「確かに可愛いけど、紙粘土でも作れないし、紙で作っても微妙そうじゃない?」
ひとりの子が難色を示す。けれど、私の想像ではもっとふんわりとしたクラゲを作るイメージだった。これを伝えるにはどうしたらいいんだろう。スマホを取り出して、紙でクラゲを作る方法を検索してみる。すると様々な作り方が出てきた。平面のもあれば立体もあり、工夫次第では印象的な物になりそうだった。
「私のイメージはこういうやつなんだ」
「あ、これいいかも!」
「白い和紙で作って、水彩で色塗ったら綺麗かも!」
みんなで画面を覗きながら、どういう風に作ったらいいかと話し合っていく。
「楓ちゃん、ありがと〜!」
感謝をしてもらえて、くすぐったい気持ちになる。私の意見は、みんなの力になれたのだろうか。
「めぐみ、ありがとう」
こっそりと小声でお礼を伝える。するとめぐみは柔らかく微笑んだ。彼女のこんな表情を見たのは久しぶりだった。
「楓の意見、聞けてよかった」
温かい言葉がじんわりと胸に広がっていく。めぐみが私の意見を聞いてくれたことが嬉しかった。ちょっとした反応から察してくれたおかげだ。
わだかまりが消えたわけではないけれど、分厚かった壁が今は薄くなっているように感じた。
それからいろんな意見を出し合いながら、設計図について詰めていった。終始和やかな空気なので、気兼ねなくそれぞれが自分の考えや提案を口にできる。踏み出してよかった。あのとき、藤田くんが私の背中を押してくれたおかげだ。私ひとりだったら、今も思い悩んでいたはずだ。
それからクラスの人が展示の件で声をかけてくれるようになった。意見を求められたり、報告をされたり、作業に関しての情報を共有してくれる。
「楓ちゃん、土台づくりの日数が足りなさそうだから、二日増やしたいんだけどいい?」
「わかった! 変更しておくね!」
「あとクラゲ、こんな感じでどうかな?」
デザインのリーダーの子が、この間作り方を話し合ったクラゲの見本を作ってくれたらしい。机の上に置かれたのは、立体的なクラゲだった。
「すごい! これどうやって半円にしたの?」
「和紙って水を含むと曲げやすいらしいんだ。だから丸く切った和紙をテニスボールに被せて、水彩絵の具で塗りながら水を含ませて作ったよ〜!」
私には色は見えないけれど、綺麗な半円になっていて、その中に細長く切られた紙が貼り付けられていてゆらゆらとしている。強度などまだ調節しないといけないことはあるそうだけれど、今日の放課後にみんなに見てもらう予定らしい。事前に私に見せにきてくれたことが嬉しい。
「じゃあ、また放課後に!」
試作のクラゲをそっと手のひらに乗せて、デザインのリーダーの子が席に戻って行った。遠くで眺めながら羨ましがっていた場所に、私は今立てている。そのことに気分が高揚していく。
私もできることを進めていかないと。壁からカレンダーを取り外して、先ほど聞いた内容の修正を書き込む。すると私の席に美来がやってきた。
「楓、作業手伝ってるの?」
その質問にどきりとする。美来はあまりよく思っていなさそうだ。
「案出しとかを少しだけしてて……」
咄嗟にまた自分を守るような言葉を選んでしまう。
「ふーん」
こうやってやり過ごしていても、いずれは美来に知られることになる。それなら、きちんと私から意思を伝える努力をしたい。
「でも展示の制作も手伝う予定だよ」
「へぇ……そっか」
明らかに美来のテンションが下がり、無言になってしまう。握っていたペンを指先でいじりながら、言葉を探した。
美来が嫌がっているのは、私が展示の作業に参加していること? めぐみと関わっているかもしれないこと? それとも他の理由だろうか。けれど最近美来はスケジュールのことを気にかけてくれるようになったので、やる気が出てきているけれど、今からは参加しづらいという可能性もある。
「今日の放課後、打ち合わせするんだけど……美来も参加する?」
「え……」
美来は表情を硬らせた。瞳が揺らいでいて、困惑しているようにも見える。
「でも私が入ったら、めぐみ嫌だろうし……」
返答からは参加自体が嫌だという風には感じない。
「美来さえよければ、めぐみに聞いてみるよ」
「いいの?」
美来の口角が上がり、嬉しさが滲み出ている。展示の作業に興味を持ち始めたのか、それとも美来はめぐみとの関係を修復したいのか。どちらにせよ、クラス行事に協力的になってくれたのは好機だ。
早速めぐみに聞きにいくと、「人手が足りてないから助かる」とあっさりと承諾してくれた。美来も含めてみんなで作業ができたら、クラス全体が団結できるかもしれない。
***
放課後の教室に集まりに美来が参加していることに、戸惑っている人たちは多かった。めぐみの顔色をうかがっている人もいて、口数が減っている。
「この間のクラゲの試作作ってみたんだけど、見てもらってもいいかな!」
制作のリーダーの子が、空気を切り替えるように明るい声音で発言した。机に置かれたクラゲをみんな興味津々に眺める。かわいい。色が綺麗。と声が上がった。
「脆いから、崩れにくいように工夫しなくちゃいけないんだけど、なにか案があったら教えて!」
テープで貼ったり糸を通すなど様々な案が出る中で、美来はひとりスマホをいじり始める。そのことにひやりとした。他の子たちに不満を抱かれないかと、落ち着かなくなってしまう。
「ねえ」
美来が画面を私たちに見せてくる。なにかを検索していたらしい。
「それより、出来てるやつの方がよくない?」
クラフトのクラゲが表示されているページだった。
「作るの大変そうだし、時間の無駄になるじゃん。こっちの方が壊れにくいんじゃないかな!」
教室が静まり返る。まずい。これはよくない方向へ進みそうだ。
「……確かにそうかも! 私のあんまり綺麗に作れてないし、時間もかかるから」
デザインのリーダーの子は、笑顔で言いつつも泣きそうだった。せっかく作ったものを否定されたと受け取ったのかもしれない。他の子たちもその様子を心配そうに眺めている。
美来の提案は、手作りをやめて既に既製品を購入するということだ。その意見に反発する声も漏れ始める。
「せっかく作ってきてくれたのに」「ちょっと酷くない?」
批判的な言葉が聞こえても、美来は臆することなく更に意見を述べた。
「それがダメってことじゃなくて、時間がないなら出来てるやつの方が早いから。間に合わせるひとつの手段だと思うんだよね。だってまだ土台作りとか色塗りとか残ってるんでしょ。そっちに時間使った方がよくない?」
効率を考えれば美来の主張もわかる。でも複雑そうにしている子たちの気持ちも理解できた。それに体育祭ではリーダーシップを取るのが上手だったけれど、今回は途中参加ということもあって、周りの空気と美来が噛み合っていないように感じる。
「美来」
真剣に考え込んでいためぐみが口を開く。
「それいくら? 大きさはどのくらい?」
「え? えーっと、ひとつ八百円で十センチくらいっぽいけど」
「それにプラスで送料もかかるよね。そうなると何個も買う予算がないよ」
めぐみの否定的な意見に、美来が表情を曇らせる。
「だけどこの小さいクラゲ、存在感薄いじゃん。それにこれから改良していかないといけないんでしょ」
「時短のために買えばいいなんて無茶苦茶すぎる。予算のこと考えてよ」
「予算予算って、買えないわけじゃないんでしょ。絶対これあった方が綺麗だって」
「これだけにお金割くわけにはいかないの。あとから急遽お金が必要になったら、どうするつもり?」
ふたりの言い合いが始まってしまう。どちらも自分の意見を譲る気がなさそうだった。周りの子たちが動揺していて、完全に置いていかれている。
周囲の不満が蓄積される前に、なんとかしなくちゃ。でもどうやって……
美来の意見とめぐみの意見は割れてしまっている。状況的にめぐみの肩を持つ人が多いだろうし、そうなると美来の居場所がなくなり、今後は参加したがらなくなりそうだ。だけどふと思った。どちらかに決めなくてはいけないのだろうか。
「あ、あの!」
私の声で、会話が止まる。視線が私に集まった。怖い。だけど言わないと。
心臓の音が全身に伝わるほど激しく脈打ち、手には汗が滲む。どちらか片方が間違っているわけではない。けれどもっといい方法がある。
「三つくらい大きいクラゲを買って、小さいクラゲは手作りにするのはどう……?」
沈黙が流れて、慌てて言葉を続ける。
「それならお金も残るだろうし、クラゲを作る時間も少なめで済むと思うんだ」
受け入れてもらえないかもしれない。焦りがじわじわと心に浸食して、思考がうまく働かなくなってくる。みんなの顔が見れない。
「それいいかも。予算も抑えられる」
はじめに口を開いたのはめぐみだ。
「たしかに」
美来も私の折衷案に納得してくれたようだった。
「菅野さんが探してくれたやつも綺麗で目立つし、その周りに子どものクラゲがいるのもかわいいね」
デザインのリーダーの子の表情が柔らぎ、賛同してくれる。周りの子たちも、それでいこうと言ってくれて、私はほっと胸を撫で下ろした。
思いついたのは、いつも波風立てないように過ごしてきた私だからこそだった。
たったこれだけの意見を言うだけで、指先が震えてしまう。だけど意見を言えた自分が少し誇らしかった。
「おーい、そろそろ帰りの準備しろ〜。半には閉めるぞ」
六時を過ぎた頃、先生が教室にやってきて帰宅するように促される。話し合いをしているとあっという間に時間が過ぎていく。
初めはどうなることかと思ったけれど、行き詰まると美来がアイディアを出してくれたり、率先して話を進めてくれたので小物に関して決まったことも多い。
「美来」
居残りをしていた生徒たちがカバンを持って教室を出ていく中、めぐみが美来を引き留めた。窓の外は暗くなっていて、教室の電気が眩しく感じる。
「話があるんだけど」
廊下には楽しげな声がこだましていて、不釣り合いないなくらい私たち三人だけになった教室が静かだった。
「なんでああいう言い方したの」
めぐみの口調から機嫌の悪さが伝わってきて、私は息をのむ。
「は? なにが?」
「クラゲのこと。作ってくれた子が泣きそうだったでしょ」
美来はため息を吐くと、肩にかけていたカバンを机に乱暴に置いた。
「貶したかったわけじゃないし、ただ時間がないんだから買った方がいいって言っただけ」
「それでも言い方があるでしょ。今日から打ち合わせに参加した美来が、あんな風に仕切ったら反感買うのがわからない?」
「私が参加しない方がよかったってこと?」
「そんなこと言ってない。もう少し周りのこと考えて発言してってこと!」
再び言い合いが始まってしまった。けれど、先ほどとは状況が違う。美来の大きな目には涙が溜まっていて、泣くのを堪えているようだった。
「……っ、なんですぐ言い合いするの!」
溜め込んでいた感情が破裂するように私は叫ぶ。めぐみも美来も呆然と私を見つめていた。
「ふたりの言い分はわかるけど、でも……クラスの子たち困ってた! もっと言葉選んで! 美来もめぐみもお互い傷つけることばっかりどうして言うの」
一気に言葉を吐き出して、息が上がる。緊張とか苛立ちとかもどかしさがぐちゃぐちゃに心に入り混じっている。他にも言い方があるはずなのに、喧嘩になるような言葉で話すふたりをどうしても見ていられなかった。
美来がなにかを言おうとしたときだった。廊下から足音が聞こえてくる。
「まだ残ってたのか? もう閉めるぞ」
先生が教室に入ってきて、教室の電気が消された。私たちは強制的に廊下に出される。めぐみは気まずそうにしながら、私たちの先を歩いて行ってしまう。
「私が空気悪くしたのはわかってるよ」
鼻をすする音がする。泣いている美来に、どんな言葉をかければいいのかわからないまま、私は隣を歩く。
「傷つけたいわけじゃなかったのに。けど、めぐみだって言い方きついじゃん!」
我に返ったように「ごめん、愚痴言って」と美来が苦笑する。こんなに弱気な姿を見るのは初めてで、美来なりに後悔や葛藤があることを私は今まで知らなかった。
「クラゲの件、楓がアイディア出してくれてよかった。あのままだったら、めぐみと大喧嘩になってたかも」
「あれはたまたまいい案が思いついただけで……」
「楓らしいなって思ったよ。だからちょっと羨ましい」
美来の言葉に、私は目を見開く。
「楓みたいに周りのこと気遣えたら、よかったのに」
何度も思ったことがある。美来やめぐみみたいになれたらいいのに。ずっと私は誰かに必要とされる存在になってみたかった。
「私は自分の意見を言うのが苦手で、八方美人に振舞っちゃうし……思っていることを言うのも苦手だから」
心の奥に隠していた感情が唇から零れ落ちる。
「美来たちのことが羨ましい」
足音が止まったことに気づき、振り返る。美来が表情を硬らせていた。
「……もしかしてあのとき、聞こえてた? 私が志保と話してたこと」
心臓がどくっと跳ねて血の気が引いていく感覚がする。八方美人という発言で美来は察したようだった。
なにが?と流せば、穏便に済む。だけどそれは自分の心を無視することになる。揉めることは怖い。私と美来の仲も壊れてしまうかもしれない。でも逃げずに向き合うのなら、今しかないように思えた。
「……聞こえてた」
「ごめん! あんなこと言って」
この場を収めるために気にしないでと言うのも本心ではない。笑顔を作ろうしとても、口角が上がらない。
「私も自分の気持ち伝えてこなかったから」
目に薄らと涙の膜ができる。気にしないようにと必死に自分に言い聞かせていた。実際は泣きそうはほど傷ついていたのだと、受けた傷を自覚する。
「でも……聞いたとき、ショックだった」
けれど私が八方美人だと言われるのも、なにを考えているのかわからないというのも、自分の気持ちを飲み込んで合わせてしまうからだ。
流されて他人の判断に身を委ねてしまう。言いたいことを口にするのを避けるのは楽で、自分の発言という責任もない。そうやって過ごしてきた私は、本音がどこにあるのかよくわからなくなって、きっと灰色に濁ってしまったんだ。
「ごめん、楓。……本当ごめん」
美来は顔を歪ませながら大粒の涙を流し、謝罪を繰り返す。その光景に、私の涙は引っ込んでしまう。ここまで泣くなんて驚きだった。心のどこかで、美来にとって私は大した存在ではないと思っていたのだ。
「謝っても許されることじゃないけど、ごめんなさい。……我儘なのはわかってる。でも私、楓に嫌われたくない……っ」
どうせ私なんかとか、私よりもあの子の方が好かれているとか。聞いてもいない本音を想像して、勝手に惨めになっていた。話してみて初めて知る思いもあるという当たり前のことに、気づけていなかった。自分の価値を下げていたのは、私自身なのかもしれない。
私は美来の手を握る。微かに震えているその手からは、後悔が伝わってきた。
「嫌いになんてなってないよ」
これは本心だ。悪口を言われて傷ついたことは消えないけれど、それでも美来が私を傷つけたかったわけではないのはわかっている。
ぎゅっと手を握り返されて、美来は声を上げて泣きじゃくっていた。
少ししてから学校を出て、ふたりでゆっくりと夜道を進んでいく。美来の涙も落ち着き、私は今まで聞けなかったことを口にした。
「……美来は、めぐみと話さなくていいの?」
先ほどのことだけじゃない。亀裂が入ってから、美来はめぐみとふたりで話すことを避けていた。
「だって、めぐみが私と話したくないだろうし」
まるで臍を曲げた子どもみたいに美来は不貞腐れている。
「めぐみは……美来のこと嫌いじゃなかったと、思う」
「……そうかな」
あまり自信がなさそうな声だった。
「今までのこと色々思い出すと、めぐみって本当は私と嫌々一緒にいたのかもってどんどん悪い方向で考えちゃうんだよね」
駅への近道で広い公園の中を突っ切っていく。この道を七月の途中まで三人で歩いていた。昨日見た動画の話とか、好きな漫画の話、他にも学校で起こった些細な話題で盛り上がって、たくさん笑った。
三人で過ごしていたとき、めぐみはなにかを抱えていたことは事実だ。けれど心から笑っていたときもあったと信じたい。
「美来はめぐみのこと、どう思ってるの?」
私の質問に美来は指先を弄りながら、煮え切らない様子で唸るような声を出して悩んでいる。
「嫌われてるなら、私だけが好きなのって馬鹿みたいじゃん」
素直じゃない返答から、本心ではめぐみが好きなのだと伝わってくる。好きだからこそ、嫌われているかもしれないと思って、美来は怖くなったんだ。
「私は……美来の気持ちをめぐみと話した方がいいと思う」
美来がめぐみの本心がわからないように、めぐみにだってそれはわからないはず。
「……考えてみる」
美来の声には迷いがあるように感じた。一度拗れた仲が修復する保証なんてない。それでもモヤモヤとした感情を抱えたままでいるより、美来にとってめぐみが大事な存在だということを伝えたらなにかが変わるかもしれない。
***
翌日、バイト終わりに更衣室でスマホを取り出と、文化祭の展示についての共有メッセージの通知がたくさんきていた。細かい部分は先生に確認しつつも、来週の月曜日から板に色を塗る作業に入るらしい。今のところスケジュール通りに順調に進んでいる。
裏口から外に出ると、何故か私服の藤田くんがいた。今日はシフトがないのに、何故彼がここにいるのだろう。
「おつかれ」
「藤田くん、今日休みだよね?」
「ちょっと忘れ物。すぐ取ってくるから、用事ないならそこにいて」
「え?」
一方的に話すと藤田くんは中に入っていく。特に用事もないので、私はフェンスに寄りかかりながら、彼が戻ってくるのを待つ。
何気なく空を見上げてみるけれど、味気ない風景が広がっていた。モノクロの視界のせいかもしれない。けれど、お店の看板で明るいこの場所からは、元々星なんてほとんど見ることができないだろう。
ブレザーのポケットに手を入れると、ほっとするような暖かさに包まれた。十月の夜は案外寒くないと思っていたけれど、今日はいつもより冷える。けれど空気の冷えた秋の夜も好きだ。
「おまたせ」
本当にすぐに戻ってきた。バイトがないのに取りにくるほど大事なものはなんだったのだろう。それに今日はパーカー姿で普段よりもラフな印象だ。新鮮なので見入ってしまう。
「なに?」
不思議そうな顔をされて、誤魔化すように髪を指差す。
「前髪が、くしゃってなってるよ」
「ああ、急いだからかも」
そう答えながら藤田くんは片手で軽くならすようにして、前髪を整えている。
「急いだの?」
「待ってるかもって思って」
急いだ理由が私だとわかり、口元が緩んでしまう。それに藤田くんはそういうことを気にする人なんだと、意外なところを発見した。
「なに取りにきたの?」
「スマホ」
「ええ! スマホ忘れたの? 今日一日なくて大丈夫だった?」
「いや、一日くらいなくても平気だろ」
私だったら、スマホがないと一日中そわそわしてしまいそうだ。学校が終わったら速攻取りに行っている。
「さすがに次のバイトまで置いたままは嫌だったから取りにきたけど」
藤田くんと私の中でのスマホへの価値観は異なるんだなと、衝撃を受けながらも、私たちは並んで歩いていく。
「今日はコンビニ寄る?」
「うん、寄ろうかな」
私たちはバイトが終わると、こうして時々コンビニに寄るようになっていた。特別にほしいものがあるわけではない。ただ途中まで帰るだけなのは名残惜しくて、寄り道をしてしまう。
コンビニでホットのミルクティーを買って、それを両手で握りしめながらゆっくりと歩く。彼とこうして一緒にいるのが、こんなにも心地よく思うようになったのは、いつからだろう。
「藤田くん、この間は話聞いてくれて本当にありがとう。展示の作業、最近私も一緒に参加するようになったんだ」
「よかったな」
あっさりとした返答。だけど安心したような穏やかな声音だった。心配してくれていたみたいだ。
「で、今度はなにに悩んでるわけ」
「え?」
「わかりやすすぎなんだって」
——楓らしいなって思ったよ。だからちょっと羨ましい。
美来の言葉を何度も考えていた。私って、どういう人? 私らしいってなに?
聞きたかったけれど、答えが怖くて聞けない。けれど、気になってしまう。私はどんな風に見えているんだろう。灰色に飲み込まれた私には、自分らしさが見つからない。
「藤田くんにとって、私って何色のイメージ?」
「色? なんで?」
「この人はこの色のイメージとか思うことない? 色の性格診断とか、中学生の頃に流行らなかった?」
「俺は人を色と結びつけたことないからわかんねー。てかそれって大事なこと?」
どう見られたいとか、そういう願望は藤田くんにないのだろうか。
「私は結構気にしちゃう。アイコン変えるとき、色が一番悩むんだよね」
SNSやメッセージアプリのアイコンを変えるとき、色やイラストのタッチ、写真に映っているものなどで、どんなイメージを抱かれるかを考えてしまっていた。特に色の与える印象は大きい。
藤田くんはますますわからないと顔を顰めた。
「誰にどう見られているかよりも、好きな色を纏えばいいじゃん」
「でも、それが私らしくない色だったら?」
かっこいいからと黒系を選んでも、イメージと違うねと言われたら、その色を纏うことを私は躊躇ってしまう。
「纏ってたら、その色のイメージになるんじゃねぇの? てか、自分の好きな色に周りの意見なんていらねぇだろ」
思い返せば私は、目立たないような無難な色ばかり選んでいたかもしれない。藤田くんが数歩先で立ち止まり、振り返った。
「笹原は、何色が好きなんだよ」
射抜くような視線を向けられながら、彼の言葉を頭の中で反芻させる。
——私の好きな色。
「……わからない」
「色が見えなくなる前は、どの色をよく手に取ってたとか思い出せねぇの?」
タイヤがアスファルトに擦れる音を鳴らし、私たちの横を自転車が横切っていく。その瞬間、自分の自転車の存在を思い出した。高校に入ってあまり使わなくなってしまったけれど、中学のときに乗っていた色は白だった。
「自転車を買うときに、親には汚れが目立つからやめた方がいいって言われたけど、どうしても白が欲しくて買ったんだ」
「それなら、白が好きなんじゃね」
「あ、でも……スマホカバーの色は、ピンクにしたんだ」
桜のような淡い色で、ひと目見て気に入ったのだ。今年の四月に購入して今も同じものを愛用している。
「ピンクも好きってことだろ。それにペンケースは水色の使ってたよな」
「あ、うん。それも色が気に入って……」
ライトブルーのペンケースも、かわいいと思って高校入学前に選んだものだ。
「これだと好きな色なんてわからないね」
「白もピンクも、水色も好きってことじゃねぇの?」
「多すぎないかな」
「なんで? 一色だけじゃなくてもいいじゃん」
驚きと共に、心にすとんと言葉が着地する。藤田くんの言う通りだ。どこにも一色だけしか好きになってはいけないというルールなんてない。それなのに、私は自分自身で考えを狭めてしまっていた。
そうだ、私——好きなものを、好きと認めるのが怖かった。色はもちろん、服装やアクセサリー、アーティストなど、これが好きだと誰かに伝えることを避けていたのだ。
『意外だよね』
それは些細なきっかけだった。中学二年生の頃に、友達から私が好んでいるアーティストがイメージと違うと指摘されたことがある。
『楓ってそういう激しめの曲聴くと思わなかった』
『てか、これなんて言ってるの? 裏声に気が散って全然わからないんだけど!』
ちょっとしたいじりだったのだと思う。それからなにかある度に、私の好きなアーティストの曲を真似して、ふざけてくることが多かった。
『も〜、やめてよー!』
笑って誤魔化していたけれど、内心嫌だった。
自分の好きなアーティストが馬鹿にされている気がして、好きな気持ちを話のネタにされて汚されたような複雑な思いを抱いた。そして好きだったはずなのに、自分の中の情熱が薄れていく。
それから私はあまり好きなものを人に言わなくなった。知られてからかわれるのも嫌で、好きなものから熱量が失われていくのも怖かった。
飲み込んで隠すようにしていくうちに、押し殺した感情は遅効性の毒のように私を蝕み、自分のことがよくわからなくなっていった。
「私……誰にどう見られるか、気にしてばっかり」
揉め事は今まで避けることができたかもしれないけれど、それと引き換えに私は大事なものを手放してしまったようにも感じる。
「じゃあ、俺にどう見られたいわけ」
「え、ど、どうって」
急な質問に私はまごついてしまう。真剣な眼差しは、わからないでは済ませてはくれなさそうだ。
「バイトで仕事できるように見られたい、かも? あとは、うーん、好かれていたいと思う。……嫌われたくない」
「嫌いになんねーよ。じゃあもう解決。なんも悩むことないじゃん」
「えっ⁉️ 嫌いにならない保証なんてないよ……」
「そんなのすべてのことに対してそうだろ。誰だって、この先の感情まで予測なんてできない。けど今の俺は嫌いになんねぇって思ってんだからいいじゃん」
人の心はどう変わるかわからない。今後、私が藤田くんに自分勝手な態度ばかりとっていたら距離を置かれることだってある。
美来たちだってそうだ。親しいからといって、私の態度次第で嫌われるかもしれない。そう考えるとますます接することが怖くなる。
好かれているためには、どんな私でいたらいい……?
「また考え込んでるだろ」
藤田くんに見透かされて、慌てて顔を上げる。
「笹原は臆病だな」
「……そうかも」
人の顔色ばかり気にする私は小心者だ。でも、臆病だから仕方ないと思いたくない。臆病だけど、変わりたい。
「私、藤田くんみたくなりたい」
「なんだそれ。冷たい人間になりたいってこと?」
「ううん。……自分を持ってる人間になりたいってこと」
強い意志を持っていて、こうして人に真っ直ぐな言葉をかけてくれる。彼のようだったら、私は灰色にならなかったはず。
「見る目ねーな」
藤田くんは私に背を向けて歩き出した。彼が纏った赤色が揺らめいて見えて、小さな緑色は蛍の光のようだった。
「……少し前まではそうだったかも」
呟くと、藤田くんが再び足を止めた。そして彼の前に回り込み、私は笑いかける。
「藤田くんは自分が思ってるより、冷たくないよ」
怖い人だと周りが勝手に彼のイメージを持ったけれど、本当は友達に裏切られて、嘘の噂が出回ってしまっただけだ。悔しいはずなのに、先生に真実を言わないで黙って耐えている。
「少なくとも親切ではないだろ」
「藤田くんこそ見る目ないね」
仕返しのように言うと、複雑そうな表情で藤田くんがため息を吐く。
「元気になってよかったな」
皮肉めいた言葉に、私は声を上げて笑ってしまう。確かに気持ちが浮上してきた。藤田くんに話したことによって、気持ちの整理ができたみたいだ。
灰色異常になる前から誰にどう見られるかばかりで、なりたい自分の姿を思い浮かべることが今までなかった。
赤色の人みたくなりたいのなら、自分なりの言葉で伝える努力をするべきで、平和に過ごしたいのなら緑色の人のように周りをよく見て、気を配れるように意識するべきだ。なりたい色に必ずなれるわけではないけれど、それでもどうせ私なんてと、自分自身を苦しめて色を濁らせたくない。
自分を守ることばかりで視野が狭くなっていたけれど、この灰色も努力次第で変化していくはず。
「あ……」
「なに?」
「私ね、今思ったんだけど、藤田くんといるときの自分が結構好きかもしれない」
冗談を言って笑ったり、心の奥底に隠した本音を打ち明けたり、気づけば自然体でいることができている。
誰かに好かれたいではなくて、私に好かれる自分になりたい。
「俺も。教室の笹原より、今の笹原の方がいい」
近くを通りかかった車のヘッドライトが私たちを照らす。その光の眩しさに私は目を瞑った。車が通過していったのがわかり、瞼を上げると、飛び込んできた景色に思わず声を漏らす。
「え……」
空は濃紺で遠くに見える木は黄葉している。そして、アスファルトに反射した街灯の光は青みがかって見えた。けれど、瞬きをすると、すぐにモノクロのフィルターがかかったように色味を失う。
——今、戻った……?
目を擦ってみても、映る世界は無彩色だった。ほんの数秒だったものの、景色に色が戻ったのは間違いない。それに私を纏う灰色がまた少し薄くなっていた。
「笹原? どうした?」
「今……周りの色が見えたんだけど、また戻っちゃって……」
動揺して拙くなりながらも、起こったことを藤田くんに説明する。
「笹原の心境に変化が起こったからじゃねぇの」
いい方向に進めているということなのだろうか。悩みが消えたわけではないけれど、ほんの少しの希望が芽生えた。