入社して一か月後。私は同じフロアの品質保証部の佐藤悠と付き合い始めた。同期入社、同い年、ということもあって意気投合したのだ。
初めての彼氏に浮かれていたのは認める。だから、彼の側にいたくて、仕事から帰ると何度も何度も電話をかけたり、メッセージを送ったりしていたことも認める。
その結果、半年後に別れた。
私の頭の中では、彼との結婚生活を思い描いていた矢先だった。
『お前、重いから』
そんな理由で別れを告げられた。
ま、別れた後の一か月は、魂が抜けたような状態だったけれど。同じフロアというだけで職場は違うし、次第に仕事も忙しくなれば、そんなことも考える余裕もなくなるわけで。
そうやって、元カレのことは次第に頭からはなれていったのだ。
だけど、今年の四月下旬。ちょっと遅い新人歓迎会をやっていたときに、元カレが絡んできた。
やられたらやり返す。目には目を、歯には歯を――。
がモットーな私は、酒の勢いもあって、反論していた。元カレも自尊心を傷つけられたのだろう。私みたい小娘にケチョンケチョンに言われていたのだから。
口で負けそうになれば、手が出てくる。それがあの人の悪い癖でもあった。
そして、その間に入ったのが健太郎さんなのだ。
憧れの健太郎さんに助けてもらったという気持ちが、私の心を解放したらしい。解放した結果、記憶を失った。
悪阻も落ちついた私は、なんとか会社に行くことができるようになった。
健太郎さんと婚約したことは、部長には伝えてあるし、妊娠していることも伝えてある。籍を入れないのは、記念日に籍を入れたいから。そんな変な理由がまかり通っていた。
だから私はまだ、『畑中』のまま。
そうなると、皆、私のことを遠回しに見つめてくるようになった。
姓はかわっていないのに、妊娠している――。相手は――?
ま、言いたい奴には言わせておけ。
そんな気持ちで仕事をしていたんだけど――。
「おい。珠美」
まだ太陽が沈み切る前。外にいるだけでもじっとりと汗ばんでくるような気温の中、会社を出た私に声をかけてきたのは、元カレの悠だった。
「なに? もう、あんたの彼女でもなんでもないんだから、呼び捨てにするの、やめてくれない?」
「お前、結婚したのか?」
「は? なんであんたにそんなことを教えなきゃならないわけ?」
「誰の子だよ」
「あんたの子じゃないから、安心しなよ」
ちっ、と悠は舌打ちをする。
「あんたにとって、私は重い女なんでしょ? 私と正反対の、軽い女と付き合ってんじゃなかったの?」
噂によると、彼は営業部の海外マーケティングの英語ペラペラ才女の美人さんと付き合っているとか。だからといって、彼女が軽い女性というわけではないのだが、言葉の駆け引きのようなものだ。
「お前さ。誰でもいいんだろ? やらせてもらえれば」
――は? 何、言ってんの、こいつ……。
だだでさえ暑くてくらくらしているのに、こいつの言葉を聞いているだけで、余計にくらくらしてくる。
「しかも、妊娠してるなら、孕む心配も無いよな?」
――ちょ、ちょ、ちょっと待って。なんなの、こいつ。
私の怒りが沸点に達しそうになっていた。付き合っていたときから、ちょっとなところはあったけれど、そういうのは片目をつぶれ、とよく言うから、片目と半分くらいつぶっていたけれど。
もう、彼とは付き合っていない。だから今、両目をきっちりと開く。
「あのね。私とあんたは、もう終わったの。誰でもいいわけではないから。用がないなら、帰るから」
くるりと元カレに背中を向けた。
本当に、こんな会社の目の前でやめて欲しい。同じフロアの人間はいなくても、他部署の定時で帰る人たちは、ばっちりと私たちのやり取りを見られている。
だからって、誰かが助けてくれるわけでもない、遠目から、パンダでも見るような視線を投げかけてくるだけ。
本当にいろんなことに頭にきた。
健太郎さんじゃないけれど、「辞めてもいいかな」と思えるほどに。
「おい、待てよ」
元カレに肩を掴まれた瞬間、世界が一変した。夏の日の長い夕方が、一気にセピア色の世界に染まり、何かしら動いていた人たちは、静止画のようにぴたりと止まっていた。
「は? 何、これ」
身近にいた女性に触れようとしても、触れることができない。見えるのに、触れない。実態がない。
「あっちより、こっちに連れてきた方が早いと思ってね」
あっちもこっちも、違いがわからない。
私は目の前の元カレをじろっと睨んだ。
「お前さ。知らないの? お前って、人間のわりには霊力が高いんだよ」
ドキリとした。身体が震えた。
「特に、そこから霊力を感じる」
元カレが指を差したのは、私の下腹部。つまり、新しい命が宿っている場所。
――健太郎さんが言っていたのって、こういう意味なの?
私は唇を噛みしめて、元カレを睨む。
ここには、私を助けてくれるような人はいない。野次馬もいない。そもそも、私と元カレ以外、誰もいない。見えるあの人たちは、ただのお飾りのようなものだ。
「今のお前と交われば、オレも霊力を分けてもらえるというわけだ。お前に、あやかしの子を妊娠するような力があるとは思わなかったよ」
ここでもあやかし。まさかのあやかし。となれば、もしかして、もしかしなくても、この男もあやかし?
「そうやって、驚きもしないってことは……。やはり、その子は『あやかし』の子か。すごいな、お前。まさか、普通の人間のくせに『あやかし』の子を孕む力があるなんて。やっぱり、あの時、手放すんじゃなかった。そうすれば今頃、オレの霊力も高まったのになぁ? だけど、その子は邪魔なんだよね。存在してはいけない赤ん坊だ」
唇の周りを舐めながら、元カレが言う。もう、気持ち悪い。悪阻で気持ち悪いんじゃなくて、この男の存在が気持ち悪い。
だけど、このよくわからない場所から、家に帰る方法がわからない。
「おいで、珠美。こっちはオレとお前しかいないから。誰にも邪魔される必要はないよ? いや、邪魔してるのはその子か」
「ごめん、あんたの言ってる意味が、さっぱりもってわからない」
だから、これから彼がどこで何をしようとしているのかが、わからない。だけど、彼に捕まってはいけないという、そんな気持ちだけはあるし、お腹の子が危ないということだけはわかった。
あいつが私に一歩近付けば、私は一歩下がる。また、一歩、また一歩……。
私の隣には、動かない人の顔があるけれど、その人は私が見えていないかのように、どこか違う場所を見つめている。
そもそも、こうやって相手に触れることができないのだ。助けを求めたって無理だってわかっているけれど――。
これだけの人がいたら、いくら動かないセピア色の人間であっても、だれか一人くらいは私に気づいてくれるんじゃないかって期待してしまう。
「珠美。みんなに見られながら犯されたいの?」
いやいやいやいや。だから、先ほどから言っていることがおかしいから。
私は元カレを睨みつけたまま、一歩ずつ後退するものの、背中に何かが触れた。驚いて後ろを振り向けば、セピア色の人間の群れ。
触れることができないはずの、セピア色の人間たち。
「オレから逃げようとするから。お前たち、珠美を捕まえろ」
無数のセピア色の腕が伸びてくる、私はその手から逃げるように走った。
走っていい時期かどうかもわからないけれど、走って逃げた方がまだマシだと思えた。だけど、セピア色の人間が私を追いかけてくる。
「珠美、あきらめなよ。そういうところも可愛くていいんだけどね」
元カレがどうでもいいことを、言っているけれど、この腕の群れとかに捕まることを想像したら怖いし、その後、何をされるかわかったもんじゃない。
日頃の運動不足というものがたたって、少ししか走っていないにも関わらず息はあがり、足が重くなってきた。
身体中に十分な酸素も行き渡らず、目の前がくらくらしてきた。
「鬼ごっこはもう終わり?」
テレビ番組のように、たくさんの鬼が私一人を追いかけてくる。私が一体、何をしたというのか。
――もう、無理……。
息も苦しくて、足も痛くて、頭も白んで。
前に倒れそうになった。それでもお腹に手を当てたのは無意識だった。絶対にこの子だけは守りたい――。
だけど、いつまでたっても身体は無事で、追いかけてきた腕の群れにとらわれることもない。ただ、一本の腕がしっかりと私の身体を支えてくれていただけで。
「タマ。無事か?」
「健太郎さん……」
ヒロインのピンチに駆けつけた救世主って、本当に実在するんだ。
なんて、最近読んだ、ロマンス小説を思い出していた。たいてい、ヒロインが攫われて、やられるっていうときに登場するのがヒーロー。お約束のパターンだけど、このお約束がなければ、物語は成立しない。
「さて、と。俺の花嫁とその子に手を出した覚悟はできているんだろうな? 佐藤悠くん……」
悠の顔色が、さっと変わった。血の気が引く、という表現が適切なのかもしれない。
「まさか……。珠美の相手は黒須部門長?」
「その、まさかだったらどうする?」
ふわっと、また周囲の温度が三℃くさい下がったような気がした。ほのかに冷たい風が心地よいのだ。
健太郎さんの右手には、ソフトボールくらいの大きさの金色の光の玉がほわほわと浮いていた。
「佐藤悠くんは、何のあやかしかな? あやかしであることは知っていたけどね。特に、関りもないし、害もないし放っておいたのだが。そうやってタマにちょっかいを出すようなら、お仕置きが必要かな」
健太郎さんが手にしていた光の玉は、ほわほわと揺れながら悠のほうに向かっていく。
「や、やめろ」
今度は悠が逃げる番だった。追いかける光の玉から走って逃げている。
逃げる姿って、あんなに滑稽なのか。そして、それが先ほどまでの私。きっと悠は、こんな滑稽な私の姿を見て、心の中で笑っていたのだろう。
光の玉の速度は次第に速まり、悠に追いつくと彼の全身を光で覆った。
人間の姿であった元カレは、その姿を狐の姿に変えた。
――あら、かわいい。
「管狐か。となれば、主人は別にいるな」
管狐。妖怪の名前。聞いたことがある。とにかく、狐だ狐。
「あやかしって、妖怪?」
「のような力を持つ、人間のような者」
「てことは、人間?」
「とも、違う。けれど、こうやって人間界に潜んでいる。だが、とにかく君は、あやかしに好かれる体質のようだな。前もって指輪を渡しておいてよかった」
指輪と言われ、左手の薬指の控えめな石が煌めく指輪を見つめた。石は指輪のリングの部分に埋め込まれていて、邪魔にならないようなデザインであるところが気に入っている。
「その指輪には、俺の霊力が込められている。だから、君に何かあれば、その指輪が俺に教えてくれる」
「てことは、GPSみたいなもん?」
「と思ってもらってもかまわない」
そんなことを言われて、素直に指輪をつけ続けようとも思わない。ようするに、私の居場所が健太郎さんに筒抜けってことでしょ?
指輪を外そうとしてみたけれど、全然外れなかった。
「なんで?」
「やはり。指輪に認められたということは、君は私の運命の女性に間違いないということだ」
健太郎さんが私の腰を抱き寄せる。
「助けにくるのが遅れて悪かった。走ったようだが、体調は問題ないか?」
優しく私の下腹部に触れる。
「大丈夫。大丈夫だけど、健太郎さんが近すぎるから、大丈夫じゃない」
セピア色の人間たちがたくさんいるのに、恥ずかしいったらありゃしない。
「俺の嫁は、可愛いな」
「うん。まだ嫁じゃないけどね」
クゥン、と犬のような鳴き声が聞こえてきた。
悠だ。いや、狐だ。
「どうすんの? これ。今は狐だけど、悠なんだよね?」
「君が、他の男を呼び捨てにするのは、いい気持ちはしないが」
健太郎さんの言葉で、はっとする。私も付き合ってもいない男のことを呼び捨てにしてしまった。人のことを言えたもんじゃない。
「とりあえず、主人の元に帰そう。そうすれば、君を襲った黒幕がわかる」
健太郎さんが、狐の首根っこを掴み、何やらお経のような言葉を口にすると、狐はぱっと消えた。
「さて、俺たちも帰ろう」
また、世界が一変した。セピア色の世界が、色のある世界に戻った。肌に感じる空気は、湿気が多くじめっとしているし、何よりも周りの人たちが動いていた。
「ねえ、さっきの雪だったよね?」
「雪?」
「降った、降った」
「こんなに暑いのに?」
「あ~、でも、暑いから少しくらい雪が降ってくれてもいいかもって思うわ」
そんな会話が聞こえてきた。地面を見ると、雨が降ったかのように濡れていて、それがすでに蒸気になってもやを作っていた。
隣の健太郎さんを見上げると、彼は困った様に笑っていた。
きっと彼を問い詰めても、答えてくれないだろうから、あとでこっそりとお義母さまに聞くことにしよう。
初めての彼氏に浮かれていたのは認める。だから、彼の側にいたくて、仕事から帰ると何度も何度も電話をかけたり、メッセージを送ったりしていたことも認める。
その結果、半年後に別れた。
私の頭の中では、彼との結婚生活を思い描いていた矢先だった。
『お前、重いから』
そんな理由で別れを告げられた。
ま、別れた後の一か月は、魂が抜けたような状態だったけれど。同じフロアというだけで職場は違うし、次第に仕事も忙しくなれば、そんなことも考える余裕もなくなるわけで。
そうやって、元カレのことは次第に頭からはなれていったのだ。
だけど、今年の四月下旬。ちょっと遅い新人歓迎会をやっていたときに、元カレが絡んできた。
やられたらやり返す。目には目を、歯には歯を――。
がモットーな私は、酒の勢いもあって、反論していた。元カレも自尊心を傷つけられたのだろう。私みたい小娘にケチョンケチョンに言われていたのだから。
口で負けそうになれば、手が出てくる。それがあの人の悪い癖でもあった。
そして、その間に入ったのが健太郎さんなのだ。
憧れの健太郎さんに助けてもらったという気持ちが、私の心を解放したらしい。解放した結果、記憶を失った。
悪阻も落ちついた私は、なんとか会社に行くことができるようになった。
健太郎さんと婚約したことは、部長には伝えてあるし、妊娠していることも伝えてある。籍を入れないのは、記念日に籍を入れたいから。そんな変な理由がまかり通っていた。
だから私はまだ、『畑中』のまま。
そうなると、皆、私のことを遠回しに見つめてくるようになった。
姓はかわっていないのに、妊娠している――。相手は――?
ま、言いたい奴には言わせておけ。
そんな気持ちで仕事をしていたんだけど――。
「おい。珠美」
まだ太陽が沈み切る前。外にいるだけでもじっとりと汗ばんでくるような気温の中、会社を出た私に声をかけてきたのは、元カレの悠だった。
「なに? もう、あんたの彼女でもなんでもないんだから、呼び捨てにするの、やめてくれない?」
「お前、結婚したのか?」
「は? なんであんたにそんなことを教えなきゃならないわけ?」
「誰の子だよ」
「あんたの子じゃないから、安心しなよ」
ちっ、と悠は舌打ちをする。
「あんたにとって、私は重い女なんでしょ? 私と正反対の、軽い女と付き合ってんじゃなかったの?」
噂によると、彼は営業部の海外マーケティングの英語ペラペラ才女の美人さんと付き合っているとか。だからといって、彼女が軽い女性というわけではないのだが、言葉の駆け引きのようなものだ。
「お前さ。誰でもいいんだろ? やらせてもらえれば」
――は? 何、言ってんの、こいつ……。
だだでさえ暑くてくらくらしているのに、こいつの言葉を聞いているだけで、余計にくらくらしてくる。
「しかも、妊娠してるなら、孕む心配も無いよな?」
――ちょ、ちょ、ちょっと待って。なんなの、こいつ。
私の怒りが沸点に達しそうになっていた。付き合っていたときから、ちょっとなところはあったけれど、そういうのは片目をつぶれ、とよく言うから、片目と半分くらいつぶっていたけれど。
もう、彼とは付き合っていない。だから今、両目をきっちりと開く。
「あのね。私とあんたは、もう終わったの。誰でもいいわけではないから。用がないなら、帰るから」
くるりと元カレに背中を向けた。
本当に、こんな会社の目の前でやめて欲しい。同じフロアの人間はいなくても、他部署の定時で帰る人たちは、ばっちりと私たちのやり取りを見られている。
だからって、誰かが助けてくれるわけでもない、遠目から、パンダでも見るような視線を投げかけてくるだけ。
本当にいろんなことに頭にきた。
健太郎さんじゃないけれど、「辞めてもいいかな」と思えるほどに。
「おい、待てよ」
元カレに肩を掴まれた瞬間、世界が一変した。夏の日の長い夕方が、一気にセピア色の世界に染まり、何かしら動いていた人たちは、静止画のようにぴたりと止まっていた。
「は? 何、これ」
身近にいた女性に触れようとしても、触れることができない。見えるのに、触れない。実態がない。
「あっちより、こっちに連れてきた方が早いと思ってね」
あっちもこっちも、違いがわからない。
私は目の前の元カレをじろっと睨んだ。
「お前さ。知らないの? お前って、人間のわりには霊力が高いんだよ」
ドキリとした。身体が震えた。
「特に、そこから霊力を感じる」
元カレが指を差したのは、私の下腹部。つまり、新しい命が宿っている場所。
――健太郎さんが言っていたのって、こういう意味なの?
私は唇を噛みしめて、元カレを睨む。
ここには、私を助けてくれるような人はいない。野次馬もいない。そもそも、私と元カレ以外、誰もいない。見えるあの人たちは、ただのお飾りのようなものだ。
「今のお前と交われば、オレも霊力を分けてもらえるというわけだ。お前に、あやかしの子を妊娠するような力があるとは思わなかったよ」
ここでもあやかし。まさかのあやかし。となれば、もしかして、もしかしなくても、この男もあやかし?
「そうやって、驚きもしないってことは……。やはり、その子は『あやかし』の子か。すごいな、お前。まさか、普通の人間のくせに『あやかし』の子を孕む力があるなんて。やっぱり、あの時、手放すんじゃなかった。そうすれば今頃、オレの霊力も高まったのになぁ? だけど、その子は邪魔なんだよね。存在してはいけない赤ん坊だ」
唇の周りを舐めながら、元カレが言う。もう、気持ち悪い。悪阻で気持ち悪いんじゃなくて、この男の存在が気持ち悪い。
だけど、このよくわからない場所から、家に帰る方法がわからない。
「おいで、珠美。こっちはオレとお前しかいないから。誰にも邪魔される必要はないよ? いや、邪魔してるのはその子か」
「ごめん、あんたの言ってる意味が、さっぱりもってわからない」
だから、これから彼がどこで何をしようとしているのかが、わからない。だけど、彼に捕まってはいけないという、そんな気持ちだけはあるし、お腹の子が危ないということだけはわかった。
あいつが私に一歩近付けば、私は一歩下がる。また、一歩、また一歩……。
私の隣には、動かない人の顔があるけれど、その人は私が見えていないかのように、どこか違う場所を見つめている。
そもそも、こうやって相手に触れることができないのだ。助けを求めたって無理だってわかっているけれど――。
これだけの人がいたら、いくら動かないセピア色の人間であっても、だれか一人くらいは私に気づいてくれるんじゃないかって期待してしまう。
「珠美。みんなに見られながら犯されたいの?」
いやいやいやいや。だから、先ほどから言っていることがおかしいから。
私は元カレを睨みつけたまま、一歩ずつ後退するものの、背中に何かが触れた。驚いて後ろを振り向けば、セピア色の人間の群れ。
触れることができないはずの、セピア色の人間たち。
「オレから逃げようとするから。お前たち、珠美を捕まえろ」
無数のセピア色の腕が伸びてくる、私はその手から逃げるように走った。
走っていい時期かどうかもわからないけれど、走って逃げた方がまだマシだと思えた。だけど、セピア色の人間が私を追いかけてくる。
「珠美、あきらめなよ。そういうところも可愛くていいんだけどね」
元カレがどうでもいいことを、言っているけれど、この腕の群れとかに捕まることを想像したら怖いし、その後、何をされるかわかったもんじゃない。
日頃の運動不足というものがたたって、少ししか走っていないにも関わらず息はあがり、足が重くなってきた。
身体中に十分な酸素も行き渡らず、目の前がくらくらしてきた。
「鬼ごっこはもう終わり?」
テレビ番組のように、たくさんの鬼が私一人を追いかけてくる。私が一体、何をしたというのか。
――もう、無理……。
息も苦しくて、足も痛くて、頭も白んで。
前に倒れそうになった。それでもお腹に手を当てたのは無意識だった。絶対にこの子だけは守りたい――。
だけど、いつまでたっても身体は無事で、追いかけてきた腕の群れにとらわれることもない。ただ、一本の腕がしっかりと私の身体を支えてくれていただけで。
「タマ。無事か?」
「健太郎さん……」
ヒロインのピンチに駆けつけた救世主って、本当に実在するんだ。
なんて、最近読んだ、ロマンス小説を思い出していた。たいてい、ヒロインが攫われて、やられるっていうときに登場するのがヒーロー。お約束のパターンだけど、このお約束がなければ、物語は成立しない。
「さて、と。俺の花嫁とその子に手を出した覚悟はできているんだろうな? 佐藤悠くん……」
悠の顔色が、さっと変わった。血の気が引く、という表現が適切なのかもしれない。
「まさか……。珠美の相手は黒須部門長?」
「その、まさかだったらどうする?」
ふわっと、また周囲の温度が三℃くさい下がったような気がした。ほのかに冷たい風が心地よいのだ。
健太郎さんの右手には、ソフトボールくらいの大きさの金色の光の玉がほわほわと浮いていた。
「佐藤悠くんは、何のあやかしかな? あやかしであることは知っていたけどね。特に、関りもないし、害もないし放っておいたのだが。そうやってタマにちょっかいを出すようなら、お仕置きが必要かな」
健太郎さんが手にしていた光の玉は、ほわほわと揺れながら悠のほうに向かっていく。
「や、やめろ」
今度は悠が逃げる番だった。追いかける光の玉から走って逃げている。
逃げる姿って、あんなに滑稽なのか。そして、それが先ほどまでの私。きっと悠は、こんな滑稽な私の姿を見て、心の中で笑っていたのだろう。
光の玉の速度は次第に速まり、悠に追いつくと彼の全身を光で覆った。
人間の姿であった元カレは、その姿を狐の姿に変えた。
――あら、かわいい。
「管狐か。となれば、主人は別にいるな」
管狐。妖怪の名前。聞いたことがある。とにかく、狐だ狐。
「あやかしって、妖怪?」
「のような力を持つ、人間のような者」
「てことは、人間?」
「とも、違う。けれど、こうやって人間界に潜んでいる。だが、とにかく君は、あやかしに好かれる体質のようだな。前もって指輪を渡しておいてよかった」
指輪と言われ、左手の薬指の控えめな石が煌めく指輪を見つめた。石は指輪のリングの部分に埋め込まれていて、邪魔にならないようなデザインであるところが気に入っている。
「その指輪には、俺の霊力が込められている。だから、君に何かあれば、その指輪が俺に教えてくれる」
「てことは、GPSみたいなもん?」
「と思ってもらってもかまわない」
そんなことを言われて、素直に指輪をつけ続けようとも思わない。ようするに、私の居場所が健太郎さんに筒抜けってことでしょ?
指輪を外そうとしてみたけれど、全然外れなかった。
「なんで?」
「やはり。指輪に認められたということは、君は私の運命の女性に間違いないということだ」
健太郎さんが私の腰を抱き寄せる。
「助けにくるのが遅れて悪かった。走ったようだが、体調は問題ないか?」
優しく私の下腹部に触れる。
「大丈夫。大丈夫だけど、健太郎さんが近すぎるから、大丈夫じゃない」
セピア色の人間たちがたくさんいるのに、恥ずかしいったらありゃしない。
「俺の嫁は、可愛いな」
「うん。まだ嫁じゃないけどね」
クゥン、と犬のような鳴き声が聞こえてきた。
悠だ。いや、狐だ。
「どうすんの? これ。今は狐だけど、悠なんだよね?」
「君が、他の男を呼び捨てにするのは、いい気持ちはしないが」
健太郎さんの言葉で、はっとする。私も付き合ってもいない男のことを呼び捨てにしてしまった。人のことを言えたもんじゃない。
「とりあえず、主人の元に帰そう。そうすれば、君を襲った黒幕がわかる」
健太郎さんが、狐の首根っこを掴み、何やらお経のような言葉を口にすると、狐はぱっと消えた。
「さて、俺たちも帰ろう」
また、世界が一変した。セピア色の世界が、色のある世界に戻った。肌に感じる空気は、湿気が多くじめっとしているし、何よりも周りの人たちが動いていた。
「ねえ、さっきの雪だったよね?」
「雪?」
「降った、降った」
「こんなに暑いのに?」
「あ~、でも、暑いから少しくらい雪が降ってくれてもいいかもって思うわ」
そんな会話が聞こえてきた。地面を見ると、雨が降ったかのように濡れていて、それがすでに蒸気になってもやを作っていた。
隣の健太郎さんを見上げると、彼は困った様に笑っていた。
きっと彼を問い詰めても、答えてくれないだろうから、あとでこっそりとお義母さまに聞くことにしよう。