その日を境に、私と健太郎さんの結婚を前提としたお付き合いが始まった。ようするに、婚約だ。
 だけど、今、激しく後悔をしている。いや、今だけじゃない。彼から指輪を受け取って、すぐに後悔したのだ。
 だって、わけがわからない。
 健太郎さんが、『雪男』だなんて。


 この世には、人間と似て異なる生き物がいる。人間のように見えて、人間とは異なる力を持つ者。昔は妖怪とひとくくりにされていたようだが、現代の今は、彼らを『あやかし』と呼ぶ――。


「って。物語の世界の話じゃないんですか? ほら『キャラ文芸』とか、そういうジャンルの」
「本当にタマは、本が好きだな。まあ、そういう君が好きなわけだが。残念ながら、俺はそのキャラ文芸を読んだことないから、わからない」
 そう言って、健太郎さんが私に手渡してくれたのは、ルイボスティー。妊娠中にカフェインの取り過ぎは良くないという情報をお義母さまから仕入れたらしく、私の飲み物は珈琲からハーブティーに代わっていた。

 そして私はというと、一人暮らしのおんぼろアパートを引き払って、健太郎さんの豪華マンションへと引っ越してきた、というわけ。
 というのも、健太郎さんの子を妊娠している私は、いろいろと危険らしい。厳密に言えば、私ではなくお腹の子が。

 普通の人間とあやかしの間に産まれた子は、霊力(ちから)が大きいと言われているようだ。というのも、本来であれば、人間とあやかしでは子を授かることができないから。子を授かったことそのものが奇跡であり、その奇跡の先にあるのが霊力(ちから)の強い子なのだとか。

 そんなキャラ文芸に出てくるようなあやかしの健太郎さんは、『雪男』と呼ばれる種族とのこと。
 雪男って、イエティしかわからん。と言ったら、似たようなものだと笑われた。ようするに、健太郎さんのお母さまが『雪女』なのだとか。

 まったくもって、この世のあやかし業界についてわからない私だけれど、健太郎さんとお義母(かあ)さまの話を聞く限り、財政界を牛耳っているほとんどがあやかしなのだそうだ。
 彼らは、人間とは異なる霊力(ちから)があるため、商売やら何やらに才能を発揮する。スポーツ選手の中にもあやかしはいるらしい。そうやって、普通の人間の世界に溶け込んでいる。

 基本的には、普通の人間とあやかしは交わることはない。つまり、異種婚と呼ばれるものはない。
 そもそも、二つの種族の間では子を授かることができないのだから。つまり、今回の私は異例中の異例。
 異例中の異例だから、それを面白く思わないあやかしから狙われる可能性がある、というのが健太郎さんとお義母さまの話だった。
 本当に、本の中の世界かと思った。もしかしたら、本の中の世界の方が現実なのか。真実は小説より奇なりとは、まさしくこのことか。と、何度も思った。


 健太郎さんが淹れてくれたルイボスティーが、鼻腔を撫でていく。落ち着く香りだ。

 熊さんの顔型のクッションを抱きかかえるようにして、ふかふかのソファに座っていた私は、ここのところ悪阻が酷い。

 先ほども、お義母さまに付き添われて、病院で点滴を打ってきたところ。そして、健太郎さんは午後になって慌てて会社から戻ってきたところだった。
 点滴のおかげで大分気分は良くなった。だから健太郎さんから、あやかし講義を受けていたのだが。

「なんか、私だけ普通の人間とベクトルの方向が間違っていたんですね。交わることのない世界だったのに、方向を間違えたから交わっちゃった、みたいな」
「タマのそういう発想は嫌いじゃない」
 そんな私も、健太郎さんのことは嫌いじゃない。嫌いじゃないからあの日、記憶を失った日、彼の誘いにのってしまったのだ。

 元カレとヒートアップしたやりとりをしていた日――。

「で? あやかしって何をやってるんですか? っていうか、健太郎さんなんて、しがないサラリーマンじゃないですか」
「ああ。あの会社に行っているのは、タマだいるからだよ。君が辞めるなら、俺も辞める」
 頭が痛くなってきたような気がする。
 健太郎さんのような優秀な人材を失ったら、間違いなくあの会社は、生産減に陥る。

「健太郎さん。そういうことを言うのはやめましょう。一応、仕事は仕事と割り切っている私ですが、愛着はあります。まぁ、あの就職活動で失敗続きだった私を拾ってくれた感謝の気持ちですね」
「そうやって、社畜は増産されていくんだけどね。もっと効率よく物事をすすめれば、半分の時間で仕事が終わることに、彼らは気づいていない」
「普通の人間に、あやかしの常識を押し付けないでください。気づかないのであれば、気づかせてあげればいいんですよ」

 ふぅとカップの中身のお茶に息を吹き付けると、もわんと湯気が襲い掛かってきた。また、ルイボスティーの香りが漂う。
「だから。タマのそういうところが好きなんだ」

 健太郎さんがこんな甘い男であるとは知らなかった。だって、仕事中にはほとんど接点はなかったのだから。

 あの日、健太郎さんに抱かれることになったのも、同じフロアの元カレが原因で。そこにたまたま健太郎さんがいたわけで――、って。

「健太郎さんって、いつから私のことが好きだったんですか?」
「ん? 君を一目見た時から」
 甘くないルイボスティーが、一気に砂糖水に化けるようなセリフだった。

 これもあやかしの特徴らしい。とにかく、運命の女性を溺愛するとか。お義母さまから仕入れた情報である。

「はいはい、わかりました。私、少しベッドで横になりますから」
「添い寝、しようか?」
「残念ながら、間に合ってます」

 私は、熊さんの顔型クッションを指さした。健太郎さんは、悔しそうに顔を歪ませた。
 熊さんを抱き締めながら、キングサイズのベッドに横になる。

 朝は、水を飲んでも吐きそうになる勢いだったのに、今なら、何でも食べられるような気がするから不思議だった。
 あやかしでも人間でも、家族が増えることは嬉しい。私は、素直にそう思っている。

 というのも、大学入学してすぐに父親を事故で亡くし、その事故の保険金でなんとか大学を卒業したものの、就職と同時に母親を病気で失った。兄弟はいない。親戚はよくわからない。いるだけ、という表現の存在。

 私はお腹にそっと手を当てた。写真は見せてもらったけれど、まだ豆粒にも満たないような存在。

 この子がいなかったら、健太郎さんと結婚をする気持ちは起こらなかっただろう。

 何しろ彼は、私にはもったいないような雲の上の存在の人間だったのだから。

 だから、あの夜の過ちは、過ちではなく運命だったのかもしれない――。