「夜分にすまない、牛鬼の番人。姿が見えないと思ったら、ハルもここに居たのか」
「これは蓬の旦那と、そちらは人間の生娘で?」

 牛鬼は人間と同じように立ち上がると、桜の木に負けず劣らずの高さになる。加えて、大きく裂けた口と岩をも砕きそうな巨大な二本の牙に縮み上がりそうになったのだった。

「さすがに番人の目は誤魔化せないか……。そうだ、彼女は人間だ。この子を人の世界に送り届けてほしい」
「蓬の旦那の頼みならいいっすが。見返りは?」
「いつも通り、これで頼む」

 蓬が竹皮の包むを渡すと、牛鬼はその場で紐を解くと一口で完食したのだった。

「ううむ。さすが蓬の旦那の握り飯。さっき食べたのとは大違いっす」
「さっき食べた?」
「入相に門前でこれを拾ったっす。見たところ握り飯だったのと、待っても落とし主が現れなかったので腐る前に食べたっすが……。人の世で作られたものなのか、どうも開け方がよく分からんで」

 そう言って、牛鬼が取り出したのは無残に引き千切られた鮭おにぎりと書かれた包装用のビニール袋であった。それには見覚えがあった。夕方に莉亜が食べようとして、ハルに奪われたおにぎりであった。

「あっ! 私のおにぎり!!」
「何だと!? 人の世から落ちて来たから、てっきり観光に行っていた神かあやかしが通行料として払ってきたのだとばかり……。じゃあ、握り飯と一緒に落ちていたコイツも生娘のもので?」

 長い爪で摘ままれていたのは探していた莉亜のお守りであった。莉亜が「そうです!」と何度も頷くと、牛鬼が返してくれたのだった。お守りを見た蓬が眉を寄せる。
 
「その護符はどこで手に入れた?」
「昔、おじいちゃんに貰ったものですが……」
「そうか。……少し、貸してくれ」

 お守りを受け取った蓬はそれを額に当てると、目を瞑って何かを唱える。人の言葉に似ているが、聞き慣れない言葉だった。
 唱え終わると、すぐにお守りを返される。

「この護符に俺の神力を込めた。次からはこれを通行手形として牛鬼の番人に見せて、店に来るといい」
「通行料も頼むっす。番人はここから離れられないんで、常に暇と空腹に耐えているっす。人の世の話は聞かされるばかりで、美味いものや美味なる握り飯を食べたいっす」
「……要は、またおにぎりを買ってくればいい」
「はぁ……」

 そうして莉亜が戸惑っている間に、牛鬼は長い三叉槍で桜の木を叩くと黒いトンネルのような穴が現れる。これが人の世界に続く道だと蓬に教えられたのだった。

「人の世も遅い時間だろう。くれぐれも気を付けろ。ハル、コイツを案内して……。またいなくなった」

 先程まで牛鬼の足元にいたハルだったが、いつの間にか霞のようにどこかに消えていた。莉亜は「大丈夫です」と返したのだった。
 
「ありがとうございました。また来ます」

 蓬に頭を下げると、莉亜は桜の木のトンネルに足を踏み入れる。どこにでもあるようなトンネルの造りになっており、牛鬼の話だと真っ直ぐ歩くだけでいいという。莉亜はトートバッグを持ち直すと、言われた通りに真っ直ぐ歩いたのだった。
 やがて光が見えたかと思うと、次の瞬間には公園の桜の木の前にいた。後ろを振り返っても、そこには大きな幹があるだけでトンネルなど何も無かった。
 夢を見ていたかと疑いたくもなったが、莉亜の手に残っていたものがあった。返し忘れた赤と黒のチェック模様のリボンだった。

(また来よう)

 心のどこかであのおにぎり処に後ろ髪を引かれているものの、蓬の言う通り、遅い時間となっていた。明日も大学があるので早く帰った方が良い。これから時間はたくさんある。この不可思議な感情の理由もきっと見つかるだろう。
 そんな莉亜の心情に答えるかのように、どこからか猫の鳴き声が聞こえてきたのだった。
 莉亜はリボンをトートバッグに結ぶと、スマートフォンで足元を照らしながら山を下っていく。
 公園内を照らす赤い提灯の下では花見が佳境に差し掛かっているようだったが、莉亜は脇目もふらずに帰宅する。
 これが莉亜と蓬の出会いであった。

 この日から莉亜は足繁く、蓬のおにぎり処に通うようになるが、それはまた別のお話――。