次の日、部屋の中でただ何をすることもなく壁を見つめていた華蓮の元を訪れた者がいた。
「少し話せるだろうか」
僅かに外の陽気が差し込む障子の前に人影が映った。がっしりとした身体付きと低い声からすぐに相手が誰だか分かった。
昨晩返事を書いた春雷だった。
「昨日は文をありがとう。……嬉しかった」
障子越しなので本当に春雷が喜んでいるかどうかは分からない。それでも声音は柔らかく、華蓮を怯えさせないように物腰穏やかに話そうと努めているのだけは伝わってきた。
「今は辛い時期なのだろう。変われるものなら変わりたいところだが……。いや、これでは言い訳だな。俺のせいで苦しい思いをさせてすまない……」
「……」
「雪起から話を聞いた。何も食べていないそうだな。苦しいだろうが少しでも何か口にした方がいい。このままだと出産まで身体が耐えられない。何か食べたい物があれば遠慮なく言って欲しい。用意する……」
そこまで春雷が言ったところで、華蓮は静かに障子を開ける。今まで二人を隔てていた障子が急になくなったからか、春雷は虚をつかれたように目を大きく見開いていたのだった。
「氷……が食べたいです……」
「氷? 削り氷のことか?」
華蓮が小さく頷くと、春雷は顎に手を当てて何かを考えているようだった。もしかして、難しい頼み事をしてしまったのだろうかと華蓮が口を開いたところで「分かった」と春雷は背を向けた。
「すぐに用意する。部屋で待っていろ」
言われた通りに自室で待っていると、やがて春雷は盆を持って戻って来た。盆の上には細かく削られた山盛りの氷に加えて、何故かイチゴやレモンといった色とりどりのかき氷のシロップまで載っていたのであった。
華蓮がぽかんとした顔をしていると、春雷は戸惑ったように目を逸らしたのだった。
「違ったか? 削り氷というから、かき氷を食べたいとばかり……」
春雷の言葉に瞬きを繰り返した華蓮だったが、やがて小さく吹き出すと声を上げて笑い出したのだった。
「いいえ。間違っていません……。少しでいいので水の代わりに氷が欲しかっただけなんです。水を飲むと気持ち悪くなるので」
「そ、そうだったのか……」
「でもわざわざ用意してくれてありがとうございます。全部は食べられないから一緒に食べませんか? 外でも眺めながらでも」
華蓮は部屋から出ると、柱を掴みながら慎重に縁側に腰を下ろす。後ろを歩いていた春雷を振り返ると、隣に座るように促したのだった。
二人並んで座ると、春雷が削り氷を小ぶりの器に盛ってくれたので華蓮は礼を言って受け取る。
「すごい。氷が細かい……! かき氷機で削った時より細かいかも!」
「口に入れやすい方が良いと思って細かく削ってきた。少し時間が掛かったからか、最初に削った下の方は溶けてしまったが……」
春雷も自分の分を器に盛ると、メロン味と思しき緑色のかき氷シロップを掛けていた。華蓮は何もかき氷シロップを掛けずに匙で掬って口に入れたのだった。
「冷たくて美味しいです……」
まだ胃のむかつきはあったものの、これだけ細かく削られた氷なら難なく食べられそうだった。何口か食べたところで視線を感じて顔を上げる。すると、穏やかな表情を浮かべた春雷と目が合ったのだった。
「顔に何かついていますか?」
「いや。ようやく笑ったと思って」
そう言って屈託ない笑みを浮かべた春雷を見て華蓮は気づく。ここに来てから――厳密に言えば、彼氏に手酷く振られてから全く笑っていなかった。
ここ最近は悪阻で苦しく、部屋に籠もっていたこともあるが、目まぐるしいくらいに色んな出来事があった。笑う余裕を無くしていたのかもしれない。
「すみません。ご心配をおかけして……」
春雷に心配を掛けていたことを素直に詫びると、目を逸らしながら春雷は「いや……」と返す。
「元はと言えば、誘惑に負けた俺の責任だ。雪起にも散々責められたしな」
「その雪さんはどこに……?」
「今日は子供の面倒を見に帰った」
「こっ……!?」
子供がいたんですか。と言いかけたが、悪阻で苦しむ華蓮の気遣い方や食事の用意が慣れていたので妊娠の大変さや辛さを知っていたのだろう。
華蓮の言いたいことを察したのか春雷は「あいつは結婚しているぞ」とさも当然のように返す。
「雪起の奥さんは犬神だ。まだ子供が幼いから交替で面倒を見ているらしい」
「そうですか……」
「雪起を見ていたからかな。時折、羨ましく思うんだ。家族って奴が」
「家族ですか?」
「俺にも雪起がいるし、その下に弟妹がいる。が、今は疎遠でな……。君が来るまでは雪起がたまに来るくらいで、この屋敷には俺しか住んでいなかった。前はそれで良かったんだが、雪起が妻子を連れて遊びに来るようになってからは急に独り身が寂しく感じるようになったんだ。自分でもおかしいと思うよ。自ら望んで家族と離れて、一人で暮らすことを選んだというのに……」
自嘲的に笑いながら話してはいるものの、春雷の横顔はどこか寂しくて――苦しそうでもあった。
華蓮は手を伸ばしかけるが、自分を犯した男にここまで優しくする必要があるのかと思い留まってしまう。
春雷たちが向けてくれる気遣いや優しさもそれは華蓮に対する罪滅ぼしであって、子供を産んだ後は清算されてしまうだけのもの。
被害者である華蓮自らが、加害者である春雷に情を向ける必要は無いのだと。
(でも、もしかしたら……)
もし春雷が罪の意識から華蓮に接しているのではなく、本当に心から華蓮を気遣ってくれているのなら、華蓮も春雷に優しくなれるだろうか。
子供を産んで彼の孤独を慰めるだけではなく、彼の苦悩をもう少し取り除くことが出来るのだろうか――。
華蓮は手を引っ込めると、話題を変えることにする。
「そういえば、まだ名前を名乗っていませんでした。私の名前は――」
「言うな」
華蓮の言葉を封じるように、春雷は人差し指でそっと華蓮の唇を塞ぐ。春雷の急な行動に華蓮の胸が一際大きく高鳴ったのであった。
「名乗らなくていい。名前も一つの呪いだ。名前を聞いてしまったら、俺との縁が出来てしまう。今はまだ子供が産まれるまでの仮初めの縁だが、名前を知ったらその縁は切れなくなる。今度こそ『犬神憑き』となって不幸になってしまう」
「犬神が憑くと不幸になるんですか?」
「最初にここに来た時、雪起も言っていただろう。犬神は嫁いだ相手と相手の一族を不幸にすると。俺との縁が出来てしまうと、君は犬神に憑りつかれたことになる。今後嫁いだ相手や嫁いだ先、そしてこれから生きていく中で不幸になってしまう。ここでの記憶を一切忘れても、縁は死ぬまで残り続ける」
「それならどうしたらいいんですか……?」
「偽の名前を名乗るといい。それなら縁は出来ないからな」
急に偽名を名乗るように言われて悩んだものの、目の前の池で咲く白い花を見て咄嗟に思いつく。
「睡蓮……。私のことは睡蓮と呼んで下さい。春雷……さん」
「分かった。睡蓮だな。雪起にも伝えておく。俺のことは春雷と呼んでくれて構わない。畏まる必要もない」
「分かった。じゃあこれからはそうする」
華蓮がまた暗い顔をしたからだろうか。春雷は手を止めると「まだ気掛かりなことがあるのか?」と気配りしてくれる。
「大したことじゃないの。いつの間にか夏になったんだなって……」
睡蓮の開花時期は六月頃。華蓮が彼氏の家を飛び出したのは四月の終わり頃だった。春を感じることなく過ごしてしまったと考えて、惜しい気持ちになっただけだった。
すると春雷は「なんだ。そんなことか」と大したことのないように話し出したのだった。
「そんなに春を感じたいなら戻してやる。ほらっ」
春雷が指を鳴らした瞬間、華蓮の目の前に広がる光景が変わった。葉桜は薄桃色の花びらを咲かせた満開の桜に、菜の花の周りを白い蝶が飛び交い、池の周りには無数の水仙が花を咲かせたのだった。
「この庭は俺の妖力で自由に季節を変えられる。人間界に合わせて季節を変えていたが……。睡蓮が望むならずっと春のままにも出来る」
「いいの? そんなことをして」
「睡蓮が喜んでくれるならお安い御用だ」
風が吹いて、二人の足元に桜の花びらが飛んでくる。
「身体が落ち着いたら……庭を歩いてもいい?」
「ああ。もう少ししたら身体も落ち着くだろう。そうしたら好きに歩くといい」
華蓮が振り返ると、柔和な笑みを浮かべる春雷の端麗な顔が近くにある。華蓮は胸が激しく音を立てるのを感じながら目線を庭に戻したのだった。
春雷の言う通り、悪阻は数日で落ち着いた。
その頃には華蓮の腹部も大分膨らみ、紬の上からでも丸みを帯びているのが分かるようになっていた。人間の倍の速さで成長するだけあって、一日経つだけで人間の数日分大きくなっているらしい。
最近ではお腹の張りや胃が圧迫されているような違和感さえ感じるようになったのだった。
この頃になると、華蓮の心にもゆとりが出てきた。
部屋に籠もっているばかりではなく、春雷が妖力で造ってくれた庭を眺めながら雪起が用意してくれた和綴じの本を読み、双六や折り紙などの玩具で遊んで日々を過ごすようになったのだった。
この日も華蓮は庭に行こうと部屋を出たつもりだったが、敷地内のどこにも人の気配が感じられなかった。
いつもなら雪起が動き回る足音や春雷と話しているのか二人の声が聞こえてくる。それが何の物音も聞こえてこないので、急に心細い気持ちになって呟いたのだった。
「春雷」
「呼んだか?」
振り返ると、さっきまで誰もいなかったはずの廊下に、紬の袖をたすき掛けにした春雷が立っていたのだった。
「わぁ!? いつの間に居たの!?」
「睡蓮に呼ばれたから飛んで来たんだ。俺の子供を身籠ったことで一時的な縁が出来たからな。縁で結ばれた相手の声はよく聞こえる」
そう言って、額から流れる汗を腕で拭ったので、本当に華蓮の声を聞きつけて駆けてきてくれたのだろう。手や紬の裾が土で汚れていたので、何か作業をしている途中だったのかもしれない。
「誰の気配も感じないから不安になって呼んだだけだったの。邪魔してごめん……」
「雪起なら買い物に行っているぞ。俺は裏の畑を手入れしていただけだ。最近は水遣りしかしてなかったからか雑草が伸び放題で」
「畑があるの?」
「気になるなら一緒に来るか? 大して面白くないかもしれないが……」
最近まで自分の部屋と厠、後はせいぜい湯殿くらいしか使ったことがなかったので、他の場所がどうなっているか知らなかった。
興味本位で華蓮が頷くと、春雷は腕を差し出してきたのだった。
「少し歩くことになる。転んだら大変だ。汗を掻いてしまったが杖代わりに掴まれ」
「掴まらなくても大丈夫。そんなに遠くないでしょう? そこまでしなきゃいけないくらい自分の子供が心配?」
「子供もそうだが睡蓮も心配だ。そんな大きな腹なら歩き辛いだろう」
「それは……」
お腹が大きくなるにつれて気付いたが、最近では膨んだ腹で足元が見えづらくなっていた。用を出すのが大変なだけではなく、物を拾い上げることや草履を履くことさえ一苦労であった。
また息切れもしやすくなったので、軽い散歩のつもりで廊下を歩いても、少ししか進まぬ内に息が上がってしまったのだった。
そんな華蓮の苦労を春雷は知っているのかは分からないが、身体を支えてくれるのは有り難かった。華蓮が腕を掴むと、春雷は華蓮の歩調に合わせて歩き出す。
「辛くなったら言って欲しい。紬が汚れてしまうかもしれないが、君を抱えて部屋に戻ってもいい」
「ありがとう。優しいのね。春雷は」
「これくらいは当たり前だろう」
さも当然のように言った春雷の横顔を見ながら華蓮は思う。
(やっぱり根は優しい人なんだろうな。春雷は……)
多少は罪悪感もあるかもしれないが、手を貸すのも、華蓮の体調に気を配るのも、即座には出来ないだろう。普段から相手のことを慮らないと考えが至らない。
(それなのに今まで誰とも結婚しないで、一人で暮らしているなんて……何か理由があるのかな?)
以前、春雷は自分で家族から離れて、一人で生きていくことを選んだと言っていた。そこに結婚しない理由も関係しているのだろうか。
そんなことを考えている間に春雷が手入れをしていたという畑に着いたらしい。位置としては華蓮の部屋の反対側に当たるようで、今まで立ち入った場所にあるようだった。
「ここが畑だ」
春雷の手を借りて草履を履くと、華蓮は畑に近づく。今は夏野菜が収穫期のようで、赤々としたトマトや細長いキュウリ、太く大きいナス、実がしっかり形付いてるトウモロコシ、小ぶりながらも存在を強調するスイカなどが植わっていたのであった。
「本格的な家庭菜園!」
「本当はもっと種類を増やしたいんだがな。今はこれが精一杯だ」
トマトの葉を触りながら春雷は穏やかな表情を浮かべる。華蓮もトマトに近づくと両掌で掬うようにトマトを手にする。
「トマトがたくさん生っているのよ。スーパーで売られていても良いくらい、赤くて立派なトマトよ」
「誰に話しかけているんだ?」
「お腹の子。そろそろ耳が発達して周囲の音を聞いていてもおかしくないから」
華蓮が目線をお腹に落とすと、春雷も同じように目を向ける。
「そうだな。産月も近づいている以上、目や耳が出来ていてもおかしくないな……。これは迂闊に変なことは言えないぞ」
「春雷、あのね……」
子供が産まれた後、自分たちの縁は本当に切れてしまうのか、と聞こうとした時だった。急に空が暗くなったかと思うと雷が鳴り始める。
「この雷は……」
「どうしたの?」
「まずい! 早く中に戻るんだ!!」
春雷に促されて中に戻ろうとした華蓮の目の前に白く輝く稲妻が落ちる。
「きゃあ!?」
「睡蓮!!」
身体を庇った華蓮を春雷が抱きしめて守ってくれる。そんな二人の目の前に春雷と似た雰囲気を纏った犬神が現れたのだった。
「親父!?」
「春雷。お前はおれとの約束を違えて、人間に子供を産ませようとしているな」
「約束?」
華蓮は春雷を振り返るが、春雷は何も答えずにただ父親を見つめる。
「犬神は人間と結ばれない。犬神は人間を不幸にしかしない。これまでお前が関わってきた人間は皆『犬神憑き」となって不幸になったじゃないか。その悲劇を繰り返すつもりか。お前は」
「親父。俺は……」
「その人間は『犬神使い』なのだろう。『犬神使い』は皆不幸な最期を迎えている。……その人間の家族も犬神が原因で早くに他界している」
「そうだったの……?」
まさか自分の両親の死に犬神が関係していたとは思わず、華蓮は目を見開く。
「もう二度と人間とは関わらないと約束したはずだな春雷。もしそうならおれはお前を止めなければならない。これ以上、おれたち犬神に人間を巻き込まないように……」
「私は春雷と過ごして幸せです! 勝手に幸せじゃないって言わないで!」
思わず華蓮が口を出すと、二人はじっと見つめてくる。
「不幸かどうか勝手に決めないで! 私は春雷と過ごした日々が幸せだった。必ずしも犬神と関わったからって不幸になるとは限らない」
「睡蓮……」
「最初は勝手に抱かれて妊娠させられて嫌だったけれども。でも手紙をくれたり、かき氷を作ってくれたのはとても幸せだった」
華蓮は春雷を見つめる。
「子供を産んでも私は春雷と一緒に生きていきたい。簡単なことじゃないかもしれないけど、春雷とお腹にいるこの子のためなら出来る気がするの」
「睡蓮……」
お腹に触れながら春雷に近づいて行くと身体に抱きつく。どこかで嗅いだような瑞々しい香りがしてきて華蓮の心に染み入ったのであった。
すると、春雷の父親は鼻を鳴らす。
「馬鹿な。それならその想いがどこまで本当か試してやる」
春雷の父親は掌に雷の球を作ると、華蓮に向けて放ってくる。
「睡蓮!」
春雷が庇ってくれるが、雷の球は華蓮に向かって真っ直ぐに飛んでくると視界を真っ白に染めたのであった。
華蓮はどこか真っ白な場所に立っていた。周囲には何もなく、誰もいなかった。
「ここは……?」
前に歩き出そうとした時、華蓮の紬の裾を引っ張る者がいた。部屋に来ていた黒犬だった。
「貴方は……」
黒犬は華蓮から離れると後ろに歩いて行った。華蓮もその後に続くと、遠くで春雷の声が聞こえてきたのであった。
――睡蓮! 睡蓮……!
「春雷が呼んでいるの? ねぇあの後、私はどうなったの?」
黒犬は脚を止めると、そして華蓮を振り返ったのだった。
『犬神の雷を受けて生死を彷徨っていたのよ。華蓮』
「生死を!?」
『でも大丈夫。このまま真っ直ぐ行きなさい。そこに貴女を待つ人がいるわ』
華蓮が歩き出しても、黒犬はその場に止まったままだった不安になった華蓮は振り向く。
『私は行けないの。私はもうそっちのひとじゃないから』
「貴方は誰なんですか?」
『幸せになりなさい。私達の娘』
黒犬の正体に気づいた時には華蓮の足は勝手に歩き出していた。
「待って! 貴方は!?」
華蓮は黒犬に向かって手を伸ばすものの、黒犬は消えてしまう。
そして華蓮の視界は再び白く染まったのであった。
「睡蓮……睡蓮……目を開けてくれ。睡蓮……」
「しゅん……らい……?」
次に目を開けた時、目の前には悲痛な顔で華蓮の手を握る春雷の姿があったのだった。
「私、どうなったの……?」
「親父の雷を受けて、しばらく生死を彷徨っていたんだ。俺が完全に庇いきれなかったせいで……」
身体を起こそうとすると、春雷が手を貸してくれた。手を握ったまま離そうとしない春雷に華蓮はそっと微笑む。
「春雷が悪いわけじゃない。ところでお腹の子はどうなったの?」
「腹の子は無事だ。早産になったが産まれたよ。このままだと二人とも危なかったから」
今は雪起が面倒を見ていると聞いて、そっと胸を撫で下ろす。自分のせいでお腹の子に何かあったらと思ったので安堵した。
「良かった」
「それで約束通りに君を人間界に帰そうかと思うんだが……明日にでも」
「そんなに早く帰すの?」
「親父も言っていただろう。犬神は人間を不幸にする存在だと。産まれた子供は責任をもって俺が育てる。だから君は安心してここであったことを全て忘れて人間界で暮らすんだ」
「春雷。話したいことがあるの」
華蓮が真剣な顔で真っ直ぐ春雷を見つめると、春雷は「なんだ?」と見つめ返してくれる。
「私は華蓮って言うの。……名前を教えると縁が出来るんだよね」
「なっ!?」
「春雷、私ね。付き合っていた彼氏が違う人との間に子供を作ったことで彼氏と喧嘩して家を飛び出したの。そうしたら貴方と出会ったの。最初は貴方も彼氏と同じように責任を感じていると思ってた。でも……」
春雷に握られたままの手に反対の手を重ねる。
「責任だけじゃないって、思えるようになったの。春雷が優しいからだって。私が不幸にならないように距離を置こうとしたんだよね。深く心に踏み込まないようにして……。今度は私が春雷に優しくなりたい。春雷はどうして欲しい? 私は春雷に幸せになって欲しい」
「俺は……」
「私を攫って春雷。産まれた子供と三人で幸せになろう。私も家族が欲しい。自分が安心出来る場所が……」
「睡蓮。いや、華蓮。俺も家族が欲しい。でも俺は君たちを不幸にするかもしれないぞ」
「不幸かどうかは自分たちが決めるの。誰かが決めるわけじゃないのよ」
華蓮の手を握る春雷の手に力が入る。そうして、春雷は華蓮に顔を近づけたのだった。
「ありがとう」
「こういう時に言う台詞がそれなの?」
「分かった。こうだろう。……好きだよ。これから幸せになろう」
「ええ」
そうして二人の唇が重なる。
柔らかく、そしていつまでも熱い口付けであった。