◇
通秋殿の湯屋へ連れていかれて入浴を済ませると、瑞紹老師が待ち構えていた。浴衣を羽織っただけで寝かされ、診察を受ける。
「なるほどのう」
調べ終えて体を起こしてくれた老師が、侍女たちに着付けをするように命じた。
「それと、松籟殿に見立て通りじゃと伝えるが良い」
「かしこまりました」
高位の女官が即座に席を立つ。
そして、老師はカーサリーに向かって笑いかけながら立ち上がった。
「好きな物をたくさん食べるが良い。わしからはそれだけじゃ」
快活な笑い声を残して瑞紹老師は通秋殿を去っていった。
入れ替わりに明玉がやってきた。
「お食事のご用意ができましたので、どうぞ」
急に言葉遣いが変わって困惑してしまう。
「どうして高貴な方へ話すときのような言い方なのですか?」
「それは……」と、恥ずかしそうに頬を赤らめながら明玉がささやいた。「陛下のご寵愛を受けられた方ですもの。わたくしどもには恐れ多いですから」
「陛下……とは?」
「そりゃあ、陛下と言ったら……、その、ええと……」
明玉はあたりを見回して誰にも聞かれていないことを確かめてからカーサリーの耳元に口を近づけてこっそりとつぶやいた。
「皇帝陛下のことに決まってるでしょ」
「皇帝?」
首をひねるカーサリーを、呆れたような表情で明玉が見つめる。
「ちょっと、何も知らなかったの?」
「あのお方はこの館の主だと言っていただけなので」
「ここは宮廷よ。宮廷の主と言ったら、一人しかいないじゃないのよ」
「それが皇帝ですか」
「ちょっ」と、明玉が両手で自分の口を隠す。「恐れ多くて、呼び名ですら本当は私のような下っ端が口にしてはならないの。聞かれたら大変なことになるのよ。私から聞いたなんて絶対に言わないでよ」
「はあ、そうなのですか」
「あのねえ、位階のある女官ならともかく、私みたいなただの侍女は後宮に陛下がいらしたときも決して顔を上げてお姿を見てはいけないの。それくらい恐れ多いお方なんだからね」
「そうなのですか。じっと私のことを見ていたので、私もつい見てしまいましたが」
「やだあ、もう!」と、明玉が蒸し上がった饅頭のようにつやのいい顔を突き出す。「見つめあっちゃったんですかあ。もう、大変。で、それで、それで」
「とってもお優しい方でしたよ。寝顔も安らかでしたし」
「あーん、もう、寝顔って!」と、調子に乗って叫んでしまった自分の声に驚いて明玉は澄ました表情に戻った。「ん……。その話はもういいですから、お食事になさってください」
案内されてやってきたのは昨日と同じ庭を正面に見る広間だった。大皿料理や小鉢など食事の品数はさらに増えていて、もはや数えることすらできないほどであった。饅頭も三種類ある。
「これは何が違うのでしょうか」
椅子に座ったカーサリーがたずねると、かたわらに立った明玉が気取った顔で答える。
「ごま風味のあんこと、つぶあん、そして、栗のあんこだそうでございます」
敬語で話されるとあまり落ち着かない。カーサリーは他の料理の説明を続ける明玉に饅頭を勧めた。
「明玉も一緒に食べましょうよ」
「いえ、いけません。つまみ食いをするなと松籟様にあれほど釘を刺されたではありませんか」
真面目な表情で首を振る侍女にカーサリーは饅頭を一つ取って差し出した。
「こっそりとつまみ食いをしてはいけないと言われただけでしょう。ならば、堂々とわたくしが与えたことにすれば良いではありませんか」
「はあ」と、気の抜けたように明玉の表情が緩む。「そのような言い訳でよろしいのでしょうか」
「こんなにあっても食べきれませんし、もったいないですもの。せっかくですから、台所の皆さんの分も持っていってあげてくださいな」
「ありがとうございます」
目に涙を浮かべながら明玉が山盛り饅頭の皿を持ち上げて台所へ戻っていった。
カーサリーはいくつかの小鉢に箸をつけて極上の宮廷料理を堪能すると、立ち上がって外苑廊下から庭を眺めた。昨夜とは違ってあいにくの曇り空であったが、乾燥した草原地帯で暮らしてきた彼女にとって、木々のある緑豊かな情景は新鮮だった。
どこかで鳥が鳴いている。その声に導かれるように廊下をたどっていくと、いつの間にか道に迷ってしまっていた。後宮は大小様々な建物を渡り廊下でつないであり、迷路のようにあえて外部の人間にはわかりにくいように作られている。来た通路を引き返そうにも、すでにそれがどれだったかすら分からなくなっていた。
広大な草原では振り返ればどこから来たのかはすぐに分かったものだが、街や宮殿に慣れていないカーサリーには建物の反対側ですら別世界のようなものだった。人にたずねたくても誰の姿もなく、廊下はひっそりとしている。
そもそもここはさっきいた通秋殿というところなのだろうか。昨夜も月を眺めて歩いていたら、見知らぬあの方と出会ってしまったのだ。
もしかしたらすでにもう別の建物に来てしまっているのかもしれないと引き返そうとしたときだった。男たちの話し声が聞こえてきたので、カーサリーはそちらの方へ歩み寄っていった。
出た先は、見覚えのある場所だった。昨日竹籠で連れてこられた憲誠殿だ。数人の衛士が中庭の対面にある門を守り、廊下の下には屈強な隊長らしき男が太い槍のような武器を構えて立っている。その横顔にも見覚えがあった。
「あの、もし」
外縁廊下の手すり越しに声をかけると、屈強な男が肩を跳ね上げながら振り向いた。
「あ、あなたは……」
梁雲嵐の目には思いがけない人物との再会による動揺の色が浮かんでいた。
「昨日はお心遣いいただき、ありがとうございました」
カーサリーが礼を述べても、軽く会釈してすぐに背を向けてしまう。
「もし、衛士長様」
呼びかけても微動だにしない。
「あの……」
雲嵐は背を向けたまま小声で答えた。
「申し訳ありませんが、皇帝陛下のご寵愛を受けたお方との会話は禁じられております。見つかれば一族みな罪に問われますゆえ、ご理解ください」
「でも、昨日はお話しくださったではありませんか」
「あの時自分が声をかけたのは囚人であり、あなたとは別人です。すでにお立場が違いますゆえ」
「そうでしたか」
カーサリーは肩を落として手すりに手をついた。
「これは自分の独り言でございます」と、衛士長が言葉を継いだ。「昨日のご無礼、こちらこそお詫び申し上げます。囚人をからかってやろうなどとつまらぬことをした自分を恥じております」
「いえ、そんな。衛士長様は西域に縁のある方ですね」
雲嵐は答えない。通用門の屋根に小鳥が止まっている。
「小鳥さん」と、カーサリーは屋根の方を向いて語りかけた。「あなたは翼があっても遠い西域までは飛んでいけないでしょうね」
その問いかけに雲嵐が答えた。
「たとえ翼は小さくとも望郷の念は遙か彼方へ羽ばたくことでしょう」
そして、衛士長は屋根の上の小鳥に向かって身の上話を始めた。
「自分の母は西域のクルファンの生まれです。父は帝国の侵略者でした。母は生まれ故郷からあなたのように帝都に連れてこられ、そこで自分は生まれました。ゆえに自分は西域のことは知りませんし、見た目は父親似で東方の者と変わりませんから、特に意識したことはありません」
そして、思い出したかのように屋根をにらんでつけ加えた。
「俺はおまえたちのような小鳥ではないからな」
カーサリーは言葉をかけずに屋根から小鳥が飛び立つのを見送っていた。
と、そこへ侍女たちが駆けつけてきた。
「ここにいらっしゃったのですか」
明玉が胸を押さえながら荒い息を整えている。カーサリーは何事もなかったかのように侍女たちに頭を下げた。
「すみません。迷ってしまって」
「勝手に出歩いては困ります。松籟様に知られたら、全員処罰されてしまいます」
「分かりました。戻りましょう」
流浪の姫を囲うように女たちが去っていくと、三尖両刃刀を握り直して衛士長は細く長いため息をついた。