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養和堂で体調を回復した麗花は安定期に入った頃に昇仙閣に移された。そこは後宮の中でも皇太子の住む最も格式の高い御殿である。二階建てで、屋根は高くそびえ、皇帝の正殿である紫雲殿に勝るとも劣らない規模であった。二階の望楼からは後宮を一望でき、通秋殿や景旬殿の屋根を見下ろせる。
「趙夫人のご機嫌はいかがかしら」
「最近は歯ぎしりばかりしていて周囲の者と口も聞かないそうです」
この間まで麗花から離れていた女官や侍女たちも後宮の主役が変わった途端に何事もなかったかのように戻ってきていた。麗花はその者たちをとがめずに受け入れていた。勝つためには数を集めなければならない。趙夫人を出し抜いたとはいえ、後宮では何が起こるのかは分からない。自分自身がそれを思い知らされたのだ。
もう失敗はできない。無事に子を産むまでは、魑魅魍魎と戦い続けなければならない。皇帝からの贈り物は毎日届けられるが、相変わらずお越しになるのはメイユエのところだった。
――この子が力をくれるはず。
麗花は自分が暮らしていた景旬殿の屋根を見下ろしながら、膨らんできたおなかをさするのだった。
そして、半年遅れでメイユエも体調の変化を感じていた。
「これはめでたい。ご懐妊じゃ」
瑞紹老師の診察結果が報告されると、皇帝は政務を中断し、自ら後宮へと足を運んでメイユエに祝いの言葉を伝えた。それは宮廷では異例のことであった。
「体に気をつけて良い子を産むのだぞ」
「はい」
暁龍は人払いをしてメイユエに耳打ちした。
「そなたとの約束は忘れてはおらぬからな。男子であれば皇位継承者となり、女子であれば、西域の者を婿に迎えてサファランを復興させることもできよう」
紅蘭からの報告はまだなく、巡察使はようやく西域に到着した頃だろう。
「先のことは分かりません。まずは無事に生まれてくれることを祈りませんと」
「ああ、そうだな。松籟に侍女を増やすように申しつけておこう」
そして、正殿では宰相たちが頭を悩ませていた。女御二人のどちらを皇后とするかで政務宮側の勢力は二つに分かれていた。先に生まれた長子が皇太子になることは当然であり、その母を皇后とすることを正統とする麗花派と、皇帝の寵姫であるメイユエを皇后とする派閥とで議論は平行線をたどるばかりだった。
そもそもまだ男子かどうかも分からないのだ。麗花の子が女子で、メイユエの子が男子であった場合、話はさらに複雑化する。連日政務宮では議論が尽きなかったが、結局のところ結論を先延ばしにするしかないのだった。
麗花はメイユエを昇仙閣に呼んでお茶を楽しむこともあった。
「あなたつわりはなくて?」
「朝はつらいですが、昼からは楽になります」
「あらいいわねえ。私なんか、食べられなくなったものが多くてね。最近も陛下から梨をいただいたのに、受けつけなくて。陛下はご理解くださったみたいですけど」
「それは大変ですね」
メイユエの髪には麗花からもらった金の簪が挿してある。この簪をもらったとき、メイユエは麗花の瞳が赤くなっていたことに気づいていた。謀略の話をささやいて復讐心をあおり、彼女を捨てた皇帝に仕返しをさせようとしたのだと気づいたとき、メイユエは暁龍を刺すのを止めたのだった。そのことは誰にも言っていない。邪な心を見抜く能力については暁龍にしか明かしていないし、暗闇の中で紅蘭が聞いていた可能性はあっても、西域に派遣されて他言はしていないだろう。
今こうして目の前で優雅にお茶を楽しんでいる麗花の目に赤い光は宿っていない。皇帝の子を身ごもったからには、その後ろ盾が当然大事だからだ。結局のところ、自分が後宮の頂点に立てるのなら、何でも利用し、邪魔する者は排除するということなのだろう。だから、もうあの時のことをあげつらう必要はないのだ。
そして二人の懐妊以来、趙夫人は通秋殿から出なくなったという。ただそれはそれで何を企んでいるのか、誰にも分からぬことであった。
「ねえ、メイユエ」と、麗花が茶碗を置く。
「はい、なんでしょう」
「わたくしたち、お友達よね」
「ええ、もちろんです」
「明日も来てくれるかしら」
「喜んで伺います」
「よかった。あなたとは、本当にこれからもうまくやっていきたいと思ってるのよ」
「ありがとうございます。こちらこそ」
侍女たちに茶を片付けさせた麗花はおなかを抱えながら席を立った。
「少し疲れたから休ませてもらうわね。ごめんなさいね」
「大丈夫ですか」と、手を差し伸べようとしたとき、思わずメイユエは固まってしまった。
一瞬赤い光を見たような気がしたのだ。
「どうかした?」
微笑みを向ける麗花の目に邪な色は見えない。彼女の背後にだいぶ傾いた夕日が重なり、メイユエは目を細めた。
「いえ、何も」
「あなたの方も気をつけてね。お互い、国の母となるのですから」
「ええ、そうですね」
昇仙閣の階段をゆっくりと下りながら、メイユエは鮮やかな夕焼けの広がる西の空へ目をやった。遙かなる西域に思いをはせつつ景旬殿へもどると、彼女はそっと居室の引き戸を閉じた。
鏡をのぞき込むと、そこにあったのは、夕日のように輝く赤い瞳だった。