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 宮廷の正殿である紫雲殿に戻った皇帝を出迎えた宰相孫尚徳はなんと申し上げるべきか困惑していた。もう昼になるというのに、皇帝の様子がおかしいのである。陛下の尊顔があまりにも晴れ晴れとしている、というよりもむしろ、呆けていると言ってもいいくらいだ。こんな表情は数年来、いや、これまで一度も見たことがない。
 先帝の代に宰相を務めていた孫尚徳は、入れ替わった他の大臣たちと違って、新帝からも引き続き宰相の地位を任された重鎮である。若手に改革を任せつつ、要所ではにらみをきかせる役割を託されたことを名誉と感じ、一貫して献身的に仕えてきていた。こういった時ほど苦言を呈して通常の政務に戻っていただくのが老大臣としての務めであることは分かっていても、今日ばかりはなんとも困り果ててしまう。
「なあ、尚徳よ」
「はい」と、そばへ寄ってひざまずく。「何用でございますか」
「空はなぜ青いのかのう」
「はあ?」
 今日は曇りというよりも、今にも雨が降りそうな天気である。
「なぜこの世に花は咲くのであろうかのう」
 まるで饅頭屋の店先で湯気を見上げる呆けた少年のような横顔だ。さすがの老大臣も厳しい口調で申し上げるしかなかった。
「恐れながら、陛下、いかがなされたのでございますか。らしくもありませんぞ」
「俺は人の心というものを忘れていたのかもしれん」
「それはお立場というものがあるからではないかと」
「人は謙虚でなければならんな」
「はい、おおせのとおりでございます。民を導く役目を賜った者としてわたくしも常に肝に銘じております。しかしながら陛下は……」
「尚徳」
「はあ」
「人と心を通わすとはこれほどまでに幸福を感じるものであったのだな」
「は、はあ……」
「俺は今この手の中に幸福をつかんでいる。まるで饅頭のようにはっきりとな」
「さようでございますか。それはなによりでございますな」
「うむ。天下の民はみなこのような幸福を手にしておるであろうか」
「ははっ」と、宰相孫尚徳は額を床にこすりつけて平伏した。「陛下の誠に尊きお言葉、家臣一同みな肝に銘じまする。では、さっそく官僚どもに布告をいたしましょう。善政は早きほど仁なりと申しますからな。陛下の大御心、広く天下に知らしめましょうぞ」
 老大臣が去って一人きりになった劉暁龍は鼻の下を伸ばしながら昨夜の夢のようなひとときを思い浮かべていた。
 その頃、後宮の景旬殿では趙夫人の命令通りに部屋の入れ替えがおこなわれていた。通秋殿で女御としての身なりを整えられたカーサリーが連れてこられ、楊麗花の部屋へと案内される。すでに麗花は追い出され、景旬殿裏手の薄暗い小部屋で謹慎させられていた。
 ――なんということでしょう。
 お父様、お母様、なんとお詫びを申し上げて良いか、不孝者のわたくしをお許しください。
 昨日までご機嫌を伺いに来ていた女官たちには蔑まれ、用事を言いつけていた侍女たちにはここぞとばかりに笑われていた。銀糸の刺繍がきらびやかな絹の衣服は取り上げられ、自らの印とする香木も焚けず、髪を結ってくれる者もいない。髪から抜け落ちた金の簪を手にしたまま、麗花は一人涙を流していた。
 実家へ下げられるのであればむしろ寛大で、一族みな処刑の沙汰が下りても仕方のないことをしでかしてしまったのだ。ほくそ笑む趙夫人の顔が思い浮かんでも、もはや恨む気力すら沸いてこない。自分は虎の威を借る狐だったのだ。
 閉ざされた部屋の中で金の簪が鈍く光る。今ここで私がこれで喉をつけば私一人の死で償えるかも。
 いっそひと思いに、と思ったその時だった。
 固く閉じられた扉の向こうから、見張り番の侍女たちの笑い声が聞こえてきた。
 ふと、我に返る。
 このまま終わらせてしまえば、私を蔑んだみなを喜ばせて、そしてそのまま後宮を追われた大勢の女たちの一人として忘れ去られるだけ。
 ――許さない。
 そんなの絶対許さない。
 麗花は涙を拭うと、立ち上がって扉の向こうへ声をかけた。
「お水をいただけないかしら」
 見張りの侍女の返事は素っ気なかった。
「あなたに飲ませる水などありません」
「でも喉が渇いて仕方がありませんの」
「めそめそ泣いていらっしゃるようだから、それをなめれば良いではありませんか」
 昨日までは私の前で平伏していたくせに。
 相手を呪ってみたところで崩れた主従関係は元には戻らない。あきらめて部屋の奥に戻ろうとしたときだった。廊下を行き来する侍女たちの足音が騒がしくなった。
「こちらの方はご病気か何かですか」
「いえ、事情があって謹慎を命じられているのでございます」
 床の方から声が聞こえるのは、さっきの生意気な侍女が平伏して答えているからのようだ。
「お水を飲みたいようですから、差し上げてくださいな」
「ですが、それは……」
「謹慎中であっても、人は水を飲まなければ苦しみます。砂漠の民は敵にも水を与えます。命じられた以上の罰を与える権限は誰にもありません」
「申し訳ありませんでした。ただちに持って参ります」
 見張りの侍女が廊下を駆けていく足音が遠ざかる。
 と、引き戸が開けられた。曇り空でも外はまぶしい。麗花は目を細めながら、その相手を見つめた。金髪にあざやかな青い瞳の西域の女だ。
 ――この女が……。
 一目見て自分を追い落とした相手だと分かる。ただそれは外見だけのことではなかった。かぐわしい香りが麗花の心を芯から震わせているのだった。
 ――なんてことなの。
 どんな調合をすればこんな香りを身にまとうことができるというの。勝てるはずがない。一瞬で麗花は悟っていた。
 だけど……。
 負けるわけにはいかない。呼吸を整え、平静を装って礼を言う。
「口添えをしてくださって、どうもありがとう」
「何か他に必要なものはありませんか?」
「お心遣いはありがたいけど、私に関わると趙夫人に叱られるわよ」
「あの怖いおばさまですか」
 思わず笑ってしまうが、うっかり同調したらどこで聞かれているか分からない。
「女官長様でしょ。失礼なこと言うとまずいことになるわよ」
「そんなに悪い方ではありませんよ」
 何が分かるというのか、確信を持った話し方にいらだつ。
「そうかしら。私はあのおばさんの命令で謹慎させられてるんだけど」
「それはあなたが何か悪いことをなさったからではありませんか」
 真顔で正論を言ってくるのに嫌味な感じではない。
「まあ、そりゃそうでしょうけど」
 思ったことを包み隠さず言う人間を後宮では見たことがなかった。麗花はこの女を味方につけることができないかと考えていた。敵の味方か敵の敵かは分からないが、使える駒は一つでも多い方がいい。
「あなた、見かけない方ね。なんでしたら、このわたくしがお友達になってあげなくもなくてよ」
「はあ……」
 薄い反応にじれて、つい相手の袖を引っ張ってしまう。
「お友達になってあげると言ってるの」
「それはどうも、ありがとうございます」
 相手は怒るようでも嫌がるふうでもなく表情を変えない。
 見知らぬ他人に友達扱いされて戸惑っているのかもしれないが、ここは押し切るしかない。
「もっと喜びなさいよ」
「嬉しいですよ。ここには知り合いがおりませんでしたから」
 はにかむ女の金髪には、粗末な竹の簪が挿されていた。麗花は袖をつかんだまま、もう片方の手に握っていた金の簪をカーサリーに持たせた。
「お友達になった印に、この簪を差し上げますわ」
「よろしいのですか」
「ええ、私にはもう必要のないものだから」
「ならば、わたくしからもお返しを……」
 だが、手ぶらの相手は何も持ち合わせていないようだった。廊下の角を曲がって侍女が水差しを持ってくる姿が見えた。
「お水もいただけるし、また今度でいいわよ」
 ――時間がない。
 麗花はカーサリーの耳にそっと顔を寄せてささやいた。
「あなた、国を追われたんでしょ」
 西域の姫から笑顔が消えた。
 ――当たりだ。
 麗花は再び賭けに出た。
「昨夜のあの男。皇帝が命令を下したのよ。あなたの国を滅ぼせと。あの男があなたの敵」
 それは全くの当てずっぽうだったが、西域の姫は石になったかのように黙り込んでいた。
 戻ってきた侍女が麗花の前でひざまずく。
「水をお持ちしました」
「あら、どうもありがとう」
 水差しをひったくるようにして、麗花は部屋に戻った。引き戸が閉められ、暗くなった部屋の中でほくそ笑みながら麗花は水差しに口をつけた。喉を鳴らして一息に水を飲み干す。
 まだ、終わりにはできない。種はまいた。この結末を知るまでは、生き残らなければならない。
 こんなに水がおいしいと思ったのは後宮に来て初めてだった。