目が覚めた瞬間から、体調が悪かった。
 正確に言うと、昨日の夕方ごろから食欲がなく、胃のあたりがちくちくと痛んでいた。朝が来るのが嫌すぎて、ほとんど眠れないまま過ごした夢うつつの夜が明けると、腹痛と吐き気まで襲ってきて、身体がひどく重かった。
 理由は分かっている。長い長い連休が明けて、今日から学校が始まるからだ。しかも、入学以来一度も登校していなかった学校に、初めて足を運ぶのだ。
 私がどうしても通えなくなった中学と、新しく通うことになった高校は、場所も人も全く違うと分かっている。でも、〝学校〟という点では同じだ。
 高校に対する期待や高揚なんて、ひとかけらもなかった。あるのは、慣れない環境に飛び込まなければいけないという苦痛と倦怠感だけ。
 学校なんて、どこも一緒だ。中学も高校も同じ。たまたま同い年というだけで、なんの必然性も脈絡もなくひとつの教室に詰め込まれた、家庭環境も容姿も性格も趣味嗜好もなにもかも異なる何十人もの人間が、その場限りの関係を結び、表面上だけ〝上手くやっているふり〟をする場所。
 またそういう人間関係の中に身を置かなければならないのだと考えただけで、どろどろの沼に無理やり沈められるような気分だった。
 行きたくないな。ふいにそんな考えが浮かんで、すると一気に気持ちが引きずられていった。行きたくない。学校なんて行きたくない。頭の中がその考えでいっぱいになる。
 朝食を終えて自分の部屋で支度をする間、どんどん身体が重くなっていき、畳の中にめり込んでいくような錯覚に襲われた。
 壁に背中をもたれてずるずるとしゃがみ込む。だらりと首を傾げた拍子に、反対側の壁にかけられた姿見に映る自分の姿が目に入った。見慣れない、そして着慣れない制服姿。濃紺のスカートと、白いセーラー服。真紅のリボンが毒々しい。
 この服で、今から学校に行く。閉鎖された息苦しい空間に、何時間も閉じ込められる。想像しただけで再び吐き気が込み上げてきた。
 やっぱり、行きたくない。このまま布団に入って寝てしまいたい。
 いっそ、本当にそうしてしまおうか。「具合が悪いから今日は休む」と言えば、きっとおじいちゃんもおばあちゃんも無理に家から出そうとはしないだろう。そうだ、休んでしまおう。
 そのとき、廊下の床板がぎしぎしと鳴るのが聞こえてきた。この足音は、漣だ。
「おい、真波」
 やっぱり、と小さくため息をついた。わざとだらだら立ち上がってふすまを開ける。
 制服を着て肩にリュックをかけた漣が立っていた。顔には、いかにも不機嫌そうな表情が浮かんでいる。
 あの人とは全く違う、という考えがふっと浮かんだ。数日前、夜の海で出会った〝幽霊〟さん。彼はきっと、こんな不機嫌な顔を人に向けることなんて絶対にないんだろうな。一度会っただけなのに、なぜだかそう確信できた。きっといつでも朗らかな笑みを浮かべて、否定的な言葉など決して口にせず、相手の存在をそのまま受け入れて認めるのだろう。
「お前なにちんたらしてんだよ。もう出ないと間に合わないぞ」
「……言われなくても分かってる。今行こうとしてた」
 ぼそぼそと答えると、漣はこれ見よがしに肩をすくめた。
「ガキの言い訳かよ」
 どうしていちいち嫌みったらしい言い方しかできないんだろう。ほんと口が悪い。というか、性格が悪い。
「早く準備しろよ。俺まで遅れるだろ」
 苛立ちを必死に堪えて通学鞄を手に取りながら、ふと彼の言葉に引っかかりを覚える。
『俺まで遅れる』? ということは、つまり。
「え、一緒に行くつもり? 嫌なんだけど」
 ばっと顔を上げて言うと、漣が顔をしかめた。
「嫌って。失礼すぎだろ。ひとりじゃ行けないだろうと思って、わざわざ呼びに来たのに」
「ひとりで行けるし」
「高校までの道、分かんねえだろ」
 私はぐっと言葉に詰まってから、苦し紛れに反論する。
「……スマホで調べれば分かるし」
 漣は、はっ、と小馬鹿にしたように鼻で笑った。
「けっこう駅から遠いぞ。来たばっかなのに、本当に自力ですんなり辿り着けるのか? 迷って遅刻しても知らねえぞ」
 まるで脅しだ。腹が立って睨み返したけれど、確かに彼の言う通りだった。
 こんなことになるなら、やっぱり連休の間に高校まで下見に行けばよかった。そもそも学校が嫌いだから、わざわざ休みの日に近寄りたくないという思いが勝って、なんとかなるだろうと自分を納得させてしまったのだ。でも、初日から遅刻などして悪目立ちするのは嫌だった。
「……分かった。よろしく……」
 ふうっとため息をついて言うと、漣は「最初から素直にそう言えよ」と心底呆れたように首を傾げた。込み上げてくる文句を必死に呑み下し、私は鞄の持ち手を握りしめた。
 すたすたと歩く漣のあとを追って玄関に辿り着いたとき、
「じいちゃん、ばあちゃん、行ってくるわ」
 と彼が居間に向かって声をかけた。
 ああ、と失望の吐息が洩れた。できれば今日は、申し訳ないけれど黙って出かけたかったのだ。今日だけは、おじいちゃんたちと言葉を交わしたくなかった。
 ふたりが居間から出てくる。私はどうか軽い挨拶だけで終わってほしいと心底願いながら「行ってきます」と声をかけた。
 おばあちゃんが割烹着で手を拭いながら、にこにこと私を見る。
「まあちゃん、とうとう初登校やねえ。頑張ってね。早く友達ができるといいねえ」
 ほら、やっぱり、と内心で項垂れる。こういうことを言われるのが嫌だったのだ。私に友達なんてできるわけがないのに。そもそも私は友達なんていらないのに。たくさんの素敵な友達に囲まれた楽しくて幸せな高校生活、なんて期待されても困るし、プレッシャーでしかない。私は漣とは違うのだ。
 私は曖昧に返事をして、また「行ってきます」とふたりに軽く頭を下げて玄関を出た。漣もすぐに外に出てくる。
「真波、急ぐぞ。三十二分の電車に乗らないとやばいんだ。たらたらしてたらマジで遅刻する」
 腕時計を見ながら彼が急かすように言った。
 これから通う高校は、鳥浦の隣の駅が最寄りらしい。ひと駅くらいだったら電車を使わなくてもいいんじゃないか、と思ったけれど、このあたりはN市とは違って一つひとつの駅の距離が長いのだ。歩くのは難しいという。
「お前、早くチャリの練習したほうがいいぞ。駅まで乗って行けたら便利だろ」
「……余計なお世話」
 私は下を向いたまま答えた。
「いいの、私は歩くの苦じゃないし。漣はいつも通り自転車で行けばいいよ、私はあとから行くから」
 こんなことを言ったらまた嫌みで返されるか、ひどい呆れ顔をされるだろうな、と思ってちらりと目を上げると、意外にも彼は小さく笑っていた。
「初めて俺の名前呼んだな」
 予想もしなかった言葉に、私は意表を突かれて目を見開いた。
「頑なに呼ばないようにしてるみたいだったから、一生呼ぶ気ないのかと思ってた」
 ふふん、というように笑って、漣は駅の方角へと歩き出す。その背中に、私はぼそりと返した。
「……そんな嫌なら、もう呼ばない」
 我ながら卑屈な答え方だと思う。彼がふうっとため息をつくのがうしろから見ても分かった。それからちらりと振り向く。まっすぐすぎる視線が私の真ん中を射抜いた。
「嫌なんて、いつ言った? お前って、ほんとさあ……」
 呆れたようにこぼしてから、思い直して彼は言った。
「まあいいや。早く行こう」
 私は唇を噛み、黙ってあとに続いた。