「……そろそろ帰ろうか」
 しばらくして、沈黙をそっと破るように彼が言った。正直なところ、もう少しこうしていたいような気がしたけれど、私はうなずく。
 なぜか彼に対しては、いつものような憎まれ口やひねくれた態度を向ける気にはなれなかった。どうしてだろう。彼の独特な雰囲気のせいか、それとも、私なんかのことを面白いと笑ってくれたからか。彼と少し話しただけで、まるでこのままでいいと言ってもらえたような、存在をまるごと肯定してもらえたような気がしていた。自分勝手な思い込みだけれど。
「家まで送るよ」
 彼は堤防に上がる階段のほうへと歩き出しながら、そう言った。
 私は自分でも驚くほど素直に「ありがとうございます」と返事をして、慌ててあとを追う。
「家はどっち?」
「えと、三丁目の……」
 覚えたばかりの住所を告げると、彼はにこりと笑った。
 家の近くまで来て、角の電信柱のところで「ここで大丈夫です」と言った。もしも漣やおばあちゃんに気づかれたら困るな、と思ったのだ。
「すぐそこなので」
「そっか。じゃあ、気をつけて」
 彼は笑顔のまま、柔らかい声で続ける。
「慣れない土地でいろいろ大変だろうけど、頑張ってね」
 私はこくりとうなずいた。なぜだか目頭が熱くなった。彼にそう言ってもらって初めて、私は自分が慣れない土地での新生活に疲弊しきっていることに気がついたのだ。
「じゃあ……」
 小さく言って家のほうへと歩を進める。数歩歩いてから、名残惜しさに振り向くと、彼は満面の笑みでひらひらと手を振ってくれた。私も小さく手を振り返す。
 前を向くと、私を憂鬱にさせていた真っ暗な田舎町が、少しだけ明るく見える気がした。不思議と身体が軽くて、ふわふわと浮かび上がるような感じさえする。私は意味もなく踵をとんっと鳴らし、両手を夜空へ突き上げて大きく伸びをした。
 なんだか、頑張れそう。なんの確証もないけれど、ふいにそう思った。これからはここが私の町だ、と自分に言い含めるように心の中で呟く。
 玄関を出たときとは見違えるほど軽い気持ちで、私は家まで駆け戻った。