「厄介払いなんかするものか!」
 ひどく怒ったような声だった。私は驚いて言葉を呑み込み、お父さんを見つめ返す。
 お父さんは顔をくしゃりと歪めて、震える声で続けた。
「実の娘を厄介払いするなんて、そんなはずないだろう……」
 私はふたつ瞬きをしたあと、お母さんの手をぎゅっと握って口を開いた。
「……でも、お父さん、私が中学で不登校になったとき、甘えるなとか、真樹に悪影響だとか言ったでしょ? だから、私に苛々して、遠くにやりたかったんだと思って……」
「あれは!」
 またお父さんが声を荒らげた。そのあとぐっと唇を噛みしめ、苦しげに続ける。
「あれは……お前のためを思って」
 そこで言葉が途切れた。小さく首を横に振り、どこか自嘲的に笑う。
「いや……真波のためを思って言ったつもりだったが……いつまでも休んだままだと将来大変なことになると心配で、なんとか奮い立たせようと思って言ったつもりだったんだが……そうだな、言い方が悪かった」
 お父さんがこんなふうに自分の非を認めるのは初めて見た。決して自分の間違いを認めたりしない人なんだと思っていた。
 もしかしたら、親だから、大人だから、いつでも完璧で正しい姿を見せないといけないと気を張ってたのかもしれないな、となんとなく思う。
「……鳥浦に住むことをすすめたのは、そのほうが真波にとっていい環境だろうと考えたからだ。こっちの学校でつまずいてしまって……お前は最後まで理由は言わなかったが、なにか嫌なことがあったんだろう。地元にいい思い出なんかないだろう。だから、心機一転、新しい土地に移ったほうが、お前の気分も変わって、将来にとってもいいだろうと思ったんだ」
 私は「それは分かるよ」とうなずいた。
「でも、まさかお義父さんたちの家が、真波と同い年の男の子が住んでいるような環境だとは思わなかった。なにかあってからじゃ遅いと焦って、鳥浦の高校に通えているというならこっちに戻って来ても大丈夫だろうと、今後のことを考えれば地元にいるほうがいいに決まっているし、そのほうが真樹も喜ぶだろうと思って、帰って来るように言ったんだ」
 お父さんがそこまで考えていたなんて、と驚く。漣のことが気に食わなくて、自分の思い通りにさせたくて、あんな命令をしたのだと思っていた。
 私もお父さんも、自分の気持ちを伝えるのが苦手なところは同じなのかもしれない。私はお父さんに似たんだな、と思うと、なんとなく気恥ずかしかった。
「お前は、こっちに戻りたくないのか」
 お父さんがぽつりと言った。
 もしかして、言葉にできないだけで、寂しいと思ってくれているのだろうか。少し前までなら考えられなかったことだけれど、今は、そうなのかもしれないと思える。お父さんがとても不器用な人だと分かったから。
 私は微笑みを浮かべて答えた。
「別に戻りたくないってわけじゃないの。ただ……」
 ひとつ大きく呼吸をして、私はまた口を開く。
「私ね、お父さんが鳥浦に来た日、お父さんと話したあと、なんか頭に血が昇って、なんていうか、もうどうでもいいやって気持ちになって、……死んじゃっても構わない、って思いながら海に行ったの」
 お父さんがはっと目を見張った。
「真波……! お前、なんてことを!」
 勢いよく立ち上がり、お母さんの寝顔をちらりと見てから、怒ったような目をして言った。私はそれを手で制して首を振り、「ごめん。でもね」と続ける。
「そのときにね、漣が私を引き留めて、助けてくれたんだよ。……命だけじゃなくて、心も」
 お父さんは椅子に腰を下ろし、瞬きも忘れたように私を見つめながら続きを待っていた。
「漣が、私を救ってくれたの」
 荒波に呑まれそうだった私の心を救ってくれた漣の言葉を思い出しながら、噛みしめるように言った。
「そのあと、漣にすごくつらいことが起こって……私は生まれて初めて、誰かのためになにか行動を起こさなきゃって思った。漣が私を変えてくれたんだよ。だから、漣は私の恩人で、かけがえのない人なの」
 本人がいないからこそ言える言葉だった。照れくささを紛らわすために軽く頬を撫でてから、また口を開く。
「漣だけじゃなくて、おじいちゃんもおばあちゃんも、お世話になってる喫茶店の人も、クラスメイトたちも、いろんな形で私を助けてくれたり、大切なことを教えてくれたり、私を変えてくれたりした。だから、私は、高校を卒業するまでは鳥浦にいたい。そして、その人たちに恩返しをしたい」
 私の主張を聞き終えて、お父さんはどこか呆然としたような顔で瞬きを繰り返してから、ふっと小さく笑った。
「いつの間にか、真波もすっかり大人になったんだな」
 胸を張って大人と言える自信はまだないけれど、幼稚で馬鹿だった少し前の自分に比べたら、ちょっとは成長できていると思ったので、小さくうなずいた。
「今まで、真波は自分でなにも選べないと決めつけていて、その……すまなかった」
 私はぽかんと口を開いた。
「……なんだ、その顔は」
「だって……お父さんが謝るのとか、想像もしてなかったから……」
 お父さんは気まずそうに両手で顔をくしゃくしゃと撫でてから、ふうっと息を吐いて言った。
「俺は昔から、自分の非を認めて謝るのが苦手で……母さんにもよく叱られてたんだ」
 私は思わず「えっ」と声を上げる。
「お父さんを叱るの? お母さんが?」
 お父さんがくすりと笑ってうなずいた。
「ああ、そうだ。真波と真樹が寝たあとにな、リビングに呼び出されて……。『あなたはプライドが高いし、社長だからとか父親だからとか考えて、威厳を保つために謝っちゃいけないって思ってるんだろうけど、それはあなたの悪いところだ』と説教されてたよ。俺はなにも言い返せなくて、黙って聞いているしかなかった」
 お父さんがお母さんに目を向ける。私も同じようにお母さんを見つめながら、お母さんに叱られてしょぼくれるお父さんの姿を想像して、こっそり笑った。
 しばらくして、お父さんがふいに顔を上げ、「真波」と呼んだ。今まで聞いた中でいちばん柔らかな声だった。
「お前がちゃんと自分なりに考えていることはよく分かった。これからは、自分のことは自分で考えなさい。父さんはお前の決めたことを応援するよ」
 私は目を丸くして息を吸い込んでから、微笑みを浮かべてうなずき返した。
「……ありがとう、お父さん」
 それから私たちは、どちらからともなく、再びお母さんに目を向けた。
 カーテン越しに窓から射し込む光が、真っ白なベッドに横たわる青白く痩せ細った身体を、淡く照らし出している。
 その姿を見ていて、ふと思い出した私は、鞄の中を探った。そして、お母さんの枕元に、ガラスの小瓶に入れた桜貝の貝殻を置く。龍神祭の夜に、砂浜で拾ったものだ。幸せを呼ぶ貝のひとかけら。