病室のドアの脇にかかったネームプレートを見て、『白瀬洋子』と書いてあるのを確認すると、私はドアをノックした。
「真波です」
 そう口にした瞬間、中でばたばたと足音がする。なんだろう、と首を捻っていると、すぐにドアが開いた。
「姉さん!」
 顔を出したのは、三ヶ月ぶりに会う弟だった。
「えっ、真樹! 来てたの?」
「うん。姉さん、お帰り」
 満面の笑みだった。まさか笑顔で迎えてくれるなんて予想もしていなかった。
 真樹に対しては、ほとんど説明もせずに家を出てしまい、姉としての責任を放棄してしまったように感じていたのだ。それなのにこんなふうに嬉しさを隠さない反応をしてくれて、申し訳なさが込み上げてきた。
「真波が帰ってくると言ったら、会いたいと言って聞かなくてな。連れてきた」
 真樹のうしろに立ったお父さんが言う。
「学校のことやらいろいろ話したいそうだから、聞いてやってくれ」
 私はうなずき返し、窓際のソファに真樹と並んで腰かけた。
 すぐに真樹が口を開いて話し始める。その内容は、友達や先生の話、塾の話やゲームの話などとりとめのないもので、そういえば家にいたころは毎日こんな話を聞いていたな、と懐かしくなった。
 しばらく話し続けて、やっと満足したのか、真樹が口を閉ざした。そして私の顔をじっと見上げる。
「姉さん、なんか元気になったね」
 私は目を見開き、「そうかな?」と首を傾げる。
「すごく元気になったように見えるよ。おじいちゃんとおばあちゃんに会えたおかげ?」
「うん、そうかも。それと、他にもたくさんの人と会えたおかげ」
「そっかあ、よかったね!」
 本当に嬉しそうに真樹が笑った。
「……うん。ありがとう」
 真樹なりにずっと、学校に行かずに部屋に閉じこもっていた私を心配してくれていたのだろう。いちばん身近な家族の思いにさえ、私は気づけていなかったのだ。
「お父さんとなんかお話するの?」
「うん、ちょっとね」
「大事な話?」
「うん。すごく大事な話」
「じゃあ僕、談話室で本読んでくる」
「えっ?」
 止める間もなく、真樹はぱたぱたと病室を出ていった。
「まだまだ子どもだと思ってたが、あんなふうに気を遣えるようになってたんだな」
 ベッドの脇のパイプ椅子に座って待っていたお父さんが、真樹のうしろ姿を見送りながら呟いた。それから振り向き、
「さて、本題に入るか」
 私はうなずき、ソファから立ち上がる。
 お父さんとベッドを挟んで反対側に立ち、こんこんと眠るお母さんの顔を覗き込んだ。
「……お母さん、久しぶり」
 声をかけても、当たり前だけれど無反応だ。
 私はかたわらのパイプ椅子に腰かけて、点滴の管に繋がれた青白く細い腕にそっと手をのせる。いつも通り、温かかった。でも、その顔はやっぱり血管が透けそうなほどに白く、瞼は力なく閉じられている。
 もう十年もこの姿を見続けて、元気だったころのお母さんのことはほとんど思い出せなかった。
 私はお母さんから目を離し、お父さんに向かって口を開いた。
「ねえ、お父さん……」
 決心が鈍らないうちに言うべきこと言ってしまおうと思っていたのに、いざ真正面から向き合うと、上手く言葉が出てこなくなる。その隙にお父さんが「真波」と声を上げた。
「引っ越しはいつにする。夏休み中に手続きも全部済ませてしまったほうがいいだろう。少し調べてみたが、全日制の高校は基本的に二月に願書を出して三月に試験、四月に転入というスケジュールらしいから難しいが、通信制の学校なら十月からも通えるし、一年中編入を受け付けている学校もある。少しでも早いほうがいいだろうから、来週にもこっちに戻って来て準備を始めなさい」
「ちょ……ちょっと待って。なんでそうやって勝手に話を進めちゃうわけ?」
 いきなり試験だとか編入だとかの話を出されて、驚きと動揺を抑えきれず、私は思わず口調を鋭くした。でもすぐに、これじゃ今までの二の舞だ、と思い直し、なんとか自分の気持ちを落ち着ける。
「お父さん、私の話を聞いて」
 姿勢を正すと、自然と静かな声になった。
 お父さんがぴくりと眉を上げて、じっと私を見つめ返す。
「お父さんはいつも私の話を聞かないで、自分の考えばっかり押しつけて……私にだって自分なりの考えがあるんだから、まずは聞いてから判断してほしい」
 ゆっくりと告げると、お父さんが軽く目を見開いた。
「押しつけ……? そんなつもりは……。お前はまだ子どもだし、いつもなにも言わないから、まだ自分で決められないだろうから、父さんが考えて導いてやらないと、と思って……」
 歯切れの悪いお父さんの言葉を聞いていると、本当に私の意見を無視するつもりなんてなかったのかもしれない、と思えた。
 そうか、私が初めから諦めて自分の考えを主張しなかったのがいけないんだ。自分の気持ちは、たとえ家族であっても、口に出さなければ伝わらない。鳥浦で学んだことを、改めて強く感じた。
 だから、今日はちゃんと言葉にする。私は決意も新たにお父さんを見つめ返した。
「お父さん。私、やっぱり、こっちには戻りたくない。これからも鳥浦に住んで、あっちの高校に通いたい」
 きっぱりと告げると、お父さんはぐっと眉をひそめ、それから深々と息を吐き出した。
「なぜだ? 真波のことを思って、戻って来いと言ってるんだ」
 低く唸るような言葉に、私も眉根を寄せた。感情的に返したくなったけれど、なんとか呑み込む。お父さんをまっすぐに見て、「その言葉は」と口を開いた。
「その、あなたのことを思って言ってる、って言葉、すごく、ずるいと思う」
 怒るかな、という考えが一瞬頭をよぎったけれど、お父さんは意外にも驚いたように目を見張っただけだった。
「ずるい……? どういうことだ」
 本当に分からないという顔だった。
「だって、その言葉を言われたら、私たち子どもは、絶対に言うこと聞かなきゃいけない気がしちゃうでしょ。自分のためによかれと思って言ってくれたことなんだから、言う通りにしなきゃ申し訳ないような……」
 でも、と私は続ける。
「相手が自分のことを思って言ったことなら、なんでも言いなりにならなきゃいけないの? それっておかしくない? 親だって人間なんだから、間違った考えに陥ることだってあるはずでしょ? それなのに、親の意見は絶対だから、親の言うことだからってなんでもその通りにしてたら、子どもは自分で考える力まで失って、自分ではなんにも決められない人間になっちゃう気がする……」
 お父さんは唖然としたように、まじまじと私を見ていた。
「私は、自分がもしも将来子どもを産んで親になったとき、それだけは言いたくないって思う。その言葉は、子どもの意志も思考力も選択権も全部奪っちゃうと思うから。大人からしたら、『そっちの道よりこっちの道のほうが将来あなたのためになるよ』って確信できるとしても、子どもからしたらただの押しつけにしかならないよ」
 お父さんはどこか傷ついたような表情を浮かべていた。きついことを言っているという自覚があったので、なんだか申し訳なくなってくるけれど、自分を奮い立たせて、さらに続けた。
「子どもにだって、子どもなりの考えがある。自分の人生なんだから、ちゃんと自分なりに必死に考えてるよ。子どもなんだから分からないだろう、だから大人の意見に従えって、すごく横暴に感じる。だから、お互いが納得するまで自分の意見をぶつけ合って、きちんと話し合うべきなんだと思う」
 私が口を閉じると、沈黙が落ちてきた。
 お父さんは硬直してしまったように、少しうつむいたまま動かない。
 しばらくして、私は声色を変えてまた口を開いた。
「……私ね、鳥浦が好きなんだ。最初は正直、大嫌いだったけど、三ヶ月暮らして、いろんな人と関わって、いろんなことを教えてもらって、ひねくれてた私を変えてくれて、今はすごく大好きになったの。……お父さんからしたら、厄介払いだったんだろうけど、今の私にとっては……」
 そのとき、お父さんがいきなり顔を上げた。