「気づいてないこと、知らないことばっかりだったな……」
 家を出て駅に向かいながら、私は小さく呟いた。隣の漣がこちらを見る。
「おばあちゃんたちの話聞いて、私、本当に自己中で周りが見えてなくて、馬鹿なやつだったなって、改めて反省した」
 すると彼は、ぷっと噴き出した。
「お前、今ごろ気づいたのかよ」
「ひど! そこは普通、『そうでもないよ』とかでしょ! ……いや、まあ、ほんと馬鹿だしわがままだから、その通りなんだけどさ……」
「ちゃんと自分で分かってんじゃん」
「ほんっとデリカシーないな……慰めるとかいう選択肢はないわけ?」
「思ってもないこと言ったって意味ないだろ」
 そうだ、漣はこういうやつだった、と私は内心でため息をつきつつ、でも自然と口許が緩んだ。見ていられないくらいに沈み込んでいた彼と、またこんなふうに軽口を叩けるようになったことが、素直に嬉しかったのだ。
 そんなことを考えていると、ふいに漣が声色を変えて、「でもまあ」と言った。見るとそこには穏やかな笑みがあった。
「俺だって馬鹿だから、偉そうなこと言えないけどな」
「……ちゃんと自分で分かってんじゃん」
 なんとなく気恥ずかしくて、さっきの言葉をそのまま返す。漣はおかしそうに笑った。
「みんなきっとこうやって、自分の馬鹿なところ自覚して、少しずつでも直していって、成長していくんだよな。だから、早く気づけてよかったってことにしよう」
「そうかもね……」
「お前だって、今から自分を変えにいくんだろ?」
 漣がにやりと笑って私を見た。彼には私が今からなにをしにいくのかはっきり伝えたわけではなかったけれど、なにか勘づいているのだろう。
「うん……お父さんと対決する」
 上手い表現が見つからなくてその言葉を選ぶと、彼はまたおかしそうに噴き出した。
「対決か」
「うん、対決。今までは、お父さんの言うことなら仕方ないって思って、言われた通りにしてたけど……ここを離れたくないから」
 地元に戻れと言うお父さんに、ちゃんと自分の考えを自分の言葉で伝える。きっとすぐには分かってもらえないけれど、納得してもらえるまで何度だって説得する。今までに感じたことのない強い決意が、私の胸の中で確かにしっかりと根を張っていた。
 私を変えてくれた人たちがいるこの町で、私はまだ暮らしていたい。今お父さんの言いなりになってここを離れたら、きっと後悔すると思った。
「まあ、健闘を祈るよ」
 漣がそう笑ったとき、ちょうど海沿いの道に出た。とたんに彼が口を閉ざし、じっと海を見つめる。
 龍神祭の日にユウさんと話をして以来、漣は少しずつ元気を取り戻していったけれど、やっぱりときどき、なにか物思いに耽るような横顔を見せる。まだナギサさんやユウさんへの罪の意識が消えないんだろうな、と思った。
 しばらく経っても彼が動き出さないので、私は気を取り直すように「ねえ」と声を上げる。
「アイス食べよ。溶けちゃうから」
「ん? ああ」
 保冷バッグからたまごアイスを取り出して、気づく。
「……あ、そっか、切らなきゃ食べれないよね」
 アイスクリームが入っているゴム製の袋の先端を切らないと中身が出てこない仕組みなのだ。
 するとバッグの中を覗いた漣が声を上げた。
「お、はさみ入ってるぞ」
「ほんと!? さすがおばあちゃん!」
 漣がはさみを持って刃を入れる。その瞬間、ぴゅうっと中身が飛び出した。
「うわっ!」
 漣が慌てて先端を噛む。
「そうだ、こういうアイスだった!」
「時間経ったから溶けちゃってたんだね」
「でもこの災難すら懐かしい!」
 私たちは大笑いしながら、駅へと続く道を歩いた。


 一時間ほど電車に揺られて、N市のターミナル駅に着くと、電車を乗り換えてまたしばらく移動する。
 鳥浦を出て約一時間半後、辿り着いたのはお母さんが入院している大学病院だった。最後にお見舞いに来たのは鳥浦に引っ越す前なので、もう三ヶ月以上経っている。
 久しぶりに来たけれど、病院はなにも変わっていない。明るくて白くて清潔で、人がたくさんいるのに妙に静かなロビー。
 お母さんの病室に向かう途中、入院患者や見舞い客がくつろげる談話室の前を通りかかったとき、漣が「なあ」と声を上げた。
「俺、ここで待ってるわ」
 私は驚いて振り向く。
「えっ、一緒に来ないの?」
「うん。終わったら呼びに来て」
「……もしかして、うちのお父さんに会うの、嫌?」
 お母さんの病室では、お父さんが待っている。だから漣は行きたくないのではないか、と思ったのだ。
「漣、失礼なこと言われたもんね……あのときはお父さんがごめん」
 お父さんが鳥浦に来たとき、漣に対してずいぶんと無神経で不躾な言葉を吐いていた。あんなことがあったのだから普通に顔を合わせる気になれないのは当然だろう。
 でも、漣は「んなわけないじゃん」と笑い飛ばした。
「あんなの気にしてないよ。お前、いちおう女の子だし、娘がいる親はやっぱ反対するだろ、男と一緒に住むなんて」
「そうかな……漣が気にしてないならいいんだけど」
「してないよ。なんならあとで挨拶しようと思ってるし。ただ、俺がいたら言いにくいこともあるだろうからさ、家族水入らずで話してこいよ」
 そう言った彼の表情にごまかしはなさそうだったので、私は安心してうなずき返した。そもそも彼はうそなんてつかないのだ。
「じゃあ、行ってくる」
 おばあちゃんが用意してくれた手土産の紙袋を受け取って、病室に向かって歩きだしたとき、漣が「なあ」と声を上げたので、私は振り向いた。
「頑張れよ。ここで待ってるから」
 今まででいちばんの笑顔だった。なぜか、すっきりと晴れ渡った空の下に広がる海を思い出す。
「またあとでな、真波」
 胸がじわりと温かくなる。漣に名前を呼ばれて、こんな気持ちになる日が来るなんて思いもしなかった。
 出会ったころ、いきなり下の名前を呼び捨てにされて、苛々していた。でも、気がついたら彼にこう呼ばれるのが普通になり、いつしか、心地よくさえなっていた。
「うん、頑張る。またあとで!」
 私は漣に手を振って、真っ白な廊下を歩き出した。彼が待ってくれていると思うだけで、踏み出す足に力がみなぎるような気がするのが不思議だった。