昼過ぎにユウさんに電話をかけると、今日はナギサの定休日ということで、彼が買い出しを終える夕方に会ってくれることになった。
 待ち合わせ場所の砂浜に私と漣が佇んでいると、ユウさんは約束の時間より十分も早くやってきた。
「こんにちは」
 いつも通りの人懐っこい笑顔で、私たちにそう声をかけてくれたけれど、漣は凍りついたようにぴくりとも動かず、うつむいたまま顔を上げない。
「今日は龍神祭ですね。私、初めてなんで、けっこう楽しみです」
 少しでも場の空気を和らげたくて、私はとりあえず世間話をしてみる。
「そうだよね、真波ちゃんは越してきたばっかりだもんね。灯籠行列も、最後の篝火も、すっごい綺麗なんだよ。乞うご期待」
 ユウさんも、きっと漣の様子がいつもと違うことには気づいていると思うけれど、なにも言わずに話を合わせてくれる。
「真波ちゃん、灯籠は作った?」
「あ、はい、おばあちゃんに教えてもらって。でも、絵付けはまだやってないんですけど……」
 龍神祭で使う手作りの灯籠には、絵や文字を書くのが習慣になっているらしい。おばあちゃんと一緒に灯籠作りをしていたときに、『まあちゃんもなにか書いたら? 願いごとを書く人もいるよ』と言われたけれど、いろいろと悩んでいるうちに時間が経ってしまい、結局今も真っ白なままだった。
「そっかそっか。まあ、なにも書かない人もいるからね。願いは自分だけの秘密にするってのもいいと思うよ」
「いや、そういうわけでもないんですけど……」
 そんな会話をしていたとき、私の隣でうつむいて立ち尽くしていた漣が、唐突にユウさんのほうを向き、勢いよく頭を下げた。
「——ごめんなさい!」
 ユウさんが驚いたように「わっ」と声を上げる。
「えっ、急にどうしたの、漣くん」
 身体を深く折り曲げ、膝をつかんで頭を下げ続ける漣の肩は、小刻みに震えていた。
「……俺なんです」
 呻くように言った彼を、ユウさんは不思議そうに首を傾げて見て、「え?」と訊き返した。
 漣がごくりと唾を飲み込む音が聞こえる。私は思わず彼の背中に手を置いた。少しでも力を送ってあげたかった。
 しばらくして、漣が意を決したように大きく息を吸い込んで、口を開いた。
「……ナギサさんに助けてもらったのは、……俺なんです」
「……!」
 ユウさんが息を呑み、目を大きく大きく見開く。
「凪沙に、助けられた……? もしかして、海で溺れた……?」
 漣がうつむいたままこくりとうなずいた。
 私は固唾を呑んでユウさんを見る。その口からどんな言葉が出てくるのか、怒りか、恨みか、予想もできない。
 しばらくの間、まるで時が止まったかのように硬直していたユウさんが、ふっと目元を緩めて呟いた。
「そうか……。漣くんが、あのときの子だったのか……」
 囁くように言ったユウさんが、ふいに漣に向かって足を踏み出し、同時に両手を伸ばした。
 漣の肩がびくりと震える。もしかしたら、殴られると思ったのかもしれない。
 でも、ユウさんは、彼の身体に両手を回して、きつく抱きしめた。
 今度は漣が、これ以上ないくらいに大きく目を見開く。
「……ありがとう。教えてくれて、嬉しい」
「え……?」
 その瞬間、漣の両目から、ぼろぼろと涙が溢れ出した。喉から苦しげな嗚咽が洩れる。
「ごめ、ごめんなさい……!」
 ほとんど声にならない悲鳴のような声で、漣が謝り続ける。
「ごめんなさい、ごめんなさい、俺のせいで……ナギサさんが……」
 するとユウさんは、ふふっと小さく笑った。
「漣くんはなんにも悪くないんだから、謝らなくていいよ」
 包み込むような優しい声で囁きかけ、落ち着かせるように漣の背中をとんとんと叩く。
 驚いたように目を丸くした漣が、でも必死に否定するように首を横に振る。
「違います、俺のせいなんです。あのとき俺が、親の言うこと聞かずに、馬鹿なことして溺れたりしなければ……。俺が、ナギサさんを、死なせてしまったんです……」
 聞いているだけで胸が苦しくなる。彼が今までどれほどの後悔と罪悪感を抱えて生きてきたのか、その表情から、言葉から、震える身体から痛いくらいに伝わってきて、苦しかった。
「……きっと俺のこと恨んでる……」
 漣が両手で顔を覆い、絞り出すような声で言った。
 すると、ユウさんが「ねえ、漣くん」と彼の手をつかんで顔から引き剥がし、その目を真正面からまっすぐに見つめた。
 そして、漣に言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「凪沙が漣くんのせいで死んだなんて、思わなくていい。漣くんが悪いんじゃない、漣くんが死なせたわけじゃない」
 ユウさんがきっぱりと言った。
 確信に満ちた口調と、迷いひとつないまっすぐな眼差し。
「凪沙は絶対に、漣くんを恨んだりしてない。漣くんのせいだなんて、絶対に言わないし、思ってもないよ。俺が保証する。ただ、凪沙は、目の前で苦しんでる子を助けずにはいられなかっただけ。見過ごすなんて絶対にできなくて、自分の命も危ないって分かってても、飛び込まずにはいられなかっただけ」
 そう言いながら、ユウさんは本当に愛おしそうに微笑んだ。
「……そういう子なんだ、凪沙は。優しい、本当に……優しすぎるくらい優しくて、自分を犠牲にして人を助けちゃえるくらい、深い深い愛をもってる子なんだ」
 まるで彼女がまだ生きているかのような口調で、ユウさんは語る。
 だからね、と彼は漣の手を強く握りしめた。
「漣くんがそんなふうに自分を責めながら生きてたら、凪沙はきっと悲しむ——」
 そこまで言って、ユウさんはふいに口をつぐんだ。それから、おかしそうにくすりと笑って、「いや」と言い直す。
「きっと、怒るよ」
「……えっ。怒る?」
 私は思わず声を上げて訊き返してしまった。するとユウさんは噴き出して私を見る。
「そう。めっちゃくちゃのめっためたに怒るよ。激怒する。凪沙は、怒らせるとすっごく怖いんだ」
 激怒するとか、怖いとか、私が思い描いていた〝ナギサさん〟の聖母のようなイメージとはあまりにも違って、唖然としてしまう。
 俺もよく怒られてたよ、とおどけて、ユウさんは懐かしむような目つきで微笑んだ。
「バランスのいい食事をしろとか、部活ばっかりじゃだめ、ちゃんとテスト勉強しろとか、しょっちゅう怒られてた。全部俺のためだったけどね。凪沙は自分のために怒ったことなんて一度もなかったよ」
 ユウさんが漣を見て、突然、怒ったような表情を浮かべた。
「漣、あんた、なにいつまでも大昔のこと気にしてうじうじしてんの! 私はそんなこと望んでない、馬鹿みたいに笑って楽しく生きろ! そしてちゃんと幸せになれ!」
 私は固唾を呑んで彼を見つめる。
「——って怒り狂うよ、きっと凪沙は。そういう子なんだ」
 どうやら、ナギサさんの口真似をしてくれたらしい。
 今までぼんやりとしていた彼女の姿が、ユウさんの話を聞いてどんどん形をはっきりさせ、生き生きと輝きだした。いつも優しく穏やかに微笑みながら、すべてを許して受け入れる聖母のイメージはどんどん霞んでいき、代わりに、なにものにも臆せずはきはきとものを言う、しっかり者で生気に溢れた少女の姿が立ち上がってくる。
 ——ああ、ナギサさんは、生きていたんだ。
 そんな当たり前のことを今さらながらに実感して、胸がいっぱいになった。
 私は目を閉じて、ナギサさんのことを思う。ユウさんを叱り、でも自分のためには怒らず、目の前で溺れる子どもを助けるために危険も顧みず海に飛び込んだ人。
 なんて、なんて優しい人なんだろう。海のように深い優しさ。この気持ちを表す言葉が見つからない。ただただ、胸が熱くなった。
 きっと彼女は本当に、自分が助けた子どもがいつまでも罪の意識に苛まれることなんて、少しも望んでいないだろうと思えた。
 かたわらの漣に目を向ける。彼は項垂れたまま、ひとりごとのようにかすかな声で囁いていた。
「でも、俺は……、幸せになる資格なんかない、許されない……だって、ナギサさんは俺のせいで……」
 この期に及んで、まだそんなことを言っているのか。そう思った瞬間、
「——いい加減にしなよ、漣!」
 そんな言葉が口をついて出た。