翌朝、目を覚ました私はすぐに漣の部屋に行き、「おはよう」と勢いよくドアを開けた。
彼は昨日と同じ姿勢で寝転がっていた。服もそのままだ。生きているのに、死んでいるみたいに見えて、背筋が寒くなる。
それを振り払いたくて、わざと強い声を出した。
「漣、話をしよう」
相変わらず反応はない。次はもっと声を大きくする。
「漣、起きて。話がしたいの」
かたわらに膝をついて肩を揺すると、彼はやっとわずかに身じろぎをした。
ねえ漣、と呼びかけた声は、まるですがるような声音になった。
「漣の話を、つらさを、聞かせて……」
そう呟いたとき、彼がゆっくりと顔を上げた。青白く生気のない、憔悴しきった顔だった。
「……ひとりじゃ抱えきれないことも、誰かに話すだけで、楽になることもあるんだよ……漣が私の話を聞いてくれたみたいに」
私の言葉でなにかを悟ったのか、彼は大きく目を見開いて身体を起こした。
「——なにか、知ってるのか?」
怯えたような声色だった。
怖がらないで、と伝えたくて、刺激しないようにそっとその手を握る。
「はっきりとは知らないけど、たぶん……私の考えが正しいなら」
触れた部分から、漣の身体の力が抜けたのが分かった。
「……そうか。知られちゃったか……」
なにかを諦めたように、彼は言った。
きっと、誰にも知られないように、自分の心の中だけに秘めてきたことだったのだろう。これからも誰にも打ち明けずに背負い続けるつもりだったのだろう。
でも、もう限界が来ているのだと、その様子を見れば分かった。抱えきれないほどに大きく膨らんでしまった荷物を下ろさないと、そのまま倒れて、二度と立ち上がれなくなってしまいそうだった。
だから私が、漣を助け出さなきゃいけないんだ。
その気持ちを上手く言葉にできる気がしなくて、握った手に力を込める。思いよ伝われ、と祈りながら。
しばらく呆然としたように黙り込んでいた漣が、ゆっくりと口を開いた。
「……俺が、ユウさんから、ナギサさんを、奪った」
絶望に塗りつぶされたような声だった。
「ナギサさんを愛していた人たちから、俺が、ナギサさんを奪った。ナギサさんが死んだのは、俺のせいだ……」
ああ、とうとうすべてが繋がってしまった。目の前が真っ暗になる。
どうか私の思い違いでありますように、と心から願っていたのに、推測が当たってしまったのだ。
言葉を失った私に、漣がぽつぽつと語り始めた。
「六歳のとき……父親と弟と一緒に、鳥浦の港に来たんだ。父親は釣りをしてて、俺と弟は近くで遊んでた。父親からは、海に落ちたら危ないから絶対に離れるなよ、って言われてた。でも、しばらくしたら俺も弟も飽きてきて退屈になって、追いかけっこを始めたんだ。最初は気をつけてたんだけど、だんだん夢中になって……気がついたら、海に落ちてた。泳げないわけじゃなかったのに、足が着かないからパニックになって、そのまま溺れた」
漣は感情を失くしたように淡々と言葉を続けた。
「……まだ子どもだったし、ショックが大きかったからか、溺れたときのことはほとんど記憶がないんだ。どうやって助けられたのかも分からないし、救急車で運ばれてるときのことも、意識はあったはずなのに、断片的にしか覚えてなかった。病院で目が覚めたとき、両親が泣きながら『お姉さんが助けてくれたんだよ』って教えてくれた。そのときは、優しい人がたまたま近くにいてよかったな、ってくらいにしか思ってなかった」
ひとつひとつ確かめるようにゆっくりと話す漣。
私はただ、それを聞くことしかできない。
「でも、退院した日に、『実は助けてくれたお姉さんは死んじゃったの、今日がお葬式だから、お礼とお別れを言いに行こう』って言われて、鳥浦に来たんだ。なにがなんだか分からないうちに、親に言われるがまま棺桶の中の女の人に『ごめんなさい、ありがとう』って声をかけた。そのときのことも記憶はぼんやりしてるけど、ナギサって名前と、父親と母親が土下座して泣きながら謝ってたことと、棺の前に小さいおばあさんと、壊れた人形みたいにへたりこんでた男の人がいたのは、なんとなく覚えてた」
漣がふっと息を吐く。そして、震える声で呟いた。
「……今思えば、あれは、ナギサさんのおばあさんと、ユウさんだったんだよな」
私はなにも言えなくて、ひたすら涙を堪えていた。漣が頑張って話してくれているのに、私が泣くわけにはいかないと思った。
「小さいうちはそれくらいしか分かってなかったんだ。でも……成長して物事が分かるようになってきたとき、ある日突然、自分のせいで人が死んだんだ、っていう事実が、どうしようもないくらい重くのしかかってきて、忘れられなくなった」
漣が唇を噛み、ゆっくりと瞬きをする。
「心配かけるから親には言わなかったけど、家にいても学校にいても、なにをしてても、その人のことが頭から離れなくなった。でも、もう何年も経ってて今さらその人にできることなんかないと思ったから、せめて、『こんなやつ助けなければよかった、無駄死にだった』なんて思われないように、いい子だと思ってもらえるようにしようって、勉強も部活も人間関係も全部全力で頑張ろうって思ってた……」
その言葉が胸に突き刺さり、ちくちくと痛んだ。
誰もが認める優等生で、文武両道で、誰からも信頼されている漣。そんな姿を見て私は、生まれながらに恵まれているだとか、悩みなんてなさそうだとか、勝手なことを思っていたし、本人にもそう言った。
でも、それは誰よりも誠実に頑張ってきた漣の努力の賜物だったのだ。彼の行いの裏に、まさかこんなにも苦しく切実な思いが隠されていたなんて、思いもしなかった。考えなしに本当にひどいことを言ってしまった。過去の自分を殴りたい。
「中学三年で受験が近づいてきたとき、鳥浦に行かなきゃ、って急に思いついた。俺のせいで亡くなった人が生きてた町に行って、その人の家族にちゃんと謝って、それで海の近くでその人に感謝と謝罪をしながら祈り続けることくらいしか、俺にはできないと思った……」
そこで一度口をつぐんだ漣が、ふいに自嘲的な笑みを浮かべた。
「……でも、いざここに引っ越してきたら急に怖くなって……その人の家族を捜す決心がつかなかった。あの子を返してって責められるかもしれない、どんなに謝っても許されないかもしれない、って思ったら、怖かったんだ」
「それは、当然だよ」
私は初めて彼の話に口を挟んだ。
「誰だってきっとそう思うよ。私だって、漣と同じ立場ならきっと、怖くて動けない。たぶん、なかったことにしよう、忘れよう、って考えちゃうと思う。だから、漣はひとりでこの町に来て、今も暮らし続けてるってだけで、本当に本当に、すごいことだと思うよ……」
なんとか慰めようと思って必死に語りかけたけれど、漣は小さく笑っただけで、また苦しみに満ちた顔に戻ってしまった。
「でも、俺がユウさんの大事な人を、誰かの家族を奪ったことには変わりないよ。そもそも、人を死なせた俺には、幸せになる資格も、笑って暮らす権利もなかったんだ。今までのうのうと生きてきたけど、今さらそのことに気づいた……」
だから漣はこんなふうになってしまったのか。自分の幸せや笑顔を許せなくなってしまったのか。
なんでそんなふうに考えるの、と叫びたかった。でも、きっと今の漣には、部外者の私の言葉なんて届かない。
だから、私は言った。
「漣、ユウさんに会いに行こう」
その瞬間、彼の顔がさっと血の気を失った。
「嫌だ」
ほとんど聞き取れないくらいにかすれ、震えた声だった。
「どんな顔して会えって言うんだよ!」
恐怖と不安に満ち、怯えきったような表情だった。それは、彼が初めて見せた弱さだった。
みんなから信頼され、慕われ、いつも自信に満ちていて、常にまっすぐに強く生きているように見えた漣の裏側に、私は初めて触れた。
「それでも、行こう。このままじゃ、だめだよ……」
私は漣の手をつかみ、言葉にならないすべての思いを込めて、ぎゅうっと握りしめた。
彼は昨日と同じ姿勢で寝転がっていた。服もそのままだ。生きているのに、死んでいるみたいに見えて、背筋が寒くなる。
それを振り払いたくて、わざと強い声を出した。
「漣、話をしよう」
相変わらず反応はない。次はもっと声を大きくする。
「漣、起きて。話がしたいの」
かたわらに膝をついて肩を揺すると、彼はやっとわずかに身じろぎをした。
ねえ漣、と呼びかけた声は、まるですがるような声音になった。
「漣の話を、つらさを、聞かせて……」
そう呟いたとき、彼がゆっくりと顔を上げた。青白く生気のない、憔悴しきった顔だった。
「……ひとりじゃ抱えきれないことも、誰かに話すだけで、楽になることもあるんだよ……漣が私の話を聞いてくれたみたいに」
私の言葉でなにかを悟ったのか、彼は大きく目を見開いて身体を起こした。
「——なにか、知ってるのか?」
怯えたような声色だった。
怖がらないで、と伝えたくて、刺激しないようにそっとその手を握る。
「はっきりとは知らないけど、たぶん……私の考えが正しいなら」
触れた部分から、漣の身体の力が抜けたのが分かった。
「……そうか。知られちゃったか……」
なにかを諦めたように、彼は言った。
きっと、誰にも知られないように、自分の心の中だけに秘めてきたことだったのだろう。これからも誰にも打ち明けずに背負い続けるつもりだったのだろう。
でも、もう限界が来ているのだと、その様子を見れば分かった。抱えきれないほどに大きく膨らんでしまった荷物を下ろさないと、そのまま倒れて、二度と立ち上がれなくなってしまいそうだった。
だから私が、漣を助け出さなきゃいけないんだ。
その気持ちを上手く言葉にできる気がしなくて、握った手に力を込める。思いよ伝われ、と祈りながら。
しばらく呆然としたように黙り込んでいた漣が、ゆっくりと口を開いた。
「……俺が、ユウさんから、ナギサさんを、奪った」
絶望に塗りつぶされたような声だった。
「ナギサさんを愛していた人たちから、俺が、ナギサさんを奪った。ナギサさんが死んだのは、俺のせいだ……」
ああ、とうとうすべてが繋がってしまった。目の前が真っ暗になる。
どうか私の思い違いでありますように、と心から願っていたのに、推測が当たってしまったのだ。
言葉を失った私に、漣がぽつぽつと語り始めた。
「六歳のとき……父親と弟と一緒に、鳥浦の港に来たんだ。父親は釣りをしてて、俺と弟は近くで遊んでた。父親からは、海に落ちたら危ないから絶対に離れるなよ、って言われてた。でも、しばらくしたら俺も弟も飽きてきて退屈になって、追いかけっこを始めたんだ。最初は気をつけてたんだけど、だんだん夢中になって……気がついたら、海に落ちてた。泳げないわけじゃなかったのに、足が着かないからパニックになって、そのまま溺れた」
漣は感情を失くしたように淡々と言葉を続けた。
「……まだ子どもだったし、ショックが大きかったからか、溺れたときのことはほとんど記憶がないんだ。どうやって助けられたのかも分からないし、救急車で運ばれてるときのことも、意識はあったはずなのに、断片的にしか覚えてなかった。病院で目が覚めたとき、両親が泣きながら『お姉さんが助けてくれたんだよ』って教えてくれた。そのときは、優しい人がたまたま近くにいてよかったな、ってくらいにしか思ってなかった」
ひとつひとつ確かめるようにゆっくりと話す漣。
私はただ、それを聞くことしかできない。
「でも、退院した日に、『実は助けてくれたお姉さんは死んじゃったの、今日がお葬式だから、お礼とお別れを言いに行こう』って言われて、鳥浦に来たんだ。なにがなんだか分からないうちに、親に言われるがまま棺桶の中の女の人に『ごめんなさい、ありがとう』って声をかけた。そのときのことも記憶はぼんやりしてるけど、ナギサって名前と、父親と母親が土下座して泣きながら謝ってたことと、棺の前に小さいおばあさんと、壊れた人形みたいにへたりこんでた男の人がいたのは、なんとなく覚えてた」
漣がふっと息を吐く。そして、震える声で呟いた。
「……今思えば、あれは、ナギサさんのおばあさんと、ユウさんだったんだよな」
私はなにも言えなくて、ひたすら涙を堪えていた。漣が頑張って話してくれているのに、私が泣くわけにはいかないと思った。
「小さいうちはそれくらいしか分かってなかったんだ。でも……成長して物事が分かるようになってきたとき、ある日突然、自分のせいで人が死んだんだ、っていう事実が、どうしようもないくらい重くのしかかってきて、忘れられなくなった」
漣が唇を噛み、ゆっくりと瞬きをする。
「心配かけるから親には言わなかったけど、家にいても学校にいても、なにをしてても、その人のことが頭から離れなくなった。でも、もう何年も経ってて今さらその人にできることなんかないと思ったから、せめて、『こんなやつ助けなければよかった、無駄死にだった』なんて思われないように、いい子だと思ってもらえるようにしようって、勉強も部活も人間関係も全部全力で頑張ろうって思ってた……」
その言葉が胸に突き刺さり、ちくちくと痛んだ。
誰もが認める優等生で、文武両道で、誰からも信頼されている漣。そんな姿を見て私は、生まれながらに恵まれているだとか、悩みなんてなさそうだとか、勝手なことを思っていたし、本人にもそう言った。
でも、それは誰よりも誠実に頑張ってきた漣の努力の賜物だったのだ。彼の行いの裏に、まさかこんなにも苦しく切実な思いが隠されていたなんて、思いもしなかった。考えなしに本当にひどいことを言ってしまった。過去の自分を殴りたい。
「中学三年で受験が近づいてきたとき、鳥浦に行かなきゃ、って急に思いついた。俺のせいで亡くなった人が生きてた町に行って、その人の家族にちゃんと謝って、それで海の近くでその人に感謝と謝罪をしながら祈り続けることくらいしか、俺にはできないと思った……」
そこで一度口をつぐんだ漣が、ふいに自嘲的な笑みを浮かべた。
「……でも、いざここに引っ越してきたら急に怖くなって……その人の家族を捜す決心がつかなかった。あの子を返してって責められるかもしれない、どんなに謝っても許されないかもしれない、って思ったら、怖かったんだ」
「それは、当然だよ」
私は初めて彼の話に口を挟んだ。
「誰だってきっとそう思うよ。私だって、漣と同じ立場ならきっと、怖くて動けない。たぶん、なかったことにしよう、忘れよう、って考えちゃうと思う。だから、漣はひとりでこの町に来て、今も暮らし続けてるってだけで、本当に本当に、すごいことだと思うよ……」
なんとか慰めようと思って必死に語りかけたけれど、漣は小さく笑っただけで、また苦しみに満ちた顔に戻ってしまった。
「でも、俺がユウさんの大事な人を、誰かの家族を奪ったことには変わりないよ。そもそも、人を死なせた俺には、幸せになる資格も、笑って暮らす権利もなかったんだ。今までのうのうと生きてきたけど、今さらそのことに気づいた……」
だから漣はこんなふうになってしまったのか。自分の幸せや笑顔を許せなくなってしまったのか。
なんでそんなふうに考えるの、と叫びたかった。でも、きっと今の漣には、部外者の私の言葉なんて届かない。
だから、私は言った。
「漣、ユウさんに会いに行こう」
その瞬間、彼の顔がさっと血の気を失った。
「嫌だ」
ほとんど聞き取れないくらいにかすれ、震えた声だった。
「どんな顔して会えって言うんだよ!」
恐怖と不安に満ち、怯えきったような表情だった。それは、彼が初めて見せた弱さだった。
みんなから信頼され、慕われ、いつも自信に満ちていて、常にまっすぐに強く生きているように見えた漣の裏側に、私は初めて触れた。
「それでも、行こう。このままじゃ、だめだよ……」
私は漣の手をつかみ、言葉にならないすべての思いを込めて、ぎゅうっと握りしめた。