◇
漣がおかしい、と確信したのは、翌朝だった。
いつもは私よりかなり早起きで、身支度を終えた私が居間に行くとすでに朝食の準備を手伝っている彼が、なぜかいつまで経っても起きてこない。
「どうしたんかねえ、漣くんは。珍しくお寝坊さんかねえ」
おばあちゃんが料理を並べながら首を傾げている。昨日の夜ナギサから帰ったあともどこか様子がいつもと違った。妙に口数が少なくて元気がなかった。
溺れた男の子を救助したあとだったので、疲れているのだろうと私もあえて話しかけたりしなかったけれど、今思えば、いくら疲れていたにしてもおじいちゃんたちに声もかけずに部屋に上がった姿は、いつもの彼とは全く違っていて異様だった。
私は「様子見てくるね」とおばあちゃんに告げて二階に上がった。
「漣、起きてる?」
彼の部屋の前に立ち、声をかける。反応がなかったので、もう少し強めにノックをした。すると中から呻くような声が聞こえてきて、しばらくしてふすまが開いた。中はまだカーテンが閉まっていて薄暗い。
「……ごめん」
姿を現した漣が、うつむいたままぽつりと呟く。なにに謝っているんだろう、と思いながら彼を見て、息を呑んだ。
「ちょっと……なんで着替えてないの!?」
漣は、昨日海で男の子を抱き上げたときに濡れた制服を着たままだったのだ。半日以上経っているのですでに乾いてはいるけれど、濡れたまま寝たのか服はしわくちゃになっていた。いつも自分できちんとアイロンをかけて身綺麗にしている彼からは考えられないことだ。
「……昨日帰ってから、ずっとそのままだったの?」
私の問いかけに、漣は自分の身体を見下ろして、今初めて気がついたというように「ああ」と声を上げた。
「漣……」
なんと声をかければいいか分からない。一体どうしちゃったの、なんて気軽に訊ける雰囲気ではなかった。
「着替える」
片言のようにぎこちなく言うと、彼はのろのろとふすまを閉めた。
「おばあちゃん……漣が、なんか、変なの」
一階に下りてすぐにおばあちゃんに声をかけた。
「変? あらまあ、風邪でも引いてまったんかねえ」
「うん……どうかな……」
でも、ただの体調不良には見えなかった。かといって、それを口にするとおばあちゃんに余計な心配をかけてしまうかもしれない。
「ちょっと台所使うね」
私がそう言うと、おばあちゃんが嬉しそうな顔をして「あらっ」と声を上げた。
「漣くんになにか作ってあげるんかね」
「……まあ、うん」
そう言われると、なんだか急に恥ずかしくなってくる。
「あらあ、いいねえ、いいねえ。好きな食材なんでも使っていいからね」
「ありがとう」
私はそそくさと台所に入り、炊いてあったご飯を使って、細かく刻んだシイタケと、ショウガとネギをたっぷり入れた玉子雑炊を作った。
お盆にのせてれんげを添え、居間に持っていこうとしたものの、二階からなんの物音もしないので、そのまま階段を上がった。
「漣、ご飯持ってきたよ」
また反応がない。「入るよ」と声をかけてふすまを開けた。
漣はTシャツと短パン姿で布団の上に転がっていた。脇にはさっきまで着ていた制服が乱雑に脱ぎ捨てられている。いつも必ず洗濯かごに入れているのに。
「……食べれそう?」
枕元にお盆を置いて訊ねると、彼はのろのろと身体を起こし、雑炊の入った小鍋を見て「ありがとう」と呟いた。
「無理しなくてもいいからね」
彼は小さくうなずき、布団の上にあぐらをかいてれんげを手に取った。そんな仕草も、いつもきちんとしている漣らしくない。
「……これ、お前が作ったの?」
「あ、うん。口に合うといいんだけど」
ひとくち含むと、漣は小さく笑った。
「やっぱ、ばあちゃんの味に似てるな。うまいよ」
かすかな笑顔と何気ない言葉が、ひどく嬉しかった。少しでも元気が出たのなら、作ったかいがあった。
でも、ゆっくりと三分の一ほど食べたところで、彼は急に口許を手で抑えた。それから勢いよく立ち上がり、部屋を飛び出して隣のトイレに駆け込む。
驚いてあとを追うと、中から嘔吐する音が聞こえてきた。
「漣、大丈夫!?」
しばらくして、漣が口許を拭いながら出てくる。
「……ごめん」
申し訳なさそうに謝られて、たぶん私が作ったものを吐いてしまったと気に病んでいるのだろうと思い、「気にしないで」と返した。
漣は弱々しくうなずいて、よろよろと部屋に戻っていく。
「やっぱり具合が悪いんだね。今は無理して食べないほうがいいね。なにか飲みもの持って来ようか?」
「大丈夫、水ならあるから……」
かすれた声で答えて、彼は力尽きたように布団に倒れ込んだ。
私はお盆を持って部屋を出て、階段を下りる。台所で、漣がいつも部活に持っていっているスポーツドリンクをコップに入れて、二階に戻った。
でも、漣はもう声をかけても反応してくれなくて、枕元に置いてそっとふすまを閉めた。
その日を境に、漣は家から出なくなった。あんなに真面目に頑張っていた部活もずっと休んでいて、ナギサにも行かない。
それどころか、食事にもほとんど手をつけず、トイレやお風呂など最低限のことをするとき以外はずっと部屋にこもっている。自分から話しかけてくることはなく、こちらがなにかを訊いても、小さくうなずいたり首を振ったりするだけで、まともな会話にならない。
おじいちゃんとおばあちゃんも漣の異変に気づいて、しきりに気を揉んでいた。居ても立ってもいられなくなったおばあちゃんは、「実家に連絡しようか」と漣に訊ねた。でも彼は実家と聞いたとたんに顔色を変え、そのときだけはきっぱりと「それは絶対にやめてほしい」と答えた。
別人のように沈み込んでしまった漣のことが心配でたまらなかったけれど、どうして彼がこうなったのか原因が分からないし、どうすればいいのかも分からない。
今まで自分のことばかり考えて生きてきた私は、誰かを励ましたり、慰めたり、優しくしたりする方法を知らなかった。ただ様子を見て、答えは期待できなくても声をかけて、食事を用意するくらいしか、できることが見つからない。
漣のことが心配でナギサに行く気分にもなれず、三日目の朝に私はユウさんに電話をかけた。
『お電話ありがとうございます、ナギサです』
受話器からいつもと変わらない明るい彼の声が聞こえてきた瞬間、安心感に包まれた。このところ家の中はずっと異常な状態だったので、普段通りの声を聞けただけでもひどくほっとした。
「ユウさん、おはようございます。真波です」
『あ、真波ちゃん? どうしたの、珍しいね電話なんて』
「突然すみません……。あの、しばらく店のお手伝いに行けそうになくて」
私の言葉に、電話の向こうでユウさんが首を傾げるような気配を感じた。
「ごめんなさい、自分から言い出したことなのに」
『いや、それは全然いいんだけど。……なにかあった?』
ユウさんが声を低くして訊ねてきた。やっぱりいつもと様子が違うことに気づかれてしまったか、と思う。子どもみたいに無邪気なようでいて、実は常に周りをよく見て相手の感情に敏感な彼をごまかすのは難しそうだった。
いえ、と否定しかけた言葉を呑み込み、「あの」と口を開く。
「……実は、漣がちょっと……」
『え、漣くん? 漣くんがどうかしたの?』
「あの、体調を崩してるっていうか、具合が悪いっていうか……」
あまり説明しすぎても余計な心配をかけてしまいそうなので、曖昧な言い方になってしまった。
「そういうことで、ちょっと、なるべく家にいたくて」
『そっかあ、大変だね……。急に暑くなったからなあ。うん、側にいてあげたほうがいいと思うよ。店のことは全然大丈夫だから、真波ちゃんは漣くんがよくなるまでついててあげて』
「ありがとうございます。……また連絡しますね」
そう言って電話を切ってから三十分ほどが経ったころ、突然チャイムが鳴った。
誰だろうと思いながら出てみると、驚いたことに、ユウさんが玄関先に立っていた。
「え? ユウさん!?」
「こんにちは。突然ごめんね」
彼はにこにこしながら少し首を傾けて言った。
「ど……どうしたんですか」
「うん、ちょっと渡したいものがあって」
彼が紙袋からタッパーを取り出して、こちらに差し出した。呆気にとられたまま受け取り、ふた越しに中を見てみると、黄色いものが入っている。
「もしかして、玉子焼きですか?」
「うん。体調悪いときにどうかなと思ったけど、漣くんに。食べられそうだったら食べてって伝えてくれる?」
「わあ、ありがとうございます……」
それから私は「ちょっと待っててください」とユウさんに告げて、タッパーを持ったまま慌てて二階に駆け上がる。
「漣、入るね」
どうせノックをしてもまともな反応はないと分かっていたので、声だけかけてドアを開ける。
彼は布団の上にだらりと座り、窓の外の海を見ていた。
「今ちょっと大丈夫?」
答えはないまま、彼の目がのろのろとこちらに向けられる。ぽっかりと穴が開いたような瞳。
初めて漣に会ったとき、なんて強い瞳なんだろう、と思った。あまりにも強くてまっすぐで、私には眩しすぎて、直視できなかった。
でも、今は、こんなにも暗くうつろな目をしている。
こんなの漣じゃない、と胸が苦しくなった。
「ねえ漣……できたら、下に来れない?」
「……なんで」
漣がぽつりと答える。私はタッパーを見せながら言った。
「今ね、ユウさんがこれ持って来てくれたの。まだ玄関にいるから、挨拶だけでも……」
もしかしたら、ユウさんと会うことで漣の気持ちも少しは浮上するかもしれない、と思ったのだ。
でも、その予想は外れた。私が彼の名前を口にした瞬間、漣ははち切れそうなほどに目を見開き、まるで喉を絞められたように激しく息を呑んだ。
「え、漣……?」
強張った顔がみるみるうちに青ざめ、色を失っていく。
まさかこんな反応が返ってくるなんて思ってもいなかった。むしろ喜んで、笑顔を見せてくれるのではないかと思っていた。
私は動揺して漣のかたわらに腰を下ろす。
「漣、大丈夫?」
すると彼はなぜか怯えたような目で私が持っている玉子焼きを見つめ、じりじりと後退りをしながら首を横に振った。
「……かない」
震えた声をよく聞き取れなかったので、私は「え?」と訊き返す。漣は顔を歪めて苦しげに言った。
「行かない……行けない」
それだけ言うと、膝を抱えてうなだれ、ぴくりとも動かなくなってしまった。
突然の変貌に唖然とした私は、しばらく彼の背中を見つめたあと、「ごめん」と謝って部屋を出た。
玄関に戻り、待ってくれていたユウさんに「すみません」と頭を下げる。
「漣を呼んで来ようと思ったんですけど、あの……寝てました。せっかく来てくれたのにすみません……」
彼はあははと笑って、
「そんなのいいよ、気にしないで」
と顔の前でひらひら手を振った。
「元気になったらまた顔見せて、って漣くんに伝えといて」
「分かりました。ありがとうございます」
ユウさんはいつものようににこにこと笑って、「じゃあまた」と帰っていった。
彼のうしろ姿が見えなくなってからも、私はしばらく玄関に立ち尽くして、動くことができなかった。
ユウさんが来てくれたことを告げたときの漣の様子を反芻する。
どう見ても尋常ではなかった。突然の来訪に対する驚きや動揺とは思えず、むしろ怯えているようにしか見えなかった。
どうして漣がユウさんと会うことを怖れるのだろう。あんなに彼に懐いていたのに、どうして急に? いくら考えても分からない。分からないけれど、でも、なにかとても重大な理由が隠されていることは分かった。
ユウさんは全くいつも通りだったけれど、漣は明らかに様子がおかしかった。
一体ふたりの間になにがあったのだろう。漣はどうしてこんなふうに変わってしまったんだろう。なにが起こっているのだろう。
答えの見つからない疑問について考えれば考えるほど、得体の知れない不安と恐怖が私を包み込んだ。
その不安感がさらに色濃くなったのは、翌日の夜のことだった。
夕食のあと、近所の人からもらったすいかをおばあちゃんが切り分けてくれて、これなら漣も食べられるかも、と思った私は、皿にのせて二階へと向かった。
まだそれほど遅い時間ではないのに、ノックをしても反応がない。なんとなく不安になって、「ごめん、入るね」と声をかけてふすまを開けた。
漣は布団に横になっていた。動かないので、寝ているらしいと分かる。
少し迷ったけれど、目が覚めたら食べてくれるかもしれないと考えて、すいかを枕元に置いた。
そのとき、漣が身じろぎをした。起きたのかと視線を向けると、瞼は固く閉じられている。
寝返りを打った拍子にタオルケットが肩からずり落ちてしまったので、かけ直そうと手を伸ばしたとき、突然、「うう……」と漣が唸った。見ると、目を閉じたまま苦しげに顔を歪めている。なにか悪い夢を見ているのかもしれない。
起こしたほうがいいかどうか迷っているうちに、漣の額に脂汗がにじみ始めた。
驚いて、やっぱり起こそうと肩に手をかけたとき、薄く開いた唇の隙間から、「……なさい」とかすかな声が洩れた。
「ごめんなさい……許して……」
どくりと心臓が音を立てる。あまりにも悲痛な声だった。
「漣……漣?」
肩を揺さぶって声をかけるけれど、彼はうわごとのように「ごめんなさい」と繰り返している。
「ごめんなさい……ゆ、さ…、なぎ……さん……」
ユウさん、ナギサさん、と聞こえた気がした。どうして漣がふたりに謝るのだろう。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
ナギサさん。今から十年ほど前、高校生のときに、鳥浦の海で溺れて亡くなった人。ユウさんの恋人。その彼女に、彼に、すがるように謝り続ける漣。
そういえば、彼の様子がおかしくなったのは、真梨さんたちからナギサさんの話を聞いたときからだ。そして彼は、『子どものとき溺れて、水が怖くて泳げない』と言っていた。初めて子ども食堂の手伝いをしたとき、びっくりするほど真剣で深刻な顔で、『海は怖い、危ない』と何度も繰り返していた。
どくどくと鼓動が速まり、胸が苦しくなった。頭が真っ白になっていく。
考えたくないけれど、まさか、という嫌な予感が、私の心を支配していた。
荒い呼吸をなんとか整えてから、私は一階に下りた。おばあちゃんが気づいて声をかけてくる。
「漣くんの様子はどうだったね?」
私は首を横に振り、それから「ねえ、おばあちゃん」と呼びかけた。
頭の中で計算する。ユウさんは私の十歳上だから、彼が高校生のときということは。
「だいたい十年くらい前に……このあたりの海で、女子高生が溺れて亡くなったって話、聞いたことある?」
おばあちゃんが目を見開き、何度か瞬きをしてから、「そういえば」と声を詰まらせた。
「そんな悲しい事故があったねえ……。溺れとる子どもを見つけた女の子が海に飛び込んで、子どもはなんとか助かったんやけど、女の子は力尽きてまってねえ、そのまま……。たしか、助けられたのは幼稚園くらいの子だったかねえ……」
頭の中で、点と点が繋がっていく。でもそれは少しも嬉しいことではなくて、胸がぎりぎりと痛んで、苦しくて、吐きそうだった。
「亡くなったのは、たしかおばあさんとふたり暮らしをしとった女の子やったって聞いたよ。たったひとりの大事な大事なお孫さんを若くして亡くして、おばあさんはどんな気持ちやったかねえ……」
おばあちゃんの言葉で、あの日のことを思い出した。お父さんが訪ねて来て、自分のすべてを否定されたような気がして、激しい雨の中、投げやりな気持ちで荒れた海に行き、死んでもいい、と思ったこと。もしもあのとき漣が来てくれなかったら、今ごろどうなっていたか分からない。
そして彼に連れられて帰った私の濡れた身体を、おばあちゃんが泣きながら強く強く抱きしめてくれたこと。おじいちゃんも、「心配しとったよ」と頭を撫でてくれたこと。あのときふたりは、どんな気持ちだったんだろう。
「自分の子どもや孫に先立たれるゆうんは、本当に、考えただけで胸がつぶれるくらい、悲しいねえ……」
涙をにじませるおばあちゃんを見ていて、ふいにお母さんの顔が浮かんできた。
お母さん——おじいちゃんとおばあちゃんのひとり娘。お母さんが事故に遭い、意識不明になったと聞いて、ふたりはどれほど絶望しただろう。
自分のことばかりだった私は、そんな当然のことにも考えが及ばなかったのだ。
涙が溢れそうになるのを、必死に堪える。訊かなくてはいけないことが、もうひとつある。
「……亡くなった女の子の名前は、分かる?」
なんとか声を絞り出すと、おばあちゃんは首を横に振った。
「違う町内の子やったから、名前までは……」
そっか、とうなずいてから、「ありがとう」と呟く。
「ありがとね、おばあちゃん。本当に、いろいろ、ありがとう……」
上手く言葉にならない思いを込めて告げたあと、私はなにかに追い立てられるような気持ちで家を飛び出した。
私になにができるか、なにをどう訊くか、なにを言うべきか。なにひとつ分からないけれど、私は無我夢中で足を動かした。どうすればいいかなんて全く分からないけれど、とにかく走らずにはいられなかった。
漣は私にたくさんのことをしてくれた。たくさんのことを言ってくれた。心を閉ざして殻に閉じこもっていた私には、あまりにも辛辣で厳しい言葉ばかりだったけれど、でも、それは確かに優しさだったのだと、今なら分かる。漣が教えてくれなかったら、きっと私は今でも気づけずにいたことがたくさんあった。
今度は私が彼のためになにかをする番だ、と思った。
ナギサの店内には、まだ明かりがついていた。
窓から中を覗いて、奥のテーブル席にユウさんが座っているのを確認すると、入り口のドアをノックする。
「こんばんは。夜遅くにすみません」
声をかけると、すぐにユウさんがドアを開けてくれた。
「真波ちゃん。どうしたの、こんな時間に」
「すみません……どうしても、ユウさんと話したいことがあって……」
彼は目を見開き、それから「どうぞ」と中に入れてくれた。
店内に足を踏み入れると、テーブルの上に置かれた四角柱のような形の木枠と、丸められた和紙の束が目に入った。私の視線に気づいたのか、ユウさんが説明してくれる。
「明日は龍神祭だからね、灯籠を作ってたんだ」
「そうなんですか。忙しいのに、ごめんなさい」
「いいよ、いいよ。もうほとんど終わってるから。それで、話って?」
促されて、私はなにを伝えればいいのか逡巡する。ただとにかくユウさんに会わなきゃ、という思いだけで走ってきたので、なにを訊くのか考えていなかった。
どう話せばいいのかと迷いながら目を泳がせて、キッチンの戸棚に飾られた桜貝のネックレスを視界にとらえた。
「あのネックレスって……」
思わず呟くと、彼は「ああ」と微笑んだ。そして、愛おしげな眼差しをネックレスに向けながら口を開く。
「凪沙と俺の桜貝だよ。子どものころに海岸で拾った貝殻を、ふたりで分けて持ってたんだ、ずっと……」
ナギサさんの名前を聞いた瞬間、ぎゅっと心臓をつかまれたような気持ちになった。
「……あの、急にすみません。よかったら、でいいんですけど……」
「うん?」
唐突な私の言葉に、ユウさんは首を傾げて軽く目を見張った。
「……ナギサさんが亡くなったときのこと、聞かせてもらえませんか……」
どこまで話していいのか分からず、ひどく不躾な質問になってしまった。それでも彼は、ぱちぱちと瞬きをしてから、「うん、いいよ」と笑ってくれる。
「凪沙は、高校一年の夏休み……龍神祭の前日、海で溺れて亡くなった。……ちょうど今日が十回目の命日なんだ」
彼は目尻に優しい笑みを浮かべながら言った。
「海に落ちてしまった男の子を見つけて、助けようと飛び込んで……ちゃんと男の子を父親に引き渡したあと、自分は力尽きて、溺れちゃったんだ」
ああ、やっぱり、と目の前が暗くなる。想像が当たってしまった。絶対に当たってほしくなかったのに。
「そして、俺の目の前で、亡くなった……」
ひゅっ、と喉が鳴った。呼吸を忘れたまま、これ以上ないくらいに目を見張り、言葉を失って彼を見つめる。
「俺は遠くから、溺れた子を助けるために海に向かう凪沙を見つけて、必死に追いかけた。そして凪沙が溺れて海に沈んだあとすぐに追いついて、なんとか引き上げたんだ。でも、凪沙はもう意識がなくて……」
ユウさんの目に、じわりと涙がにじんだ。ゆっくりと溢れて、頬に伝い落ちる。微笑みながら、泣いていた。
目の前でたったひとりの大切な人の命が失われていくのを見届けるのは、どんな気持ちだったろう。私には想像することすらできない。
「でも、救急車の中で、一瞬だけ意識が戻ったんだ。目を開けて少し喋ってくれて……。でも、すぐにまた意識を失って、そのまま二度と目覚めなかった」
ユウさんは幾筋もの涙をこぼしながら続けた。
「あのとき俺があと一分でも早く追いついてたら。そしてちゃんとした救助の方法を知ってたら、ちゃんと心肺蘇生をやれてたら、凪沙は死ななくて済んだかもしれない……何度も何度も何度も、そう思った。でも、今さらそんなこと思ったって、遅いんだ。……俺は全部、なにもかも、間に合わなかった」
静かな口調だったけれど、その奥には、どうにもならない激しい後悔と、大きすぎる悲しみが秘められているのが分かった。
私はもうなにも言えなくて、唇を噛みしめていることしかできない。
「……真波ちゃんは、今日、きっと、大切な誰かのために、そんなに必死な顔をして、息を切らしてここに来たんだよね」
しばらくして涙を拭ったユウさんが、じっと私を見つめて言った。
私は声も出せないまま、こくりとうなずいた。
「俺は凪沙を……すごくすごく大切な人を守れなかった。絶対に俺がなんとかする、絶対に助けるって思ってたのに、できなかった。失敗した」
彼はひとつ息を吐き出して、切なくなるほど静かに続ける。
「……死ぬほど後悔したよ。今もずっとしてる」
あまりにも重い言葉が、私の胸に深々と突き刺さった。ユウさんの痛みが伝わってきて、息が苦しい。
だからね、とユウさんが優しく微笑んだ。
「真波ちゃんには、そんな思いをしてほしくない。自分にできる限りのことを全部やって、後悔しないようにしてほしい」
私は堪えきれずに嗚咽を洩らしながら、何度も何度もうなずいた。
ユウさんは涙に潤んだ声で、「頑張ってね」と囁いた。
翌朝、目を覚ました私はすぐに漣の部屋に行き、「おはよう」と勢いよくドアを開けた。
彼は昨日と同じ姿勢で寝転がっていた。服もそのままだ。生きているのに、死んでいるみたいに見えて、背筋が寒くなる。
それを振り払いたくて、わざと強い声を出した。
「漣、話をしよう」
相変わらず反応はない。次はもっと声を大きくする。
「漣、起きて。話がしたいの」
かたわらに膝をついて肩を揺すると、彼はやっとわずかに身じろぎをした。
ねえ漣、と呼びかけた声は、まるですがるような声音になった。
「漣の話を、つらさを、聞かせて……」
そう呟いたとき、彼がゆっくりと顔を上げた。青白く生気のない、憔悴しきった顔だった。
「……ひとりじゃ抱えきれないことも、誰かに話すだけで、楽になることもあるんだよ……漣が私の話を聞いてくれたみたいに」
私の言葉でなにかを悟ったのか、彼は大きく目を見開いて身体を起こした。
「——なにか、知ってるのか?」
怯えたような声色だった。
怖がらないで、と伝えたくて、刺激しないようにそっとその手を握る。
「はっきりとは知らないけど、たぶん……私の考えが正しいなら」
触れた部分から、漣の身体の力が抜けたのが分かった。
「……そうか。知られちゃったか……」
なにかを諦めたように、彼は言った。
きっと、誰にも知られないように、自分の心の中だけに秘めてきたことだったのだろう。これからも誰にも打ち明けずに背負い続けるつもりだったのだろう。
でも、もう限界が来ているのだと、その様子を見れば分かった。抱えきれないほどに大きく膨らんでしまった荷物を下ろさないと、そのまま倒れて、二度と立ち上がれなくなってしまいそうだった。
だから私が、漣を助け出さなきゃいけないんだ。
その気持ちを上手く言葉にできる気がしなくて、握った手に力を込める。思いよ伝われ、と祈りながら。
しばらく呆然としたように黙り込んでいた漣が、ゆっくりと口を開いた。
「……俺が、ユウさんから、ナギサさんを、奪った」
絶望に塗りつぶされたような声だった。
「ナギサさんを愛していた人たちから、俺が、ナギサさんを奪った。ナギサさんが死んだのは、俺のせいだ……」
ああ、とうとうすべてが繋がってしまった。目の前が真っ暗になる。
どうか私の思い違いでありますように、と心から願っていたのに、推測が当たってしまったのだ。
言葉を失った私に、漣がぽつぽつと語り始めた。
「六歳のとき……父親と弟と一緒に、鳥浦の港に来たんだ。父親は釣りをしてて、俺と弟は近くで遊んでた。父親からは、海に落ちたら危ないから絶対に離れるなよ、って言われてた。でも、しばらくしたら俺も弟も飽きてきて退屈になって、追いかけっこを始めたんだ。最初は気をつけてたんだけど、だんだん夢中になって……気がついたら、海に落ちてた。泳げないわけじゃなかったのに、足が着かないからパニックになって、そのまま溺れた」
漣は感情を失くしたように淡々と言葉を続けた。
「……まだ子どもだったし、ショックが大きかったからか、溺れたときのことはほとんど記憶がないんだ。どうやって助けられたのかも分からないし、救急車で運ばれてるときのことも、意識はあったはずなのに、断片的にしか覚えてなかった。病院で目が覚めたとき、両親が泣きながら『お姉さんが助けてくれたんだよ』って教えてくれた。そのときは、優しい人がたまたま近くにいてよかったな、ってくらいにしか思ってなかった」
ひとつひとつ確かめるようにゆっくりと話す漣。
私はただ、それを聞くことしかできない。
「でも、退院した日に、『実は助けてくれたお姉さんは死んじゃったの、今日がお葬式だから、お礼とお別れを言いに行こう』って言われて、鳥浦に来たんだ。なにがなんだか分からないうちに、親に言われるがまま棺桶の中の女の人に『ごめんなさい、ありがとう』って声をかけた。そのときのことも記憶はぼんやりしてるけど、ナギサって名前と、父親と母親が土下座して泣きながら謝ってたことと、棺の前に小さいおばあさんと、壊れた人形みたいにへたりこんでた男の人がいたのは、なんとなく覚えてた」
漣がふっと息を吐く。そして、震える声で呟いた。
「……今思えば、あれは、ナギサさんのおばあさんと、ユウさんだったんだよな」
私はなにも言えなくて、ひたすら涙を堪えていた。漣が頑張って話してくれているのに、私が泣くわけにはいかないと思った。
「小さいうちはそれくらいしか分かってなかったんだ。でも……成長して物事が分かるようになってきたとき、ある日突然、自分のせいで人が死んだんだ、っていう事実が、どうしようもないくらい重くのしかかってきて、忘れられなくなった」
漣が唇を噛み、ゆっくりと瞬きをする。
「心配かけるから親には言わなかったけど、家にいても学校にいても、なにをしてても、その人のことが頭から離れなくなった。でも、もう何年も経ってて今さらその人にできることなんかないと思ったから、せめて、『こんなやつ助けなければよかった、無駄死にだった』なんて思われないように、いい子だと思ってもらえるようにしようって、勉強も部活も人間関係も全部全力で頑張ろうって思ってた……」
その言葉が胸に突き刺さり、ちくちくと痛んだ。
誰もが認める優等生で、文武両道で、誰からも信頼されている漣。そんな姿を見て私は、生まれながらに恵まれているだとか、悩みなんてなさそうだとか、勝手なことを思っていたし、本人にもそう言った。
でも、それは誰よりも誠実に頑張ってきた漣の努力の賜物だったのだ。彼の行いの裏に、まさかこんなにも苦しく切実な思いが隠されていたなんて、思いもしなかった。考えなしに本当にひどいことを言ってしまった。過去の自分を殴りたい。
「中学三年で受験が近づいてきたとき、鳥浦に行かなきゃ、って急に思いついた。俺のせいで亡くなった人が生きてた町に行って、その人の家族にちゃんと謝って、それで海の近くでその人に感謝と謝罪をしながら祈り続けることくらいしか、俺にはできないと思った……」
そこで一度口をつぐんだ漣が、ふいに自嘲的な笑みを浮かべた。
「……でも、いざここに引っ越してきたら急に怖くなって……その人の家族を捜す決心がつかなかった。あの子を返してって責められるかもしれない、どんなに謝っても許されないかもしれない、って思ったら、怖かったんだ」
「それは、当然だよ」
私は初めて彼の話に口を挟んだ。
「誰だってきっとそう思うよ。私だって、漣と同じ立場ならきっと、怖くて動けない。たぶん、なかったことにしよう、忘れよう、って考えちゃうと思う。だから、漣はひとりでこの町に来て、今も暮らし続けてるってだけで、本当に本当に、すごいことだと思うよ……」
なんとか慰めようと思って必死に語りかけたけれど、漣は小さく笑っただけで、また苦しみに満ちた顔に戻ってしまった。
「でも、俺がユウさんの大事な人を、誰かの家族を奪ったことには変わりないよ。そもそも、人を死なせた俺には、幸せになる資格も、笑って暮らす権利もなかったんだ。今までのうのうと生きてきたけど、今さらそのことに気づいた……」
だから漣はこんなふうになってしまったのか。自分の幸せや笑顔を許せなくなってしまったのか。
なんでそんなふうに考えるの、と叫びたかった。でも、きっと今の漣には、部外者の私の言葉なんて届かない。
だから、私は言った。
「漣、ユウさんに会いに行こう」
その瞬間、彼の顔がさっと血の気を失った。
「嫌だ」
ほとんど聞き取れないくらいにかすれ、震えた声だった。
「どんな顔して会えって言うんだよ!」
恐怖と不安に満ち、怯えきったような表情だった。それは、彼が初めて見せた弱さだった。
みんなから信頼され、慕われ、いつも自信に満ちていて、常にまっすぐに強く生きているように見えた漣の裏側に、私は初めて触れた。
「それでも、行こう。このままじゃ、だめだよ……」
私は漣の手をつかみ、言葉にならないすべての思いを込めて、ぎゅうっと握りしめた。
昼過ぎにユウさんに電話をかけると、今日はナギサの定休日ということで、彼が買い出しを終える夕方に会ってくれることになった。
待ち合わせ場所の砂浜に私と漣が佇んでいると、ユウさんは約束の時間より十分も早くやってきた。
「こんにちは」
いつも通りの人懐っこい笑顔で、私たちにそう声をかけてくれたけれど、漣は凍りついたようにぴくりとも動かず、うつむいたまま顔を上げない。
「今日は龍神祭ですね。私、初めてなんで、けっこう楽しみです」
少しでも場の空気を和らげたくて、私はとりあえず世間話をしてみる。
「そうだよね、真波ちゃんは越してきたばっかりだもんね。灯籠行列も、最後の篝火も、すっごい綺麗なんだよ。乞うご期待」
ユウさんも、きっと漣の様子がいつもと違うことには気づいていると思うけれど、なにも言わずに話を合わせてくれる。
「真波ちゃん、灯籠は作った?」
「あ、はい、おばあちゃんに教えてもらって。でも、絵付けはまだやってないんですけど……」
龍神祭で使う手作りの灯籠には、絵や文字を書くのが習慣になっているらしい。おばあちゃんと一緒に灯籠作りをしていたときに、『まあちゃんもなにか書いたら? 願いごとを書く人もいるよ』と言われたけれど、いろいろと悩んでいるうちに時間が経ってしまい、結局今も真っ白なままだった。
「そっかそっか。まあ、なにも書かない人もいるからね。願いは自分だけの秘密にするってのもいいと思うよ」
「いや、そういうわけでもないんですけど……」
そんな会話をしていたとき、私の隣でうつむいて立ち尽くしていた漣が、唐突にユウさんのほうを向き、勢いよく頭を下げた。
「——ごめんなさい!」
ユウさんが驚いたように「わっ」と声を上げる。
「えっ、急にどうしたの、漣くん」
身体を深く折り曲げ、膝をつかんで頭を下げ続ける漣の肩は、小刻みに震えていた。
「……俺なんです」
呻くように言った彼を、ユウさんは不思議そうに首を傾げて見て、「え?」と訊き返した。
漣がごくりと唾を飲み込む音が聞こえる。私は思わず彼の背中に手を置いた。少しでも力を送ってあげたかった。
しばらくして、漣が意を決したように大きく息を吸い込んで、口を開いた。
「……ナギサさんに助けてもらったのは、……俺なんです」
「……!」
ユウさんが息を呑み、目を大きく大きく見開く。
「凪沙に、助けられた……? もしかして、海で溺れた……?」
漣がうつむいたままこくりとうなずいた。
私は固唾を呑んでユウさんを見る。その口からどんな言葉が出てくるのか、怒りか、恨みか、予想もできない。
しばらくの間、まるで時が止まったかのように硬直していたユウさんが、ふっと目元を緩めて呟いた。
「そうか……。漣くんが、あのときの子だったのか……」
囁くように言ったユウさんが、ふいに漣に向かって足を踏み出し、同時に両手を伸ばした。
漣の肩がびくりと震える。もしかしたら、殴られると思ったのかもしれない。
でも、ユウさんは、彼の身体に両手を回して、きつく抱きしめた。
今度は漣が、これ以上ないくらいに大きく目を見開く。
「……ありがとう。教えてくれて、嬉しい」
「え……?」
その瞬間、漣の両目から、ぼろぼろと涙が溢れ出した。喉から苦しげな嗚咽が洩れる。
「ごめ、ごめんなさい……!」
ほとんど声にならない悲鳴のような声で、漣が謝り続ける。
「ごめんなさい、ごめんなさい、俺のせいで……ナギサさんが……」
するとユウさんは、ふふっと小さく笑った。
「漣くんはなんにも悪くないんだから、謝らなくていいよ」
包み込むような優しい声で囁きかけ、落ち着かせるように漣の背中をとんとんと叩く。
驚いたように目を丸くした漣が、でも必死に否定するように首を横に振る。
「違います、俺のせいなんです。あのとき俺が、親の言うこと聞かずに、馬鹿なことして溺れたりしなければ……。俺が、ナギサさんを、死なせてしまったんです……」
聞いているだけで胸が苦しくなる。彼が今までどれほどの後悔と罪悪感を抱えて生きてきたのか、その表情から、言葉から、震える身体から痛いくらいに伝わってきて、苦しかった。
「……きっと俺のこと恨んでる……」
漣が両手で顔を覆い、絞り出すような声で言った。
すると、ユウさんが「ねえ、漣くん」と彼の手をつかんで顔から引き剥がし、その目を真正面からまっすぐに見つめた。
そして、漣に言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「凪沙が漣くんのせいで死んだなんて、思わなくていい。漣くんが悪いんじゃない、漣くんが死なせたわけじゃない」
ユウさんがきっぱりと言った。
確信に満ちた口調と、迷いひとつないまっすぐな眼差し。
「凪沙は絶対に、漣くんを恨んだりしてない。漣くんのせいだなんて、絶対に言わないし、思ってもないよ。俺が保証する。ただ、凪沙は、目の前で苦しんでる子を助けずにはいられなかっただけ。見過ごすなんて絶対にできなくて、自分の命も危ないって分かってても、飛び込まずにはいられなかっただけ」
そう言いながら、ユウさんは本当に愛おしそうに微笑んだ。
「……そういう子なんだ、凪沙は。優しい、本当に……優しすぎるくらい優しくて、自分を犠牲にして人を助けちゃえるくらい、深い深い愛をもってる子なんだ」
まるで彼女がまだ生きているかのような口調で、ユウさんは語る。
だからね、と彼は漣の手を強く握りしめた。
「漣くんがそんなふうに自分を責めながら生きてたら、凪沙はきっと悲しむ——」
そこまで言って、ユウさんはふいに口をつぐんだ。それから、おかしそうにくすりと笑って、「いや」と言い直す。
「きっと、怒るよ」
「……えっ。怒る?」
私は思わず声を上げて訊き返してしまった。するとユウさんは噴き出して私を見る。
「そう。めっちゃくちゃのめっためたに怒るよ。激怒する。凪沙は、怒らせるとすっごく怖いんだ」
激怒するとか、怖いとか、私が思い描いていた〝ナギサさん〟の聖母のようなイメージとはあまりにも違って、唖然としてしまう。
俺もよく怒られてたよ、とおどけて、ユウさんは懐かしむような目つきで微笑んだ。
「バランスのいい食事をしろとか、部活ばっかりじゃだめ、ちゃんとテスト勉強しろとか、しょっちゅう怒られてた。全部俺のためだったけどね。凪沙は自分のために怒ったことなんて一度もなかったよ」
ユウさんが漣を見て、突然、怒ったような表情を浮かべた。
「漣、あんた、なにいつまでも大昔のこと気にしてうじうじしてんの! 私はそんなこと望んでない、馬鹿みたいに笑って楽しく生きろ! そしてちゃんと幸せになれ!」
私は固唾を呑んで彼を見つめる。
「——って怒り狂うよ、きっと凪沙は。そういう子なんだ」
どうやら、ナギサさんの口真似をしてくれたらしい。
今までぼんやりとしていた彼女の姿が、ユウさんの話を聞いてどんどん形をはっきりさせ、生き生きと輝きだした。いつも優しく穏やかに微笑みながら、すべてを許して受け入れる聖母のイメージはどんどん霞んでいき、代わりに、なにものにも臆せずはきはきとものを言う、しっかり者で生気に溢れた少女の姿が立ち上がってくる。
——ああ、ナギサさんは、生きていたんだ。
そんな当たり前のことを今さらながらに実感して、胸がいっぱいになった。
私は目を閉じて、ナギサさんのことを思う。ユウさんを叱り、でも自分のためには怒らず、目の前で溺れる子どもを助けるために危険も顧みず海に飛び込んだ人。
なんて、なんて優しい人なんだろう。海のように深い優しさ。この気持ちを表す言葉が見つからない。ただただ、胸が熱くなった。
きっと彼女は本当に、自分が助けた子どもがいつまでも罪の意識に苛まれることなんて、少しも望んでいないだろうと思えた。
かたわらの漣に目を向ける。彼は項垂れたまま、ひとりごとのようにかすかな声で囁いていた。
「でも、俺は……、幸せになる資格なんかない、許されない……だって、ナギサさんは俺のせいで……」
この期に及んで、まだそんなことを言っているのか。そう思った瞬間、
「——いい加減にしなよ、漣!」
そんな言葉が口をついて出た。
漣とユウさんが示し合わせたように、目をまん丸にして同時に私を見た。
「……ナギサさんはきっと恨んでなんかない。ユウさんがそう言うんだから、絶対にそう」
「真波……」
「相手が許してくれてるのに、いつまでもぐじぐじ自分のこと責めてたって仕方ないじゃん」
唖然としたように私を見つめる漣の瞳に、きっと今までしたこともないような表情をしている私が映っていた。
「漣の気持ちは分かるけど、いや、私は同じ立場じゃないから想像するしかないんだけど、きっとすごくつらいだろうし、責任感じるだろうし、後悔するのも分かるよ、でも……そんなことは、きっとナギサさんは、全く望んでない。せっかく助かった命だから、笑って幸せに生きてほしいって思ってるはずだよ。だったら、きっと……」
呼吸を整えて、決意を固める。
きつい言葉になってしまうという自覚はあった。
口下手な私が選んだこの言葉が最適なものかどうか分からないけれど、でも、言わなきゃいけない言葉だと思った。
ユウさんはすごくすごく優しいから、きっと言えない。ナギサさんも、もう自分の口から思いを伝えることができない。おじいちゃんもおばあちゃんも、漣にこんなきついことは絶対に言えないだろう。漣の家族も、家族だからこそ、きっと言えない。
他の誰にも言えない。私にしか言えない。
だから、私が言わなきゃいけないんだ。
「……漣の罪悪感や後悔は、たぶん、ただの自己満足でしかないんだよ。だって、そんなの誰も求めてないんだから」
その瞬間、漣の顔が大きく歪んだ。それを見られたくないのか、彼は苦しげな吐息を洩らしながら海へと視線を向ける。
つられて目を向けると、そこには、一面の夕焼けが広がっていた。
色鮮やかに燃え上がる空と海。その境界線に、炎の塊のように濃いオレンジの大きな夕陽が、じりじりと沈んでいく。
ふいにユウさんが「俺はね」と静かに口を開いた。
「漣くんに会えて、すべて打ち明けてくれて、嬉しかったよ」
漣が息を呑み、ユウさんに目を向ける。彼は本当に嬉しそうに笑っていた。
「凪沙が命を懸けて救った子が、こんなに大きくなって、こんなにいい子に育ってくれて、自分を責めずにはいられないくらい優しい子になってくれて、それを知ることができて、本当に嬉しかった」
ユウさんの声が、じわりとにじむ。向かい合う漣の顔も、くしゃりと歪んだ。
「漣くんが鳥浦に来てくれてよかった。漣くんに会えてよかった」
「……あ、」
「漣くん。生きててくれて、ありがとう」
漣も、ユウさんも、泣いていた。
止めどなく流れて頬を伝い落ちるふたりの涙が、燃えるような夕焼け色に輝いている。
「……まあ、欲を言えば、漣くんが毎日楽しく笑顔で暮らして、めいっぱい幸せな人生を送ってくれたら、もっともっと嬉しいけどね」
いたずらっぽく笑ったユウさんが、突然、弾かれたように動き出した。
波打ち際に向かって、まっすぐに駆けていく。途中でスニーカーを脱ぎ捨て、オレンジ色に染まる砂を裸足で踏みながら走り、ざぶざぶと海に入っていく。
膝のあたりまで水に浸かったとき、彼は足を止めた。
「凪沙———!!」
ユウさんが両手を口に当て、一面の夕焼けの海に向かって、愛する人の名前を大声で呼ぶ。
「凪沙!!」
私と漣も彼のあとを追って、そして彼の隣に並んだ。
「凪沙が守った子が、会いに来てくれたぞー! もう高校生だってさ! すげえよな! ちゃんと無事に大きくなってくれてるよ! しかもさ、めっちゃしっかり者で優しくて本当にいい子なんだぞ! やったな、嬉しいな! なあ、凪沙!!」
ユウさんは笑顔だった。でも、涙は流れ続けている。
「……凪沙、凪沙……」
すがるように呼ぶ声は、ひどく優しく、切なく潤んでいた。涙を手で拭った彼が、ふいに空を仰いで口を大きく開けた。
「……ああ———!!」
声の限りに、空へ叫ぶ。
すると、漣も一歩前に出て、海に向かって声を張り上げた。
「あああ———!!」
胸に鋭く突き刺さるような、空気がびりびりと震えるほどの声だった。
「ぅあ、あああ———!!」
泣き叫びながら、漣はがくりと崩れ落ちた。波の中にへたり込み、ぼろぼろと涙を流し、それでも声を上げ続ける。
「あ———っ!!」
「あああ———!!」
慟哭するふたりの声が重なり、海に溶けていく。それを見ている私の頬も、いつの間にか涙に濡れていた。
誰かのために流す涙がこんなにも熱いだなんて、私は今まで知らなかった。
「わあああ———!!」
「うわああ———!!」
泣きわめくユウさんと漣の、意味をなさない叫びが、私の耳には確かに、ナギサさんへと贈る言葉——『大好き』『愛してる』、そして『ありがとう』、『ごめんなさい』に聞こえる気がした。
この胸に溢れる気持ちを、痛いくらいに締めつける思いを、どんな言葉で表わせばいいのだろう。
苦しくて、切なくて、やるせない。
どうして彼らの身に、こんなにもひどい、悲しいことが起こったのだろうと思うと、悔しくてたまらなかった。
家族のいないユウさんが、誰よりも愛していたナギサさんを亡くしたこと。
自分の身を顧みずに他人を救ったナギサさんが、亡くなってしまったこと。
誰かの命と引き換えに助かった漣が、その罪悪感で苦しみ続けたこと。
そのすべてが、神様の仕業と言うには、運命の悪戯と言うには、あまりにも残酷だった。
でも、漣の、ユウさんの、ナギサさんの思いを知ったことで、私の心は確かに、まるで潮が満ちてくるように、とても柔らかくて温かいものでいっぱいになっていた。
オレンジ色の光に包まれながら、私たちはいつまでも海を眺めていた。
あたりがすっかり夜闇に沈んだころ、龍神祭が始まった。
青い砂浜に佇む私たちのもとに、太鼓の音とともに灯籠行列が近づいてくる。
海沿いの道を見上げると、人々が手に持つ灯籠の明かりが、海の中を漂う光のようにゆらゆらと揺れていた。
行列が砂浜にたどり着くと、篝火が焚かれた。みんなが自分の灯籠を火にくべていく。たくさんの灯籠を呑み込んだ炎は大きく燃え上がった。
ごうごうと音を立てながら夜空へと立ち昇る炎と、雪のように舞い落ちてくる火の粉をぼんやり眺めていたとき、ふと爪先がなにかに触れて、かさりと音が鳴った。見ると、貝殻のようだ。
しゃがみ込んで拾い上げ、火にかざしてみると、ピンク色に透き通っていた。
桜貝だ。ユウさんが教えてくれた、幸せを呼ぶ貝。
今にも壊れそうなほど薄くて華奢な貝殻を、私はそっと手のひらで包んでポケットに入れた。
「それじゃあ、行ってきます」
玄関で靴を履いた私は、上がり框に並んで見送ってくれるおじいちゃんとおばあちゃんに声をかけた。
「まあちゃん、気をつけてね。今日は暑いから、こまめに水分摂って、なるべく日陰を歩くんよ」
「うん、気をつける。ありがとう」
そのとき、鞄を持った漣が二階からやって来て、「真波」と声をかけてきた。
「なに?」
「俺も行くわ」
「えっ、え? 私、お母さんの病院に行くんだけど……」
「知ってるよ。俺もついてく」
「え……なんで」
「別に、気が向いたから。久しぶりに地元の空気でも吸おうかなと」
「ふうん……」
そっけなく答えたものの、正直なところ、それは心強いな、と思ってしまった。
なんせ、お父さんと、今後のことについて話をするために行くのだ。自分で決めたこととはいえ、どんな話し合いになるだろうと考えると、やっぱり足は重かった。漣が来てくれるなら、少しは気が紛れそうだ。
「あら、漣くんも一緒に行ってくれるん」
おばあちゃんが嬉しそうに声を上げた。
「実はね、隆司さんとまさくんに手土産を持っていってもらおうかと思っとったんやけど、荷物が重くなってまうかなと思ってやめたんよ。よかったら、漣くん持ってあげてくれんね」
「うん、いいよ、持ってく」
「よかった! じゃあ、ちょっと取ってくるから待っとってね」
台所に入ったおばあちゃんが、しばらくして大きな紙袋を持って戻って来た。
「お菓子とお酒と、あとタッパーにおかずが入っとるから、倒さんようにね」
漣が「うん、分かった」とうなずいて受け取る。
「それと、これも」
おばあちゃんが今度は私に保冷バッグを手渡した。
「中にカルピスが入っとるからね」
「わ、ありがとう」
ずしりと重いバッグを受け取る。
「それと、アイスも入っとるから。景気づけに食べながら行きんさい」
「景気づけって……」
笑いながら中を覗くと、ペットボトルが二本、そして大きな保冷剤とたまごアイスがふたつ入っていた。
「うわ、たまごアイスだ、懐かしい! ガキのころ好きだったな。ばあちゃん、ありがと!」
漣の言葉を聞いて、唐突に思い出した。そうだ、私も子どものころ、このアイスが大好きだった。
昔鳥浦に遊びに来たとき、おばあちゃんが出してくれた見慣れないアイスに気が進まなかった私は、「たまごアイスはないの? たまごアイス食べたい」とわがままを言ったのだ。おばあちゃんは申し訳なさそうな顔で、「ごめんね」と謝っていた。
十年以上前のそんな些細なことを、おばあちゃんはずっと覚えてくれていて、私がこの家に住むことになったときに、きっとカルピスと一緒に買っておいてくれたのだ。たぶん、子どものころに好きなアイスを食べさせてあげられなかったから、今度こそはと思って。
そして、私が学校のことで落ち込んでいたあの日、励まそうとしてたまごアイスをすすめてくれたのだろう。
ああ、私は本当に馬鹿だな。人の優しさは目に見えないから、ちゃんと自分で気づかないといけないのだ。
黙ってたまごアイスを見つめる私に、おばあちゃんがぽつりと言った。
「まあちゃんが小さいころに、ちゃんと食べさせてあげられたらよかったんやけどねえ」
後悔しているような口調だった。私は慌てて「そんなことないよ」と首を振る。
「あれはただの私のわがままだったんだから、気にしないで」
なんとかおばあちゃんを慰めたくて言ったけれど、その顔はやっぱり曇ったままだ。それからおばあちゃんは眉を下げて目を細め、「実はね」と呟いた。
「ずっとねえ、謝らんといかんと思っとったことがあるんよ」
「え……、なに?」
「……あのねえ、今までまあちゃんとまさくんに、なかなか会いにいかれんくて、悪かったねえ」
申し訳なさそうに力なく微笑むおばあちゃんの隣で、おじいちゃんも「すまんかったなあ」と言った。
鳥浦とN市は、県内とはいえ離れているし、おじいちゃんたちにとっては移動も大変な場所だ。だから、会いに来てくれなかったことにまったく疑問も不満もなかった。それなのに、なぜ謝るのだろう。
「実はなあ、じいちゃんらは、隆司さんのご両親と、あんまり上手くいっとらんくてなあ。洋子と隆司さんが結婚するっちゅうときにな、うちみたいな田舎のひとり娘は実家を大事にしすぎるから嫁にとるわけにはいかん、嫁に来るなら実家を捨てる覚悟をしてもらわんとっちゅうて、ずいぶん反対されたんだと。それを聞いて、じいちゃんらはご両親の家に説得しに行ったんよ。そんでも聞く耳持ってくれんくてなあ。じいちゃん、かちんと来てまって、『こんな家に大事な娘はやれん、こっちからお断りだ』っちゅうて怒鳴りつけてまってな」
温厚なおじいちゃんがそんなことを言ったなんて信じられなくてぽかんとする私に、おばあちゃんがおかしそうに笑った。
「あのころはじいちゃんも若かったんよ」
おじいちゃんも同じような顔で「そうなあ」とうなずく。
「今ならもっと上手いこと収められるかもしれんけど、あのときは怒りが堪えきれんかった」
穏やかに笑うおじいちゃんを見ると、やっぱりどうしても怒鳴る姿なんて想像できない。でも、お母さんのためにおじいちゃんが怒ったというのが、なんとなく嬉しかった。
「それでな、じいちゃんらは洋子に、『あんなこと言う家に嫁に行くことない』って止めたんよ。そんでも洋子は、隆司さんと結婚するって聞かんでな。ほとんど駆け落ちみたいにして嫁に行ったんよ」
あの堅物のお父さんとお母さんが、両方の親に反対されて、それでも結婚したくて駆け落ちするほどの情熱で一緒になったなんて、驚きだった。
「それからしばらくは、お互いに意地張ってまってな、なかなか顔も見んかったなあ」
「でもね、まあちゃんが生まれたって聞いて、そのときばっかりは我慢できなくてねえ、会いにいったんよねえ」
「えっ、そうなの? 私が赤ちゃんのときに会ってるってこと?」
「そうよお。小っちゃくって可愛かったよ。それからはね、少しずつ洋子と電話で話したりもするようになって、まさくんが生まれて落ち着いてきたころ、まあちゃんも連れてうちに遊びに来てくれたんよ。覚えとる?」
「うん、幼稚園のときだよね」
「そうそう」
おばあちゃんが嬉しそうにうなずく。それからおじいちゃんが言葉をついだ。
「まあちゃんもまさくんも可愛いくて、洋子とも和解できたし毎日でも会いたいって思っとった。でもやっぱりなあ、じいちゃんらはどうも、結婚のときのことがあったから、あちらのご両親に会わせる顔がなくてな、あのころはまだ働いとったから仕事を言い訳にして、会いにいってやれんかった。洋子も忙しいからそんなしょっちゅう鳥浦に戻れんしな、なかなか会う機会がなくて……、まあちゃんらからしたら、おるかおらんか分からん祖父母やったろう」
それは否定できなかった。実際、ここに引っ越してきたときは、私の気持ちとしてはほとんど初対面だったのだ。
ふふ、と寂しそうに笑ったおばあちゃんが、「あんなことに」と、ぽつりと呟いた。
「……洋子があんなことになるって分かっとったら、もっとたくさんたくさん会いにいったのにねえ……そのうちそのうちって先延ばしにしとるうちにねえ……。今さらこんなこと言ったって遅いんよね……」
事故のことを言っているのだ。まさか母子で事故に遭い、お母さんは意識不明のまま眠り続けることになるなんて、私だって思ってもみなかった。
「まあちゃんと洋子が運ばれた病院に慌てて駆けつけたけど、あちらのご両親は事故のことで気が立っとったし、なかなか顔を合わせづらくてねえ、時間をずらして面会したんよ」
初耳だった。私は息を呑んで目を丸くする。
「そうだったの? 知らなかった……」
「まあちゃんはちょうど薬でぐっすり眠っとって、顔見るだけやったから……」
「ううん、そんなの気にしないで。会いに来てくれただけで嬉しいよ」
私の言葉に、ありがとねえ、とおばあちゃんは笑ってから、
「今でも月に一回はこっそり洋子に会いにいっとるんよ」
と打ち明けてくれた。
「えっ、そうなの?」
驚いたものの、思い返してみれば確かに、お母さんのお見舞いに行くと、病室に花が飾られていることが何度もあった。なにも考えずに、誰か来たのかな、くらいに思っていたけれど、十年も意識不明の人のお見舞いに来るなんて、家族くらいしかいないだろう。しかも、一度は病院の中でふたりの姿を見かけたこともあったのに、どうして花を飾ったのがおじいちゃんやおばあちゃんだと思わなかったのか、自分でも情けなかった。
「まあちゃんたちにも会いたかったんやけどねえ、あちらの家に行くのもどうかってためらっとるうちに時間ばっかり過ぎてね。そのうち、今さら会いにいったって喜ばれるわけもないし困らせるだけかもしれんとか、嫌な思いをさせるかもしれんとか、ばあちゃんたちも怖くなってまってね……」
おばあちゃんがおじいちゃんと視線を合わせながら、呟くように言った。
おじいちゃんたちも怖いと思ったりするんだ、と意外に思う。でも、ずっと会っていなかった孫にいきなり連絡を取ったり、会いにいったりするのは、とても勇気がいることだろうというのは想像できた。
「だからね、まあちゃんがこっちの高校を受けるって連絡が来たときは、本当に嬉しかったんよ。まあちゃんはばあちゃんらのことを嫌いとは思わずにいてくれとるんやって分かってね」
おばあちゃんの言葉に、私は慌てて「嫌いなんて思うわけないよ」と首を振った。でも、ここに引っ越してきたころの私は、嫌いとまでは思っていなかったものの、おじいちゃんたちに対して疑心暗鬼になっていた。そんなふうに斜に構えてしまっていたことを、今さらながらに申し訳なく思う。
なんとなく二の句がつげなくて黙っていると、おじいちゃんがふいに「まあちゃん」と力強い声で言った。
「じいちゃんらも、こんなふうにいつまでも向こうさんの顔色を窺ってこそこそしとったらいかんよな。まあちゃんが勇気を出してお父さんと話しにいくんやから、じいちゃんとばあちゃんも頑張らんとね」
決然としたおじいちゃんの言葉に、隣でおばあちゃんも深くうなずいた。
「今度こそ、隆司さんのご両親にちゃんと会いにいくよ。せっかく子どもたちの結婚で縁続きになったんだから、このままじゃ寂しいもんなあ。お互い歩み寄っていかんとな……」
「気づいてないこと、知らないことばっかりだったな……」
家を出て駅に向かいながら、私は小さく呟いた。隣の漣がこちらを見る。
「おばあちゃんたちの話聞いて、私、本当に自己中で周りが見えてなくて、馬鹿なやつだったなって、改めて反省した」
すると彼は、ぷっと噴き出した。
「お前、今ごろ気づいたのかよ」
「ひど! そこは普通、『そうでもないよ』とかでしょ! ……いや、まあ、ほんと馬鹿だしわがままだから、その通りなんだけどさ……」
「ちゃんと自分で分かってんじゃん」
「ほんっとデリカシーないな……慰めるとかいう選択肢はないわけ?」
「思ってもないこと言ったって意味ないだろ」
そうだ、漣はこういうやつだった、と私は内心でため息をつきつつ、でも自然と口許が緩んだ。見ていられないくらいに沈み込んでいた彼と、またこんなふうに軽口を叩けるようになったことが、素直に嬉しかったのだ。
そんなことを考えていると、ふいに漣が声色を変えて、「でもまあ」と言った。見るとそこには穏やかな笑みがあった。
「俺だって馬鹿だから、偉そうなこと言えないけどな」
「……ちゃんと自分で分かってんじゃん」
なんとなく気恥ずかしくて、さっきの言葉をそのまま返す。漣はおかしそうに笑った。
「みんなきっとこうやって、自分の馬鹿なところ自覚して、少しずつでも直していって、成長していくんだよな。だから、早く気づけてよかったってことにしよう」
「そうかもね……」
「お前だって、今から自分を変えにいくんだろ?」
漣がにやりと笑って私を見た。彼には私が今からなにをしにいくのかはっきり伝えたわけではなかったけれど、なにか勘づいているのだろう。
「うん……お父さんと対決する」
上手い表現が見つからなくてその言葉を選ぶと、彼はまたおかしそうに噴き出した。
「対決か」
「うん、対決。今までは、お父さんの言うことなら仕方ないって思って、言われた通りにしてたけど……ここを離れたくないから」
地元に戻れと言うお父さんに、ちゃんと自分の考えを自分の言葉で伝える。きっとすぐには分かってもらえないけれど、納得してもらえるまで何度だって説得する。今までに感じたことのない強い決意が、私の胸の中で確かにしっかりと根を張っていた。
私を変えてくれた人たちがいるこの町で、私はまだ暮らしていたい。今お父さんの言いなりになってここを離れたら、きっと後悔すると思った。
「まあ、健闘を祈るよ」
漣がそう笑ったとき、ちょうど海沿いの道に出た。とたんに彼が口を閉ざし、じっと海を見つめる。
龍神祭の日にユウさんと話をして以来、漣は少しずつ元気を取り戻していったけれど、やっぱりときどき、なにか物思いに耽るような横顔を見せる。まだナギサさんやユウさんへの罪の意識が消えないんだろうな、と思った。
しばらく経っても彼が動き出さないので、私は気を取り直すように「ねえ」と声を上げる。
「アイス食べよ。溶けちゃうから」
「ん? ああ」
保冷バッグからたまごアイスを取り出して、気づく。
「……あ、そっか、切らなきゃ食べれないよね」
アイスクリームが入っているゴム製の袋の先端を切らないと中身が出てこない仕組みなのだ。
するとバッグの中を覗いた漣が声を上げた。
「お、はさみ入ってるぞ」
「ほんと!? さすがおばあちゃん!」
漣がはさみを持って刃を入れる。その瞬間、ぴゅうっと中身が飛び出した。
「うわっ!」
漣が慌てて先端を噛む。
「そうだ、こういうアイスだった!」
「時間経ったから溶けちゃってたんだね」
「でもこの災難すら懐かしい!」
私たちは大笑いしながら、駅へと続く道を歩いた。
一時間ほど電車に揺られて、N市のターミナル駅に着くと、電車を乗り換えてまたしばらく移動する。
鳥浦を出て約一時間半後、辿り着いたのはお母さんが入院している大学病院だった。最後にお見舞いに来たのは鳥浦に引っ越す前なので、もう三ヶ月以上経っている。
久しぶりに来たけれど、病院はなにも変わっていない。明るくて白くて清潔で、人がたくさんいるのに妙に静かなロビー。
お母さんの病室に向かう途中、入院患者や見舞い客がくつろげる談話室の前を通りかかったとき、漣が「なあ」と声を上げた。
「俺、ここで待ってるわ」
私は驚いて振り向く。
「えっ、一緒に来ないの?」
「うん。終わったら呼びに来て」
「……もしかして、うちのお父さんに会うの、嫌?」
お母さんの病室では、お父さんが待っている。だから漣は行きたくないのではないか、と思ったのだ。
「漣、失礼なこと言われたもんね……あのときはお父さんがごめん」
お父さんが鳥浦に来たとき、漣に対してずいぶんと無神経で不躾な言葉を吐いていた。あんなことがあったのだから普通に顔を合わせる気になれないのは当然だろう。
でも、漣は「んなわけないじゃん」と笑い飛ばした。
「あんなの気にしてないよ。お前、いちおう女の子だし、娘がいる親はやっぱ反対するだろ、男と一緒に住むなんて」
「そうかな……漣が気にしてないならいいんだけど」
「してないよ。なんならあとで挨拶しようと思ってるし。ただ、俺がいたら言いにくいこともあるだろうからさ、家族水入らずで話してこいよ」
そう言った彼の表情にごまかしはなさそうだったので、私は安心してうなずき返した。そもそも彼はうそなんてつかないのだ。
「じゃあ、行ってくる」
おばあちゃんが用意してくれた手土産の紙袋を受け取って、病室に向かって歩きだしたとき、漣が「なあ」と声を上げたので、私は振り向いた。
「頑張れよ。ここで待ってるから」
今まででいちばんの笑顔だった。なぜか、すっきりと晴れ渡った空の下に広がる海を思い出す。
「またあとでな、真波」
胸がじわりと温かくなる。漣に名前を呼ばれて、こんな気持ちになる日が来るなんて思いもしなかった。
出会ったころ、いきなり下の名前を呼び捨てにされて、苛々していた。でも、気がついたら彼にこう呼ばれるのが普通になり、いつしか、心地よくさえなっていた。
「うん、頑張る。またあとで!」
私は漣に手を振って、真っ白な廊下を歩き出した。彼が待ってくれていると思うだけで、踏み出す足に力がみなぎるような気がするのが不思議だった。