その日を境に、漣は家から出なくなった。あんなに真面目に頑張っていた部活もずっと休んでいて、ナギサにも行かない。
それどころか、食事にもほとんど手をつけず、トイレやお風呂など最低限のことをするとき以外はずっと部屋にこもっている。自分から話しかけてくることはなく、こちらがなにかを訊いても、小さくうなずいたり首を振ったりするだけで、まともな会話にならない。
おじいちゃんとおばあちゃんも漣の異変に気づいて、しきりに気を揉んでいた。居ても立ってもいられなくなったおばあちゃんは、「実家に連絡しようか」と漣に訊ねた。でも彼は実家と聞いたとたんに顔色を変え、そのときだけはきっぱりと「それは絶対にやめてほしい」と答えた。
別人のように沈み込んでしまった漣のことが心配でたまらなかったけれど、どうして彼がこうなったのか原因が分からないし、どうすればいいのかも分からない。
今まで自分のことばかり考えて生きてきた私は、誰かを励ましたり、慰めたり、優しくしたりする方法を知らなかった。ただ様子を見て、答えは期待できなくても声をかけて、食事を用意するくらいしか、できることが見つからない。
漣のことが心配でナギサに行く気分にもなれず、三日目の朝に私はユウさんに電話をかけた。
『お電話ありがとうございます、ナギサです』
受話器からいつもと変わらない明るい彼の声が聞こえてきた瞬間、安心感に包まれた。このところ家の中はずっと異常な状態だったので、普段通りの声を聞けただけでもひどくほっとした。
「ユウさん、おはようございます。真波です」
『あ、真波ちゃん? どうしたの、珍しいね電話なんて』
「突然すみません……。あの、しばらく店のお手伝いに行けそうになくて」
私の言葉に、電話の向こうでユウさんが首を傾げるような気配を感じた。
「ごめんなさい、自分から言い出したことなのに」
『いや、それは全然いいんだけど。……なにかあった?』
ユウさんが声を低くして訊ねてきた。やっぱりいつもと様子が違うことに気づかれてしまったか、と思う。子どもみたいに無邪気なようでいて、実は常に周りをよく見て相手の感情に敏感な彼をごまかすのは難しそうだった。
いえ、と否定しかけた言葉を呑み込み、「あの」と口を開く。
「……実は、漣がちょっと……」
『え、漣くん? 漣くんがどうかしたの?』
「あの、体調を崩してるっていうか、具合が悪いっていうか……」
あまり説明しすぎても余計な心配をかけてしまいそうなので、曖昧な言い方になってしまった。
「そういうことで、ちょっと、なるべく家にいたくて」
『そっかあ、大変だね……。急に暑くなったからなあ。うん、側にいてあげたほうがいいと思うよ。店のことは全然大丈夫だから、真波ちゃんは漣くんがよくなるまでついててあげて』
「ありがとうございます。……また連絡しますね」
そう言って電話を切ってから三十分ほどが経ったころ、突然チャイムが鳴った。
誰だろうと思いながら出てみると、驚いたことに、ユウさんが玄関先に立っていた。
「え? ユウさん!?」
「こんにちは。突然ごめんね」
彼はにこにこしながら少し首を傾けて言った。
「ど……どうしたんですか」
「うん、ちょっと渡したいものがあって」
彼が紙袋からタッパーを取り出して、こちらに差し出した。呆気にとられたまま受け取り、ふた越しに中を見てみると、黄色いものが入っている。
「もしかして、玉子焼きですか?」
「うん。体調悪いときにどうかなと思ったけど、漣くんに。食べられそうだったら食べてって伝えてくれる?」
「わあ、ありがとうございます……」
それから私は「ちょっと待っててください」とユウさんに告げて、タッパーを持ったまま慌てて二階に駆け上がる。
「漣、入るね」
どうせノックをしてもまともな反応はないと分かっていたので、声だけかけてドアを開ける。
彼は布団の上にだらりと座り、窓の外の海を見ていた。
「今ちょっと大丈夫?」
答えはないまま、彼の目がのろのろとこちらに向けられる。ぽっかりと穴が開いたような瞳。
初めて漣に会ったとき、なんて強い瞳なんだろう、と思った。あまりにも強くてまっすぐで、私には眩しすぎて、直視できなかった。
でも、今は、こんなにも暗くうつろな目をしている。
こんなの漣じゃない、と胸が苦しくなった。
「ねえ漣……できたら、下に来れない?」
「……なんで」
漣がぽつりと答える。私はタッパーを見せながら言った。
「今ね、ユウさんがこれ持って来てくれたの。まだ玄関にいるから、挨拶だけでも……」
もしかしたら、ユウさんと会うことで漣の気持ちも少しは浮上するかもしれない、と思ったのだ。
でも、その予想は外れた。私が彼の名前を口にした瞬間、漣ははち切れそうなほどに目を見開き、まるで喉を絞められたように激しく息を呑んだ。
「え、漣……?」
強張った顔がみるみるうちに青ざめ、色を失っていく。
まさかこんな反応が返ってくるなんて思ってもいなかった。むしろ喜んで、笑顔を見せてくれるのではないかと思っていた。
私は動揺して漣のかたわらに腰を下ろす。
「漣、大丈夫?」
すると彼はなぜか怯えたような目で私が持っている玉子焼きを見つめ、じりじりと後退りをしながら首を横に振った。
「……かない」
震えた声をよく聞き取れなかったので、私は「え?」と訊き返す。漣は顔を歪めて苦しげに言った。
「行かない……行けない」
それだけ言うと、膝を抱えてうなだれ、ぴくりとも動かなくなってしまった。
突然の変貌に唖然とした私は、しばらく彼の背中を見つめたあと、「ごめん」と謝って部屋を出た。
玄関に戻り、待ってくれていたユウさんに「すみません」と頭を下げる。
「漣を呼んで来ようと思ったんですけど、あの……寝てました。せっかく来てくれたのにすみません……」
彼はあははと笑って、
「そんなのいいよ、気にしないで」
と顔の前でひらひら手を振った。
「元気になったらまた顔見せて、って漣くんに伝えといて」
「分かりました。ありがとうございます」
ユウさんはいつものようににこにこと笑って、「じゃあまた」と帰っていった。
彼のうしろ姿が見えなくなってからも、私はしばらく玄関に立ち尽くして、動くことができなかった。
ユウさんが来てくれたことを告げたときの漣の様子を反芻する。
どう見ても尋常ではなかった。突然の来訪に対する驚きや動揺とは思えず、むしろ怯えているようにしか見えなかった。
どうして漣がユウさんと会うことを怖れるのだろう。あんなに彼に懐いていたのに、どうして急に? いくら考えても分からない。分からないけれど、でも、なにかとても重大な理由が隠されていることは分かった。
ユウさんは全くいつも通りだったけれど、漣は明らかに様子がおかしかった。
一体ふたりの間になにがあったのだろう。漣はどうしてこんなふうに変わってしまったんだろう。なにが起こっているのだろう。
答えの見つからない疑問について考えれば考えるほど、得体の知れない不安と恐怖が私を包み込んだ。
それどころか、食事にもほとんど手をつけず、トイレやお風呂など最低限のことをするとき以外はずっと部屋にこもっている。自分から話しかけてくることはなく、こちらがなにかを訊いても、小さくうなずいたり首を振ったりするだけで、まともな会話にならない。
おじいちゃんとおばあちゃんも漣の異変に気づいて、しきりに気を揉んでいた。居ても立ってもいられなくなったおばあちゃんは、「実家に連絡しようか」と漣に訊ねた。でも彼は実家と聞いたとたんに顔色を変え、そのときだけはきっぱりと「それは絶対にやめてほしい」と答えた。
別人のように沈み込んでしまった漣のことが心配でたまらなかったけれど、どうして彼がこうなったのか原因が分からないし、どうすればいいのかも分からない。
今まで自分のことばかり考えて生きてきた私は、誰かを励ましたり、慰めたり、優しくしたりする方法を知らなかった。ただ様子を見て、答えは期待できなくても声をかけて、食事を用意するくらいしか、できることが見つからない。
漣のことが心配でナギサに行く気分にもなれず、三日目の朝に私はユウさんに電話をかけた。
『お電話ありがとうございます、ナギサです』
受話器からいつもと変わらない明るい彼の声が聞こえてきた瞬間、安心感に包まれた。このところ家の中はずっと異常な状態だったので、普段通りの声を聞けただけでもひどくほっとした。
「ユウさん、おはようございます。真波です」
『あ、真波ちゃん? どうしたの、珍しいね電話なんて』
「突然すみません……。あの、しばらく店のお手伝いに行けそうになくて」
私の言葉に、電話の向こうでユウさんが首を傾げるような気配を感じた。
「ごめんなさい、自分から言い出したことなのに」
『いや、それは全然いいんだけど。……なにかあった?』
ユウさんが声を低くして訊ねてきた。やっぱりいつもと様子が違うことに気づかれてしまったか、と思う。子どもみたいに無邪気なようでいて、実は常に周りをよく見て相手の感情に敏感な彼をごまかすのは難しそうだった。
いえ、と否定しかけた言葉を呑み込み、「あの」と口を開く。
「……実は、漣がちょっと……」
『え、漣くん? 漣くんがどうかしたの?』
「あの、体調を崩してるっていうか、具合が悪いっていうか……」
あまり説明しすぎても余計な心配をかけてしまいそうなので、曖昧な言い方になってしまった。
「そういうことで、ちょっと、なるべく家にいたくて」
『そっかあ、大変だね……。急に暑くなったからなあ。うん、側にいてあげたほうがいいと思うよ。店のことは全然大丈夫だから、真波ちゃんは漣くんがよくなるまでついててあげて』
「ありがとうございます。……また連絡しますね」
そう言って電話を切ってから三十分ほどが経ったころ、突然チャイムが鳴った。
誰だろうと思いながら出てみると、驚いたことに、ユウさんが玄関先に立っていた。
「え? ユウさん!?」
「こんにちは。突然ごめんね」
彼はにこにこしながら少し首を傾けて言った。
「ど……どうしたんですか」
「うん、ちょっと渡したいものがあって」
彼が紙袋からタッパーを取り出して、こちらに差し出した。呆気にとられたまま受け取り、ふた越しに中を見てみると、黄色いものが入っている。
「もしかして、玉子焼きですか?」
「うん。体調悪いときにどうかなと思ったけど、漣くんに。食べられそうだったら食べてって伝えてくれる?」
「わあ、ありがとうございます……」
それから私は「ちょっと待っててください」とユウさんに告げて、タッパーを持ったまま慌てて二階に駆け上がる。
「漣、入るね」
どうせノックをしてもまともな反応はないと分かっていたので、声だけかけてドアを開ける。
彼は布団の上にだらりと座り、窓の外の海を見ていた。
「今ちょっと大丈夫?」
答えはないまま、彼の目がのろのろとこちらに向けられる。ぽっかりと穴が開いたような瞳。
初めて漣に会ったとき、なんて強い瞳なんだろう、と思った。あまりにも強くてまっすぐで、私には眩しすぎて、直視できなかった。
でも、今は、こんなにも暗くうつろな目をしている。
こんなの漣じゃない、と胸が苦しくなった。
「ねえ漣……できたら、下に来れない?」
「……なんで」
漣がぽつりと答える。私はタッパーを見せながら言った。
「今ね、ユウさんがこれ持って来てくれたの。まだ玄関にいるから、挨拶だけでも……」
もしかしたら、ユウさんと会うことで漣の気持ちも少しは浮上するかもしれない、と思ったのだ。
でも、その予想は外れた。私が彼の名前を口にした瞬間、漣ははち切れそうなほどに目を見開き、まるで喉を絞められたように激しく息を呑んだ。
「え、漣……?」
強張った顔がみるみるうちに青ざめ、色を失っていく。
まさかこんな反応が返ってくるなんて思ってもいなかった。むしろ喜んで、笑顔を見せてくれるのではないかと思っていた。
私は動揺して漣のかたわらに腰を下ろす。
「漣、大丈夫?」
すると彼はなぜか怯えたような目で私が持っている玉子焼きを見つめ、じりじりと後退りをしながら首を横に振った。
「……かない」
震えた声をよく聞き取れなかったので、私は「え?」と訊き返す。漣は顔を歪めて苦しげに言った。
「行かない……行けない」
それだけ言うと、膝を抱えてうなだれ、ぴくりとも動かなくなってしまった。
突然の変貌に唖然とした私は、しばらく彼の背中を見つめたあと、「ごめん」と謝って部屋を出た。
玄関に戻り、待ってくれていたユウさんに「すみません」と頭を下げる。
「漣を呼んで来ようと思ったんですけど、あの……寝てました。せっかく来てくれたのにすみません……」
彼はあははと笑って、
「そんなのいいよ、気にしないで」
と顔の前でひらひら手を振った。
「元気になったらまた顔見せて、って漣くんに伝えといて」
「分かりました。ありがとうございます」
ユウさんはいつものようににこにこと笑って、「じゃあまた」と帰っていった。
彼のうしろ姿が見えなくなってからも、私はしばらく玄関に立ち尽くして、動くことができなかった。
ユウさんが来てくれたことを告げたときの漣の様子を反芻する。
どう見ても尋常ではなかった。突然の来訪に対する驚きや動揺とは思えず、むしろ怯えているようにしか見えなかった。
どうして漣がユウさんと会うことを怖れるのだろう。あんなに彼に懐いていたのに、どうして急に? いくら考えても分からない。分からないけれど、でも、なにかとても重大な理由が隠されていることは分かった。
ユウさんは全くいつも通りだったけれど、漣は明らかに様子がおかしかった。
一体ふたりの間になにがあったのだろう。漣はどうしてこんなふうに変わってしまったんだろう。なにが起こっているのだろう。
答えの見つからない疑問について考えれば考えるほど、得体の知れない不安と恐怖が私を包み込んだ。