「誰か! 子どもが溺れてる!」
悲鳴のような声に、店内にいた全員が驚いて腰を上げた。
「俺、泳げないんだ! 子どものとき溺れてから水が怖くて泳げない、助けられない! 誰か助けて、誰か……!」
漣は今にも泣き出しそうな声で叫んだ。
お客さんたちが動揺したように顔を見合わせ、窓の外に目を向けながら携帯電話を手に取ったりしている。
ユウさんがキッチンから駆け出してきた。手には、ロープのついた浮き輪とバスタオル数枚、AEDと白く印字された真っ赤なバッグを持っている。
「どこ!?」
ユウさんが漣に訊ねる。
「海水浴場……!」
答えを聞くと彼は大きくうなずき、
「真梨、一一九番! 龍、ついて来て! あと走れる人みんな!」
きびきびと指示を出しながら、ものすごい勢いで店を飛び出していった。私と漣、そして龍さんも慌ててあとを追う。
外に出ると、ユウさんは遥か先を走っていた。その速さに目を疑う。店を飛び出したときも、ひとつも無駄のない動きだった。
「大丈夫、きっと大丈夫」
隣で龍さんが、不安そうな漣を安心させるように声をかけていた。
「優海はこういうときのために、ちゃんと準備してるから。それに昔から誰よりも足が速かったんだ。絶対に間に合うよ」
漣は青ざめた顔で何度もこくこくとうなずいた。
私たちが海水浴場に着いたときには、すでにユウさんが子どもを浮き輪に乗せて、泳いで岸に向かっているところだった。砂浜の波打ち際には、一緒に遊んでいたらしい子どもたちが泣きそうな顔で集まっている。
龍さんが腰まで海に入って浮き輪を引き寄せ、あとに続いた漣が子どもを抱き上げる。そして砂浜まで走って横たわらせた。ユウさんが海から上がって追いかけてきて、かたわらに膝をつく。
溺れた男の子は意識がないようで、ユウさんが肩を叩きながら耳元で話しかけても反応はなかった。全身が怖いくらいに青白くて、ぞっと背筋が凍る。
ユウさんは男の子のあごをつかんで顔をあお向かせると、口許に耳を当てて呼吸を確認した。すぐに心臓マッサージを始め、全身を使って強く胸を押しながら、てきぱきと私たちに声をかける。
「龍、AEDのふた開けて。真波ちゃん、服脱がせてバスタオルで上半身拭いて。漣くん、上に行って、救急車が来たら場所案内して」
「分かりました……!」
漣は全速力で走っていった。
ユウさんが次に人工呼吸を始める。その間に私は男の子のシャツのボタンを外し、ユウさんが持ってきたタオルを拾って胸のあたりの水気を丁寧に拭き取った。
AEDの機械が起動して、なにかを喋っている。龍さんがその指示に従って準備を始めた。
「こことそこにパッド貼って」
ユウさんが心臓マッサージを続けながらも手早く場所を教える。
「分かった。ここでいいか?」
「うん、大丈夫」
パッドを貼ろうとしたそのとき、男の子の身体が痙攣するように大きく震えて、ごほっと咳き込みながら水を吐いた。しばらく激しい咳が続く。
ユウさんが今度は子どもを横向きに寝かせ、背中をさする。
「大丈夫? 苦しいよな、もうすぐ救急車来るからな」
しばらくむせながら水を吐き出したあと、男の子は力なく地面に横たわった。まさかと不安になったけれど、肩で大きく息をしているのを見て、ほっと安堵する。
しばらくするとサイレンの音が近づいてきて救急車が到着し、担架を持った救急隊員が漣に導かれてやって来た。
男の子の顔色が少しよくなり、受け答えも少しできているのを見て、ふっと全身の力が抜けていく。
「よかった……」
漣がうずくまり、かすれた声で呟いた。私も隣に腰を下ろし、「よかったね」と言う。漣の肩は震えていた。
ユウさんが男の子に付き添って救急車に乗っていったあと、私たちはナギサに戻った。
「大丈夫だった?」
入り口の前に立って待っていたらしい真梨さんが、心配そうな顔で訊ねてくる。龍さんがうなずき返すと、彼女は腕の中の赤ちゃんをぎゅっと抱きしめて頬を寄せた。もしも自分の子どもだったら、と考えているのかもしれない。
「ユウさん、すごかったです。なんか、慣れてるような……」
少しずつ落ち着きを取り戻した店内で、椅子に座って思わず呟くと、龍さんと真梨さんが目を見合わせた。
少し沈黙が流れたあと、真梨さんが静かに口を開いた。
「実はね……昔、三島くんの恋人が、海で亡くなったの」
「え……」
私と漣は同時に息を呑んだ。
真梨さんの顔に、悲しげな笑みが浮かんでいる。
「このお店と同じ名前……、凪沙っていう子。三島くんの幼馴染で彼女で、私の親友でもあった。三島くんはね、子どものときに家族を一度に事故で亡くしちゃって、でもそのときに凪沙がずっと支えてくれて、そのおかげで三島くんは元気になったの。中学生になったら、ふたりは自然に付き合い出した」
どくどくと心臓が暴れていた。前にユウさんから聞いた話と、どんどん繋がっていく。
「でも、高校生のとき凪沙は、海で溺れて……」
真梨さんの声がかすれて小さくなり、龍さんが彼女の肩を抱いた。ふたりとも、泣いていた。
「俺も高校で同じクラスだったんだ。期間は短かったけど、大事な友達だった」
嗚咽を洩らす真梨さんに代わって、龍さんが話を続ける。
「優海と日下さんは、本当に仲が良くて、いつもふたりでひとつみたいに、本当にずっと一緒にいた。日下さんが亡くなったとき、優海は脱け殻みたいになってたよ。俺たちの前では明るく振る舞ってたけど、立ち直れてないのは見てれば分かった。でも、何ヶ月かして突然、『凪沙みたいな人を助けるために水難救助の勉強をする』って言い出して、講習を受けたり資格を取ったりし始めた。それ以来ずっと、いざというときにすぐに行動できるように、全部準備してるんだ」
龍さんが真梨さんの背中を撫でながら、「すごいよな」と呟いた。
「そのおかげで、今日、あの子を救えたんだ。すごいやつだよ、優海も、日下さんも……」
言葉にならなかった。ただ、涙が溢れ出した。
手の甲で顔を拭いながら、隣に目を向ける。漣もきっと同じような顔をしているだろうと思った。
「え……」
でも漣は、乾ききった目を呆然と見開いていた。
「高校生……ナギ……サ……」
上の空でそう呟いた彼の顔は、ぞっとするほど色を失っている。私は驚いて声をかける。
「漣、どうしたの? 大丈夫?」
すると彼が、聞き取れないほどの小さな声で、「なんでもない」と呻いた。
どう見ても、普通ではなかった。言いようのない不安が込み上げてくる。
でも、そのときの私は、まるで言葉を忘れてしまったみたいに、なにも言えなかった。
悲鳴のような声に、店内にいた全員が驚いて腰を上げた。
「俺、泳げないんだ! 子どものとき溺れてから水が怖くて泳げない、助けられない! 誰か助けて、誰か……!」
漣は今にも泣き出しそうな声で叫んだ。
お客さんたちが動揺したように顔を見合わせ、窓の外に目を向けながら携帯電話を手に取ったりしている。
ユウさんがキッチンから駆け出してきた。手には、ロープのついた浮き輪とバスタオル数枚、AEDと白く印字された真っ赤なバッグを持っている。
「どこ!?」
ユウさんが漣に訊ねる。
「海水浴場……!」
答えを聞くと彼は大きくうなずき、
「真梨、一一九番! 龍、ついて来て! あと走れる人みんな!」
きびきびと指示を出しながら、ものすごい勢いで店を飛び出していった。私と漣、そして龍さんも慌ててあとを追う。
外に出ると、ユウさんは遥か先を走っていた。その速さに目を疑う。店を飛び出したときも、ひとつも無駄のない動きだった。
「大丈夫、きっと大丈夫」
隣で龍さんが、不安そうな漣を安心させるように声をかけていた。
「優海はこういうときのために、ちゃんと準備してるから。それに昔から誰よりも足が速かったんだ。絶対に間に合うよ」
漣は青ざめた顔で何度もこくこくとうなずいた。
私たちが海水浴場に着いたときには、すでにユウさんが子どもを浮き輪に乗せて、泳いで岸に向かっているところだった。砂浜の波打ち際には、一緒に遊んでいたらしい子どもたちが泣きそうな顔で集まっている。
龍さんが腰まで海に入って浮き輪を引き寄せ、あとに続いた漣が子どもを抱き上げる。そして砂浜まで走って横たわらせた。ユウさんが海から上がって追いかけてきて、かたわらに膝をつく。
溺れた男の子は意識がないようで、ユウさんが肩を叩きながら耳元で話しかけても反応はなかった。全身が怖いくらいに青白くて、ぞっと背筋が凍る。
ユウさんは男の子のあごをつかんで顔をあお向かせると、口許に耳を当てて呼吸を確認した。すぐに心臓マッサージを始め、全身を使って強く胸を押しながら、てきぱきと私たちに声をかける。
「龍、AEDのふた開けて。真波ちゃん、服脱がせてバスタオルで上半身拭いて。漣くん、上に行って、救急車が来たら場所案内して」
「分かりました……!」
漣は全速力で走っていった。
ユウさんが次に人工呼吸を始める。その間に私は男の子のシャツのボタンを外し、ユウさんが持ってきたタオルを拾って胸のあたりの水気を丁寧に拭き取った。
AEDの機械が起動して、なにかを喋っている。龍さんがその指示に従って準備を始めた。
「こことそこにパッド貼って」
ユウさんが心臓マッサージを続けながらも手早く場所を教える。
「分かった。ここでいいか?」
「うん、大丈夫」
パッドを貼ろうとしたそのとき、男の子の身体が痙攣するように大きく震えて、ごほっと咳き込みながら水を吐いた。しばらく激しい咳が続く。
ユウさんが今度は子どもを横向きに寝かせ、背中をさする。
「大丈夫? 苦しいよな、もうすぐ救急車来るからな」
しばらくむせながら水を吐き出したあと、男の子は力なく地面に横たわった。まさかと不安になったけれど、肩で大きく息をしているのを見て、ほっと安堵する。
しばらくするとサイレンの音が近づいてきて救急車が到着し、担架を持った救急隊員が漣に導かれてやって来た。
男の子の顔色が少しよくなり、受け答えも少しできているのを見て、ふっと全身の力が抜けていく。
「よかった……」
漣がうずくまり、かすれた声で呟いた。私も隣に腰を下ろし、「よかったね」と言う。漣の肩は震えていた。
ユウさんが男の子に付き添って救急車に乗っていったあと、私たちはナギサに戻った。
「大丈夫だった?」
入り口の前に立って待っていたらしい真梨さんが、心配そうな顔で訊ねてくる。龍さんがうなずき返すと、彼女は腕の中の赤ちゃんをぎゅっと抱きしめて頬を寄せた。もしも自分の子どもだったら、と考えているのかもしれない。
「ユウさん、すごかったです。なんか、慣れてるような……」
少しずつ落ち着きを取り戻した店内で、椅子に座って思わず呟くと、龍さんと真梨さんが目を見合わせた。
少し沈黙が流れたあと、真梨さんが静かに口を開いた。
「実はね……昔、三島くんの恋人が、海で亡くなったの」
「え……」
私と漣は同時に息を呑んだ。
真梨さんの顔に、悲しげな笑みが浮かんでいる。
「このお店と同じ名前……、凪沙っていう子。三島くんの幼馴染で彼女で、私の親友でもあった。三島くんはね、子どものときに家族を一度に事故で亡くしちゃって、でもそのときに凪沙がずっと支えてくれて、そのおかげで三島くんは元気になったの。中学生になったら、ふたりは自然に付き合い出した」
どくどくと心臓が暴れていた。前にユウさんから聞いた話と、どんどん繋がっていく。
「でも、高校生のとき凪沙は、海で溺れて……」
真梨さんの声がかすれて小さくなり、龍さんが彼女の肩を抱いた。ふたりとも、泣いていた。
「俺も高校で同じクラスだったんだ。期間は短かったけど、大事な友達だった」
嗚咽を洩らす真梨さんに代わって、龍さんが話を続ける。
「優海と日下さんは、本当に仲が良くて、いつもふたりでひとつみたいに、本当にずっと一緒にいた。日下さんが亡くなったとき、優海は脱け殻みたいになってたよ。俺たちの前では明るく振る舞ってたけど、立ち直れてないのは見てれば分かった。でも、何ヶ月かして突然、『凪沙みたいな人を助けるために水難救助の勉強をする』って言い出して、講習を受けたり資格を取ったりし始めた。それ以来ずっと、いざというときにすぐに行動できるように、全部準備してるんだ」
龍さんが真梨さんの背中を撫でながら、「すごいよな」と呟いた。
「そのおかげで、今日、あの子を救えたんだ。すごいやつだよ、優海も、日下さんも……」
言葉にならなかった。ただ、涙が溢れ出した。
手の甲で顔を拭いながら、隣に目を向ける。漣もきっと同じような顔をしているだろうと思った。
「え……」
でも漣は、乾ききった目を呆然と見開いていた。
「高校生……ナギ……サ……」
上の空でそう呟いた彼の顔は、ぞっとするほど色を失っている。私は驚いて声をかける。
「漣、どうしたの? 大丈夫?」
すると彼が、聞き取れないほどの小さな声で、「なんでもない」と呻いた。
どう見ても、普通ではなかった。言いようのない不安が込み上げてくる。
でも、そのときの私は、まるで言葉を忘れてしまったみたいに、なにも言えなかった。