漣は居間に入ると、お父さんを見つけてぺこりと頭を下げた。
「こんにちは」
 お父さんは少し眉をひそめて、「君は?」と訊ねる。
「二階に下宿させてもらってる美山漣といいます」
 丁寧に挨拶をした漣に、お父さんが「なんだって?」と声を上げた。それから立ち上がって台所に顔を出し、「お義母さん」と呼びかけた。おばあちゃんが小皿を持ったまま「はい」と目を丸くして出てくる。
「どういうことですか。年ごろの娘と男をひとつ屋根の下で生活させるなんて、なにを考えているんですか。万が一間違いが起こったらどうしてくれるんです」
 まさかそんなことをおばあちゃんに言うなんて想像もしていなくて、驚いた私は慌ててお父さんの腕をつかんだ。
「ちょっと、やめてよ! なんでそんなこと言うの?」
 お父さんが険しい顔で振り向く。
「なんでだと? 当然のことを言ったまでだ。家族でもない若い男女が一緒に暮らすなんて、どう考えてもおかしいだろう。分からないほうがおかしいんだ。お義父さんもお義母さんも、どうして実の孫にこんな危険な生活をさせているのか……」
「おばあちゃんたちのこと、そんなふうに言わないでよ!」
 思わず声を荒らげた私の肩を、おばあちゃんがぎゅっと抱いた。
「まあちゃん、まあちゃん。いいんよ、ばあちゃんらが悪かったんだから」
 それからおばあちゃんはお父さんに深々と頭を下げた。
「隆司さん、ごめんなさい。事前に漣くんのことを言っておくべきでした。漣くんがいい子ってことは私らはよく分かっていたから、隆司さんがそんなふうに心配なさることを思いつかなかったんです。でも女の子を持つ親なら当然の心配だと思います。私らの配慮が足らんかったです、ごめんなさい」
 おばあちゃんにこんな深刻な顔で謝らせてしまっていることが心苦しくて、泣きたくなってくる。
 なんで私のお父さんはこんな人なんだろう。頭が固くて、なんでも決めてかかって、自分の判断や意見だけが正しいと思っている。
「君はこの家から学校に通っているのか」
 お父さんが今度は漣に目を向けた。彼は少し困ったような顔でうなずく。
「はい……そうです」
「実家からは通えないのか」
「遠方なので……」
「そうか」
 険しい顔のままうなずいたお父さんは、振り向いて私を見た。
「真波、うちに戻ってきなさい。転校先は父さんが探してやるから」
「……は?」
 突然思いもよらなかったことを言われて、私は唖然と声を上げた。
「ちょっと待ってよ……なんで急に、そんな……」
「彼が下宿をするしかないというなら、真波が引っ越すほかないだろう」
 驚きのあまり言葉を失ったとき、漣が「ちょっと待ってください」と間に入ってきた。
「それなら俺がここを出ます。真波のじいちゃんちなんだから、俺のせいで真波が引っ越すのはおかしいでしょう」
「君は黙っていてくれ、うちの問題なんだから。君が出ていくことはない。そんなことをされても迷惑だ」
 遮るように言われて、漣は眉をひそめて言葉を呑み込んだ。
 お父さんが私に視線を戻す。
「安心しろ、高校なんていくらでもある。お前が通える学校もちゃんとあるはずだ。資格が取れて手に職をつけられるような学校もいいな、将来就職の心配がない」
 私本人の意志を無視して、お父さんは勝手に話を進める。
「ねえ、ちょっと待って、お父さん。私は転校なんかしたくない。やっと今の高校に慣れてきて、これから頑張ろうって思ってたところなの。それに、お父さんが考えてるみたいに危ないとかないから。そんなこと言うの漣に失礼だよ……」
 かたわらで固唾を呑むように私たちを見ている漣に、申し訳なくて仕方がなかった。彼はどんな気持ちで聞いているのだろう。
「そうやって油断させておいて、っていう卑怯な男もいるんだ」
「だから、漣はそんな人じゃないってば!」
 きついことも言われたけれど、漣には何度も助けられた。感謝することはあっても、警戒するようなことなんてひとつもないのに。お父さんの口を塞いでしまいたい。
 私の気も知らず、お父さんが呆れたようにため息をついた。
「なにも漣くんがそういう人間だと断定したわけじゃない。でも、気をつけるに越したことはないだろう。真波は引きこもってた期間が長いから世間知らずだし、まだ子どもだから、よく分かってないんだ。親の言うことは素直に聞いておけ。なにかが起こってから後悔したって遅いんだぞ」
 無力感に包まれた。
 だめだ。いくら訴えても、なにも変わらない。お父さんの考えを変えることはできない。
「……もういい! お父さんなんか知らない!!」
 気がつくと、鋭い叫び声を上げていた。お父さんに対してこんな大声を出して反抗したのは初めてだった。
 驚きに目を見開いたお父さんを突き飛ばすようにして居間から飛び出した私は、そのままの勢いで玄関から外へ駆け出した。