なにも言えずにいる私をちらりと見て、ユウさんが「実はね」と少しおかしそうに笑って続けた。
「凪沙は死ぬ前に、『私のこと忘れてもいいから幸せになって』って言ってたんだ。でもあれ、本心じゃないんだよな、きっと。凪沙はすごく強がりで意地っ張りだから。本当は忘れてほしくないはずだよ。俺には分かる。だから俺は忘れない。絶対に忘れない」
 いつの間にか潮がずいぶん満ちてきて、不規則に形を変える波が爪先をさらっていった。スニーカーがしっとりと湿っていく。
 それでも、ナギサさんのことで頭がいっぱいで思考停止状態の私は、馬鹿みたいに足元を見つめながら立ちすくんでいた。するとユウさんが私の手を引き、波が届かない場所まで移動させてくれた。
 その優しさが、今は痛い。唇をぎりりと噛む。
「正直さ、凪沙が死んだばっかりのころは、俺ってもう死んでもいいよなって思ったこともあったよ。俺は家族もいないし、別に俺が死んだところで、そりゃちょっとは悲しんでくれる人もいると思うけど、困る人はいないし。それに、死んだら凪沙に会えるし。だから、もういいかなって……」
 馬鹿だよな、とユウさんは笑った。
「でもさ、思い直したんだ。凪沙は俺のことすごく大事にしてくれてたから、俺も自分のこと大事にしなきゃ、って。俺が適当に生きたりしたら凪沙が絶対怒るし、悲しむし、たぶん泣くし。だから俺は、せいいっぱい全力で生きようって思ってる。俺は凪沙になにもしてやれなかったから、せめて凪沙が最後に願ってくれたこと、俺が幸せに生きるってことだけは、叶えてやりたいんだ……」
 胸の奥底から熱いものが込み上げてきた。今にも洩れそうな嗚咽を必死に堪える。
 でも、いつの間にか涙がひと筋こぼれ落ちていた。
 頬からあごへと伝う涙を、手の甲を押しつけるようにして拭っていると、ユウさんに気づかれてしまった。わ、と彼が声を上げる。
「なんで真波ちゃんが泣くの」
 困ったように笑い、それから慰めるように肩をそっと叩いてくれた。とたんに、ぎりぎりのところで持ちこたえていた堤防が崩れるように、涙が溢れ出した。
「凪沙のために泣いてくれてるの? ありがとう……」
 ごめんなさい、違うんです。私は心の中で謝る。
 ごめんなさい。私はそんなに出来た人間じゃないんです。
 私は、私のために泣いてるんです。気持ちを伝えることさえできないまま希望を失ってしまった私の恋のために。
 むしろナギサさんに対して、死んじゃってるなんてずるい、勝ち目ないじゃん、なんてひどいことを思ってしまいました。ごめんなさい。
 自分の心の醜さと、ユウさんとナギサさんの想いの美しさがあまりにも対照的で、笑えるくらいだった。
「ごめんなさい……大丈夫です」
 私はなんとか笑みを浮かべて顔を上げた。ユウさんはまだ心配そうな顔をしてくれていたけれど、「本当に大丈夫です」と告げて、両手でごしごしと顔を拭う。
「なんか、あれですね、海って感傷的になっちゃいますよね」
 ユウさんは一瞬目を丸くしてから、「そうだね」と笑った。
 私たちはそれきり口を閉じて、肩を並べてただ海を見つめる。
 月明かりに煌めく深い青の海と、無数の星が輝く同じ色の空。鼓膜に忍び込んでくるさざ波の音。美しい夜の海の景色が、少しずつ涙の衝動を抑えていく。
 ユウさんに幸せになってほしいというナギサさんの願いと祈り、そしてナギサさんのために幸せに生きるというユウさんの誓い。悲しくて切なくて、でもとても温かくて優しくてきらきら輝く想いたちが、果てしない海へと吸い込まれていくような気がした。
 そして、生まれたばかりであっけなく終わった私の恋も、この海へと流してしまおう、と思った。叶わない想いをいつまでも抱えていられるほど、私は強くはなかった。
 それに、どうしたって、ナギサさんには勝てそうにもない。勝ち負けではないのかもしれないけれど、ユウさんの幸せだけを祈りながら亡くなったという彼女の話を聞いてしまったら、自分の淡い想いなど、口に出す気にもなれなかった。
 ユウさんは、海風に柔らかく髪をなびかせながら、どこかうつろな瞳に夜の海を映している。いつも明るく屈託のない笑みを浮かべている彼も、実は心の中に私には想像さえできないくらいに大きなものを抱えていたのだ。人の心の深淵のようなものを、初めて知った気がした。
 人はみんな、たとえ順風満帆で悩みなどなさそうに見えても、その心の奥深くに、誰にも言わない、誰にも見えない思いを秘めて生きているのかもしれない。だから、外側から見ただけでその人のことを判断するなんて、きっと不可能なことなのだ。
 湿った夜風の中、涙の味がする唇を噛みしめながら、私はそう思った。




「——なんかあった?」
 家に帰ったとたん、廊下で行き会った漣が訊ねてきた。
 泣いてしまったせいで熱を持った目は夜風で冷やしてきたつもりだけれど、もしかして赤くなっているのだろうか。少しうつむいて前髪で目元を隠すようにしながら首を横に振る。
「別に……なんで?」
「なんかいつもと違う」
 漣が顔を覗き込んでくる。「やめて」と顔を背けて、
「コンタクトがずれただけだから」
 と適当にごまかした。彼は小さく噴き出して、
「鉄板の言い訳だな」
 と笑った。
「……そういうのは、思っても言わないものでしょ」
 私は呆れ返って言った。漣は「なんで?」と眉をひそめる。本当に分からないらしい。
「言い訳っていうのは、本当のことを知られたくないからするものでしょ。それをわざわざ指摘しなくていいじゃない、気づかないふりしてスルーしてくれればいいの! ほんっとデリカシーないんだから……」
 私がぶつぶつ言いながら居間に向かって歩きだすと、漣は「ふうん、そんなもんか」と肩をすくめながらついて来た。それから「ところで」と続ける。
「ユウさんと話してたよな、砂浜で」
 私は一瞬耳を疑い、それから「はっ?」と目を見開いて振り向いた。
「見てたの!?」
「たまたま通りかかったんだよ、自販機に行く途中で」
 漣はなんでもなさそうな口調で言った。なんてタイミングが悪いんだ、と頭を抱える。
「もしかして、ユウさんに泣かされたの?」
「ユウさんがそんなことするわけないでしょ……」
「じゃあ、振られたのか」
「は……っ、はっ?」
 私はさっきよりもさらに大きく目を見開いた。唖然とする私に、彼はやっぱりなんでもなさそうに言う。
「だってお前、ユウさんのこと好きなんだろ?」
「な、なんで……」
「見てりゃ分かるよ。お前みたいなあまのじゃくがすぐに懐いて、ユウさんにだけは素直で、いっつもきらきらした目で見てるじゃん」
 私自身でさえ自覚していなかった気持ちに漣が気づいていて、こんな形で突きつけられるなんて思いもしなかった。
「……忘れて。もう終わったから……」
「終わった?」
 私はのろのろと濡れ縁に腰かける。彼もなにも言わずに隣に腰を下ろした。
「……ユウさん、ずっと好きな人がいるんだって。でも、その人は——」
 自分だけの胸に秘めておくには重すぎた話。誰かに聞いてほしくて、思わず口を開いた。でも、少し考えた末に、ナギサさんがすでに亡くなっているということについては、話すのをやめた。勝手に人にべらべら話していい内容ではない。
「……その人のことがこれからもずっと好きだから、その人だけって決めてるから、新しい恋愛をするつもりはないって言われた」
「……ふうん、そっか」
 漣は小さくうなずいて、それきりなにも言わなかった。
 普通なら慰めたりするところだろうけど、そっけない相づちだけで終わらせるあたりが、いかにも漣らしい。それに私としても、ただ誰かに話したかっただけなので、下手にあれこれ言われるよりは気が楽だった。
 それから私たちは、おばあちゃんに「そろそろ中に入らんと風邪引くよ」と声をかけられるまでずっと、ひと言も喋らずにただ並んで縁側に座っていた。
 溢れた海の水が少しずつ引いていくような、とても静かな時間だった。