自分の気持ちを自覚してから、私はずいぶんと落ち着かない毎日を過ごしていた。やっと金曜日になって、ユウさんと会えたときには、心臓がそわそわしているような妙な感覚だった。
 子ども食堂が終わったあと、ユウさんの夜の散歩についていった。今日はどうしても彼とゆっくり話がしたかったので、朝家を出るときおばあちゃんに「少し遅くなるね」と言っておいた。
「もしかして、なんか悩みごと?」
 なんとなく居たたまれなくて、潮風に吹かれながら黙って海を見ていたら、ふいにユウさんが訊ねてきた。
「えっ? いや……」
「今日はなんか物思いに耽ってるみたいに見えたから、もしかしたら家か学校でなんかあったのかなって」
 彼は小さく笑って言った。
「あ、いえ、それは大丈夫です。最近はちょっと馴染んできました」
 首を振って答えつつ、私の様子がいつもと違うと気がついてくれたことに喜びを覚える。
「そっかそっか、それはよかった」
 ユウさんがほっとしたように笑顔でうなずく。
 些細な変化に気づいてくれたことも、自分のことのように安心してくれたことも、とても嬉しい。もしかして彼は私を特別に気にかけてくれているんじゃないか、という身のほど知らずな期待がむくりと湧き上がってきた。彼のような人が私なんかを好きになるはずがない、という思いと、でももしかしたら、という思いが同時に胸をいっぱいにする。
 揺れる気持ちに言葉も出せずにいると、ユウさんが首を傾げて覗き込んできた。
「ってことは、もしかして、恋の悩みとか?」
「えっ!」
 まさかこのタイミングでユウさんの口からその単語が出るとは。下心を見透かされているんじゃないかと思うと、心臓が破裂しそうなほど激しく跳ね始めた。
「い、いやいや……そんな……」
 反射的にごまかしてしまいそうになり、でもこれはチャンスかもしれない、と自分を励ます。
「……あの、ユウさんって、好きな人とか、いますか?」
 声はかすかに震え、鼓動がおかしいくらい高鳴っていた。緊張でどうにかなりそうだ。うつむきそうになる顔をなんとか上げてユウさんを見つめる。
 彼は少し眉を上げて「ん」と私を見てから、にっこりと笑った。
「いるよ。ずっとずーっと好きな人」
「え……」
 頭を鈍器で殴られたような、というのは、こういう感じなんだろうか。ショックというありきたりな言葉なんかでは表せない、目の前が急速に真っ暗になっていく感覚。
 ユウさんに好きな人がいる。しかも、曇りひとつない眼差しできっぱりと、『ずっとずーっと好き』と言い切ってしまえるほどの人。
 あまりの衝撃に言葉さえ失ってしまったけれど、このままじゃ変に思われる、と無理やり笑みを浮かべた。
「……へえ! そんなに好きな人がいるんですか」
 子どもっぽい純粋な好奇心を、必死に装う。
「気になるなー。どんな人ですか? 私が知ってる人? ていうか、鳥浦の人ですか?」
 ユウさんはおかしそうに笑って、うん、とうなずく。
「真波ちゃんは知らないけど、鳥浦の人だよ」
 自分で訊いておいて、彼の答えにぐさぐさと胸を突き刺される。
 本当に、好きな人がいるんだ。しかも、この町に。もしかして、実は付き合っていて一緒に住んでるとか? 勝手な想像をして、勝手に苦しくなる。
「そうですか……鳥浦の……」
「うん、小さいころから近所に住んでて、ずっとここで一緒に過ごしてきたんだ」
「それって、幼馴染ってことですか」
「そうだよ」
 ユウさんはなんだかすごく嬉しそうににこにこ笑っていたけれど、でもね、と続けた声が、少し色を変えた。
「今は、あっちにいるんだ」
 あっち、という言葉に合わせて彼が指差したのは、真上だった。
 目で追うと、そこにあるのは、遥か遠い夜空。
「え……」
 町の明かりが少ないので、無数の星がくっきり見える空を見つめながら、私は息を呑む。
「それって……」
 私はおそるおそる視線を戻す。ユウさんは少し首を傾げて、力の抜けたような笑みを浮かべていた。
「そう。死んじゃったんだ」
 ぐっと喉を絞められたような息苦しさに襲われる。
 まさかこんな話になるとは、思ってもみなかった。訊かなければよかった。彼にこんな顔をさせることになってしまうなんて。
 言葉に詰まってただじっと彼の顔を見つめていると、ふいに思い当たることがあった。
「……もしかして、ここに毎晩来るのって……」
 夜になると幽霊が出る砂浜。この場所を、なぜか毎晩訪れて、ただ海を見ながら長い時間を過ごすユウさん。ただの散歩だと思っていたけれど、もしかして、目的があったんじゃないか。
 そんな私の想像を肯定するように、彼は悲しく寂しげな微笑みを浮かべた。
「……うん、そうだよ。本当に幽霊が出るなら、もしかしたらいつか姿を現してくれるかもしれないって……思って」
 ああ、と声にならない吐息が唇から洩れた。
 ユウさんの言葉を聞いただけで、その声音だけで、どれほどの想いで彼が待ち焦がれているのか、痛いほどに伝わってきた。
「……幽霊でもいいから、もう一度会えたらいいなって……会いたいんだ」
 ユウさんが海へと視線を向ける。胸が痛むほどにまっすぐな眼差しだった。
 その後しばらく、彼も私も黙り込んでいた。ただ波の音だけが鼓膜を揺らす。
 永遠のように長く感じられる時間のあと、私はそっと口を開いた。
「……どんな人ですか?」
 ユウさんがそんなにも、亡くなっても想い続ける相手は、どんな人なんだろう。無神経かもしれないとは思ったけれど、訊ねずにはいられなかった。
 彼は少し考えるように首を傾げてから、ゆっくりと口を開く。
「ひと言で言うのは難しいなあ……。子どものころからずっと一緒にいて、長い長い時間を一緒に過ごして、本当にたくさんの彼女を見てきたから、ひと言で言うのはすごく難しい」
 ユウさんは、ふふっと小さく笑い声を上げた。彼女と過ごした時間を思い返したら、そうせずにはいられないというように。
「でも、そうだな、うん……すごく、すごく優しい人だよ。死ぬ間際に、『優海の幸せだけを祈ってる、私のぶんの幸せを全部優海にあげる』って言っちゃうくらいに」
 ——私のぶんの幸せを、全部あげる。
 なんて言葉だろう。心の底から愛している人にしか、きっと言えない言葉だ。彼女は本当にユウさんのことを愛していたんだ、とその言葉だけで痛いくらいに伝わってくる。
「本当に優しいんだ、凪沙は」
 私は目を見開いた。
「ナギサ……ナギサさんって、いうんですか」
 かすれる声で訊ねると、ユウさんが深くうなずいた。
「そうだよ。あの店は、凪沙から名前をもらったんだ」
 彼が振り向き、堤防の向こうにひっそりと立つ自分の店に目を向けた。
「ちなみに、店の名物の玉子焼きも、俺と凪沙の大切な思い出の料理なんだ」
 ユウさんは少し照れくさそうに笑った。
 彼の幸せだけを祈ると言い残して亡くなったナギサさん。そして、彼女の名前をつけた店を守り続けているユウさん。これ以上ないくらいに想い合い、愛し合っているふたり。
「だから俺は、もう恋はしないよ。凪沙のことだけ想って生きていくって決めてるんだ」
 深い決意をたたえたその顔を見て、父親になるつもりはない、と言った彼の言葉を、思い出した。
 ナギサさんのことが心にあるから、彼はもう誰とも恋愛をせず、結婚もせずに、ひとりで生きていくことを決意しているのだ。
 それはとても寂しくて悲しいことだと、私には思えた。もう恋はしない、なんて言ってほしくなかった。
「でもナギサさんは、ユウさんに幸せになってほしいって思ってたんですよね? ナギサさんのことは忘れられないかもしれないけど、誰か他の人を好きになって、いつか結婚して、お父さんになって、そうやってユウさんが幸せになることを、ナギサさんは願ってたんじゃないのかな……」
 そう言いながら、私は昔映画かドラマで聞いた言葉を思い出していた。何年も前に病気で死んだ恋人を思い続けていつまでも立ち直れない女性を励ます友人の台詞。
『亡くなった恋人のためにも、前を向いて、新しい恋をして幸せにならなきゃ。あなたが笑顔で生きること、幸せになることを、天国の彼も望んでいるはず』
 きっとナギサさんもそう願っていたんじゃないかと思う。自分の愛した人が、ずっとひとりで生きていくのを天国から見ているのは、とても悲しいことなんじゃないか。
 でも、ユウさんは微笑んだままゆっくりと首を横に振った。
「恋愛して結婚して子どもをもつことだけが人生の幸せじゃないと、俺は思うよ」
 確信に満ちた表情だった。私は息を呑み、黙って彼を見つめ返す。
「恋愛なんてしなくたって、俺の作った料理でお客さんや子どもたちに喜んでもらって、友達とうまいもん食べにいったり飲みにいったり、たまに草野球したりバスケしたりできるだけで、俺は今、十分満ち足りてるし、すっごく幸せだから」
 彼は言葉通り、本当に幸せそうに笑っていた。
「結婚とか家族とかは、来世でいいや。生まれ変わったら今度こそ凪沙と結婚するからさ。そんで子どもと犬と猫に囲まれた、賑やかで幸せな家庭を築くんだ」
 遥かな未来を思い描くような遠い目をして、ユウさんは言う。
「だから、とりあえず俺の今回の人生の恋愛は、これで終わり。凪沙に出会えたから、もうこれで大満足なんだ」
 一点の曇りもない眼差しと、迷いのかけらもない言葉だった。