「お帰り、まあちゃん、漣くん」
 家に帰って玄関のドアを開けると、おばあちゃんが奥から顔を出した。
「あ……ただいま」
「ただいま、ばあちゃん」
「お疲れ様やったねえ、偉かったねえ」
 おばあちゃんはやけに嬉しそうに私に笑いかけてくる。
「ご飯できとるよ、ふたりとも手を洗っておいで」
 そう言って、いつになく弾んだ足どりで台所へと戻っていく。
 子どもたちが帰ったあと、ユウさんがまかないを出してくれたけれど、おばあちゃんが夕飯の準備をしてくれているのが分かっていたので、軽めに食べるだけにしておいてよかったと思う。
「真波が子ども食堂の手伝いに行くこと、ばあちゃんもじいちゃんもすげえ喜んでたぞ」
 漣がスニーカーを脱いで上がり框に足をかけながら言った。
「え?」
「やっと鳥浦に慣れてきてくれたんかねえ、って」
「ああ……」
 そうか、ずっと心配されてたんだ、と今さらながらに気がついた。申し訳ない気持ちになりながら手を洗ってうがいを済ませ、居間に入る。
 食卓には、相変わらず里芋の煮物が並んでいた。
 さすがに飽き飽きしてきて、最近は手をつけない日もあったけれど、今日はちゃんと、いちばん最初に箸をつけた。
 すると、おばあちゃんが嬉しそうに、
「まあちゃんは本当に里芋が好きよねえ」
 と言った。
「え……ああ、まあ」
 別に嫌いではないけれど、とりたてて好きというわけでもない。なんと答えればいいか分からず、私は曖昧にうなずきながら口に運んだ。
 おばあちゃんが台所に戻ったとき、漣が「お前がさ」と声をかけてきた。
「引っ越してきた日の夜、里芋だけは食べたから、だからばあちゃんはずっと里芋のおかず作ってんだよ。気づいてた?」
「え……」
 私は驚いて目を上げた。漣を見て、それから台所に視線を向ける。玉すだれの向こうの小さな背中が、いつもよりもずっと楽しげな雰囲気をまとっているように見えた。
 なんで今まで気がつかなかったんだろう。こんなにも優しくされていることに。
 答えは簡単だ。私は、自分のことでいっぱいいっぱいで、周りが見えていないから。自分に向けられる心配や思いやりに気づく余裕がないから。
 そんな自分を情けないと思う。いつまでもこんなんじゃだめだ、と思う。
 この町に来たことで、ようやくそんなふうに考えられるようになった。
 食事の片付けを終えたあと、なぜだかいつものようにすぐに自分の部屋へ戻る気になれなかった私は、居間の横に続く濡れ縁に腰かけた。
 ここに座ると、庭木の向こうに海が見える。夜の海は静かに青く、ところどころに銀色の波を散らしていた。
「なに、珍しいことしてんな」
 うしろから声が聞こえて振り向くと、漣が立っていた。そのまま彼は、ふたり分ほど離れたところに腰かける。
「……今日は、まあ、なんとなく、外の空気でも吸おうかなって」
 適当に答えると、彼はどこか面白がるような表情で「ふうん?」と小首を傾げた。いちいち鼻につくやつだ。
 柔らかい夜風に吹かれてさわさわと鳴る枝葉の音に耳を澄ませていると、
「里芋だけじゃなくってさ」
 と漣が唐突に声を上げた。なんの話だろう、と私は視線を戻す。黒くてまっすぐな漣の髪が、さらさらと風に揺れていた。
「真波が引っ越してくるって決まったとき、ばあちゃんはすぐにカルピス買いにいったんだよ。お前が昔ここに遊びに来たときに、カルピスを美味しそうに飲んでたからって。だから用意しとかなきゃって言ってさ」
「え……」
 またも気づかなかった事実を知らされて、私は目を見開く。
 ここに来たときのことは幼なすぎてあまり覚えていないけれど、そういえば幼稚園くらいのころは甘い飲みものが大好きだった。ジュースばっかり飲んで虫歯になったらどうする、とお父さんに叱られて以来、あまり飲まなくなったけれど。
 そんな昔のことを、たった数日泊まっただけの私の好みを、おばあちゃんが今もまだ覚えてくれていて、わざわざ私のために買いにいってくれたなんて。
 それなのに私はあの日、目の前に出されたカルピスを見て、子どもの飲みものだと馬鹿にして呆れていたのだ。
 あのとき私はどんな顔でグラスを手にしただろう。そしてそんな私を、おばあちゃんはどんな思いで見ていたのだろう。
「引っ越しの日も、じいちゃんは腰が痛そうで、ばあちゃんは膝の調子が悪かったのに、ふたりとも『駅まで迎えにいく』って言うから、なんとかなだめて、俺が代わりに行ったんだ」
「え……なんでそれ、もっと前に教えてくれなかったの?」
 気がつかなかった私が悪いのだけれど、思わず漣を責めるような言い方をしてしまった。言い直そうと口を開いたとき、彼が「だって」とどこか呆れたような表情を浮かべた。
「教えたって、お前は素直に受け取らなかっただろ」
「…………」
 否定できなかった。口ごもった私をおかしそうに見て漣が続ける。
「でも、今のお前なら、ちゃんとまっすぐに受け取って、ちゃんと心が動くかなって、なんとなく思った。だから言った」
 そう、と私はうなずいた。それから、よし、と心の中でかけ声を上げて決意する。
「……ありがとう、教えてくれて」
 たったこれだけのことを口にするのに、ずいぶんと勇気がいった。でも、ちゃんと言えたことにほっと安堵する。
 漣が意外そうに目を見開いて、それから「どういたしまして」と笑った。
「まあちゃん、漣くん」
 おばあちゃんがグラスをのせたお盆を持ってやって来た。
「カルピス作ったんやけど、よかったら飲まんね?」
 あまりのタイミングのよさに、私と漣は思わず目を見合わせて、同時に噴き出した。
「えっ、どうしたんね」
 戸惑っているおばあちゃんに、笑いを堪えながら「ごめん」と謝る。
「ちょうどカルピスの話してたから、びっくりしちゃって」
「あら、そうなの。ちょうどよかったんやねえ」
「うん。飲みたいと思ってたんだ。いただきます」
 私は手を伸ばしてグラスを受け取る。それから、どきどきする胸を押さえて深呼吸をすると、おばあちゃんに笑いかけて言った。
「ありがとう」
 おばあちゃんが目を丸くして「え?」と私を見た。よく聞こえなかったのかもしれないと思い、もう一度口を開く。
「おばあちゃん、いつもありがとね」
 ゆっくり、はっきりと告げると、おばあちゃんはさらに目を大きく見開いて「あらあら、まあまあ」と声を上げ、それからふわりと花が咲くように笑った。
「どういたしまして」
 なんだか恥ずかしくなってきて、もうひとつのグラスを漣に手渡したあと、自分のぶんを両手で包み込んでグラスの中を見つめる。
 夜の中に優しく浮かび上がる乳白色。からころと鳴る氷。口の中に含むと、舌にまとわりつくような濃い甘みがふわりと広がった。
「……美味しい」
 思わず呟くと、おばあちゃんはひどく嬉しそうに頬を緩めた。
 私なんかのひと言で、こんなにも喜んでくれるなら、いくらでも言おう。心からそう思った。
「うん、うめえ」
 隣で漣がひとりごとのように呟く。美味しいね、と私は返した。
 海から吹いてきた風が庭を抜けて、濡れ縁まで届き、そっと頬を撫でていった。
 ぎしりと床板が鳴ったので目を向けると、蚊取り線香を手に持ったおじいちゃんがこちらへやって来た。
「そろそろ蚊が出てくるころだからね、線香を焚いとこうね」
「わあ、ありがと、じいちゃん」
 漣が笑顔で受け取り、かたわらに置く。私も「ありがとう」と声をかけた。
「ゆっくりしなねえ」
 おじいちゃんは鷹揚にうなずいて、風呂場のほうへと歩いていった。
「真波は幸せだな。こんな優しいじいちゃんとばあちゃんがいて」
 漣の言葉に、私はこくりとうなずいた。
 夜風に吹かれてカルピスを飲みながら、今日のことを思い返す。とても長くて、そしてとても濃い一日だった。
 こんなにもたくさんの心に触れたのは初めてだった。私が知らなかった、気がつかずに見逃していた、たくさんの心に。ユウさん、真梨さんと龍さん、おじいちゃんとおばあちゃん、それと漣、それぞれの思い。
 じわりと込み上げてきた涙をなんとか堪えながら、変わりたい、と強く思った。
 変わりたい。少しずつでも、ちゃんと変わっていきたい。
 心を解放して、もっと自分の気持ちをちゃんと口にして、そうしたらきっと相手の思いをちゃんと受け取れるようになるから。