「真波」
 その声で、漣だと分かった。自転車に乗って走っていた彼が、ブレーキを握ってサドルから降りる。
「お前、こんなとこでなにしてんの」
 責めるような声音だ。またか、とうんざりしながら「別に」と答える。
「別に、じゃないだろ。なに考えてんだよ、こんな時間までふらふら出歩いて……。じいちゃんばあちゃんに心配かけるなって言っただろ」
「……漣には関係ないでしょ」
 そっけなく返すと、彼はわざとらしくため息を吐き出した。
「ばあちゃんに聞いたけど、お前毎日、学校から帰ったらすぐ外に出て夜まで家に戻らないんだって? めっちゃ心配してたぞ、やっぱりここで暮らすのが嫌なんじゃないかって。嫌なのはお前の勝手だし別にいいけどさ、ばあちゃんらに心配かけるようなことすんなよ」
「……ただ外に出てるだけでしょ。晩ご飯までには戻るようにしてるし」
「それでもずっと家に帰らなかったら心配するに決まってんじゃん。お前そんなことも分かんねえの?」
「……うるさい。もう帰るし」
 私は漣の横をすり抜けて再び家の方向へ歩き出した。そのまま黙っていてくれればいいものを、彼は追いかけてまで話しかけてくる。
「そういう問題じゃないんだよ。てか、本当にどこでなにしてんだよ? ずーっとどっかでぼけーっとしてんの? それなら家にいればいいじゃん。なんでわざわざ毎日外に出るんだよ。ばあちゃんらだって真波と話したいだろうし、学校のこととかも聞きたいだろ。ちょっとは心開いて歩み寄り……」
「あーもう、ほんっとうるさいな漣は!」
 次々に言葉をぶつけられて、とうとう苛立ちを抑えきれずに声を荒らげてしまった。
「なんで同い年なのにそんな偉そうなわけ? 私がどこで誰となにしてようが私の勝手でしょ!」
「だからそういうこと言ってんじゃなくて、ばあちゃんたちに余計な心配かけんなって——」
 そこまで言って、漣がふいに言葉を止めた。怪訝に思って振り向くと、彼は眉をひそめて険しい顔をしている。それからゆっくりと口を開いた。
「……誰となにしてようが、って言ったな? 今。お前、誰かと会ってんのか?」
「……別に」
「いや、ひとりでいるならそんなふうに言わないだろ。毎晩誰かと会ってるってことだろうが。誰だよ? 友達か?」
 私に友達なんているわけないじゃない、学校の様子見てるんだから分かるでしょ。そんな怒りに衝き動かされて、思わず正直に言ってしまった。
「ユウさんって人と会ってるの。でも、だからなに?」
「は? ユウさんって?」
「前に漣も会ったでしょ。私が引っ越してきたばっかりのころに、そこの砂浜で」
「あの大人の男の人か?」
「そうだよ」
 答えた瞬間、漣の顔がさらに険しくなった。
「なに考えてんだよ! 危ないだろ」
 その言葉に、かっと怒りが込み上げてくる。
「危なくなんかないし! ユウさんはすっごくいい人だよ」
 そんなん分かんねえだろ、と漣が小さく唸るように言った。
 ユウさんのことをそんなふうに言われて腹が立ち、頭に血が昇ってしまったけれど、実際に会って話したわけではない漣には彼がどういう人間か分からないのだから、誤解する気持ちも理解できなくはない。そう考えて、私は深呼吸をしてから少し声を落とした。
「ユウさんがやってるお店に、普通にお客さんとして行って、ちょっと話したりしてるだけだから」
 それで黙ってくれるだろうと思ったのに、漣はきつく眉をひそめる。
「は? 店に? 毎日か? そんなん向こうに迷惑だろ」
 ずきりと胸が痛む。自分でも心のどこかで思っていたからだ。
 私なんかにつきまとわれて、ユウさんは迷惑に思っているんじゃないか。いい加減にしてほしいとうんざりしているんじゃないか。でも、彼がいつも笑顔で迎えてくれるから、そんな不安を無理矢理打ち消して、毎日通っているのだ。
「やめろよ、そんなことすんの。お前、なんかおかしいぞ」
 熱くなった目頭をぎゅっと押さえてから、私はうつむいたまま「やだ」と呻いた。
「やめない……。だって、ユウさんと会えなくなったら、私、絶対、耐えられない……」
 堪えていたのに声が震えてしまって、情けなさに吐きそうだった。
「それに、ユウさんは迷惑なんて、きっと思ってない、はず……。来ていいよって言ってくれてるし……」
 なんで漣なんかに言い訳してるんだろう、と頭の片隅で思いつつ、必死に言葉を続ける。
 しばらくして彼はふうっと息を吐き出し、分かったよ、と小さく呟いた。
「じゃあ、じいちゃんたちにちゃんと事情を説明することと、俺も様子見に行くのを条件に、許してやってもいい」
「……えっ? は?」
 予想もしていなかった返答に、私は顔を上げた。
「俺も一緒に行ってどんな人か確かめてくるって言えば、ばあちゃんたちも安心してくれるだろ」
 漣はどうやら本気で言っているらしい、とその表情から分かり、戸惑いを隠せない。
「明日行くよ、ちょうど部活も先生の出張で休みだ」
 嫌だった。ただでさえ苦手な漣と、貴重な放課後の自由時間にまで一緒に行動なんてしたくない。なんとかこじつけの理由を考えて口に出してみる。
「でも明日は、子ども食堂だから……」
「子ども食堂?」
 首を傾げる漣に、ユウさんから聞いた説明を伝えた。無愛想な漣のことだから子どもは苦手そうだし、それならやめる、と言ってくれるかと思ったのに、
「へえ、なにそれ、楽しそう。鳥浦でそんなことやってたんだな」
 と、彼は逆にわくわくしたように言った。マジか、と私は内心で項垂れる。
 言葉を失った私を見つめながら、彼は少し頬を緩めた。
「まあ、喫茶店でいろんな人に会って、いろんな人と触れ合うのは、真波にとっていい影響になりそうだしな」
 私にとっていい影響? 漣がそんなことを考えているなんて驚いてしまって、私は唖然と口を開いた。
「お前もいつまでも今のままってわけにいかないだろ。変わるきっかけになるかも知れないから、いいんじゃないか? どっちにしろひとりじゃ心配だから、とりあえず明日は俺も行くよ」
 漣という人間のことが、急に分からなくなった。
 彼は自分と正反対な私のことが嫌いで、見ていると苛々するから、なにかと口出しをしてきてきつい言葉をぶつけてくるんじゃないのか。それなのになぜ、私のことを親身に思っていると錯覚させるようなことを言うんだろう。
 そんなことを考えているうちに、ふとあることを思い出した。
 初めて登校した日、教室の前で足が動かなくなって震えていた私を、驚くほどの無遠慮さで中に入れてくれたこと。ことあるごとにクラスメイトたちと関わらせようとしてくること。
 もしかしたら漣は、私が思っているほど、ただ冷たくて厳しい人ではないのかもしれない。
 ふいにそんな考えが浮かんで、慌てて打ち消した。期待して裏切られるのなんて、もうまっぴらだった。