ひとりの解放感を満喫しながらゆっくりと昼食を終えて、予鈴が鳴ったあと、用を足してから教室に戻ろうとトイレに向かった。そうして個室を出ようとしたとき、ドアの向こうから女子の話し声が聞こえてきた。
「あの白瀬って子、なんなんかなー」
 あ、と思わず声が出そうになる。私はドアノブにかけた手をそっと離した。続きを聞きたくないけれど、ここで扉を開ける勇気はない。
「ほんとそれ。なんで誰とも話さないんだろ?」
 女子トイレは鬼門だ。閉じられた空間という油断からか、噂話や陰口に精を出す女子たちは少なくない。
「声かけてもまともに反応しないよね。なんか感じ悪いよねー」
「漣くんの下宿先で一緒に住んでて、漣くん面倒見がいいからいろいろ気遣ってるみたいだけど、相手があんな子じゃ大変だろうな」
「迷惑と思ってても、優しいから絶対言わないよね。漣くん可哀想」
「ていうかさ、せっかく漣くんが声とかかけてあげてるのに、すごい態度悪くない?」
「わかる! めっちゃ嫌そうな顔してるよね。ありえない」
「漣くんに失礼だよね。見ててムカつく」
 容赦なく飛んでくる否定的な言葉。言われて当然の内容ばかりだし、人との関わりを拒絶しているのは本当だから仕方がないことだと自覚はしているけれど、普段は私に対する不満などおくびにも出さずにいる人たちが、私のいないところで好き勝手なことを言っているという状況が、こたえた。中二のときの苦い記憶が甦り、足元が崩れていくような感覚に襲われる。
「N市に住んでたらしいし、うちらのこと馬鹿にしてんじゃない?」
「あー、田舎者とは口ききたくない!みたいな?」
「うちの親が言ってたけどさー、なんか白瀬さんのお父さんって社長らしいよ」
 これだから田舎は嫌だ。個人情報保護なんて、ちっとも頭にないのだ。大っぴらにしていないことでも、いつの間にかみんなに知られていたりする。息苦しい閉塞感。
「えっ、マジ!? じゃあ、お嬢様ってやつかー」
 確かにうちのお父さんの肩書きは社長だけれど、お嬢様などという言葉が似合うような大企業でもなんでもなくて、ただの自営業に毛が生えたような家族経営の小さい会社だ。それなのに、社長の娘というだけで、小学校でも中学校でも、何度勝手なことを言われてきたことか。
「じゃあ、あれ? 下々の者と関わると品が落ちちゃう、とか思ってんのかな」
「あははっ、そうかも! うちら品ないもんね」
「あんたと一緒にしないでよ!」
 きゃはは、と笑った彼女たちは、そのあと今流行りの芸人の話題で盛り上がり、楽しげに騒ぎながらトイレを出ていった。
 こんなの、どうってことない。心の中で呟く。
 無責任な噂話も、悪意のある陰口も、これまで標的にされたことはある。別に直接的な被害を受けたわけではなく、うざいとか死ねとか言われたわけでも、殴られたり蹴られたりしたわけでもないし、大したことではない。忘れてしまえばいいことだ。
 頭では分かっているのに、向けられた言葉がいつまでも私の中をぐるぐる駆け回って薄れてくれないのは、どうしてなんだろう。
 午後の授業の間は、ずっと下を向いていた。顔を上げてしまうと、さっきの噂話の人たちは誰なのかと探してしまいそうだったからだ。知らなくてもいいことは知らないままでいたかった。