漣と話したあと、下を向いてただひたすら時間が過ぎるのを待ち、放課後になったと同時に、呼び止める担任の声も無視して教室を飛び出した。
 朝来た道を、倍くらいのスピードで戻り、電車に飛び乗って鳥浦の駅で降り、いつもの海に辿り着いたときに、やっと足を止めた。そして海岸に下り、あの砂浜に腰を下ろした。
 家も学校も嫌だ。どうしてみんな放っておいてくれないの。どうして話しかけてくるの。私のことは透明人間だと思って放置しておいてくれたら、私だって誰の邪魔にもならないように息をひそめて気配を殺して、無害な存在として静かにしてるのに。わざわざ私なんかに興味をもって構ってくるから、上手く対応できなくて嫌な態度を取ってしまうんだ。お願いだから、放っといてよ。
 自分でもどうにもならない心の叫びが身体中を駆け巡っていて、息もできないくらい苦しかった。
 抱えた膝に顔を埋め、ぎゅっと目を閉じて、繰り返す波の音を聞くともなく聞く。そうしていると、少しずつ気持ちが落ち着いてきた。
 ずいぶん時間が経ってから、ゆるゆると目を上げると、目の前には夕焼けのオレンジと夜の青が入り混じった空、そしてそれを鏡のように反射する海が広がっていた。
 もうこんな時間なのか。そろそろ帰らないと、夕飯の時間だ。
 頭ではそう思っているのに、身体が動かない。
 じりじりと水平線に沈んでいく夕陽をうつろな目に映していると、ふいに、砂を踏むかすかな足音を耳がとらえた。
 予感があって、振り向く。
「幽霊さん……」
 思わず呟くと、今日も白いシャツを着た彼が、肩のあたりまである少し長めの髪をふわふわと風になびかせながら、ふ、と口許を緩めた。
「やっぱり俺、君の中では幽霊ってことになってるの?」
 ふはっ、とおかしそうに彼は笑った。
 その笑顔を見た瞬間、一瞬で涙腺が崩壊した。自分でもびっくりするほど、ぼろぼろと涙が溢れ出してくる。
「おお、どうしたどうした」
 彼はやっぱりおかしそうに笑いながら、そっと私の泣き顔を覗き込んでくる。
「なんかつらいことがあったんだね。そっかそっか」
 なにがあったの、とか、話してみて、とか、理由を訊ねたりはせずに、ただ「うん、うん」とうなずいている。それで逆に涙が勢いを増してしまった。
「いいぞー、若者! 泣け泣けー!」
 彼が応援するように拳を空に突き上げた。その様子がおかしくて、私は思わず泣きながら噴き出す。
 泣き笑いの私を、彼は柔らかい眼差しで包んだ。
「涙は全部、海が受け止めてくれるから……」
 そう言って、彼は私の隣に腰を下ろした。その視線は、夜色に沈みつつある海を眺めている。
 そうか、泣いてもいいのか、と思った。ここで私が泣いても、見ているのは幽霊さんだけだ。誰にも知られなくて済む。おじいちゃんにもおばあちゃんにも、お父さんにも、漣にも。
 そう思ったら、不思議なことに、逆に涙の衝動が治まってきた。
 最後の涙がすうっと頬を伝ったあと、私は情けないかすれ声で訊ねた。
「……幽霊さんも、涙を海に受け止めてもらったことがあるんですか」
 すると彼は声を上げて笑った。
「また幽霊って言った」
 彼は本当に楽しそうに笑う。まるで、世界には楽しいことと幸せなことしかないんだ、というように。
「でも、申し訳ないけど、俺は幽霊じゃないからなあ」
 顔を覗き込まれて、私は涙でぐちゃぐちゃの顔を少し伏せた。
「じゃあ……ユウさん、って呼びます」
「えっ?」
 とたんに彼が大きく目を見開いた。
「あ、『幽霊』の『ユウ』さんってことで」
 ははっ、とまた彼が笑った。
「やっぱり幽霊から離れてくれないんだ」
 底抜けに明るいその笑顔を見ていると、心の奥底に溜まった澱のようなどろどろとした暗い感情が、少しずつだけれど、浄化されていくような感覚に包まれた。
 なんとなく気恥ずかしくて、私は膝を抱えた腕にあごをのせる。
 鳥浦は田舎だし、人と人との垣根が低すぎて、やっぱり好きにはなれないけれど、それでも彼が暮らしている町なんだと思えば、少しはやっていけそうな気がしてきた。
 そのときだった。
「真波ー!」
 突然どこからか大声で名前を呼ばれて、私ははっと顔を上げた。漣の声だった。
 振り向いて確かめると、後方の堤防の上に小さな人影が見える。
「そんなとこでなにしてんだよ! じいちゃんばあちゃんが心配してるぞ!」
 私はふうっとため息を吐いた。まさか彼にこんなところを見られるなんて、最悪だ。
「お迎えが来たみたいだね」
 くすくす笑いながらユウさんが言った。
「お迎えっていうか……なんかつきまとわれてるっていうか」
「いいじゃん。心配してくれる人がいるって、素敵なことだ」
「そうですかね……」
 軽く首を傾げたとき、また「真波! 早くしろよ」と聞こえてきた。
 私はうんざりしながら、ゆっくりと腰を上げた。
「お騒がせしてすみませんでした……帰ります」
 ユウさんは「うん」とうなずいてから、「またね、真波ちゃん」と言ってくれた。
 漣が私を呼んだのを聞いて、名前を悟ってくれたのだろう。漣とは全く違う、優しくて柔らかな呼び方だった。
 うしろ髪を引かれるような気持ちで彼に頭を下げ、私は漣の立つ堤防へと階段を上った。
 漣まであと数歩のところで、私は砂浜へと目線を落とした。
 ユウさんは波打ち際に佇んで、月明かりの海を眺めていた。あの夜と同じように。その背中を、私は静かに見つめる。
 私の視線を追って、漣も海へ目を向けた。
「……あれ、誰?」
 彼の問いに、私は小さく、知らない人、と答える。私のせいでユウさんに迷惑をかけるのは嫌だった。
「ふうん……」
 漣はユウさんを値踏みでもするようにじっと見つめてから、興味を失ったように目を逸らす。
「……お前、ずっとあそこにいたのか? 学校終わってからずっと?」
「どこにいようと私の勝手でしょ」
 つっけんどんに答えると、彼が呆れ返ったように肩をすくめる。
「勝手だけど、じいちゃんたちには心配かけんな」
 ちらりと見ると、漣は制服のままで、こめかみには汗が浮いていた。
 もしかして、帰宅してからずっと私のことを探していたんだろうか。だとしても、おじいちゃんたちに頼まれて仕方なく、だろうけど。
「とっとと帰るぞ」
「……分かってるって」
 歩きだしながらもう一度海のほうを振り向くと、今度はユウさんはこちらを見上げていた。私に気づくと、笑顔でひらひらと手を振ってくれる。またね、頑張れ、と言うように。
 私も小さく手を振り返しながら、ユウさんがおじいちゃんちの下宿人だったらよかったのに、と心の底から思った。