「わっ」
「えっ?」
「えーっ!」
 あちこちから声が上がる。私の出現に驚いているのは明らかだった。気まずさに慌てて顔を下に向ける。いつもよりもずいぶん内股になった爪先が、自分の情けなさを体現しているようだった。
 一気にざわざわし始めた教室の奥のほうから、「もしかして!」という大きな声が聞こえてきた。思わず目を向けると、こちらを指さしているいかにも活発そうな女子と目が合った。
「白瀬真波ちゃん!?」
 ばくっ、と心臓が胸の中で飛び跳ねた。そして内側からどんどんと激しく叩いているのを感じる。
 硬直したまま動けない私を、漣が「入れよ」と振り向いたけれど、身体中に重りを結びつけられているみたいに身動きがとれない。
「あっ、一〇番の白瀬さん!?」
 他の女子が声を上げた。一〇番、というのは私のこのクラスでの出席番号らしい。さっき担任から教えてもらった。
「白瀬って、ずっと休んでた子だよね?」
「わー、すげー!」
「へえ、来たんだー」
「なあなあ、どうして休んでたん? 病気? 怪我?」
「お前、そういうこと訊くなよ。デリカシーねえな!」
「あっ、ごめん、白瀬さん!」
「ね、今日からは学校来れるの? 明日からもずっと?」
 男女問わず押し寄せてくる人波と、次々にぶつけられる質問に圧倒されて、私はさらに全身を強張らせた。冷や汗がこめかみを伝うのが分かる。
 すると、斜め前に立っていた漣が、ふいに右手を胸の高さまで上げた。
「お前らなあ……」
 苦笑いを浮かべたような横顔が、クラスのみんなを見ている。
「ちょっとは遠慮しろよ。いきなりそんながっついたら、びっくりするだろ」
 とたんに、私を取り巻いていた人だかりが、さあっと崩れた。
「そうだよね、ごめんごめん」
「ずっと気になってたからさー、思わず」
「白瀬さん、またあとで話そうね!」
 手を合わせて謝り、そして手を振りながら去っていく。
 私は目を丸くして漣を見た。こんなに一瞬で、みんなが彼の言うことを聞くなんて。まさに鶴の一声のようだった。それだけ人望があるということだろう。
 心の中で、また黒い感情が湧き上がり始める。私とは正反対な漣。みんなに愛され、信用され、尊敬されている。羨望なんかない。ただ、苛々する。
「真波の席、そこだってさ」
 漣が指で示した後方の席に、私は無言のまま向かった。ありがとうも言えない。
 彼はいつものように呆れ顔で肩をすくめ、教卓の目の前の席に腰を下ろした。
 私は下を向いて鞄から教科書を取り出していく。その間にもちらちらと不躾に向けられる視線が突き刺さった。質問攻めも困るけれど、こんなふうに興味津々で見られるのも居心地が悪かった。
「なになに、漣、白瀬さんと知り合いなの? 真波って呼んでたよな」
 漣の隣の席らしい男子が、彼に話しかけるのが聞こえてきた。いちおうひそひそ声で話しているつもりらしいけれど、思いきり聞こえる。どうせならもっと音量落としてよ、とむかむかしながら思った。
「知り合いっていうか……前話しただろ、俺、親の知り合いの家に下宿させてもらってるんだけどさ、真波はそこんちの孫なんだよ」
「えっ、マジで!? ひとつ屋根の下ってやつ?」
「まあな」
「マジか! 女子と同居? やべー、運命? 恋の予感? 映画みてえ!」
「なに言ってんだよ、ばーか」
 漣がおかしそうに笑った。私はそれを見て、ちゃんと否定してよね、と内心でなじる。そういう誤解が、あとから面倒な状況を引き起こすことだってあるのだ。
「白瀬さん」
 ふいに隣から声をかけられて、私はびくりと肩を震わせた。おそるおそる横に目を向けると、そこにいたのは、満面の笑みをこちらに向けている女子だった。
「初めまして! 私、橋本由佳って言います。よろしくね。せっかく隣の席だし、分かんないこととかあったらなんでも聞いてね!」
 よろしく、と答えようと思ったのに、喉を絞められたように苦しくなって、声が出なかった。
 彼女は一瞬不思議そうに首を傾げたけれど、気を取り直したようにまた笑顔を浮かべて口を開く。
「漣くんと同じ家に住んでるんだってね。すごいね! 漣くんが一緒だったら、なんでも安心だよね! よかったね」
 なにか言わなきゃ、と思うのにやっぱり声を出せなくて、無言のままの私をよそに、彼女は途切れることなく話し続ける。
「このクラスね、男子も女子も仲いいし、すごい雰囲気いいよー」
 彼女の言葉に、周りの生徒もうなずいたり、話に加わったりし始める。
「そうそう。担任もまあけっこういい感じだし、当たりだよねー」
「みんないい人だからさ、困ったら誰にでも安心して声かけて大丈夫だよ!」
「いろいろ不安かもしれないけど、まあ、肩の力抜いていこうぜ!」
 私に向けられるたくさんの視線、優しげな言葉、親切そうな笑顔。それらに囲まれていると、どんどん動悸が高まっていく。
 どれが本当の笑顔で、どれが本当の言葉なんだろう。いや、全部うそかもしれない。一ヶ月も欠席していた私への無神経な好奇心や、特別扱いをされていることに対する敵意が隠されているかもしれない。
 そう思うと、膝の上で握りしめた指が震え、額や背中に冷や汗が流れ、ぐっと胃のあたりが痛くなってきた。視界が焦点を失ったようにぼやけていく。息が苦しい。
「おい、真波?」
 突然、強く肩を揺さぶられた。
「大丈夫か?」
 漣だった。真横に立って、怪訝そうな表情で私の顔を覗き込んでいる。
 見慣れた仏頂面を見たせいか、ふっと肩が軽くなった。息を深く吸い込み、肺に空気を送り込むと、気分もだいぶよくなる。
 でもやっぱり声は上手く出せなくて黙り込んでいると、漣が眉をひそめて凝視してきた。そして彼は振り向き、背後のクラスメイトたちに声をかける。
「お前ら、とりあえず席戻れ。いきなりこんなに囲まれたらびびるだろ」
 彼らは「そうだった。ごめん」「はーい、了解」と口々に言って散っていく。
 それを見届けて、漣が私の横で腰を落とした。
「お前、どうしたの? 気分悪い?」
 悪いけれど、それを漣に言いたくはない。
「……別に、どうもないけど?」
 私に向けられていた注目がなくなって、声がちゃんと出るようになったことに安堵しながら小さく答えると、彼はまた眉を寄せた。
「じゃあ、なんで返事しなかったんだよ? せっかくみんな声かけてくれてたのにさ」
 私はまた「別に」と呟く。事情を話すつもりもなかった。
「ただ、したくなかっただけ」
 漣が呆れたように肩をすくめた。
「なんだよそれ、女王様か。そんなんじゃ友達できねえぞ」
 無神経な言い方にむっとして、睨み返す。
「友達なんかいらないもん。どうせ……」
 友達なんて表面上だけの関係なんだから。どうせいつか裏切るんだから。続きを口にするのはさすがに思いとどまった。そんなことを言ったら漣は強く反発しそうだと容易に想像できた。
 そのときちょうど、担任が教室に入ってきてホームルームの始まりを告げ、漣が仕方なさそうに席に戻っていったので、私は心底ほっとした。