数分前、俺は変な女に出会った。名前は間宮(まみや)梢子(しょうこ)と言い、小説家をしているらしい。星屑がついているかのような、金色に煌めく髪に、吊り上がった目は、狐のような容姿を連想させた。何より俺が気に入らないのは、こいつの身長だ。俺より高いだろ……。
こんな事からでも、自分が子供なのだと思い知らされる。
すらっとした体形に合った、長いコートを風に揺らし、寒さをしのぐ様に、マフラーに顔をうずめる奴の後ろを、俺は何も言わずに歩いた。頬に雪があたり、ひりひりと麻痺していく。よく知っている感覚だ。
店の正面に着くなり、奴は足を止めた。
どうせやるなら派手に表から行こうと、一人で意気込んでいた奴。こいつは今から、俺の身柄を自分によこせと、店に盾突こうとしているのだ。
こいつの目的は俺を飼いならす事だろう。どこにいようとも、俺の役割は変わらない。でも、事はそう簡単には進まないだろう。奴らは傲慢だ。こいつが痛めつけられる姿が目に浮かぶ。
……なぜだろうな、こいつが傷つくかもしれないと思うと、胸がざわつく。自分を物扱いするような人間の事なんて、どうでもいいはずなのに。こんな感情、今まで感じた事がない……。
「さあー、どうすっかなー。たのもう方式で、バンッとかっこよく扉を開けるか、大人っぽくミステリアス風にいくか」
頭を傾け、悩む梢子。
「なあ、お前はどっちがいいと思う?? あ、ちなみに私にはこの通り、両腕がないから、かっこいい方だと足で開けることになるがな」
ケラケラと笑いながら言う奴には、やはり恐れと言うものがないらしい。自分の両腕の事もネタにしてくるし。普通腕がなかったら、もっと絶望しているだろ。本当におかしな女だ。
「分かっていると思うが、ここは違法クラブだ。中にいる奴らがお前の話を聞いて、はいそうですかって、言ってくれると思うか?」
「言わないだろうな」
さらりとそう言う梢子に、青星は目を丸くした。
なんだその分かっていますよ感は。
「大体、なんでお前みたいのがこんなところにいるんだよ。こんな汚い街、お前には不釣り合いだ!」
青星がそう言うと、梢子は少しの間、無言で青星を見つめた。
「っなんだよ……」
そして、静かに店の階段に腰を下ろすと、ゆっくりと口を開いた。
「編集部の創立記念パーティーに参加していたんだが、つまらなくなって出てきたんだ」
空から降る雪を眺めながら梢子は言った。
「泣きつかれたも同然で、断れきれなくて来たが、やはり苦手な場は控えるべきだな……」
独り言のように静かに話す奴の声を聞いていると、さっきまで、耳障りに聞こえていた音楽が聞こえなくなっていった。ただ静かに降り積もる雪を二人で眺める。神秘的、幻想的。どの言葉で表現するのが正解なんだろうか。いや、どの言葉も当てはまっていない。これは俺だけが感じて、知るもの。それは、全部いま、こいつがくれているもの。まるでこの世界に、俺たち二人だけみたいだ。こんな世界が、俺の中に存在していたなんて知らなかった。
「自分を大切に出来ないものは、人を幸せに出来ないな。……牧野に謝らなくちゃな、勝手に出てきた事を」
牧野……誰の事を言っているのだろうか。でも、奴がそいつの名前を出した時の表情を見て、きっと大事な存在なんだと俺は理解した。
こいつは、この世界にいちゃいけない。
「よーし、行くか」
「帰れ」
「え??」
「ここは、お前が居ていいような場所じゃない」
住む世界が違い過ぎる。
「なぜ?」
「なぜって……」
梢子は本当に訳が分からないというような顔をしていた。そんなの、決まっているだろ。ここにいちゃ、お前まであいつらのおもちゃだ。俺は、そんなお前を見たくない。
震える体を抱きしめながら、青星は思った。自分は、この女の事を特別に思っているのかもしれないと。
「……何を思っているのか知らんが、今ここにいるのは私の意志だ。お前に何を言われても、私の決意は揺るがないぞ」
「あ、おい……!!」
梢子は青星の言葉を無視し、腰を上げ階段を上がりドアの前に着くと、
「……決めた」
そう呟くように言い、こちらに振り返り、
「回し蹴り作戦だ」
と、ニヤッと笑った。
「……え?」
次の瞬間。
――バンッ……!!!!!
とてつもない騒音があたりに響いた。
嘘、だろ……
梢子は体を回転させると同時に片足を上げ、勢いよくドアを蹴破ったのだ。ドアの破片は散らばり、青星の視界に舞った。
「きゃあああああ……!!!」
店の中からは悲鳴が聞こえ、ドアは店員の頭部に直撃し、その店員は気絶していた。
「ありゃりゃ……」
奴はそう言うと、楽しそうに俺の方を見て笑った。
マジか、こいつ……。
その細い体からは想像もつかないような力で、奴は頑丈なドアを足で開けた。いや、壊したのか。
唖然とする青星をよそに、梢子は店の中にぐんぐんと進む。店の中には、酒と会話を楽しむ大勢の客と数人の店員がいた。みんな、呆気にとられた顔で奴を見ていた。
「オーナーはいるか」
先ほどまでと対照的な、低い声で奴は言った。すると中央にある階段の上から、赤毛に、黒いスーツに身を包み込んだ、若い男が出てきた。
「俺だが」
人相の悪そうな男は、サングラス越しに梢子の姿を捉えた。
「お前か……」
まずい……! 今日は阿久津(あくつ)さんがいる日だった……!
阿久津さんは、このクラブのオーナー兼社長。噂では裏で人殺しとかもっとやばい事をしているって聞いた事がある。下手すれば、殺される……。
阿久津は蹴破られたドアと、床に倒れている店員を見ていた。
「これはこれは、とんだじゃじゃ馬姫だな」
冷笑する阿久津。
「担当直入に言う、こいつを私によこせ」
そう言い、梢子は青星のことを顎で指した。
阿久津は青星を一瞥すると、すぐに梢子に視線を戻した。
「それは、無理だな。そいつはうちにクラブの大切な商品だ。見ての通り、なかなか良い代物だ。手放すわけがないだろ」
サングラス越しでも分かる。鋭く光る阿久津の目。
どうする俺……俺がなんとかしないと、本当にあいつが死んでしまう。
体からは冷や汗が流れ、青星は背筋が凍るよう様な思いをしていた。
だが、そんな相手を前に、梢子は一歩も引かなかった。梢子は店内を歩き回り、あたりを見回すと、ソファー席に腰を下ろした。
「見たところ、ここは警察の手が届かないようになっている。お前、裏で何をしている? 警察の官僚とでもデキてんのか?」
「ふんっ。馬鹿を言うな。俺は自分を売るような真似はしない」
「俺は、ねえ?……」
阿久津は階段を降りると、梢子の隣に腰を下ろし、片手で梢子の顎先に触れた。
「あんた、その腕どうしたんだ? 金がなくて売りにでも出したか? 惜しいなー。腕があれば、この顔だったら、いくらでも客がついただろうに」
「話をそらすな。私はあいつをよこせと言っているんだ」
梢子は阿久津を睨みつけた。至近距離でも、全くうろたえない梢子。そんな梢子の姿に阿久津は、言葉での脅しは不要だと考えたようだ。
「これを聞いても、そんな事が言えるか?」
阿久津は後ろに居た部下の男に、一枚の書類を渡すよう、命じた。青星はそれがなんなのか、すぐに分かった。
……そうだ、それを見せれば、さすがのこいつも諦める。
目の前のテーブルに置かれたのは借用書だった。梢子はその借用書をまじまじと見た。書かれていた名義は、七瀬(ななせ)青星(あおし)。
「それは、あいつの馬鹿親父が俺に借りた金だ」
明らかに梢子の顔が青ざめたのを青星は見ていた。
ほらな、星に願ったとしても、何も変わりやしない。
「もし、今すぐその額をお前が払えるって言うのなら、あいつをお前にくれてやる。でも無理だろうな、あいつの親父が借りたのは、五千万だ。 そんなの払えるわけ――」
「いいぞ」
梢子は阿久津の話を遮り、そう言った。
「五千万か。今は手持ちがないから、明日、持ってくるとしよう。それでいいか?」
「は……お前、何言って……五千万だぞ……!? 分かってんのかよ……!!」
阿久津は驚きを隠せないでいた。
「青星、こっちに来い」
「えっ……」
梢子は青星を自分の元に呼ぶと、テーブルの上に置いてある借用書を手に取るように言ってきた。
そして、とびきりの笑顔と、店中に響き渡る声で、
「破れ!! 青星……!!」
そう言った。
青星は借用書をぎゅっと握りしめると、梢子の言葉に感化されるように盛大に破いた。
―――ビリッ……!!!
――否定しなかったのは、生きたと願ったから。
――止めなかったのは、助けを求めたから。
この日までの自分を捨てるかのように、青星は無心になって破いた。何度も、何度も、手を動かして、ビリビリになるまで破り続けた。気が付くと足元には、自分が破いた借用書が、散りになって広がっていた。
「いいぞー! 青星!」
喜ぶ奴の声。涙で、視界が歪んだ。
もう、なににも縛られない。俺は、俺は……
自由だ――。
「行くぞ、青星」
そう言い、頭で俺の背中を押し、俺を前に押し出した奴。その笑顔は、子供のように無邪気なものだった。
俺らは二人で店の外に走り出した。後ろに鬼の形相をした阿久津さんがいることなんて、気にもせず。
ああ、すげえ……。
空を見上げると見ると、今までと比べものにならないくらいに星が輝いて見えた。
しばらく走り、人の多い所に行くと、俺たちは止まった。俺は息を切らし、腰を曲げ、両手を膝についた。取り入れる空気は冷たく、上手く呼吸が出来なかった。隣を見ると、同じく息を切らす奴が。その額からは汗が流れ落ちていて、とても辛そうだった。
この気温の中、走って流れるほどの汗。それは、両腕のない状態で走るのが、容易な事ではないのを表していた。
さっきはあんな回し蹴りもしたしな、そりゃこうなる。……そうまでして、俺を。
「おい」
「はあ、はあ、あ……?」
「……ありがとう」
奴は一瞬、驚いたように目を大きく見開いたが、俺の言葉を聞き入れると、目を細め、「へへっ」と笑った。
少し休ませてくれと言い、俺たちは空いている公園のベンチに二人並んで腰を下ろした。
夜の公園はカップルが多かった。思えばここは人気の夜景スポットだった。
俺が普段、店の中から見ていた景色が、今は目に前にある。
誰が想像しただろうか、監獄の中に閉じ込められていた、不幸な少年が、一人の小説家によって、自由な世界を生きようとするなんて。
「さっきは悪かったな。お前を物のように言って」
息を整え終わった梢子はそう言った。
「ああ……別にいいよ、慣れてるし」
あんな事、俺にとちゃ、当たり前みたいなもんだ。
「それでも、悪かった。あと、慣れてるなんて、悲しい事を言うな」
悲しいか。俺は自分の痛みに疎い人間なのかもしれないな。でも、人の痛みに疎くなるくらいだったら、それでいいと思う。
「青星」
真剣な眼差しで、俺の名を呼ぶ奴。
「これからは、私がお前の憎しみも悲しみも、怒りも、全て受け止める。だから、私を頼れ」
それは、嘘偽りのない言葉だと思う。でも。
「一つ、聞いてもいいか」
「なんだ?」
「どうして、俺にここまでしてくれるんだ……?」
俺とお前は、何も関係のない間柄だった。それなのに、一体どうして。本当に俺の体が目当てだったとしても、お前のような人間は、ここまではしないはず。本当の理由を知りたい。
青星は梢子の言葉を待った。しかし、
「さあーな」
「……は??」
「よく分からないんだ。でも……間違っても私には、あそこにいたような連中と同じ考えはない。断じて。今、私の口から言えるのは、それだけだ」
正直、納得できる返答ではなかった。でも、初めて俺自身を見てくれたこいつを、信じたかった。傍に、いたいと思った――。
梢子は立ち上がり、青星の方を向いた。
「まあ、そんなわけで、これからよろしく、青星。……と言っても、私に差し出す手はないがな」
「……いや」
俺は立ち上がり、奴のコートの裾を掴んだ。
「充分だ」
この歪んだ世界から、お前が、手を差し伸べた。そして俺は、その手を掴んだ。
こんな事からでも、自分が子供なのだと思い知らされる。
すらっとした体形に合った、長いコートを風に揺らし、寒さをしのぐ様に、マフラーに顔をうずめる奴の後ろを、俺は何も言わずに歩いた。頬に雪があたり、ひりひりと麻痺していく。よく知っている感覚だ。
店の正面に着くなり、奴は足を止めた。
どうせやるなら派手に表から行こうと、一人で意気込んでいた奴。こいつは今から、俺の身柄を自分によこせと、店に盾突こうとしているのだ。
こいつの目的は俺を飼いならす事だろう。どこにいようとも、俺の役割は変わらない。でも、事はそう簡単には進まないだろう。奴らは傲慢だ。こいつが痛めつけられる姿が目に浮かぶ。
……なぜだろうな、こいつが傷つくかもしれないと思うと、胸がざわつく。自分を物扱いするような人間の事なんて、どうでもいいはずなのに。こんな感情、今まで感じた事がない……。
「さあー、どうすっかなー。たのもう方式で、バンッとかっこよく扉を開けるか、大人っぽくミステリアス風にいくか」
頭を傾け、悩む梢子。
「なあ、お前はどっちがいいと思う?? あ、ちなみに私にはこの通り、両腕がないから、かっこいい方だと足で開けることになるがな」
ケラケラと笑いながら言う奴には、やはり恐れと言うものがないらしい。自分の両腕の事もネタにしてくるし。普通腕がなかったら、もっと絶望しているだろ。本当におかしな女だ。
「分かっていると思うが、ここは違法クラブだ。中にいる奴らがお前の話を聞いて、はいそうですかって、言ってくれると思うか?」
「言わないだろうな」
さらりとそう言う梢子に、青星は目を丸くした。
なんだその分かっていますよ感は。
「大体、なんでお前みたいのがこんなところにいるんだよ。こんな汚い街、お前には不釣り合いだ!」
青星がそう言うと、梢子は少しの間、無言で青星を見つめた。
「っなんだよ……」
そして、静かに店の階段に腰を下ろすと、ゆっくりと口を開いた。
「編集部の創立記念パーティーに参加していたんだが、つまらなくなって出てきたんだ」
空から降る雪を眺めながら梢子は言った。
「泣きつかれたも同然で、断れきれなくて来たが、やはり苦手な場は控えるべきだな……」
独り言のように静かに話す奴の声を聞いていると、さっきまで、耳障りに聞こえていた音楽が聞こえなくなっていった。ただ静かに降り積もる雪を二人で眺める。神秘的、幻想的。どの言葉で表現するのが正解なんだろうか。いや、どの言葉も当てはまっていない。これは俺だけが感じて、知るもの。それは、全部いま、こいつがくれているもの。まるでこの世界に、俺たち二人だけみたいだ。こんな世界が、俺の中に存在していたなんて知らなかった。
「自分を大切に出来ないものは、人を幸せに出来ないな。……牧野に謝らなくちゃな、勝手に出てきた事を」
牧野……誰の事を言っているのだろうか。でも、奴がそいつの名前を出した時の表情を見て、きっと大事な存在なんだと俺は理解した。
こいつは、この世界にいちゃいけない。
「よーし、行くか」
「帰れ」
「え??」
「ここは、お前が居ていいような場所じゃない」
住む世界が違い過ぎる。
「なぜ?」
「なぜって……」
梢子は本当に訳が分からないというような顔をしていた。そんなの、決まっているだろ。ここにいちゃ、お前まであいつらのおもちゃだ。俺は、そんなお前を見たくない。
震える体を抱きしめながら、青星は思った。自分は、この女の事を特別に思っているのかもしれないと。
「……何を思っているのか知らんが、今ここにいるのは私の意志だ。お前に何を言われても、私の決意は揺るがないぞ」
「あ、おい……!!」
梢子は青星の言葉を無視し、腰を上げ階段を上がりドアの前に着くと、
「……決めた」
そう呟くように言い、こちらに振り返り、
「回し蹴り作戦だ」
と、ニヤッと笑った。
「……え?」
次の瞬間。
――バンッ……!!!!!
とてつもない騒音があたりに響いた。
嘘、だろ……
梢子は体を回転させると同時に片足を上げ、勢いよくドアを蹴破ったのだ。ドアの破片は散らばり、青星の視界に舞った。
「きゃあああああ……!!!」
店の中からは悲鳴が聞こえ、ドアは店員の頭部に直撃し、その店員は気絶していた。
「ありゃりゃ……」
奴はそう言うと、楽しそうに俺の方を見て笑った。
マジか、こいつ……。
その細い体からは想像もつかないような力で、奴は頑丈なドアを足で開けた。いや、壊したのか。
唖然とする青星をよそに、梢子は店の中にぐんぐんと進む。店の中には、酒と会話を楽しむ大勢の客と数人の店員がいた。みんな、呆気にとられた顔で奴を見ていた。
「オーナーはいるか」
先ほどまでと対照的な、低い声で奴は言った。すると中央にある階段の上から、赤毛に、黒いスーツに身を包み込んだ、若い男が出てきた。
「俺だが」
人相の悪そうな男は、サングラス越しに梢子の姿を捉えた。
「お前か……」
まずい……! 今日は阿久津(あくつ)さんがいる日だった……!
阿久津さんは、このクラブのオーナー兼社長。噂では裏で人殺しとかもっとやばい事をしているって聞いた事がある。下手すれば、殺される……。
阿久津は蹴破られたドアと、床に倒れている店員を見ていた。
「これはこれは、とんだじゃじゃ馬姫だな」
冷笑する阿久津。
「担当直入に言う、こいつを私によこせ」
そう言い、梢子は青星のことを顎で指した。
阿久津は青星を一瞥すると、すぐに梢子に視線を戻した。
「それは、無理だな。そいつはうちにクラブの大切な商品だ。見ての通り、なかなか良い代物だ。手放すわけがないだろ」
サングラス越しでも分かる。鋭く光る阿久津の目。
どうする俺……俺がなんとかしないと、本当にあいつが死んでしまう。
体からは冷や汗が流れ、青星は背筋が凍るよう様な思いをしていた。
だが、そんな相手を前に、梢子は一歩も引かなかった。梢子は店内を歩き回り、あたりを見回すと、ソファー席に腰を下ろした。
「見たところ、ここは警察の手が届かないようになっている。お前、裏で何をしている? 警察の官僚とでもデキてんのか?」
「ふんっ。馬鹿を言うな。俺は自分を売るような真似はしない」
「俺は、ねえ?……」
阿久津は階段を降りると、梢子の隣に腰を下ろし、片手で梢子の顎先に触れた。
「あんた、その腕どうしたんだ? 金がなくて売りにでも出したか? 惜しいなー。腕があれば、この顔だったら、いくらでも客がついただろうに」
「話をそらすな。私はあいつをよこせと言っているんだ」
梢子は阿久津を睨みつけた。至近距離でも、全くうろたえない梢子。そんな梢子の姿に阿久津は、言葉での脅しは不要だと考えたようだ。
「これを聞いても、そんな事が言えるか?」
阿久津は後ろに居た部下の男に、一枚の書類を渡すよう、命じた。青星はそれがなんなのか、すぐに分かった。
……そうだ、それを見せれば、さすがのこいつも諦める。
目の前のテーブルに置かれたのは借用書だった。梢子はその借用書をまじまじと見た。書かれていた名義は、七瀬(ななせ)青星(あおし)。
「それは、あいつの馬鹿親父が俺に借りた金だ」
明らかに梢子の顔が青ざめたのを青星は見ていた。
ほらな、星に願ったとしても、何も変わりやしない。
「もし、今すぐその額をお前が払えるって言うのなら、あいつをお前にくれてやる。でも無理だろうな、あいつの親父が借りたのは、五千万だ。 そんなの払えるわけ――」
「いいぞ」
梢子は阿久津の話を遮り、そう言った。
「五千万か。今は手持ちがないから、明日、持ってくるとしよう。それでいいか?」
「は……お前、何言って……五千万だぞ……!? 分かってんのかよ……!!」
阿久津は驚きを隠せないでいた。
「青星、こっちに来い」
「えっ……」
梢子は青星を自分の元に呼ぶと、テーブルの上に置いてある借用書を手に取るように言ってきた。
そして、とびきりの笑顔と、店中に響き渡る声で、
「破れ!! 青星……!!」
そう言った。
青星は借用書をぎゅっと握りしめると、梢子の言葉に感化されるように盛大に破いた。
―――ビリッ……!!!
――否定しなかったのは、生きたと願ったから。
――止めなかったのは、助けを求めたから。
この日までの自分を捨てるかのように、青星は無心になって破いた。何度も、何度も、手を動かして、ビリビリになるまで破り続けた。気が付くと足元には、自分が破いた借用書が、散りになって広がっていた。
「いいぞー! 青星!」
喜ぶ奴の声。涙で、視界が歪んだ。
もう、なににも縛られない。俺は、俺は……
自由だ――。
「行くぞ、青星」
そう言い、頭で俺の背中を押し、俺を前に押し出した奴。その笑顔は、子供のように無邪気なものだった。
俺らは二人で店の外に走り出した。後ろに鬼の形相をした阿久津さんがいることなんて、気にもせず。
ああ、すげえ……。
空を見上げると見ると、今までと比べものにならないくらいに星が輝いて見えた。
しばらく走り、人の多い所に行くと、俺たちは止まった。俺は息を切らし、腰を曲げ、両手を膝についた。取り入れる空気は冷たく、上手く呼吸が出来なかった。隣を見ると、同じく息を切らす奴が。その額からは汗が流れ落ちていて、とても辛そうだった。
この気温の中、走って流れるほどの汗。それは、両腕のない状態で走るのが、容易な事ではないのを表していた。
さっきはあんな回し蹴りもしたしな、そりゃこうなる。……そうまでして、俺を。
「おい」
「はあ、はあ、あ……?」
「……ありがとう」
奴は一瞬、驚いたように目を大きく見開いたが、俺の言葉を聞き入れると、目を細め、「へへっ」と笑った。
少し休ませてくれと言い、俺たちは空いている公園のベンチに二人並んで腰を下ろした。
夜の公園はカップルが多かった。思えばここは人気の夜景スポットだった。
俺が普段、店の中から見ていた景色が、今は目に前にある。
誰が想像しただろうか、監獄の中に閉じ込められていた、不幸な少年が、一人の小説家によって、自由な世界を生きようとするなんて。
「さっきは悪かったな。お前を物のように言って」
息を整え終わった梢子はそう言った。
「ああ……別にいいよ、慣れてるし」
あんな事、俺にとちゃ、当たり前みたいなもんだ。
「それでも、悪かった。あと、慣れてるなんて、悲しい事を言うな」
悲しいか。俺は自分の痛みに疎い人間なのかもしれないな。でも、人の痛みに疎くなるくらいだったら、それでいいと思う。
「青星」
真剣な眼差しで、俺の名を呼ぶ奴。
「これからは、私がお前の憎しみも悲しみも、怒りも、全て受け止める。だから、私を頼れ」
それは、嘘偽りのない言葉だと思う。でも。
「一つ、聞いてもいいか」
「なんだ?」
「どうして、俺にここまでしてくれるんだ……?」
俺とお前は、何も関係のない間柄だった。それなのに、一体どうして。本当に俺の体が目当てだったとしても、お前のような人間は、ここまではしないはず。本当の理由を知りたい。
青星は梢子の言葉を待った。しかし、
「さあーな」
「……は??」
「よく分からないんだ。でも……間違っても私には、あそこにいたような連中と同じ考えはない。断じて。今、私の口から言えるのは、それだけだ」
正直、納得できる返答ではなかった。でも、初めて俺自身を見てくれたこいつを、信じたかった。傍に、いたいと思った――。
梢子は立ち上がり、青星の方を向いた。
「まあ、そんなわけで、これからよろしく、青星。……と言っても、私に差し出す手はないがな」
「……いや」
俺は立ち上がり、奴のコートの裾を掴んだ。
「充分だ」
この歪んだ世界から、お前が、手を差し伸べた。そして俺は、その手を掴んだ。