眩しい光を感じ目を開けると、そこは真っ白な空間だった。冷たくも、寒くもない。暖かで、安心するぬくもりがある。右腕に重たいものを感じ、首を動かすと、そこには見覚えのある頭があった。
「梢子……」
 酸素マスクをつけられた状態で、その名を呼ぶと、梢子はピクッと体を動かし、顔を上げた。
「……青星……??」
 梢子は大きく目を見開き、青星の顔を覗き込んだ。
「青星……!!」
 そして、目が覚めていると分かった青星に、梢子は抱きついた。
 い、いたい……。
 勢いよく抱きしめられたせいか、体が痛い。
 梢子はしきりに、よかった。よかった。と繰り返していた。
「ここは……?」
「安心しろ、病院だ」
 病院……そうか、俺はあの時、梢子の顔を見て安心して眠ってしまったんだ。
「お前、酷い脱水症状と栄養失調だったんだ」
 左腕を見ると、点滴がされてあった。
 三日間。食事はおろか、水も飲めていなかった青星の体は、限界を超えていたのだ。
 運ばれていた際に行った検査に異常は見られず、二、三日様子を見て大丈夫そうだったら、退院して問題ないとの事だった。だが、筋力と免疫力が下がっているから、感染症などには十分に気をつけ、よく食べて、よく寝る事だと言われた。
 梢子は「私の腕の見せ所が増えたな」と笑っていた。
 あれは、夢だったんじゃないか。そう思えもしたが、俺は確かに父さんに監禁されていた。この状況が、それを表している。
 食事が出来そうだったので、ちょうど昼食の時間帯を迎えていた病院食を食べる事に。首を絞められていたせいか、飲み込む時に少し喉が痛んだが、頑張って飲み込んだ。
 その後、病室を訪れた警察の事情聴取を受けた。事細かに説明要する警察に、梢子は心配そうに俺の様子を窺ってきたが、事件を重く受け止めてもらうには必要な事。それに、梢子が傍にいてくれたせいか怖くはなかった。
 逮捕された一浪は、今まで青星に行ってきた虐待を含む、暴行・監禁・強要罪など、過去から現在に至るまでの一浪の行いを見て、重い判決が下されるだろうとの事。また、出所した際は、青星に接近禁止命令が出る。
 そして、一浪の自白で分かった警察官の関与。警察は世間からバッシングを受け、その信頼は欠落。
 いつかまた一浪はこの地を歩く。だがもう怖くない。捨てたくなるような過去も、抱いていた憎しみも恨みも、俺は自分の全てを愛すると決めたんだ。
 夕日を眺めながら、梢子はうわごとのように言った。
「もっと、子供や仕事に対する社会制度があれば、こうはならなかったのかもしれない。まあ、ただの独り言だが」と。
 病室を訪れた警察官の二人は、その言葉を真摯に胸に受け止めているように見えた。
 聴取を終え一息つくと、梢子は売店に行ってくると、一度席を外した。戻ってくる間、スマホでも眺めていようとしたが、貴重品と共に警察に押収されていたのを思い出した。
 三日間監禁され、そこから一日半過ぎている。俺は四日間も学校にも行けていない。きっと春一は、どうして来ていないのだと大宮にでも訊いているだろうな。携帯さえ押収されていなかったら、すぐに連絡を入れられたのに。早ければ今日、返してくれると言っていたな。帰ってきたらすぐに連絡をいれよう。
 進藤は、あれからどうしているのだろうか。あの後、無事に家に帰れただろうか。俺のせいで、あいつを巻き込んでしまうところだった。あの時、言う事を聞いてくれて本当に良かった。
 空を眺めているとガラガラと部屋の扉が開いた。立っていたのは梢子、その隣にはスーツを着た男が立っていた。
「阿久津さん……」
 阿久津は青星の顔を見ると、「元気そうだな」と弱く笑み浮かべていた。
 そうだ、あの時、確か阿久津さんもあの場にいた。もうろうとしていた意識の中だから、うっすらとしか覚えていないけど、あれは阿久津さんだった。
 梢子がベッド横に置いてあった椅子を阿久津に差し出すと、阿久津は礼を言い、そこに腰を下ろした。
 なんか阿久津さん、雰囲気変わったような気がする。前よりも柔らかくなったっていうかなんて言うか。
「青星。実は今回の件に関しては、この阿久津が力を貸してくれたんだ」
「え、阿久津さんが……?」
 どうして、梢子に阿久津さんが手を貸すんだ? 二人の間柄は良くないし、俺とだってそうだ。第一、この人にとって俺は金になり得る道具でしかなかったはずで、俺はあの夜、店を騒がせ逃げ出した。恨んでいるはず。それなのに、一体どうして。
 険しい表情をする青星に、梢子は言った――。
「お前にとっちゃ憎い相手だというのは分かっている。私だってそうだ。しかし、阿久津が居なければ、私はお前を救う事が出来なかった」
 梢子は理解を求めるような目で俺を見てきた。その目を見ていれば、阿久津さんが自分を助けたという事実が分かる。
 それから阿久津と梢子は、青星がいなくなってから、救出に辿り着くまでの経緯を話した。
 クラブの客であり、警察の官僚である神崎が関わり、一浪とぐるになっていたこと全て。
 時より、顔を歪ませ、苦しそうな表情をしていた青星。神崎がなぜ協力を了承し、一浪と手を組んだかは省いて説明をしたが、青星はその理由を分かっていたからだ。
「真理愛ちゃんが居なかったら、すぐには動けなかった」
 進藤、俺の様子がおかしいって分かってたんだ。だから梢子の所に行って、あった事を話してくれたんだ。俺は進藤に救われた。
 あの事を、ちゃんと梢子に話さないと。
「梢子。俺、進藤に酷い事しようとしたんだ」
「酷い事?」
 青星は俯いながら小さく頷いた。
「ちょっと、頭にくる事を言われて、それで、ついカッとなって、あいつを……あいつを殴っちまいそうになったんだ」
 青星は拳を握りしめていた。
「俺は自分が怖い……。俺の中にも、あの父親と同じ血が流れているかと思うと、俺もいつか誰かに同じ事をしてしまうのではないかと……」
「青星」
「でも、もっと怖いのは、あいつがお前に何かするんじゃないかって事だ」
 俺がこの世で最も恐れている事。それは自分が死ぬことでも、力でねじ伏せられる事でもない。梢子を失う事だ。
 たまに夢に見る。こいつが俺のように苦しめられる姿を。それはとても恐ろしいものだ。そんな事が現実に起こってしまうのではにかと俺は怖いんだ。
 梢子はベッドに腰掛けると、弓を放つ的を見るかのような瞳で青星を見つめた。
「青星。お前はこれまで、数え切れないほどの痛みを感じているはずだ。でもだからか、お前は自分の痛みや苦しみに、少々疎いとこがある。お前の心は悲鳴を上げている。ずっとだ。そんなお前だ。他人を傷つける事など絶対にしない。それに、お前が想像しているような事は起こらない」
 梢子の強い眼差しが、俺を大丈夫だと思わせてくれた。
 こいつのくれる言葉や行動が、俺の中にすとんと入り込んでくるんだ。それはきっと俺がこいつを誰よりも信頼し、心を許しているから。そして、こいつの事を想っているから。
 ふと阿久津さんの方を見ると、時計をじっと見ていた。何やら時間を気にしているようだった。
 仕事でもあるのだろうか。
 阿久津は咳ばらいをすると、真剣な顔で青星を見た。
「青星。お前が昔、住んでいた家を覚えているか」
「え?」
 俺が住んでいたのは、古いアパートで、俺は阿久津さんにもとに行くまで生まれてからずっとそこで過ごしていた。
「その家の事なんだが」
「おい。その話は今じゃダメなのか?」
 梢子はタイミングを考えろと言った。
 一浪の話がたった今、済んだばかりだというのに、掘り出してくるような内容を阿久津がしてきたからだろう。
 しかし阿久津は真剣な表情を崩さなかった。
 こんな阿久津も、また初めて見たと、青星は思った。
「それが、何か……?」
「……そこにこれが」
 青星が訊くと、阿久津は一枚の紙を見渡してきた。青星はその紙を受け取った。
 これって……
 紙の正体。それは手紙だった。しかもそれなりに年季が入っているのは薄汚れていた。
「お前宛てだ。そして、差出人は……裏のところを見てみろ」
 阿久津に言われた通り、青星は手紙を裏返した。
 ――えっ……どうして……
 青星は驚きのあまり、言葉を失った。
 差出人は、七瀬明日香。
 青星の実の母親だ。
 どうして母さんが俺に手紙を……? 俺を捨てたんじゃなかかったのか……なんで……
「どうして、こんなものが……」
「あのアパートの大家が言うには、その手紙は、あの荒れ狂った部屋に落ちていたらしい」
 落ちていたなんて、じゃあ、もしかして俺がいた頃からあの家にずっとあったって事か?
「どういう事だ? 分かるように説明しろ」
 梢子は食って掛かるように言った。
「青星が俺の元に来て、一浪が逮捕された後、あの家はもぬけの殻になったらしい。だから大家は他の人間に部屋を貸すために、あの部屋を片付けていたんだ。そしてその手紙を見つけた」
 阿久津が言うには、大家は差出人に書かれた明日香の名前を見て、捨てずに保管してくれていたらしい。いつかまた青星に会う事が出来たら、その時は、ちゃんとこの手紙を渡そうと。
「この手紙をお前に渡すまでは、死ねないと思っていたと言っていたな」
「大家が?」
「ああ。今はもうあのアパートの大家はやめ、この近くで小さな喫茶店を営んでいるらしい」
 なんの因果関係だったのか、青星の事件の後、阿久津はアパートの大家と再会した。赤髪にスーツを着た、サングラス越しでも分かる人相の悪い男は、そう簡単にいるわけではない。大家は、青星を連れて行った阿久津を覚えていたのだ。そして手紙を阿久津に託した。
 大家さんである花田さんとの記憶は、僅かなものだ。でもとても気さくで、しわくちゃな笑顔が素敵なおじいさんという印象があった。父さんに虐待されている俺を知って、児童相談所の人が家に来た事だってあったし、何度も一緒に警察に行こうと言ってくれたが、俺は花田さんにまで迷惑をかけたくなかったから、その善意を受け取らなかった。
 花田さん。俺の事を覚えていてくれたんだな。
「お前が元気な事を伝えたら、目に涙を浮かべてとても喜んでいたよ」
 青星は手紙をぎゅっと握った。
「その手紙の中身は誰も知らない。いつ届いたのかも、なぜあの部屋に落ちていたのかも。どうするかは、宛名に記されている名前のお前が決める事だ」
 この手紙には、一体何がかかれているのだろうか。これを読めば、何か母さんの事を知れるのだろうか。でも、真実を知ってしまう気がして、怖い気もする。
 そこでずっと黙っていた梢子が口を開いた。
「読んでみろ」
「え?」
「私は親ではないから、よくは分からんが、そこには、何か大事なものがある気がする。大丈夫。私が傍にいる」
 青星は頷くと、封筒を開け、中の便箋を取り出した。
 便箋は一枚のみ。
 小さな字が、紙いっぱいに書かれていた。
「え――」
 便箋を開いた青星は目を見開いた。
 これ、日付が……
 便箋の左上に書かれていた日付は、四年前。青星が十二歳の頃のものだった。
「青星へ――」
 青星は手紙の内容を二人にも分かるように読み上げ始めた。二人は何も言わず、静かにその声を耳を傾けた。途中、青星が声を震わせ、母親の言葉を噛みしめるように涙を流すと、梢子は優しくその背中を摩ってくれた。後半に続くにつれ、今までの母親に対する気持ちが溢れ出して、声が途切れて、上手く言葉を発せなくなるような場面もあったが、青星は手紙を全部読むことが出来た。
 読み終わってからしばらく、青星は下を向いたままだった。悲しそうに、悔しそうに、でも嬉しそうに、歯を食いしばって、涙を流していた。梢子はその間も、青星の背中を摩り続けた。
 そして、何度も鼻をすすり、涙を振り払った青星は、顔を上げ幸せそうに微笑んで言った。
「母さん、俺を愛してるって――」と――。