【私は花と散った――】
「今日はここまでにしよう」
 その言葉に従い、青星はペンを置いた。
 ここ数日、義手の調子が悪いと言う梢子のために青星は代筆をしていた。
 作品作りを手伝っていて、分かった事がある。梢子は、おおよそのストーリー構成を決めたらすぐに書き出す。キャラクターの人柄などは書いているうちに勝手にそうなったという感じで、話の展開や結末も、最初の設定ではなく、大幅に変更になる事もある。何にも縛られない、自由な制作の仕方だ。
 もちろん、自分の事を主題としたデビュー作は、モデルとなる存在が居ての作品作りだったと思うが。
「私も死ぬのなら、花と散りたいものだ」
 花と散る――。それは花のように散り、潔く死ぬこと意味する言葉だ。
 梢子は鏡の前に立つと、義手を着けていない、自分の体を見つめた。
「私がお前くらいの時は、天才と謳われたものだ。でも、今はどうだ。落ちた小説家。落ちたって、どっちのことを言っているのだろうな」
 人間は皆、交わる事の出来ない生き物。ベストセラーを生み出した梢子にも、一部の人間から誹謗中傷の声はある。俺は知っている。五体満足で生まれてきて、何不自由なく生きているやつらが梢子に向けている視線の数々を。
 こいつを見た時の人の反応はそれぞれだ。不思議がる者。初めて見たと興味を持つも者。偽物だとバカにする者。変だと気持ち悪がる者。はたから見れば、若くしてプロの小説家になり、数々のヒット作を生み出した間宮梢子の人生は順風満帆。しかしそう見えるのは、誰も本当の彼女を知らないからだ。
「お前は訊かないんだな。私に両腕がない理由を」
 鏡越しに会った梢子の目は、とても切ないものだった。
 俺が知っている梢子は、強く、でも弱く、儚い。
「話したいのなら訊く。でもそうじゃないんだったらいい」
 知りたい。だけど、こいつの気持ちを一番に考えたい。話して、辛くさせるような事はさせたくない。それに、なんとなく分かる気がするんだ。どうしてお前に両腕が無いのか。そして、それと同時に、誰を失ったのか。
「いや……訊いてほしいんだ。お前には、私の全てを知っていてもらいたい」
 梢子は力なく、椅子に腰を下ろした。
「……人生でたった一人、愛した奴がいた。でも、そいつは私のせいで死んだ」
 
 ――やっぱりまたここにいた。
 
 鬱陶しいと思っていた、その言葉を待つようになったのは、一体いつからだっただろうか。
 奴は決まって私の前に現われては、私を叱りつけた。そこは本を読んでいい場所じゃない。と。
 (うるさい奴め)
 私は、毎度心の中で悪態をついていた。

 ――三年前――

 夏の日差しが差す、暑い日のなか、私たちは出逢った。
 執筆に息が詰まった時は、家の近くにある図書館に来て、物語の世界に足を踏み入れる。
 私のお気に入りは、図書館の端にある、本棚の間と間のスペース。夏は日を避け、そこで本を読んでいた。歴史書しか置いていない、そのスペースに立ち入る人は、ほとんどいなかった。
 奴、以外は――。
「すいません。そこ、邪魔です」
 奴の第一印象は、そう。嫌な奴。
 声の先に視線を向けると、そこには古風そうな男が立っていた。
 邪魔って、もっと他の言い方があるだろ……
 梢子は男を無視して、視線を本に戻した。
「あの、聞いてます?」
 めんどくさい奴……
 梢子は寄りかかっていた本棚から背中を離し、腰を上げ、別の場所に移動した。
 少し日は当たるが、我慢するとしよう。
 そう思い、梢子は窓辺から一番離れた席に座った。
 それから三十分ほど経った頃だっただろうか。あの男がもう一度、私の元に来たのは。
「あの……」
 図書館では静かにしましょう。子供から大人が知るルールがあるの中、小声で話しかけてきた奴の声は、弱弱しかった。
 またお前か。
 梢子は鬱陶しそうな顔を男に向けた。
「僕、もう行くんで」
「はあ……?」
 そう言い、男は図書館を出て行った。梢子が元の場所に戻ると、寄りかかっていた本棚に、メモ用紙くらいの小さな紙が貼られていた。

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読書中、ごめんなさい。
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僕は、一ノ瀬幸太郎と言います。
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またあなたにお会いしたいです。
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古風そうな男より
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 そいつは一ノ瀬(いちのせ)幸太郎(こうたろう)と言い、その見た目通りの達筆な字で私に手紙を書いてきた。
 古風そうな男より。か…… 私の心を読んだのか。
 ――またあなたに、お会いしたいです。
 その言葉通り、奴はまた私の前に現れた。
「こんにちは」
 聞き覚えのある声に顔を上げると、あいつがいた。
「……どうも」
 梢子は愛想なくそう言い、立ち上がろうとした。
「あ、いいんです……!」
「は?」
「ここにいてもらって、いいんです……」
 そう言うやつの目は、少しばかりか緊張しているようにも思えた。
 なんなんだ……こいつ……
 梢子は不審に思いながらも、その場にいる事に。
 奴は何を言ってくるわけでもなく、ただ私の傍にいた。歴史が好きなのか、誰も読まなさそうな古い分厚い書物を読んでは、顎に手を当て、何かを考えていた。時々私を一瞥しながら。私はその視線に気づかない振りをして、本を読んでいた。
 日が暮れ、図書館も閉まる時間になり、私は本を閉じ、その場を去ろうとした。
「あっ……」
 奴は立ち去る私を見て、焦ったような声を出したが、追ってはこなかった。
 私は本棚に読んでいた本を戻すと、図書館を出た。
 ……結局、何もなかった。あんな手紙を残して、どういうつもりだったのか。
「……」
 梢子は立ち止まった。
 なんだ……この残念がる気持ちは……
 梢子は胸に片手を置いた。
 やめよう…… こんなの、私らしくない。
 再び歩き出した時だった。
「―――ません――――すいません……!!」
 振り返ると、奴が私の元へ走って来ていた。
 え……
 奴は私の前で止まり、
「あの……その……ゲホゲホッ……」
 息を切らせながらも、何かを話そうとしてきた。
 ……たくっ
「え、あ……」
 梢子は幸太郎の手を引くと、近くにあったベンチに座らせ、隣にあった自販機で水を買って渡し、隣に腰を下ろした。
「すいません……」
 幸太郎は貰った水をゴクゴクと飲みは始めた。
 そんなに必死になるほど、一体私になんの用なんだよ……
 幸太郎が落ち着いてきたのを見計らい、梢子は幸太郎を咎めた。
「おい、お前」
「はい……!」
 返事はするものの、幸太郎は梢子を見ようとしない。
「一体何なんだ? 何が目的で私に付きまとう」
「や、その……僕は付きまとっているつもりはなくて……」
 幸太郎は慌てた様子で、誤解だと両手の手の平を前につきだしてきた。
「これが??」
「いや……その……」
「ああもう! 女々しい奴だな! はっきり言え!!」
 梢子は強気な口調で言った。
 すると幸太郎は、
「……君のことが気になって」
 夏の夕暮れ。それはオレンジ色の太陽が、キラキラと輝く日だった。
「何だよ、それ……」
 それから私たちは、毎日のように図書館で顔を合わせるようになった。奴は決まって本棚と本棚の間に座る私を注意した。
 まるでそれが自分の役割であるかのように。
 私がここに座る理由を話した時は、奴は何度か瞬きをした後、そんな事かと腹を抱えて笑った。
 そんなこととはなんだ。失礼な奴だ。
 ――だが、奴はすんなりと私の心に入り込んできた。
 幸太郎は歴史学を専攻する大学院生だった。研究に没頭する日々は忙しいが、とても充実していると言っていた。あの古くて分厚い書物を読んでいる理由も理解出来た。
「僕は将来、博士号を取って、今以上に多くの研究をするんだ」
 奴の話す、夢の話が好きだった。
 頬を染め、鼻高らかに話す、あの表情が好きだった。
 幸太郎は幼い頃に父親を亡くし、母親と二人暮らしだと言っていた。
「いい会社に就職して、母さんに楽をさせてあげたいんだ」
「いい息子を持って、お母様も幸せだろうに」
「そうだといいなー」
 奴の隣は、とても居心地が良かった。
「梢子は好きな人いないの?」
 深々と降り積もる雪の中、奴は聞いてきた。
「……いないな」
 そう答える私に、奴は「ほんとに?」と聞き返してきた。
「ほんとだよ」
 幸太郎は眉を上げ、「ふーん?」と言ってきた。
「僕はね、いるんだ、好きな子」
 好きな子。いい年して、随分と可愛い表現をするな。
 聞いてもいないのに、奴はそいつの事をべらべらと話し出した。
「不愛想な奴だな」
 幸太郎が私を想っていることは知っていた。だが、私は奴の気持ちに気づかないふりをしていた。大切なものを失う辛さは、痛いほど知っていたからだ。
「でしょ?? でもそんなとこもろもまた良くて。僕も最初はあんな言い方するつもりなかったんだけど、彼女を見ると、緊張して……ついああ言ってしまって……僕を初めて見た時の彼女を顔、今も忘れないよ。こんな風に眉間に皺をよせてさ」
 幸太郎は両手で眉を寄せ、モノマネをしてきた。
 それが面白くて、梢子は笑った。
「ははっ! 私はそんな顔はしていないぞ!……あっ……」
 しまった……
 そう思った時はもう遅かった。
 幸太郎は梢子を見つめた。
「……お前、絶対わざとだろ」
「だって、梢子が素直じゃないから……」
 寒さで悴んだ手で、あいつは優しく私の頬を包み込んだ。
「僕を受け入れてくれる?」
「……もう、とっくにお前は私の心に入っている」
 幸太郎は「ふっ」と小さく笑った。
 重ねられた唇に、安心したのを覚えている。
 次の日の朝、目覚めた私の隣に奴がいたことで、私は初めて幸福をというものを知った。
 ――あいつと過ごす度に、私の心には、幸福が積み重なっていった。
「今度、梢子の事を母さんに紹介したいんだけどいい?」
「私を?」
「うんっ」
 私なんかで、いいのだろうか……
 私は、お前のような奴と、肩を並べて歩けるような人間じゃない。
「いてっ」
 下を向く梢子の頬を幸太郎が引っ張った。
「なにするんだよ……!」
「だって梢子が浮かない顔するから。どうせ自分でいいのかとか、思ってたんでしょ」
「え?……なんでそんな事まで分かるんだよ」
「梢子は分かりやすいんだよー」
「私が……??」
 今までの人生、自分の感情など押し殺し、人のために生きてきた。
 私は人の考えていることが分かった。もっと深く言えば、相手が自分に何を求めているかがだ。だがそれは超能力とかの類ではない。これは私が育ってきた環境や今までの経験からのことで、私は相手が望む自分を演じられる。昔からそうだ。相手が今、どんな自分を求めていて、どんな言葉を欲しがっているのかが分かる。だから人付き合いで揉めたことはないし、いじめに遭ったこともない。だがいつしか自分を見失っていた。
 ……疲れたんだ。だから私は自分の殻に閉じこもり、人と深く関わることを避けた。でもその先に待っていたのは孤独だった。
 私は、透明人間だった――。
 だがそれを奴が変えた。
「初めて会った時、僕を古風そうな男だなって思ったでしょ??」
「まあ……」
「フフッ……ハハハハッ!」
「なんだよっ……」
「いや、梢子はさ、言動は素直じゃないけど、表情豊かで、なんか、いいなって……」
「……お前はよく分らん奴だがな」
「ハハハッ! そんな事ないよ! 僕は梢子の前では、いつも自分らしいよ!」
 そんな奴との何気ない日々が好きだった。
「僕はね、梢子。君が出かける時は、いってらっしゃいと言う。君が帰ってくる時は、おかえりとなさいと言う。そして君に温かいご飯を作って、おやすみと言う。そんな当たり前を君と共にしたいんだ」
「当たり前……」
 ずっと、奴の傍にいたい……この幸福で満ちた心を抱えて、奴と生きて、もっと幸せになりたい。それは誰もが願ったことのある願いだった。
 ――だが、それは私には許されない事だった。
 二人で、実家を訪れる日のことだった。その日は、奴の母親の誕生日で、あいつは朝から頬を緩ませていた。
「母さん、喜ぶだろうな~ まさか彼女を連れてくるなんて、思ってもみないだろうにっ!」
 子供のような無邪気な笑顔を浮かべ、私の手を引き歩く。
「やっぱり、ちゃんと連絡をした方がいいんじゃないか……?」
 私は不安だった。せっかくの誕生日に、見知らぬ女がやって来るなんて、いい気がしないのではないかと。
 幸太郎は立ち止まり、振り返った。
「何言ってんの! これはサプライズなんだよ?」
「サプライズ……」
「そう。梢子と僕から、母さんへのサプライズ」
 そう言い、幸太郎は梢子の両手を握った。
 ――奴からの愛が、私の心から溢れた。
 真冬の一月。テレビでは連日、自動車交通事故の様子が報道されていた。雪が氷となり、道路はブラックアイスバン状態。自動車がスリップし、人が巻き込まれて死人が出ている事故もあった。私はそれを他人事のようにニュースで見ていた。まさか、自分たちが被害者になるなんて、思いもしなかった。
「行こう、梢子」
 強く握られた手は、とても温かかった。私は、奴に身を寄せながら、再び歩き始めていた。
――プゥゥゥゥゥ……!!!!
 そのクラクッションが聞えた時には、もう既に遅かった。
 目が眩むくらいの眩しい光で、前が見えなかった。
「梢子……――!!」
 気が付いたとき、私は両腕の感覚がなかった。私の上には、血まみれになっている奴が覆いかぶさっていた。
「こう、たろう……こうた、ろう……」
 私が呼びかけても、奴はぴくりとも動かなかった。
 頼む……返事をしてくれっ……私を置いていくなっ……
「っ……くっ……うぅぅぅ……」
 私達を轢いた運転手は、すぐに救急車に連絡をしてくれたが、奴は帰らぬ人となった。私は両腕の切断を余技なくされた。私が助かったのは、奴が私を守ってくれたから。事故が起きる瞬間、奴は私を庇うように覆いかぶさった。だから私は生きられた。
「あなたのせいで息子は死んだのよ……!! あなたとなんて……出逢わなければよかった……」
 奴の母は、私は私を責めた。当然の事だと思う。私は頭を上げることが出来なかった。
「息子は死んだ。……あなたは……その程度で、よかったんじゃない……??」
 大切な息子を奪われたのだ。そんな事を言われても、私が奴の母親に、憎しみや怒りの感情を持つことなんてなかった。
 もう、何もない……。
 私は心を持たない、人のカタチをで息をするだけ、何者でもない、ただの物となった。そんな空っぽな私に、牧野は言ったんだ。
「先生、書きましょう。書き続けるしかないんです。ここで終わってはダメです。負の感情に呑み込まれてはダメです」
 私は前よりも物語にのめり込むようになった。そうしなければ、やっていけなかったのだ。
 ――梢子。
 奴が最後に見たものも、最後に口に出した言葉も、私だった。
 血に染まる、白い雪――
 一度失ったものは、もう二度と戻らない。もう、お前の声を聞く事も、お前の笑顔を見る事も、お前に触れる事も、何も叶わない。タイムリープやパラレルワールドなんて、あんなものは物語の中での事にしか過ぎない。
 私の時は完全に止まった――。
「……彼は夢を持ち、希望に満ち溢れた人生を送っていた。それなのに死んだ。……私のせいで」
 梢子は淡々と語っていたが、その表情からは、喩えようのないほどの哀しみと苦しみがあった。
「私が……死ねばよかったんだ」
 梢子の目は虚ろだった。 
 青星は怖くなった。梢子が消えてしまうのでないかと。
「やめろ……そんなこと言うな……お前は、お前は生きるべきだった……!」
 だが青星がそう言っても、梢子は口を閉ざさなかった。
「いや、死ぬべきは、私だった……」
「っだから……やめろって言ってんだろ……!!」
 青星は声を荒げた。
 梢子は驚いた顔をして、青星を見ていた。
「頼むから……やめてくれ……」
 青星の声は震えていた。
「これは罰なんだ……私の罰……」
 両親の話を聞いたとき、もうこれ以上の不幸は、こいつには降りかからないだろうと思っていた。だが違った。こいはずっと暗闇の中にいた。永遠に出口のない、深い、暗闇の中に。
 自分を抱きしめるように、体を丸め座る梢子を青星は抱き寄せた。何も言わずに、ただ心は傍にいるということだけ、伝わるように。
 たとえ、この世界の誰もがお前を責めようとも、俺だけはお前の味方でいる。
 なあ、梢子。俺をお前の心のより所にしてくれ……。
 そして神様頼む、もうこれ以上、こいつを傷つけないでくれ――。

〈――我のみやよをうぐひすとなきわびむ人の心の花と散り花――〉