それ以降、煌炎は姿を見せなくなった。
丹華の懐妊を知ってから一日も欠くことのなかった彼の訪れはぴたりと途絶えて、数日が過ぎようとしていた。
まだほんの何日か会えていないだけなのに、煌炎という太陽が姿を隠してしまった瞬間から心に大きな穴が空いたような気がする。
(後宮で一生を過ごした歴代の妃嬪たちは、皆こんな気持ちで皇帝の訪れを待っていたのかしら……)
公主である丹華にはこれまでわかりようもなかった。皇帝の寵という儚い縁を頼みに、いつあるかもわからぬ訪れを待つことしかできない妃嬪たちの苦悩が。
それはとても耐えがたく、身が裂かれるほどのつらさに思えた。
気分を変えようと、丹華は久しぶりに庭の掃き掃除をすることにした。ところが外へ出てみたら、吹く風が凍えるように冷たいので驚いてしまった。いつの間にか庭木はすっかり丸裸で、足元には霜が降りている。
(こんなに冬の気配が濃くなっているなんて気付かなかったわ。だって煌炎さまったら、香華宮にいらっしゃる間はひと時も離してくださらないんだもの……)
丹華が朝目覚めてから夜眠りにつくまで、煌炎はそのすべてを毎日飽きもせず見守っていた。まるで至宝を扱うみたいに丹華を懐に入れて離さず、文字通り一歩も地を歩かせなかった。どこに行くにも自分が抱き上げたまま連れて行こうとするものだから、あきれた詩詩が「妊婦には適度な運動が必要なんです!」と叱りつけたくらいだ。
その時の子供みたいにむくれた煌炎の表情を思い出して、丹華はひとり笑みを零した。だけどすぐに、彼がいないという現実が表情を曇らせる。
「あなたたちは煌炎さまがどこに行ってしまったか知っている?」
何気なしに問うてみると、周囲の小鳥たちは揃って首を傾げた。
『ほうおうさま、このくにのすべてにいる』
『こうえんさま、いつもたんかのとなりにいる』
そのさえずりはいつも通り幼げで要領を得ないものだったけれど、丹華はどこか救われる思いがした。
「ええ、そうよね。そうだわ……」
煌炎は消えたわけではない。鳳凰の心臓たる赤い宝玉は、今も丹華の懐で燃えるように輝いている。丹華は煌炎の番として、彼を信じるのだと決めた。
とはいえ、ただ漫然と待つだけなのも気が滅入りそうだった。念のため棲鳳宮を訪ねてみたけれど、やはり煌炎の気配はなかった。
麦畑では、既に次の春を待つ芽が育ちつつある。棲鳳宮の庭を掃き清めた丹華は、帰りは軽い運動も兼ねて少し遠回りで戻ることにした。
後宮の中央部をほうき片手に散策していると、ふと左手の建物の向こうに人影が見えた。
それは数人の護衛を従えた少年だった。吉祥文が刺繍された漆黒の衣、頭には黄金の小冠――この後宮の主、緋祥国皇帝・隆然である。
どうやら向こうもこちらに気付いたらしい。丹華はあわててほうきを置き、その場に膝を折った。
「ご無沙汰しております主上」
「姉上、そんなに畏まらないでください。公の場ではないのですから」
頭を垂れ臣下礼を取る義姉を、皇帝は自らの手で引き上げ目の前に立たせた。こうやって並ぶと、十二歳の隆然より丹華の方がまだ少し背が高い。
「近ごろ姉上が香華宮に籠っておられると聞いたので……。後宮へ出向いたついでに少しお顔を見られないかと思っていたのです。お会いできてよかった」
どこかお身体が悪いのですか? と気遣われて、丹華は首を左右に振る。
「ありがとう。わたしはこの通り、元気よ」
「本当ですか? 少し痩せられたような気が……」
隆然は心配そうに眉根を寄せる。まさか「妊娠しています」とは言えなくて、丹華はとっさに話題を変えた。
「主上、そのお花は妃嬪のどなたかに差し上げるのかしら?」
「はい。母上が妃たちを訪ねるようにと……。女性はまめに夫の顔を見ないと、寂しさのあまり病になってしまうのだそうです」
隆然が手にしているのはまだ蕾が膨らみかけたばかりの蝋梅の枝だった。
隆然の正妻となる皇后はまだ空位。その座に誰が上るのかはすべて皇太后の一存で決まるだろう。母の言いつけに従いけなげに妃を労わろうとする義弟に、丹華は複雑な気持ちを抱く。
「あ、あの姉上……御髪に、その」
隆然が遠慮がちに丹華の頭部を指さす。触れてみると、髪に何か小さな粒がひっついていた。
「あら、これは梧桐の種ね」
先ほど棲鳳宮を掃除していた時についてしまったのかもしれない。つまみ取った黒っぽい種子を見せてやると、隆然は「ああ!」と少年らしい笑顔を見せた。
「鳳凰鳴矣 于彼高岡(鳳凰は鳴く、かの高き丘に)
梧桐生矣 于彼朝陽(梧桐は生じる、かの朝日に)
菶菶萋萋 雝雝喈喈(その葉は盛んに茂り、鳳凰は和やかに鳴く)」
隆然がすらすらと諳んじてみせたのは、鳳凰の姿を伝える古い詩の一節だった。彼は書を読むのが好きで、昔から難解な兵法書などもよく読みこなしていた。
(この子は暗愚なんかじゃないわ。少し気が弱くて優しすぎるだけで……)
隆然が帝位に就いたのは五年前、わずか七つの時だ。いくら賢い子供でも、この歳で大人たちを抑え政治を采配するのは困難というもの。それでも生来の聡明さや素直さを失わず育っているのがせめてもの救いだ。
丹華がこれまでずっと道観への出家を考えつつも後宮を離れられなかったのは、ひとえにこの幼い弟帝を案ずるがゆえだった。
「もしや姉上の体調不良も、誰かに会えない寂しさゆえのものなのですか?」
「えっ」
ずばり心の内を当てられた気がして丹華はどきりとした。
「……そんな風に見える?」
「いえその、梧桐の種をご覧になる目が、どことなく寂しげな気がしたので……」
鳳凰がこの地へ舞い降りた時、最初に羽根を休めたのが梧桐の木であると言われている。棲鳳宮に梧桐が多く植えられているのもその由緒があるからだ。
――ほうおうさま、このくにのすべてにいる。
――こうえんさま、いつもたんかのとなりにいる。
小鳥たちが言うように、鳳凰の息吹はこの国のあらゆるところに満ちている。そう実感した途端、丹華の脳裏に浮かび上がるのは美しく鮮やかな煌炎の面影。
(ああ、やっぱりわたし……。彼に、会いたいわ)
とても寂しい。早く会いたい。
自覚しつつも決して言葉にしなかった想いが、不意に形を持ってあふれ出てくる。
丹華は彼との愛の証が宿る腹にそっと手を当て――その時。
『だれかくる! こわいやつらくるよ!』
突として周囲の木々から鳥たちが飛び去った。驚いて振り向くと、十人近い兵ががちゃがちゃと音を立てながらこちらへ走ってくるではないか。それも隆然が連れている宦官の護衛兵とは異なり、槍と鎧甲で武装した男たちである。
「いたぞ! 丹華長公主を捕らえよ!」
野太い号令が響いたと思ったら、丹華はあっという間に隆然と引き離され取り囲まれてしまった。屈強な腕が丹華の肩を左右から掴み、押さえつける。
「一体何ごとだ!」
隆然が皇帝らしく毅然と一喝した。説明せよ、と命じるとひとりの男が進み出て拱手する。彼が被る鳳凰の翼を模した兜は高位の武官の証だ。
「はっ。この者は工部侍郎の李氏と通じ、陛下の暗殺を企てた容疑がかかっております」
「――!?」
(わたしが皇帝の暗殺計画を? しかも――李侍郎と共謀ですって!?)
後宮へ武装した兵が乗り込んでくるなどよほどの緊急事態だけ。しかも皇帝本人を差し置いて兵を動かしたとなると――それができる人物を丹華はひとりしか知らない。
何か言わなければ。身の潔白を証明しなくては。脳はけたたましく警鐘を鳴らしているのに、大勢の男に囲まれ押さえつけられている恐怖で声がうまく出ない。丹華は必死に首を左右に振り、目で隆然に訴えた。
「馬鹿な! 姉上がそのようなことなさるはずがない」
「しかし、証拠が上がっているのです! 至急長公主を拘束せよとの皇太后さまの仰せです!」
「証拠?」
隆然は兵の言葉に懐疑的なようだった。しかし証拠があると言われてしまえば、この場で解放を命じることはできない。
「冤罪です。わたしは潔白だわ!」
丹華はどうにか声を張り上げた。すると逃げたはずの小鳥たちが集まってきて、兵士をつついて攻撃する。
しかし四方を固める兵の拘束がゆるむことはなく、丹華はあれよという間に後宮から連行されてしまうのだった。
丹華の懐妊を知ってから一日も欠くことのなかった彼の訪れはぴたりと途絶えて、数日が過ぎようとしていた。
まだほんの何日か会えていないだけなのに、煌炎という太陽が姿を隠してしまった瞬間から心に大きな穴が空いたような気がする。
(後宮で一生を過ごした歴代の妃嬪たちは、皆こんな気持ちで皇帝の訪れを待っていたのかしら……)
公主である丹華にはこれまでわかりようもなかった。皇帝の寵という儚い縁を頼みに、いつあるかもわからぬ訪れを待つことしかできない妃嬪たちの苦悩が。
それはとても耐えがたく、身が裂かれるほどのつらさに思えた。
気分を変えようと、丹華は久しぶりに庭の掃き掃除をすることにした。ところが外へ出てみたら、吹く風が凍えるように冷たいので驚いてしまった。いつの間にか庭木はすっかり丸裸で、足元には霜が降りている。
(こんなに冬の気配が濃くなっているなんて気付かなかったわ。だって煌炎さまったら、香華宮にいらっしゃる間はひと時も離してくださらないんだもの……)
丹華が朝目覚めてから夜眠りにつくまで、煌炎はそのすべてを毎日飽きもせず見守っていた。まるで至宝を扱うみたいに丹華を懐に入れて離さず、文字通り一歩も地を歩かせなかった。どこに行くにも自分が抱き上げたまま連れて行こうとするものだから、あきれた詩詩が「妊婦には適度な運動が必要なんです!」と叱りつけたくらいだ。
その時の子供みたいにむくれた煌炎の表情を思い出して、丹華はひとり笑みを零した。だけどすぐに、彼がいないという現実が表情を曇らせる。
「あなたたちは煌炎さまがどこに行ってしまったか知っている?」
何気なしに問うてみると、周囲の小鳥たちは揃って首を傾げた。
『ほうおうさま、このくにのすべてにいる』
『こうえんさま、いつもたんかのとなりにいる』
そのさえずりはいつも通り幼げで要領を得ないものだったけれど、丹華はどこか救われる思いがした。
「ええ、そうよね。そうだわ……」
煌炎は消えたわけではない。鳳凰の心臓たる赤い宝玉は、今も丹華の懐で燃えるように輝いている。丹華は煌炎の番として、彼を信じるのだと決めた。
とはいえ、ただ漫然と待つだけなのも気が滅入りそうだった。念のため棲鳳宮を訪ねてみたけれど、やはり煌炎の気配はなかった。
麦畑では、既に次の春を待つ芽が育ちつつある。棲鳳宮の庭を掃き清めた丹華は、帰りは軽い運動も兼ねて少し遠回りで戻ることにした。
後宮の中央部をほうき片手に散策していると、ふと左手の建物の向こうに人影が見えた。
それは数人の護衛を従えた少年だった。吉祥文が刺繍された漆黒の衣、頭には黄金の小冠――この後宮の主、緋祥国皇帝・隆然である。
どうやら向こうもこちらに気付いたらしい。丹華はあわててほうきを置き、その場に膝を折った。
「ご無沙汰しております主上」
「姉上、そんなに畏まらないでください。公の場ではないのですから」
頭を垂れ臣下礼を取る義姉を、皇帝は自らの手で引き上げ目の前に立たせた。こうやって並ぶと、十二歳の隆然より丹華の方がまだ少し背が高い。
「近ごろ姉上が香華宮に籠っておられると聞いたので……。後宮へ出向いたついでに少しお顔を見られないかと思っていたのです。お会いできてよかった」
どこかお身体が悪いのですか? と気遣われて、丹華は首を左右に振る。
「ありがとう。わたしはこの通り、元気よ」
「本当ですか? 少し痩せられたような気が……」
隆然は心配そうに眉根を寄せる。まさか「妊娠しています」とは言えなくて、丹華はとっさに話題を変えた。
「主上、そのお花は妃嬪のどなたかに差し上げるのかしら?」
「はい。母上が妃たちを訪ねるようにと……。女性はまめに夫の顔を見ないと、寂しさのあまり病になってしまうのだそうです」
隆然が手にしているのはまだ蕾が膨らみかけたばかりの蝋梅の枝だった。
隆然の正妻となる皇后はまだ空位。その座に誰が上るのかはすべて皇太后の一存で決まるだろう。母の言いつけに従いけなげに妃を労わろうとする義弟に、丹華は複雑な気持ちを抱く。
「あ、あの姉上……御髪に、その」
隆然が遠慮がちに丹華の頭部を指さす。触れてみると、髪に何か小さな粒がひっついていた。
「あら、これは梧桐の種ね」
先ほど棲鳳宮を掃除していた時についてしまったのかもしれない。つまみ取った黒っぽい種子を見せてやると、隆然は「ああ!」と少年らしい笑顔を見せた。
「鳳凰鳴矣 于彼高岡(鳳凰は鳴く、かの高き丘に)
梧桐生矣 于彼朝陽(梧桐は生じる、かの朝日に)
菶菶萋萋 雝雝喈喈(その葉は盛んに茂り、鳳凰は和やかに鳴く)」
隆然がすらすらと諳んじてみせたのは、鳳凰の姿を伝える古い詩の一節だった。彼は書を読むのが好きで、昔から難解な兵法書などもよく読みこなしていた。
(この子は暗愚なんかじゃないわ。少し気が弱くて優しすぎるだけで……)
隆然が帝位に就いたのは五年前、わずか七つの時だ。いくら賢い子供でも、この歳で大人たちを抑え政治を采配するのは困難というもの。それでも生来の聡明さや素直さを失わず育っているのがせめてもの救いだ。
丹華がこれまでずっと道観への出家を考えつつも後宮を離れられなかったのは、ひとえにこの幼い弟帝を案ずるがゆえだった。
「もしや姉上の体調不良も、誰かに会えない寂しさゆえのものなのですか?」
「えっ」
ずばり心の内を当てられた気がして丹華はどきりとした。
「……そんな風に見える?」
「いえその、梧桐の種をご覧になる目が、どことなく寂しげな気がしたので……」
鳳凰がこの地へ舞い降りた時、最初に羽根を休めたのが梧桐の木であると言われている。棲鳳宮に梧桐が多く植えられているのもその由緒があるからだ。
――ほうおうさま、このくにのすべてにいる。
――こうえんさま、いつもたんかのとなりにいる。
小鳥たちが言うように、鳳凰の息吹はこの国のあらゆるところに満ちている。そう実感した途端、丹華の脳裏に浮かび上がるのは美しく鮮やかな煌炎の面影。
(ああ、やっぱりわたし……。彼に、会いたいわ)
とても寂しい。早く会いたい。
自覚しつつも決して言葉にしなかった想いが、不意に形を持ってあふれ出てくる。
丹華は彼との愛の証が宿る腹にそっと手を当て――その時。
『だれかくる! こわいやつらくるよ!』
突として周囲の木々から鳥たちが飛び去った。驚いて振り向くと、十人近い兵ががちゃがちゃと音を立てながらこちらへ走ってくるではないか。それも隆然が連れている宦官の護衛兵とは異なり、槍と鎧甲で武装した男たちである。
「いたぞ! 丹華長公主を捕らえよ!」
野太い号令が響いたと思ったら、丹華はあっという間に隆然と引き離され取り囲まれてしまった。屈強な腕が丹華の肩を左右から掴み、押さえつける。
「一体何ごとだ!」
隆然が皇帝らしく毅然と一喝した。説明せよ、と命じるとひとりの男が進み出て拱手する。彼が被る鳳凰の翼を模した兜は高位の武官の証だ。
「はっ。この者は工部侍郎の李氏と通じ、陛下の暗殺を企てた容疑がかかっております」
「――!?」
(わたしが皇帝の暗殺計画を? しかも――李侍郎と共謀ですって!?)
後宮へ武装した兵が乗り込んでくるなどよほどの緊急事態だけ。しかも皇帝本人を差し置いて兵を動かしたとなると――それができる人物を丹華はひとりしか知らない。
何か言わなければ。身の潔白を証明しなくては。脳はけたたましく警鐘を鳴らしているのに、大勢の男に囲まれ押さえつけられている恐怖で声がうまく出ない。丹華は必死に首を左右に振り、目で隆然に訴えた。
「馬鹿な! 姉上がそのようなことなさるはずがない」
「しかし、証拠が上がっているのです! 至急長公主を拘束せよとの皇太后さまの仰せです!」
「証拠?」
隆然は兵の言葉に懐疑的なようだった。しかし証拠があると言われてしまえば、この場で解放を命じることはできない。
「冤罪です。わたしは潔白だわ!」
丹華はどうにか声を張り上げた。すると逃げたはずの小鳥たちが集まってきて、兵士をつついて攻撃する。
しかし四方を固める兵の拘束がゆるむことはなく、丹華はあれよという間に後宮から連行されてしまうのだった。