ここは後宮。女の園。
 新たな皇帝、蛇香(じゃこう)帝の妃になるために集められた女たちが、(しの)ぎを削る魔窟である。

 それと同時に、宦官たちの戦場でもあった。
 落陽が率いる陽派、登月が率いる月派。二つの勢力が、日々にらみ合っている。

 誰が宮女として後宮に残るのか。誰が、正妃となるのか。
 それによって、宦官たちの勢力図は変わるだろう。

 落陽(らくよう)が推す妃候補は、代々重臣を務めてきた(こう)家の麗しき姫君、珠瑛(しゅえい)
 家柄、教養、美貌、何を取っても不足なしのお嬢様だ。

 対する登月(とうげつ)が推す妃候補は、名もしれぬ田舎娘。
 ()の国では珍しい金の髪に菫色の目を持つが、美人とは掛け離れた娘である。
 名は菊花(きっか)と言う。

 宮廷内では、登月の敗戦であろうとうわさされていた。
 もとより、彼には出世意欲がない。
 皇帝や寵妃たちに茶を振る舞うだけで満足という男だ。落陽と張り合わないように、わざと泥臭い田舎娘を選んだに違いないともっぱらのうわさである──らしい。

「それならそれで、構わないんですよ? 私はね。正直、自分でも宮女になれると思っていませんから。でもそれなら、こんなことをする必要がありますか? ないですよね?」

 火炙りにされた服の残骸を前にして、菊花は重くため息を吐いた。
 真っ黒に焼け焦げた、服だったもの。
 それは、菊花の亡き母が繕ってくれたものだ。菊花にとって、母の形見と言っても良い。

 両親が亡くなり、生活のためにいろいろ売り払ったけれど、これだけは必要なものだからと言い訳して売らなかった。
 それが、彼女の私服だったのだ。

 普段着二着と寝間着。たった三着しかないというのに、そのうちの二着が燃やされてしまった。
 残りの一着は着ていたおかげで無事だったが、いつまで保つやら。

 誰がやったのかは分かっている。
 実行犯は珠瑛の取り巻き三人、(しゅ)紅葉(こうよう)()氷霧(ひょうむ)(りょく)桜桃(おうとう)。首謀者はもちろん、珠瑛である。

 彼女たちの言い分は、こうだ──。

「汚れていたから、洗ってあげようと思ったのです」

「ええ。洗って、庭に干しておきました」

「しかし、あいにくのお天気でしょう? 乾かないと大変だと思って、火を()きましたの」

「これは、事故ですわ。ごめんなさいね、菊花さん」

 んなわけあるか。
 菊花はその言葉を飲み込んだ。

 代表して謝罪した珠瑛は、申し訳なさそうに眉をハの字にしているが、扇子で隠れた口元は、きっと笑っている。
 意地悪くニヤニヤとしているのが、透けて見えるようだ。

(汚れていたから洗った。これはまぁ、優しいと言えなくもない。ただ、顔見知りってだけの親しくもない人が私物を触るのはちょっと……というか、だいぶ嫌だわ。それから、洗ったから干した。これはまぁ、普通っちゃ普通。一人目と同じく触ったことに嫌悪感はあるけれど、濡れていたら干すしかないもんね。問題は、三人目よ。乾かないと大変だと思って、火を焚いた。これは、どう考えたっておかしいでしょ。普通、洗った服を乾かすのに火を焚く? 焚かないよねぇ。どんな天然だっていうのよ)

 そもそも今日は、とてもよく晴れた日である。
 しかも、ソヨソヨと気持ちの良い風も吹いていた。濡れた服が、乾かないはずがないのだ。

 まともな宦官か、もしくは月派の宦官であれば、それなりの罰を下せただろう。
 だが残念なことに、この事件を解決するために呼ばれた宦官は、陽派の筆頭、落陽であった。

(呼んだというか、待機していたというか……用意周到なことで)

 菊花は、女大学での授業を終えて、わからないところがあったので担当の宦官のもとへ行っていた。
 その間に、彼女の部屋のたんすに入っていた服は引っ張り出され、水責めに遭い、そして火炙りにされたらしい。

 部屋に戻った菊花の目に入ったのは、半開きになったたんす。
 中を見たら空っぽで、慌てて探しに外へ出てみたら、庭で焼かれていた。

 慌てて水をかけたが、もう手遅れ。
 服は、黒い塊になっていた。

 ぼうぜんとする菊花の前に現れたのが、落陽と珠瑛、そして取り巻き三人娘だったのだ。
 珠瑛たちの言い分を聞いた落陽は、鼻の下にあるひげを弄りながら、でっぷりとした腹を突き出すようにして「まぁまぁ」と笑った。

「彼女たちも善意でやったこと。菊花様とは違ってお嬢様育ち故、仕方のないことなのだ。これくらいで怒っていては、正妃になんてとてもとても」

 落陽は、菊花が田舎娘だと馬鹿にしている。自分で洗濯するような、庶民だと。
 高貴な身分である彼女たちの善意を、責めるものではないと笑っている。

 この落陽という男、実は菊花は以前にも会ったことがあった。

 菊花に「数日後に登月が来る」と予言をしていった男。
 あの時は名乗らなかったが、後宮生活二日目に菊花は知ることとなった。
 女大学で使用する教本を配られた際、登月が教えてくれたのだ。

「あの男が落陽です。珠瑛にはもう目をつけられてしまいましたが、こちらには気をつけてくださいね」

 そう言って登月がこっそり指差して教えてくれた男こそ、登月よりも早く菊花に接触し、後宮へ連れて行ってもらえると予言した男だった。

「登月様。もう、手遅れかもしれません。だってあの人、登月様よりも早く、私に会いに来ましたから」

「え?」

「登月様が来る三日前にやって来たんです。自分のお眼鏡には敵わなかったが、数日後に登月様が迎えに来ると言っていました。その通りになったから、私てっきり、神仙の類だと思っていたんですけど……あれが落陽様だったのですね」

「なるほど。おおかた、私があなたを迎えに行くことを、どこかから聞いたのでしょう。珠瑛以上の逸材ならば、私に先んじて連れて行こうとしていたのでしょうね」

「はは。残念ながら、お眼鏡には敵わなかったわけですけど」

「でもまぁ、もう目をつけられているのなら諦めるしかありませんね。菊花、先に謝っておきます。あの二人は何をしてくるか分からない。何かあったら、すぐに私を呼びなさい。いいですね?」

「はい、わかりました!」

(──そうよ。それなのにどうして私は、登月様を呼ばずに行動しちゃったのかしら!)

 火炙りにされている現場を見てすぐに登月を呼んでいれば、もう少しまともな対応がなされたものを。
 今更悔いても遅いが、そう思わざるを得ない。

「さて。誤解は解けたことですし、これで良いですかな? 服なんて、また買えば良いではないですか。そうでしょう? 菊花様」

 菊花にそんな財力がないことを知っていて、落陽はそう言う。
 意地悪な言葉に、菊花はギリリと拳を握った。

 登月がいない今、下手に言い返すのは得策ではない。
 彼に出世意欲があろうとなかろうと、菊花のせいで彼の地位を失墜させるわけにはいかないのだ。

 物言いたげににらみながら、それでも言い返すことのない菊花に、調子に乗った取り巻き三人娘が楽しげに「ほほほ」と笑う。

「あら、意地悪な落陽様」

「彼女には服を買うようなお金がありませんのよ」

「そうですわ。ほら、ご覧になって? 今着ている服も、擦り切れて今にも破れてしまいそう」

「おやめなさいな、三人とも。菊花様、ごめんなさいね。彼女たちも悪気があって言っているわけではないのよ? 素直だからつい、言ってしまっただけなの。許してちょうだいね」

 んなわけあるか。
 菊花は本日二度目のその言葉を、また飲み込んだ。

 落陽と珠瑛、それから取り巻き三人娘は、もう用は済んだとばかりに去っていく。
 事件なんてちっとも解決していない。

 首謀者と実行犯は野放しのまま。菊花の服は弁償さえしてもらえない。
 もっとも、弁償できる代物でもないのだけれど。