後宮というところは、とても広いらしい。
菊花が生まれ育った名もなき町が、丸ごと入ってしまうのではないだろうか。
もしかしたら、それ以上かもしれない。
かなり歩いたところで、登月はとある扉の前で止まった。
目の前には、朱塗りの豪奢な扉。
登月が扉を押すと、ギギギギィと音を立てて扉は開かれた。
(ここは、猛獣の檻の中かしら?)
菊花はとっさに、そう思った。
まるで、肉食獣の前に突き出された子豚のような気分だ。今にも食い殺されてしまいそう。
部屋の中には、たくさんの少女たちがワラワラとひしめいていた。
綺麗な子、かわいい子、利口そうな子……ありとあらゆる少女たちが、一堂に会している。
(うぅ、場違い感が半端ないわ)
入室してすぐに感じた突き刺さるような視線は、菊花を認識すると次々逸らされていく。
(ゲテモノ枠だしね。張り合おうなんて気は間違っても起きないでしょうよ)
分かってはいたけれど、少しだけやさぐれたくもなる。
なにもそんなに露骨にしなくてもいいじゃないと思っていた菊花の後から、別の宦官が一人の少女を連れて来た。
黒い髪に黒い目。白い肌には傷一つない。パッチリとした二重の目と長いまつ毛が印象的で、いかにも大事に育てられましたというような優しい顔立ちをした少女である。
彼女もまた、菊花と同じように突き刺さるような視線を感じたのだろう。持っていた荷物を、縋るようにぎゅうっと胸に抱く。
「あーら。ちょっと、そこのあなた。こちらへいらっしゃいな」
菊花より後に入ってきた少女は、洗礼とばかりに身分が高そうな少女のもとへ連行されて行く。
抱えていた荷物を取り上げられた彼女は、その中に入った簪を奪われていた。
「やめてください! お願いだから、返して。それは、お祖母様の形見なの!」
少女は目に涙を浮かべながら、簪を取り戻そうと手を伸ばす。
しかし、意地悪な取り巻きたちがそれを許さない。取り上げられた簪は、少女の手に戻ることなく、身分が高そうな少女の髪に挿されてしまった。
「あなたみたいな田舎娘より、わたくしのような高貴な女性にこそ似合うわ。ねぇ、そうでしょう?」
「ええ、そうですわ」
「黄家の姫君、珠瑛様にこそ似合います」
「あなたのような小娘に、真珠の簪なんて勿体ないわ」
取り巻きたちは、口々に高貴な少女──珠瑛を褒め称える。
それを当然と頷き返している珠瑛に、菊花は虫唾が走る思いがした。
射干玉色の目に、烏の濡れ羽色の髪。
確かに、乳白色の真珠の簪は映えるだろう。だが、持ち主の少女だって同じ色である。
珠瑛は、貴族というやつなのだろう。
菊花は貴族というものを見たことがなかったが、きっと珠瑛は貴族に違いないと思った。
だって彼女は、歩くたびにシャナリシャナリと音がしそうなのだ。
そんなクネクネした歩き方をした人は、つい先ほど見たばかりの大路にだっていなかった。
(うわぁ……あの子には絶対関わりたくない)
菊花がゲンナリとした顔でその一幕を眺めていると、隣で深いため息が聞こえた。
見上げれば、菊花と同じようにゲンナリとした顔をした登月がいる。
「黄家の長女ですか。おおかた、落陽あたりが連れて来たのでしょう」
「こうけ? らくよう?」
「黄蘭瑛。重臣の一人です。それから……ほら、あそこでふんぞりがえっている女性がいるでしょう。あの方が黄家の姫君、珠瑛です。巷では、彼女が正妃になるだろうとうわさされていますが、果たしてどうなるのか」
登月はそう言うと、ククッと意味深な笑みを浮かべた。
まるで彼は、珠瑛が正妃になれないと知っているようにも見える。
(気のせいかしら?)
菊花が不思議そうに見上げていると、登月はコホンと咳払いをした。
もう、意味深な笑みは浮かんでいない。あるのは、平々凡々とした表情の乏しい顔だけである。
「落陽は、私と同じ宦官です。昔から、事あるごとに私に突っかかってくる。面倒な事にね。黄珠瑛に、落陽。この二人には近づかない方が良いですよ」
「どうしてですか?」
もちろん近づくつもりなんてさらさらないが、どうしてなのかは気になる。
菊花の問いかけに、登月はこう返した。
「私が菊花を推薦するからです」
「登月様が私を推薦すると、何かあるのですか?」
「私はこう見えて宦官の中でも地位が高い。宦官たちは今、月派と陽派の二派に分かれています。月派の頭は私、陽派の頭が落陽。つまり、あなたは珠瑛の対抗馬ということになりますね」
「なるほど、対抗馬……って、私がですか⁉︎」
さらりと衝撃的なことを告げられて、菊花は素っ頓狂な声を上げた。
途端、周囲が静まり返り、訝しげな視線が向けられる。
菊花は体を小さくして「すみません」と呟くと、登月の背にそっと隠れた。
登月が偉い人というのも驚きだが、それよりもっと驚きなのが、正妃になるかもしれないと言われている珠瑛の対抗馬が菊花ということである。
自他共に認める醜女である菊花が正妃になるなんて、天地がひっくり返ったってないはずだ。
(いやいやいや、あり得ないから。対抗馬とか、うそでしょ? 登月様、賭けに出過ぎじゃない? だって私、ゲテモノ枠よ? あんな正統派美女に勝てるわけがないじゃない)
珠瑛より勝っていることと言えば、一人で生きていけることと、触り心地最高の棉花糖体くらいだ。
(いやぁ、無理でしょ)
菊花はチラリと珠瑛を見た。
先ほどはすぐに興味を失ったように真っ先に目を逸らしたのに、なぜかネズミを追いかける猫のような意地が悪そうな目で菊花を見ている。
(え、もしかして見られている?)
まさかね、と菊花は移動してみた。
右へ一歩、登月の背に隠れてから、今度は左へ一歩。珠瑛の視線は、スススと菊花を追いかけて来る。
(気のせいじゃなかったぁぁぁぁ!)
焦る菊花の隣で、登月が「ふむ」とうなる。
そして、細いあごをひと撫でして一言。
「さっそく、敵認定されたようですね?」
登月の無慈悲な言葉に、菊花はガクリと肩を落とした。
(訂正するわ。登月様について来たのは、間違いだったかもしれない……)
菊花が生まれ育った名もなき町が、丸ごと入ってしまうのではないだろうか。
もしかしたら、それ以上かもしれない。
かなり歩いたところで、登月はとある扉の前で止まった。
目の前には、朱塗りの豪奢な扉。
登月が扉を押すと、ギギギギィと音を立てて扉は開かれた。
(ここは、猛獣の檻の中かしら?)
菊花はとっさに、そう思った。
まるで、肉食獣の前に突き出された子豚のような気分だ。今にも食い殺されてしまいそう。
部屋の中には、たくさんの少女たちがワラワラとひしめいていた。
綺麗な子、かわいい子、利口そうな子……ありとあらゆる少女たちが、一堂に会している。
(うぅ、場違い感が半端ないわ)
入室してすぐに感じた突き刺さるような視線は、菊花を認識すると次々逸らされていく。
(ゲテモノ枠だしね。張り合おうなんて気は間違っても起きないでしょうよ)
分かってはいたけれど、少しだけやさぐれたくもなる。
なにもそんなに露骨にしなくてもいいじゃないと思っていた菊花の後から、別の宦官が一人の少女を連れて来た。
黒い髪に黒い目。白い肌には傷一つない。パッチリとした二重の目と長いまつ毛が印象的で、いかにも大事に育てられましたというような優しい顔立ちをした少女である。
彼女もまた、菊花と同じように突き刺さるような視線を感じたのだろう。持っていた荷物を、縋るようにぎゅうっと胸に抱く。
「あーら。ちょっと、そこのあなた。こちらへいらっしゃいな」
菊花より後に入ってきた少女は、洗礼とばかりに身分が高そうな少女のもとへ連行されて行く。
抱えていた荷物を取り上げられた彼女は、その中に入った簪を奪われていた。
「やめてください! お願いだから、返して。それは、お祖母様の形見なの!」
少女は目に涙を浮かべながら、簪を取り戻そうと手を伸ばす。
しかし、意地悪な取り巻きたちがそれを許さない。取り上げられた簪は、少女の手に戻ることなく、身分が高そうな少女の髪に挿されてしまった。
「あなたみたいな田舎娘より、わたくしのような高貴な女性にこそ似合うわ。ねぇ、そうでしょう?」
「ええ、そうですわ」
「黄家の姫君、珠瑛様にこそ似合います」
「あなたのような小娘に、真珠の簪なんて勿体ないわ」
取り巻きたちは、口々に高貴な少女──珠瑛を褒め称える。
それを当然と頷き返している珠瑛に、菊花は虫唾が走る思いがした。
射干玉色の目に、烏の濡れ羽色の髪。
確かに、乳白色の真珠の簪は映えるだろう。だが、持ち主の少女だって同じ色である。
珠瑛は、貴族というやつなのだろう。
菊花は貴族というものを見たことがなかったが、きっと珠瑛は貴族に違いないと思った。
だって彼女は、歩くたびにシャナリシャナリと音がしそうなのだ。
そんなクネクネした歩き方をした人は、つい先ほど見たばかりの大路にだっていなかった。
(うわぁ……あの子には絶対関わりたくない)
菊花がゲンナリとした顔でその一幕を眺めていると、隣で深いため息が聞こえた。
見上げれば、菊花と同じようにゲンナリとした顔をした登月がいる。
「黄家の長女ですか。おおかた、落陽あたりが連れて来たのでしょう」
「こうけ? らくよう?」
「黄蘭瑛。重臣の一人です。それから……ほら、あそこでふんぞりがえっている女性がいるでしょう。あの方が黄家の姫君、珠瑛です。巷では、彼女が正妃になるだろうとうわさされていますが、果たしてどうなるのか」
登月はそう言うと、ククッと意味深な笑みを浮かべた。
まるで彼は、珠瑛が正妃になれないと知っているようにも見える。
(気のせいかしら?)
菊花が不思議そうに見上げていると、登月はコホンと咳払いをした。
もう、意味深な笑みは浮かんでいない。あるのは、平々凡々とした表情の乏しい顔だけである。
「落陽は、私と同じ宦官です。昔から、事あるごとに私に突っかかってくる。面倒な事にね。黄珠瑛に、落陽。この二人には近づかない方が良いですよ」
「どうしてですか?」
もちろん近づくつもりなんてさらさらないが、どうしてなのかは気になる。
菊花の問いかけに、登月はこう返した。
「私が菊花を推薦するからです」
「登月様が私を推薦すると、何かあるのですか?」
「私はこう見えて宦官の中でも地位が高い。宦官たちは今、月派と陽派の二派に分かれています。月派の頭は私、陽派の頭が落陽。つまり、あなたは珠瑛の対抗馬ということになりますね」
「なるほど、対抗馬……って、私がですか⁉︎」
さらりと衝撃的なことを告げられて、菊花は素っ頓狂な声を上げた。
途端、周囲が静まり返り、訝しげな視線が向けられる。
菊花は体を小さくして「すみません」と呟くと、登月の背にそっと隠れた。
登月が偉い人というのも驚きだが、それよりもっと驚きなのが、正妃になるかもしれないと言われている珠瑛の対抗馬が菊花ということである。
自他共に認める醜女である菊花が正妃になるなんて、天地がひっくり返ったってないはずだ。
(いやいやいや、あり得ないから。対抗馬とか、うそでしょ? 登月様、賭けに出過ぎじゃない? だって私、ゲテモノ枠よ? あんな正統派美女に勝てるわけがないじゃない)
珠瑛より勝っていることと言えば、一人で生きていけることと、触り心地最高の棉花糖体くらいだ。
(いやぁ、無理でしょ)
菊花はチラリと珠瑛を見た。
先ほどはすぐに興味を失ったように真っ先に目を逸らしたのに、なぜかネズミを追いかける猫のような意地が悪そうな目で菊花を見ている。
(え、もしかして見られている?)
まさかね、と菊花は移動してみた。
右へ一歩、登月の背に隠れてから、今度は左へ一歩。珠瑛の視線は、スススと菊花を追いかけて来る。
(気のせいじゃなかったぁぁぁぁ!)
焦る菊花の隣で、登月が「ふむ」とうなる。
そして、細いあごをひと撫でして一言。
「さっそく、敵認定されたようですね?」
登月の無慈悲な言葉に、菊花はガクリと肩を落とした。
(訂正するわ。登月様について来たのは、間違いだったかもしれない……)