皇帝陛下のあたため係

「……あれ?」

 ボロ家とまではいかないがすてきな家とも言い難いわが家。
 その前に見慣れないものを見つけて、菊花(きっか)は首をかしげた。

 いつものように食費を稼ぐために山へ分け入り、帰ってきたところだった。
 そんな彼女はかごを背負ったまま、服はドロドロのひどいありさまである。どこかで転んだのか、あごのあたりにも泥がついていた。

「どうして馬車がこんな場所に?」

 馬車なんて、貴族が乗るものである。
 平民である菊花はもちろん、今は亡き両親だって縁があったとは思えない。
 こんな田舎の、さらに町外れにある菊花の家の前に停まっているなんて、おかしな話だ。

(道に迷ったのかしら?)

 この辺りまで馬車で来るのは、さぞ大変だっただろう。
 道は整備されていないし、菊花の家は山のそばにあるのだから。
 馬にとっては、迷惑な話である。

(山を越えてきたのか、これから越えるのか……どちらにしても、馬からしてみれば地獄のような仕打ちね)

 菊花は背負っていたかごを下ろすと、畑の隅に転がっていた桶に水を汲み、どこか疲れた顔をしている馬たちに水を与えた。
 馬たちにつけられた装飾品は、それなりに上等なものだ。その後ろにつながれた、馬車もしかり。

「貴族ってまではいかないけれど、それなりに裕福そうな馬車ねぇ」

 商売に成功した商人あたりが乗っていそうな馬車だ。
 こんな田舎でも、それくらいなら見たことはある。

 もっとも、貴族の馬車なんて菊花は見たこともなかったから、あくまで彼女の独断と偏見による感想でしかない。
 貴族といえば、皇帝陛下より偉くはないけれど雲の上のお人なのだから、目も(くら)むような豪華な馬車に乗っているに違いないと、思ったことがポロリと口から滑り出ただけである。

「おい」

 馬車を見上げていたら、不機嫌そうな声がして、窓から男が顔を出した。
 その瞬間、眩しい光が菊花の目に降り注ぐ。
 慌てて目を背けていると、一人の男が馬車からえっちらおっちら降りてきた。

 ふくよかな体形をした男だ。
 髪の両脇は油のようなもので塗り固められていて、てっぺんである頭頂部はビカビカと日の光を反射させている。

(眩しかったのは、これのせいね)

 脂ぎった頭頂部は、鏡のようになるらしい。
 初めて知った知識を、菊花はこっそり心の手帳に書き記した。

 菊花は、いろいろなことを知るのが大好きだ。
 貴族ではないために学校へは行けないが、新しいことを知るたびに心の手帳に書き込むことにしている。
 本当は紙に書いておきたいのだが、残念なことに家計の問題で難しいのだ。

 新しい知識に上機嫌になっていると、男が菊花の方へ歩み寄ってきた。
 でっぷりとした腹は、歩くたびにタプタプ揺れる。

(走る時、大変なのよねぇ)

 菊花の場合は、腹より胸の方がよく揺れる。
 走るとボヨンボヨンして、非常に走りにくいのだ。今日だって、山で遭遇した瓜坊に追いかけられて大変だった。

(美味しそう、って言ったのがまずかったのかしら?)

 しかし、本当に美味しそうに見えたのだ。
 猪の肉は、ごちそうである。

「おまえ、名は?」

 男の目が、いやらしげに濁る。
 猪の肉に思いをはせる菊花は、男の値踏みするような露骨な視線に気付かない。

「おい。聞いているのか?」

「へっ?! あぁ、すみません。菊花と申しますです」

 男の苛立たしげな声に、菊花は慌てて答えた。

「ふむ。声は悪くないな」

 首と一体化したような丸い顎を撫でながら、男は満足げに頷く。
 その視線は相変わらず、ねっとりと菊花を捉えたままだ。
 男は鼻の下に申し訳程度に生えたひげを撫でつけながら、ゆったりと菊花の周りを一周した。

(この人は、一体何をしているのかしら?)

「あのぅ……?」

 問いかけて背後を見れば、男は前を向けと言わんばかりにシッシッと手を振る。

(私、犬じゃないのだけれど!)

 これには菊花も腹が立ったようで、ムスリと顔をしかめた。
 唇を尖らせて、男のお望み通りに前をにらみつける。

「ふぅむ。登月(とうげつ)が目をかけていると聞いたからここまでやってきたが……無駄骨だったな。白い肌は合格だが、それ以外はまるでなっておらん。まぁ、それで良い。私は私で選んだ女を連れて行けば良いだけのこと。このような醜女であれば、早々に脱落するに違いない。とうとう登月にやり返す機会がやってきたぞ」

 菊花のことを犬くらいにしか思っていない男は、彼女の背後でそのように独白していた。

 菊花に学はない。
 だが、常日頃から心の手帳を書き込む習慣があるせいか、記憶力だけは秀でていた。
 そのため、男の何気ないこの独白も、彼女はしっかりと記憶していた。

 そうとも知らず、男はグフグフと変な声を上げながら笑う。

(豚みたいな笑い方ねぇ)

 菊花が失礼なことを考えているとも知らず、男は再びニンマリと気持ちが悪い笑みを浮かべた。
 なんだか背中がゾゾゾとする。菊花は、迫り上がる悪寒に体を震わせた。

「さて、菊花とやら。残念ながら、おまえは私のお眼鏡には適わなかった。だが、諦めることはない。これより数日後、宦官の登月という男がやって来る。その男は、おまえのことを後宮へ連れて行ってくれるだろう。せいぜい、都の素晴らしい光景を目に焼き付けて、すごすごと帰郷するが良い。ではな」

 いかにも悪党というような高らかな笑い声を上げながら、男はえっちらおっちらと馬車に乗り込む。
 言いたいことを言い終えたのか、男の顔は満足げである。

 重たい体は自力で馬車に乗り込むこともできないようで、御者が必死の形相で男を押し上げる。
 ようやく男の体が馬車の中に入ると、車体がギィギィと悲鳴を上げた。

(馬車って、どれくらいの重さなら耐えられるのかしら?)

 ギィギィと悲鳴を上げているあたり、男の体重は許容範囲を超えているのだろう。

(貴族だったらなぁ。こんな計算も、ちょちょいのちょいってできちゃうんだろうなぁ。いいなぁ、貴族。せめてこの人くらい稼げたら、少しくらい学校に潜り込めたりしないかしら?)

 ギッコギッコと音を立てながら、馬車が動き出す。
 菊花はそれを羨ましそうに、見えなくなるまで見つめていた。
 謎の男の予言は、どうやら本当だったらしい。
 それなりに良い馬車に乗ったあの男は、気まぐれに下界へ降りてきた神仙(かみさま)だったのかと、菊花(きっか)は無礼な態度を取った自分を恥じた。

 男の予言を聞いてから三日後、家の前の畑で草むしりに精を出していた菊花の前に、一頭の馬が止まった。

 馬のいななきと、それをいさめる「どうどう」という声。
 何事だと慌てて立ち上がると、馬上の男と目が合った。

 ぞんざいに結い上げられた黒く艶やかな髪が、春風に(たなび)く。
 どこからか飛んできた花弁が、男の髪を彩るようにひとひら絡まった。

 まるで絵巻物のような情景に、その顔の造形に期待が高まる。
 だが残念なことに、菊花と目が合ったその男の顔は、至って平々凡々とした、特筆すべき点もない普通の顔だった。黒い髪に黒い目。()の国では一般的な容姿である。

 馬を落ち着かせた男は、菊花を見下ろしてこう言った。

「私は宦官の登月(とうげつ)である。菊花殿で、お間違いないか?」

 登月と名乗った男の丁寧な物言いに、菊花は驚いた。

 宦官といえば、選良(エリート)である。
 特に自ら志願して男の証を切除した宦官は、皇帝や寵妃たちの側近として重用されるらしい。
 目の前にいる宦官が自ら志願したのかそうでないのかは定かではないが、どちらにしても選良であることに変わりはない。

 そんな宦官が、ただの田舎娘でしかない菊花に偉ぶるそぶりもみせない。
 偉い人は偉そうに振る舞うものだと思っていた菊花にとって、登月の態度は異質にも思えた。

「へいっ」

 返答しようと開いた口から、おかしな声が出る。
 だが、それも仕方がないことだ。だって菊花は、驚いていたのだから。

 しかし、登月は菊花のおかしな声を聞いても、表情一つ変えずに「そうか」と頷いただけだった。

蛇香(じゃこう)帝が宮女を募集している旨は、既に知っているか?」

「はい、知っております」

「私は其方を推薦するつもりで来た。もしもついて来てくれるのならば、今よりももっと良い生活を約束しよう」

「今よりも、もっと……?」

「そうだ。まず、三食出る」

 登月はそう言うと、指を三本立てた。朝食、昼食、夕食という意味だろう。

「三食……」

 働かなくても食べられる。
 これは、菊花にとってかなり魅力的だ。狼や猪が出る山に、分け入らなくても良くなる。
 引き寄せられるように、登月の方へ一歩足が出た。

「その上、昼寝つき」

「昼寝つき……!」

 なんということか。ご飯がある上に、昼寝までついてくる。
 宮女ってなんてすてきなのだろうと、菊花の心がグラングラン揺れた。
 そしてまた一歩、登月の方へ足が進む。

「さらに、宮女候補だけが入学できる女大学で、好きなだけ勉強ができる」

 好きなだけ勉強ができる。
 これは、三食昼寝つきよりも魅力的だ。

(こ、これほどまでに魅力的なお誘いがあるでしょうか……答えは、否! あるわけがありませんっ!)

 菊花の足がまた一歩、登月の方へ向かう。
 あと一歩前へ進めば、登月が乗る馬に触れることができるだろう。
 だが、彼女には一つだけ、不安なことがあった。

「あの……」

「なんだ?」

「それは、分割払いが可能でしょうか?」

 三食昼寝つきで勉強までさせてもらえる。
 しかもこんな、田舎娘が。

 美人だったらまだ良い。
 皇帝陛下のお嫁さんになれる可能性は十分にある。

 だけれど、菊花はお世辞にも美人とは言えないし、むしろ真逆だと自信を持って言える。
 宮女になれるのが一体何人かは知らないが、少なくとも菊花のような者が皇帝のお手つきになることはまずないだろう。

(金の髪に菫みたいな色をした目。その上、棉花糖体(マシュマロボディ)……どう考えたって、皇帝陛下の好みじゃないはず。つまり、これは……賄賂を渡して便宜を図るっていうお誘いね!)

 そう思ったからこそのせりふだったが、言われた登月は何を言っているのだという顔で菊花を見下ろした。

(あら、何か違った?)

 首をかしげる菊花に、登月はハァとため息を吐いた。

「学費も食費も必要ない。後宮には後宮の予算があるから、安心して来ると良い」

 今度は菊花が、何を言っているのだという顔をする番だった。

(どうやら私は、大きな勘違いをしていたみたい?)

 賄賂のつもりで聞いたのに、学費や食費の心配をしていると思われたらしい。
 それはつまり、登月は本気で、菊花を宮女候補として──つまり、皇帝陛下の嫁になる資格がある女として彼女を迎えに来たということだ。

「そう、ですか……」

 これには菊花も驚いた。

(もしや、蛇香帝はゲテモノがお好き……?)

 そういえば、お金持ちは『燕の巣』とか『鹿の陰茎』とか、菊花が食べようとも思わないものを食べると聞いたことがある。
 もしかしたら菊花は、そういう枠で推薦されるのかもしれない。

(でも、これはチャンスよ? 食費も学費も無料で、その上昼寝つき。宮女になれるかは別として、貴族でもないのに勉強できるのは、これしかないんじゃない?)

「……なら、逃す手はないわよね」

「来るか?」

「はい! 行かせて頂きます!」

 元気良く返事をした菊花に、登月はホッと息を吐いた。
 来てくれなかったらどうしようと、内心思っていたからだ。

 宦官、登月。
 彼は、蛇香帝お気に入りの宦官である。

 出世意欲なんてまるでないのに、彼に気に入られたせいでいつの間にか偉くなっていた。
 気に入られた理由はただ一つ──彼は、誰よりも茶を淹れることがうまかったのである。
 名もなき町から馬に揺られて約一日。
 ()の国の西、崔英(さいえい)に到着する。

 そこからは手配しておいた馬車に乗るのだと、登月(とうげつ)は言った。
 崔英から宮城(きゅうじょう)までは馬車で三日ほどかかるそうだ。

 登月が手配した馬車は、貴族が乗るような豪奢(ごうしゃ)な馬車だった。
 馬車の中も外観に劣らず高級そうな造りで、菊花(きっか)はどこへ座るべきだろうかと悩む。

 普通に考えれば、両脇に設置されたフカフカの椅子に座るのだろうが、そんな椅子、生まれてこの方座ったことがない。
 庶民な菊花は座ることさえ恐れ多く思えて、おたおたと困惑しながら後ろに居た登月を見た。

「あの」

「どうしましたか?」

「どこへ座れば良いのでしょうか?」

「はい?」

 登月の反応は当然だろう。
 馬車の中にはちゃんと、椅子がある。それならば、椅子に座れば良い。
 だというのに、これである。

 登月は菊花に分からないようにそっとため息を吐くと、彼女を追い越して馬車の中へ先に入った。
 向かって右の席に腰を下ろし、どうぞと促すように向かいの席を手で示す。

「あぁ、そうですよね。椅子があるならそこに座れば良いんですよね! すみません。私ったら、つい。宦官様とご一緒することなんて初めてだから、座って良いのか焦っちゃいました」

「宦官様、はやめてくれ。登月と呼んでくれないか?」

「えっと、呼び捨ては恐れ多いので……登月様、ではいけませんか?」

「それでも良い」

「良かった。じゃあ、登月様と呼ばせていただきますね! 私はしがない田舎娘ですから、どうぞ菊花と呼んでくださいませ」

「ああ、そうしよう」

 会話を終えるのを待っていたように、馬車が走り出す。
 崔英には、一般市民にも移動手段として乗合馬車があるらしい。
 座席はほぼなく、立って乗るのが普通のようだ。

 馬車の窓に引かれた布の隙間からそっと外を眺めて、菊花は「ほぅ」だとか「へぇ」だとかひたすら声を漏らしていた。
 菊花の感嘆の声が「へぇ」から「おぉ!」に変わったのは、崔英を出て一週間後のことである。

 一週間かけて移動した先──そこは、巳の国の都だった。

 馬車が何台も横並びで通れそうな、幅の広い道。その両端を、色とりどりの屋根の屋台がズラリと並ぶ。
 さらにその奥には、見たこともないくらい大きくて、絢爛豪華(けんらんごうか)という言葉がぴったりな建物が、菊花を乗せた馬車の先でそびえ立っていた。

「ここは、大路。都で一番大きな道です」

 ホァァと驚きの吐息を吐く菊花に、登月はそう教えてくれた。

「おおじ!」

 コクリと頷きながら、菊花は感嘆のため息を吐いた。

 なにもかもが珍しい。
 まず、歩いている人からして、菊花が生まれ育った町とは違った。

 菊花と同じような質素な格好をする者もいるにはいるが、目を見張るような──どうやって着るのかと首をかしげたくなるような煌びやかな服をまとう者が多い。

 馬車が走る合間を、人々は慣れた様子でスイスイと歩いて行く。
 どの人も忙しいのか、脇目も振らずに足早である。

 これが都かと、菊花はひたすら感嘆の声を漏らし続けた。
 そんな中、馬車は大路をどんどん進む。

 気付けば大路の奥で、見たこともないような巨大な門を通過しようとしていた。
 門の先に、屋台はもうない。洗練された高級感を醸す空間は、どこか神聖ささえ漂う。
 菊花は無意識に、背を正した。

 それからしばらくして、カタンと大した音も立てずに馬車が止まる。
 御者の手で馬車の扉が開かれると、ザァザァと勢いよく流れる水の音が聞こえた。

 菊花は、好奇心を隠しきれない表情で扉から顔を覗かせた。
 目に入ったのは色とりどりの石を組み上げたモザイク柄の噴水だ。

 地域によっては死活問題になる水が、ここでは潤沢なようである。
 色とりどりの石も、宝石みたいにキラキラして綺麗だ。
 菊花は噴水のあまりの美しさに、ここは桃源郷かしらとうっとりした。

(すごいわぁ)

 惜しげもなく水を噴き上げ続ける噴水が、菊花は物珍しくて仕方がない。
 興味津々で馬車を降りた彼女は、いそいそと噴水へ駆け寄った。

「菊花。行きますよ」

 なんでもないことのように噴水を素通りする登月が、菊花には不思議である。

(きっと、登月様にとってはこれが当たり前なのね。こんなにすてきで、こんなに不思議なものなのに。後宮って、こんなのがたくさんあるのかしら?)

 やっぱり、登月について来て良かったかもしれない。
 住み慣れたわが家を後にする時は少し寂しく──否、だいぶ感傷的な気分になったが、菊花のあふれんばかりの好奇心を満たすには、後宮(ここ)はもってこいの場所だ。

 到着して早々にこんな面白いものを見られたのだから、と菊花は嬉しそうに微笑んだ。

「ついて来なさい」

「はい!」

 菊花はいつまでも噴水を見続けていたかったが、置いていかれたら困る。
 名残惜しげに指先で水面を撫でて、慌てて登月の後を追った。

「ここは、前の皇帝陛下の後宮です」

「へぇ、ここが……」

「ええ。今は、宮女候補たちの宿舎と女大学を兼ねていますが、宮女が決まる頃には新しい後宮が完成するでしょう」

 そう言って、登月は廊下の窓から見える土埃の方を指差した。
 木々に遮られて、菊花には何も見えない。

(まぁ、私なんかが宮女になれるわけがないし。関係ないところね)

 噴水ほど興味をそそられず、菊花は止まることなく歩いた。
 登月も詳しく説明するつもりがないのか、カツカツと廊下を歩いて行く。

 右へ曲がって左へ曲がって、部屋を抜けて、今度は真っすぐ。
 複雑な道のりを、登月は迷いなく歩く。

 菊花は最初こそ道順を覚えようと頑張ってみたが、途中で諦めた。
 だって、無理だ。興味を引くものが多すぎて、とても記憶していられない。
 仕方なく、菊花は登月に置いて行かれないよう、なるべく脇目を振らないようにしながら歩いた。
 後宮というところは、とても広いらしい。
 菊花(きっか)が生まれ育った名もなき町が、丸ごと入ってしまうのではないだろうか。
 もしかしたら、それ以上かもしれない。

 かなり歩いたところで、登月はとある扉の前で止まった。

 目の前には、朱塗りの豪奢(ごうしゃ)な扉。
 登月(とうげつ)が扉を押すと、ギギギギィと音を立てて扉は開かれた。

(ここは、猛獣の檻の中かしら?)

 菊花はとっさに、そう思った。
 まるで、肉食獣の前に突き出された子豚のような気分だ。今にも食い殺されてしまいそう。

 部屋の中には、たくさんの少女たちがワラワラとひしめいていた。
 綺麗な子、かわいい子、利口そうな子……ありとあらゆる少女たちが、一堂に会している。

(うぅ、場違い感が半端ないわ)

 入室してすぐに感じた突き刺さるような視線は、菊花を認識すると次々逸らされていく。

(ゲテモノ枠だしね。張り合おうなんて気は間違っても起きないでしょうよ)

 分かってはいたけれど、少しだけやさぐれたくもなる。
 なにもそんなに露骨にしなくてもいいじゃないと思っていた菊花の後から、別の宦官が一人の少女を連れて来た。

 黒い髪に黒い目。白い肌には傷一つない。パッチリとした二重の目と長いまつ毛が印象的で、いかにも大事に育てられましたというような優しい顔立ちをした少女である。
 彼女もまた、菊花と同じように突き刺さるような視線を感じたのだろう。持っていた荷物を、(すが)るようにぎゅうっと胸に抱く。

「あーら。ちょっと、そこのあなた。こちらへいらっしゃいな」

 菊花より後に入ってきた少女は、洗礼とばかりに身分が高そうな少女のもとへ連行されて行く。
 抱えていた荷物を取り上げられた彼女は、その中に入った(かんざし)を奪われていた。

「やめてください! お願いだから、返して。それは、お祖母様の形見なの!」

 少女は目に涙を浮かべながら、簪を取り戻そうと手を伸ばす。
 しかし、意地悪な取り巻きたちがそれを許さない。取り上げられた簪は、少女の手に戻ることなく、身分が高そうな少女の髪に挿されてしまった。

「あなたみたいな田舎娘より、わたくしのような高貴な女性にこそ似合うわ。ねぇ、そうでしょう?」

「ええ、そうですわ」

(こう)家の姫君、珠瑛(しゅえい)様にこそ似合います」

「あなたのような小娘に、真珠の簪なんて勿体ないわ」

 取り巻きたちは、口々に高貴な少女──珠瑛を褒め称える。
 それを当然と頷き返している珠瑛に、菊花は虫唾が走る思いがした。

 射干玉(ぬばたま)色の目に、烏の濡れ羽色の髪。
 確かに、乳白色の真珠の簪は映えるだろう。だが、持ち主の少女だって同じ色である。

 珠瑛は、貴族というやつなのだろう。
 菊花は貴族というものを見たことがなかったが、きっと珠瑛は貴族に違いないと思った。

 だって彼女は、歩くたびにシャナリシャナリと音がしそうなのだ。
 そんなクネクネした歩き方をした人は、つい先ほど見たばかりの大路にだっていなかった。

(うわぁ……あの子には絶対関わりたくない)

 菊花がゲンナリとした顔でその一幕を眺めていると、隣で深いため息が聞こえた。
 見上げれば、菊花と同じようにゲンナリとした顔をした登月がいる。

「黄家の長女ですか。おおかた、落陽(らくよう)あたりが連れて来たのでしょう」

「こうけ? らくよう?」

「黄蘭瑛(らんえい)。重臣の一人です。それから……ほら、あそこでふんぞりがえっている女性がいるでしょう。あの方が黄家の姫君、珠瑛です。巷では、彼女が正妃になるだろうとうわさされていますが、果たしてどうなるのか」

 登月はそう言うと、ククッと意味深な笑みを浮かべた。
 まるで彼は、珠瑛が正妃になれないと知っているようにも見える。

(気のせいかしら?)

 菊花が不思議そうに見上げていると、登月はコホンと咳払いをした。
 もう、意味深な笑みは浮かんでいない。あるのは、平々凡々とした表情の乏しい顔だけである。

「落陽は、私と同じ宦官です。昔から、事あるごとに私に突っかかってくる。面倒な事にね。黄珠瑛に、落陽。この二人には近づかない方が良いですよ」

「どうしてですか?」

 もちろん近づくつもりなんてさらさらないが、どうしてなのかは気になる。
 菊花の問いかけに、登月はこう返した。

「私が菊花を推薦するからです」

「登月様が私を推薦すると、何かあるのですか?」

「私はこう見えて宦官の中でも地位が高い。宦官たちは今、月派と陽派の二派に分かれています。月派の頭は私、陽派の頭が落陽。つまり、あなたは珠瑛の対抗馬ということになりますね」

「なるほど、対抗馬……って、私がですか⁉︎」

 さらりと衝撃的なことを告げられて、菊花は素っ頓狂な声を上げた。
 途端、周囲が静まり返り、訝しげな視線が向けられる。

 菊花は体を小さくして「すみません」と呟くと、登月の背にそっと隠れた。

 登月が偉い人というのも驚きだが、それよりもっと驚きなのが、正妃になるかもしれないと言われている珠瑛の対抗馬が菊花ということである。
 自他共に認める醜女である菊花が正妃になるなんて、天地がひっくり返ったってないはずだ。

(いやいやいや、あり得ないから。対抗馬とか、うそでしょ? 登月様、賭けに出過ぎじゃない? だって私、ゲテモノ枠よ? あんな正統派美女に勝てるわけがないじゃない)

 珠瑛より勝っていることと言えば、一人で生きていけることと、触り心地最高の棉花糖体(マシュマロボディ)くらいだ。

(いやぁ、無理でしょ)

 菊花はチラリと珠瑛を見た。
 先ほどはすぐに興味を失ったように真っ先に目を逸らしたのに、なぜかネズミを追いかける猫のような意地が悪そうな目で菊花を見ている。

(え、もしかして見られている?)

 まさかね、と菊花は移動してみた。
 右へ一歩、登月の背に隠れてから、今度は左へ一歩。珠瑛の視線は、スススと菊花を追いかけて来る。

(気のせいじゃなかったぁぁぁぁ!)

 焦る菊花の隣で、登月が「ふむ」とうなる。
 そして、細いあごをひと撫でして一言。

「さっそく、敵認定されたようですね?」

 登月の無慈悲な言葉に、菊花はガクリと肩を落とした。

(訂正するわ。登月様について来たのは、間違いだったかもしれない……)
 ここは後宮。女の園。
 新たな皇帝、蛇香(じゃこう)帝の妃になるために集められた女たちが、(しの)ぎを削る魔窟である。

 それと同時に、宦官たちの戦場でもあった。
 落陽が率いる陽派、登月が率いる月派。二つの勢力が、日々にらみ合っている。

 誰が宮女として後宮に残るのか。誰が、正妃となるのか。
 それによって、宦官たちの勢力図は変わるだろう。

 落陽(らくよう)が推す妃候補は、代々重臣を務めてきた(こう)家の麗しき姫君、珠瑛(しゅえい)
 家柄、教養、美貌、何を取っても不足なしのお嬢様だ。

 対する登月(とうげつ)が推す妃候補は、名もしれぬ田舎娘。
 ()の国では珍しい金の髪に菫色の目を持つが、美人とは掛け離れた娘である。
 名は菊花(きっか)と言う。

 宮廷内では、登月の敗戦であろうとうわさされていた。
 もとより、彼には出世意欲がない。
 皇帝や寵妃たちに茶を振る舞うだけで満足という男だ。落陽と張り合わないように、わざと泥臭い田舎娘を選んだに違いないともっぱらのうわさである──らしい。

「それならそれで、構わないんですよ? 私はね。正直、自分でも宮女になれると思っていませんから。でもそれなら、こんなことをする必要がありますか? ないですよね?」

 火炙りにされた服の残骸を前にして、菊花は重くため息を吐いた。
 真っ黒に焼け焦げた、服だったもの。
 それは、菊花の亡き母が繕ってくれたものだ。菊花にとって、母の形見と言っても良い。

 両親が亡くなり、生活のためにいろいろ売り払ったけれど、これだけは必要なものだからと言い訳して売らなかった。
 それが、彼女の私服だったのだ。

 普段着二着と寝間着。たった三着しかないというのに、そのうちの二着が燃やされてしまった。
 残りの一着は着ていたおかげで無事だったが、いつまで保つやら。

 誰がやったのかは分かっている。
 実行犯は珠瑛の取り巻き三人、(しゅ)紅葉(こうよう)()氷霧(ひょうむ)(りょく)桜桃(おうとう)。首謀者はもちろん、珠瑛である。

 彼女たちの言い分は、こうだ──。

「汚れていたから、洗ってあげようと思ったのです」

「ええ。洗って、庭に干しておきました」

「しかし、あいにくのお天気でしょう? 乾かないと大変だと思って、火を()きましたの」

「これは、事故ですわ。ごめんなさいね、菊花さん」

 んなわけあるか。
 菊花はその言葉を飲み込んだ。

 代表して謝罪した珠瑛は、申し訳なさそうに眉をハの字にしているが、扇子で隠れた口元は、きっと笑っている。
 意地悪くニヤニヤとしているのが、透けて見えるようだ。

(汚れていたから洗った。これはまぁ、優しいと言えなくもない。ただ、顔見知りってだけの親しくもない人が私物を触るのはちょっと……というか、だいぶ嫌だわ。それから、洗ったから干した。これはまぁ、普通っちゃ普通。一人目と同じく触ったことに嫌悪感はあるけれど、濡れていたら干すしかないもんね。問題は、三人目よ。乾かないと大変だと思って、火を焚いた。これは、どう考えたっておかしいでしょ。普通、洗った服を乾かすのに火を焚く? 焚かないよねぇ。どんな天然だっていうのよ)

 そもそも今日は、とてもよく晴れた日である。
 しかも、ソヨソヨと気持ちの良い風も吹いていた。濡れた服が、乾かないはずがないのだ。

 まともな宦官か、もしくは月派の宦官であれば、それなりの罰を下せただろう。
 だが残念なことに、この事件を解決するために呼ばれた宦官は、陽派の筆頭、落陽であった。

(呼んだというか、待機していたというか……用意周到なことで)

 菊花は、女大学での授業を終えて、わからないところがあったので担当の宦官のもとへ行っていた。
 その間に、彼女の部屋のたんすに入っていた服は引っ張り出され、水責めに遭い、そして火炙りにされたらしい。

 部屋に戻った菊花の目に入ったのは、半開きになったたんす。
 中を見たら空っぽで、慌てて探しに外へ出てみたら、庭で焼かれていた。

 慌てて水をかけたが、もう手遅れ。
 服は、黒い塊になっていた。

 ぼうぜんとする菊花の前に現れたのが、落陽と珠瑛、そして取り巻き三人娘だったのだ。
 珠瑛たちの言い分を聞いた落陽は、鼻の下にあるひげを弄りながら、でっぷりとした腹を突き出すようにして「まぁまぁ」と笑った。

「彼女たちも善意でやったこと。菊花様とは違ってお嬢様育ち故、仕方のないことなのだ。これくらいで怒っていては、正妃になんてとてもとても」

 落陽は、菊花が田舎娘だと馬鹿にしている。自分で洗濯するような、庶民だと。
 高貴な身分である彼女たちの善意を、責めるものではないと笑っている。

 この落陽という男、実は菊花は以前にも会ったことがあった。

 菊花に「数日後に登月が来る」と予言をしていった男。
 あの時は名乗らなかったが、後宮生活二日目に菊花は知ることとなった。
 女大学で使用する教本を配られた際、登月が教えてくれたのだ。

「あの男が落陽です。珠瑛にはもう目をつけられてしまいましたが、こちらには気をつけてくださいね」

 そう言って登月がこっそり指差して教えてくれた男こそ、登月よりも早く菊花に接触し、後宮へ連れて行ってもらえると予言した男だった。

「登月様。もう、手遅れかもしれません。だってあの人、登月様よりも早く、私に会いに来ましたから」

「え?」

「登月様が来る三日前にやって来たんです。自分のお眼鏡には敵わなかったが、数日後に登月様が迎えに来ると言っていました。その通りになったから、私てっきり、神仙の類だと思っていたんですけど……あれが落陽様だったのですね」

「なるほど。おおかた、私があなたを迎えに行くことを、どこかから聞いたのでしょう。珠瑛以上の逸材ならば、私に先んじて連れて行こうとしていたのでしょうね」

「はは。残念ながら、お眼鏡には敵わなかったわけですけど」

「でもまぁ、もう目をつけられているのなら諦めるしかありませんね。菊花、先に謝っておきます。あの二人は何をしてくるか分からない。何かあったら、すぐに私を呼びなさい。いいですね?」

「はい、わかりました!」

(──そうよ。それなのにどうして私は、登月様を呼ばずに行動しちゃったのかしら!)

 火炙りにされている現場を見てすぐに登月を呼んでいれば、もう少しまともな対応がなされたものを。
 今更悔いても遅いが、そう思わざるを得ない。

「さて。誤解は解けたことですし、これで良いですかな? 服なんて、また買えば良いではないですか。そうでしょう? 菊花様」

 菊花にそんな財力がないことを知っていて、落陽はそう言う。
 意地悪な言葉に、菊花はギリリと拳を握った。

 登月がいない今、下手に言い返すのは得策ではない。
 彼に出世意欲があろうとなかろうと、菊花のせいで彼の地位を失墜させるわけにはいかないのだ。

 物言いたげににらみながら、それでも言い返すことのない菊花に、調子に乗った取り巻き三人娘が楽しげに「ほほほ」と笑う。

「あら、意地悪な落陽様」

「彼女には服を買うようなお金がありませんのよ」

「そうですわ。ほら、ご覧になって? 今着ている服も、擦り切れて今にも破れてしまいそう」

「おやめなさいな、三人とも。菊花様、ごめんなさいね。彼女たちも悪気があって言っているわけではないのよ? 素直だからつい、言ってしまっただけなの。許してちょうだいね」

 んなわけあるか。
 菊花は本日二度目のその言葉を、また飲み込んだ。

 落陽と珠瑛、それから取り巻き三人娘は、もう用は済んだとばかりに去っていく。
 事件なんてちっとも解決していない。

 首謀者と実行犯は野放しのまま。菊花の服は弁償さえしてもらえない。
 もっとも、弁償できる代物でもないのだけれど。
 幸いなことに、登月(とうげつ)に事情を話したら、すぐに寝間着と普段着を用意してもらうことができた。
 母の形見よりも随分と上等なそれらに、菊花(きっか)はオロオロと困惑する。

 だって、菊花には過ぎたものだ。
 こんな上等なもの、冠婚葬祭でだって着られない。慌てて突き返そうとする菊花に、登月は押し返しながらこう言った。

「私が推薦したせいで、あなたはそのような目に遭ったのです。これくらい、させてください。お母様の形見だったのでしょう? 守れず、申し訳ございません」

「頭を上げてください、登月様!」

 頭を下げてそう言われてしまっては、受け取るしかない。
 登月ほどの人が、田舎娘でしかない菊花に頭を下げるなんて、してはいけないことなのだ。

「では、受け取ってくれますね?」

 にっこり。
 登月の細い目がさらに細くなる。

 反論は許さない。
 そう言われているような気がして、菊花はコクコクとうなずきながら手を出した。

 改めて受け取った服は、どれも軽くて柔らかな触り心地だった。
 少し前に大路で見た、都人たちがまとっていた煌びやかな服よりも上等そうである。

(こんな服、一生かかったって私には買えそうにないわ)

 さすが後宮、と菊花はもらったばかりの服をまじまじと眺めた。
 ゆったりとした袖や(スカート)は、歩くたびにふわふわと揺れそうだ。

 透明感のある生地だから、風に吹かれて(たなび)く様はさぞ美しいに違いない。
 淡い色合いも、菊花の好みだった。似合うかどうかは別として。

(ただ、残念なことに、着るのが私っていう……)

 菊花のようなぽっちゃり体形の人は、暗い色合いのものを着る方が引き締まって見えるものだ。
 菊花の母も彼女が気にしているのを知っていたから、比較的地味な色合いのものを作ってくれていた。

「登月様」

「どうしました? もしかして、気に入りませんか?」

「いえ、とてもすてきですし、好みの色なんですけれど……これ、私に似合うでしょうか?」

 もらったばかりの服をあてて見せる。

 田舎娘には恐れ多い貴族のような服は、あてているだけで目が(くら)みそうだ。
 登月はそんな菊花と服を見比べて「似合っていると思いますよ」と笑った。

「今までの服は地味な色合いのものでしたが、あなたは全体的に淡い色合いをしていますので、こういう色味の方が女性らしくて良いかと。白状しますと、この服は私が用意したものではないのです。あなたを宮女にどうかと紹介してくださった方が、もしものためにと用意したものなので。着てあげたら喜ぶと思いますよ」

「そんな奇特な方がいらっしゃるのですか⁉︎」

「いらっしゃるのですよ。今はお教えできませんけれどね」

 一体誰ですかと聞く前に、登月は釘を刺すようにそう言った。
 途端に、菊花はションボリと肩を落とす。

「そうなんですか。その方のおかげで三食昼寝付きで勉強までできるわけだから、お礼を言いたかったんですけど……今はということは、いつかは教えてもらえるのでしょうか?」

「そうですね。時期がくれば」

 そう遠くない未来ですよ、とつぶやくように登月は言った。
 菊花を登月に推薦してくれた人が誰なのか、彼女には見当もつかない。

 だって菊花は天涯孤独の身。
 特別親しくしていた人なんて思いつかないし、あえて挙げるなら、蛇の(はく)になる。

(でも白が推薦できるわけがないし……。そもそも白とは、もう何年も会っていない。またいつか、どこかで会えたら良いのだけれど)

 白銀に金を混ぜたような神々しい鱗を思い出して、菊花は懐しむように、胸に手を当てたのだった。
 それからも、珠瑛(しゅえい)と取り巻き三人娘による嫌がらせは続いた。

 物を隠す、物を捨てる。
 そんなことは日常茶飯事だ。

(よくもまぁ、いろいろ思いつくわね)

 部屋を荒らされるのも、そろそろ日常になるかもしれない。
 残念ながら、貧乏暮らしが長い菊花は、彼女たちのように荷物が多くないので、そろそろネタ切れかもしれないけれど。

 最初こそイライラしたりモヤモヤしたりしていた菊花だが、一周回って尊敬してしまいそうになってきた。

(こんなことをする暇があるなら、少しでも勉強すれば良いのに)

 菊花は知っている。
 ここ最近、彼女たちはとある宦官に興味津々なのだ。暇さえあれば呼びつけて、無理難題を吹っかけている。

 宦官の名は、柚安(ゆあん)
 菊花と同じ金の髪を持ち、秋の空のような澄んだ青色の目をした、若い宦官である。
 ほんの少し彼の方が細身ではあるが、ぱっと見は菊花に似ていた。

 散々嫌がらせをしても、菊花に堪える様子がないからだろうか。
 菊花に似た柚安を身代わりにして、彼女たちは憂さ晴らしをしているらしい。

「ほんと、ごめんなさいね」

「いえ、これが僕の役目ですから」

 ハハハと乾いた笑みを浮かべて、柚安は重いため息を吐いた。

 丸めた背中に、哀愁が漂っている。
 菊花は慰めるように、彼の肩をポンポンとたたいた。

 実のところ、柚安は珠瑛たちに目をつけられたわけではない。
 月派に属する彼は、登月の指示で珠瑛たちに目を付けられるように自ら仕向けたのである。

 その目的は、菊花を珠瑛たちから守るため。
 彼女がより良い後宮生活を送れるようにすることが、登月の、ひいては柚安の願いなのだ。

「菊花様。最近、嫌がらせは減りましたか?」

「うん、減った。(かわや)に閉じ込められることはまだあるけど、窓から脱出できるからそこは問題なし。物がなくなる回数も、かなり減った気がする。柚安のおかげだよ、ありがとう……っていうのもおかしいかな?」

「いいえ。それなら良かったです」

 ふにゃり。
 柚安はいつも、しまりのない顔で笑う。
 まるで無邪気な子犬のようで、菊花はかわいいと毎度のように思っていた。

(癒やされるぅぅ)

 ふわん、ほわわん。
 柚安からは、()の国で言う【癒やしの風(マイナスイオン)】が出ているに違いない。
 習ったばかりの言葉を思い出して、菊花は納得したように一人うなずいた。

「ところで、菊花様。まもなく宮女候補の選別があるのはご存じですか?」

「選別? なにそれ」

「正式に宮女が決まるまで、月に数人ずつ後宮から追い出されるのです。菊花様は勉強熱心でいらっしゃるので大丈夫かと思いますが、決まり事だけは破らないように気をつけてくださいね」

 小指同士を絡ませて「約束ですよ」と指切りげんまんをしたのは、つい最近のことだった──。
「──そうよ。私はあの時、柚安と誓い合ったの。必ずや、決まり事を守り抜くと! なのに、どうして……どうして私は、落陽(らくよう)様について行ってしまったの!」

 だって、落陽が動揺していたから。
 あんな彼を見たことがなくて、ついうっかり。

 そんな言い訳、通用するわけがない。
 落陽はきっと「はて何のことやら」とシラを切るつもりだろうし、さすがの登月(とうげつ)も菊花をかばい切れまい。

「もう、おしまいだわ」

 近くで「……は?」と不機嫌な声がしたのだが、絶望に打ちひしがれる菊花は気付かなかった。

 すん。
 菊花(きっか)は、鼻を鳴らした。

 これでもう、終わりだ。
 菊花は決まり事を破った罰として、後宮を追い出されるに違いない。

 追い出されるだけならまだ良い。
 もしかしたら、皇帝以外の男と同衾(どうきん)した罪で処刑される可能性もある。
 菊花を抱き枕にしているこの男が、皇帝陛下その人であることを願うばかりだ。

「死ぬのは嫌、死ぬのは嫌ぁ」

 皇帝以外と同衾した場合、処罰は何だったか。
 庶民の浮気は罰金で済んだはずだが、相手は皇帝である。
 一族郎党、皆殺し……なんてこともあり得る。

「あ、それなら私一人だし、誰にも迷惑にならないわね。あぁ、良かった!」

「おい」

「ひゃあっ!」

 唐突に耳元でささやかれ、菊花は素っ頓狂な声を上げた。
 とっさに跳ね起きようとした体が、男の手足によって強く拘束される。

「夜明けまではまだあるだろう。もう少し、寝かせろ」

 寝心地を整えるように、男は菊花を抱き直す。
 うまくいかないのかしばらくモゾモゾとしていたが、最終的には菊花の両胸の間に頭を落ち着けた。

「なっなっなっ!」

(なんてとこに、寝ているのよぉぉぉぉ!)

 菊花の言葉にならない叫びに、男が喉を鳴らして笑う。

「良い肉だ。あたたかくて、気持ちが良い」

 またしても肉と言われて、菊花はムッとした。
 言い返そうと口を開いたが、文句を言う前に男の手が出る。

 むにゅん。
 菊花の豊かな二の腕が、男の手のひらに掴まれた。

 白くて長い指が、菊花の腕を鷲掴んでいる。
 感触を確かめるように数回揉みしだかれ、菊花は沈黙した。

「っっ!」

(うわぁぁぁん! 頑張って思い出そうとしてみたけど、こうなった理由なんてさっぱり分かんない! なんで?! どうして?! 誰か教えてよぉぉぉ!)

 長々とした回想は、意味がなかったようだ。
 とはいえ、全くの無意味というわけでもない。

 だって回想でもしていなければ、菊花は意識を保てなかった。
 目の前の男の、信じられないような美しさに、昇天しかねなかったのである。

 白銀に金を少しだけ混ぜたような色合いの、絹糸のようにサラサラとした長い髪。色が抜けてしまったように白い、滑らかな肌。林檎飴のような深紅の目は、眠そうにとろりとしている。

 眉があって目があって、鼻があって口がある。
 菊花と同じ人間であるはずなのに、どうやったらそうなるのだと不思議になるくらい、男の顔は整っている。

 もしや、今度こそ神仙の類か。
 人外であるというならば、納得の美しさである。

 抱きしめられていなかったら、手を合わせて拝みたいくらいだった。

(色だけなら、白に似ているけれど……)

 白銀に金が混ざった鱗に、真っ赤な目。
 寒い日は、菊花に絡みついて暖を取っていた。
 全身を使って菊花の腕に絡みつく姿は、今の男と似ていなくもない。

(まぁ、白は蛇で、この人は男の人なのだけれどね)

 なぜかしらと首をかしげる菊花の、空いた首筋に男が鼻先を寄せる。
 無防備な首筋辺りですぅっと呼吸されて、菊花は慌てて手で防御した。

「ぴゃぁぁぁぁ!」

「ぴゃあ、って。一体何の鳴き真似だ?」

 微かに風を感じた首筋が熱い。
 きっと、真っ赤になっているだろう。

 首だけじゃなくて、顔も真っ赤になっているかもしれない。
 だって、すごく、恥ずかしい。

「どれ。面白いからもう一度鳴かせて確かめてみるとしよう」

 そう言ってもう一度鼻を寄せようとする男に、菊花は慌てて首を竦めた。

「おい、肉。それでは匂いを嗅げないではないか」

「嗅がないでください! それと! 私には菊花という名前があるんです。肉って呼ばないでください!」

「そうか。では、菊花。私のことは香樹(こうじゅ)と呼べ」

「香樹……香樹って……え!? やっぱり、皇帝陛下なんですか?!

 菊花は勢いのまま、香樹と名乗った男を見た。
 ジッと見上げてくる真っ赤な目と視線が絡む。
 先程までのとろりとしていた目が、今はすっかり冴えてしまったのか、涼やかに菊花を見ていた。

 そうかも、と思わなかったわけじゃない。
 だが、会えるなんて思ってもみなかった。

 蛇香(じゃこう)帝、(はく)香樹。
 現皇帝であるその人が、目の前にいる。

 今すぐにでも、平伏するべきだろう。
 だって、相手は皇帝陛下だ。

 菊花如きが対面できるようなお方ではない。
 見ることさえ、おこがましいのに。

 しかし、それは叶わない。
 菊花の体は、香樹に抱き付かれたままだからだ。

 急いで視線を外す菊花に、香樹は薄い唇をへの字に曲げて、拗ねたように言った。

「む。私をなんだと思っていたのだ?」

「てっきり、落陽様の罠かと。皇帝陛下以外の男と同衾させて、その罪で私を陥れようとしているんじゃないかと思って……」

 だって、誰が予想できただろう。
 菊花を推薦してくれた登月を好敵手と認識している落陽が、わざわざ密室に呼び出して皇帝陛下と二人きりにする。
 年頃の男女が密室で一晩二人きり。何かないわけがない。

(普通に考えたら、珠瑛(しゅえい)様と二人きりにするものでしょう? 既成事実があれば、正妃確定だもの)

「ふむ。落陽にはそのような大それたまね、できまいよ」

「そうなんですか?……あ、いえ、そうなのですか?」

 今更ながらに口調を改めてくる菊花に、香樹は不満げに「む」とつぶやいた。
 だが、それも一瞬のこと。すぐさま意地悪そうに目を(すが)めた香樹は、長い指で菊花のあごをくすぐりながらニタリと笑んだ。

「言い直さなくても良い。私とおまえの仲ではないか」

 妙に色気のあるしぐさだった。指先であごを撫でられているだけ。
 それだけなのに、菊花の背筋をゾクゾクとしたものが這い上がってくる。

「いえ、そういうわけには……」

(ど、どんな仲だっていうの⁈ だって私、ただの田舎娘で、単なる宮女候補でしかなくって、たぶん宮女になんてなれないし、できるだけ長く後宮に残って可能な限り知識を得られたらそれだけで良いと思って……って違う! そうじゃなくって! 皇帝陛下と宮女候補の仲ってどういうやつなのよぉぉぉ!)

 少なくとも、「香樹」と呼んで良い仲ではないのは確かだ。
 しどろもどろで言い返す菊花に、香樹は楽しそうである。混乱して頭がしっちゃかめっちゃかになっている彼女が、見ていて面白いらしい。

「私は、菊花がいなければ死んでいたかもしれない身だ。つまり、おまえは私の恩人。畏まる必要はないから、いつもの調子で話してくれ」

「え? 私、陛下をお助けしたことなんてありませんよ?」

「いいや。散々世話になったぞ。おまえは私を(はく)と呼び、四六時中一緒にいたではないか」

「……はい?」

「というわけだから、菊花。あの時のように、私をあたためておくれ」

 知らしめるように、香樹の腕が、足が、菊花の体にまとわりついてくる。
 それはまさに、蛇に絡みつかれているようで──。

「本当に、白なの……?」

「なんなら、私しか知らない菊花の秘密を教えてやろうか?」

 耳に注がれた秘密の話。
 それは確かに、白しか知らないものだった。
 珠瑛(しゅえい)と取り巻き三人娘による嫌がらせは、柚安(ゆあん)の尊い犠牲のおかげで数こそ減ったが、完全になくなることはないようだった。

 もっとも、山に分け入って猪から逃げまわっていたようなじゃじゃ馬娘である菊花(きっか)では、(かわや)に閉じ込められたところで痛くもかゆくもない。
 ひと気がなくなったのを見計らって、あっさりと脱出していた。

 菊花がちっともへこたれないものだから、珠瑛たちはますます躍起になっていく。
 正妃候補筆頭の珠瑛が、傍目からでもわかりやすく苛めている菊花と、親しくなろうとする宮女候補はいなかった。誰もが、見て見ぬ振りを突き通す。

 だが、菊花はもともと人間の友達なんていなかったから、それも気にならなかった。

 空き時間には寄り集まってキャッキャとおしゃべりに花を咲かせる宮女候補たちを尻目に、菊花はせっせと勉強に励んだ。分からないところは積極的に質問しに行ったし、予習復習も忘れない。
 おかげで、どの教科の教官(せんせい)からも評判が良くなった。

 まだまだ珠瑛に張り合えるとは言えないが、このままいけば、家柄と美貌は無理でも教養くらいは勝てるかもしれない。
 そう思わせるものが、菊花にはあった。

 唯一、菊花が気になったことと言えば、食事に高級食材が使われていると、取り巻き三人娘がどこからともなくやって来ることだった。

「庶民のお口には合わないでしょう?」

「きっと消化不良を起こしてしまうわ」

「私たちなら食べ慣れているから、代わりに食べてあげるわね」

 大好物の鴨肉を掻っ攫われた時は、さすがに菊花もムッとした。
 口をへの字にしてにらみつけたら、「なんて卑しい方なの!」と言われたが、卑しいのはどちらだろうか。

(食べ慣れているなら、わざわざ取らなくたって良いじゃない。なんなら、分けてくれても良いのでは?)

 三度の食事を勉強の次くらいに楽しみにしている菊花にとって、これはある意味、とても効果的な仕打ちだった。

「それは……ひどいですね」

 そう言って頷いた柚安に、菊花はそうでしょうとうなずき返した。

 柚安を招いて、部屋で茶を飲む。
 二人はすっかり、茶飲み友達となっていた。

 今日あったことを語り合い、互いの手を取ってうなずき合う。

『大変だったね』

『頑張ったね』

『また明日もよろしくね』

 そうして、明日の糧にするのである。

「でしょう?」

「僕は果物が好物なのですけれど、食後にと思って取っておいたら、隣のやつに取られてしまって。それ以来、好物は最初に食べることにしています」

「そうね。私も今度は、あの人たちが来る前にさっさと食べることにするわ!」

「ええ、そうしましょう! しかし、菊花様は皇帝陛下からあたため係に任命されたのでしょう? それって、珠瑛様やその他の方より有利だと思うのです」

「でも、落陽(らくよう)様が言っていたわよ? 私が選ばれたわけじゃないって」

「悔し紛れに言っただけでは? だって、あの皇帝陛下が菊花様をご指名されているのですよ? それって、とてもすごいことだと思うのです」

 柚安の青い目が、キラキラと輝くような視線を菊花に向ける。
 まるで、憧れの人を見るような目だ。残念ながら、その視線の先に居るのは菊花なのだけれど。

「うーん……すごいっていうか……たぶん、慣れ親しんだ布団(ふとん)って意味だと思うわよ?」

 皇帝陛下のあたため係に任命されて、ふた月が経とうとしている。
 長い時で数週間、短い時で数日置きに、菊花は寝所へ呼ばれた。

 菊花が落陽のことを告げ口したせいなのかどうかは分からないが、あれ以来彼女を呼びに来るのは月派の宦官ばかりだ。
 おかげで、嫌みを言われることがないのは助かっている。

 皇帝陛下のあたため係。
 言葉だけなら、色っぽい。

 だがしかし、その実態は菊花を抱き枕にして「肉」と呼び、おなかの肉を摘まれているだけだ。
 むにゅむにゅもにゅんと遠慮なく。色気もへったくれもない。

「この肉……癒やされる」

「肉ではありません。菊花とお呼びくださいませ!」

「そうか。では言い直そう。この菊花……癒やされる」

 肉を菊花に言い換えただけ。
 あまりの扱いの雑さに、菊花は無礼にもプンスカと怒ったが、香樹はクックと喉で笑うだけだった。

 どう考えたって、菊花のことは抱き枕かペットくらいにしか思っていない。
 結婚相手だと、女だと認識していないからこそ、菊花が皇帝陛下に対する礼を欠いても何も言わないのだろう。

(これのどこが、有利っていうの?)

 正妃候補なんて、夢のまた夢である。
 もっとも、菊花にそのような夢はないけれど。

 香樹が香樹なら、菊花も菊花である。

 絶世の美女ならぬ絶世の美男子に抱きつかれてなんとも思わないわけではない。
 だが、『美人は三日で飽きる』という言葉があるように、何度も繰り返せば慣れてくる。
 しかも、香樹の正体が親友の(はく)だと早々に教えられては、意識するも何もない。

(だって、白は家族みたいなものだもの)

 絶世の美男子に抱きつかれ、腹を撫で回されて困惑したのは最初だけ。数回もされれば諦めもつき、今ではされるがままに腹を出し、抱きつかれたままグーグーと平気で眠れるようになった。

(自分の神経のずぶとさに、感服するわ)

 うんうんと一人うなずいていたら、パタパタと駆けてくる足音が聞こえてきた。
 茶を啜りながらなんだろうと思っていると、足音は菊花の部屋の前で止まる。

「あら?」

 宮女候補たちは仲の良い者同士で部屋を行き来しているようだが、菊花の部屋に来ることはまずない。
 この部屋に来るとするならば、珠瑛と取り巻き三人娘、柚安を始めとする宦官だけである。

「なにごとかしらねぇ……?」

 のんきな声を出す菊花の前で、バタンと扉が乱雑に開かれる。
 廊下に宦官が数人、息を切らせて立っていた。

「菊花様。なにとぞ、なにとぞ、お助けくださいませ!」

「えぇっ?」

 驚く菊花の前で、数人の宦官が「ははー」と平伏した。