名もなき町から馬に揺られて約一日。
巳の国の西、崔英に到着する。
そこからは手配しておいた馬車に乗るのだと、登月は言った。
崔英から宮城までは馬車で三日ほどかかるそうだ。
登月が手配した馬車は、貴族が乗るような豪奢な馬車だった。
馬車の中も外観に劣らず高級そうな造りで、菊花はどこへ座るべきだろうかと悩む。
普通に考えれば、両脇に設置されたフカフカの椅子に座るのだろうが、そんな椅子、生まれてこの方座ったことがない。
庶民な菊花は座ることさえ恐れ多く思えて、おたおたと困惑しながら後ろに居た登月を見た。
「あの」
「どうしましたか?」
「どこへ座れば良いのでしょうか?」
「はい?」
登月の反応は当然だろう。
馬車の中にはちゃんと、椅子がある。それならば、椅子に座れば良い。
だというのに、これである。
登月は菊花に分からないようにそっとため息を吐くと、彼女を追い越して馬車の中へ先に入った。
向かって右の席に腰を下ろし、どうぞと促すように向かいの席を手で示す。
「あぁ、そうですよね。椅子があるならそこに座れば良いんですよね! すみません。私ったら、つい。宦官様とご一緒することなんて初めてだから、座って良いのか焦っちゃいました」
「宦官様、はやめてくれ。登月と呼んでくれないか?」
「えっと、呼び捨ては恐れ多いので……登月様、ではいけませんか?」
「それでも良い」
「良かった。じゃあ、登月様と呼ばせていただきますね! 私はしがない田舎娘ですから、どうぞ菊花と呼んでくださいませ」
「ああ、そうしよう」
会話を終えるのを待っていたように、馬車が走り出す。
崔英には、一般市民にも移動手段として乗合馬車があるらしい。
座席はほぼなく、立って乗るのが普通のようだ。
馬車の窓に引かれた布の隙間からそっと外を眺めて、菊花は「ほぅ」だとか「へぇ」だとかひたすら声を漏らしていた。
菊花の感嘆の声が「へぇ」から「おぉ!」に変わったのは、崔英を出て一週間後のことである。
一週間かけて移動した先──そこは、巳の国の都だった。
馬車が何台も横並びで通れそうな、幅の広い道。その両端を、色とりどりの屋根の屋台がズラリと並ぶ。
さらにその奥には、見たこともないくらい大きくて、絢爛豪華という言葉がぴったりな建物が、菊花を乗せた馬車の先でそびえ立っていた。
「ここは、大路。都で一番大きな道です」
ホァァと驚きの吐息を吐く菊花に、登月はそう教えてくれた。
「おおじ!」
コクリと頷きながら、菊花は感嘆のため息を吐いた。
なにもかもが珍しい。
まず、歩いている人からして、菊花が生まれ育った町とは違った。
菊花と同じような質素な格好をする者もいるにはいるが、目を見張るような──どうやって着るのかと首をかしげたくなるような煌びやかな服をまとう者が多い。
馬車が走る合間を、人々は慣れた様子でスイスイと歩いて行く。
どの人も忙しいのか、脇目も振らずに足早である。
これが都かと、菊花はひたすら感嘆の声を漏らし続けた。
そんな中、馬車は大路をどんどん進む。
気付けば大路の奥で、見たこともないような巨大な門を通過しようとしていた。
門の先に、屋台はもうない。洗練された高級感を醸す空間は、どこか神聖ささえ漂う。
菊花は無意識に、背を正した。
それからしばらくして、カタンと大した音も立てずに馬車が止まる。
御者の手で馬車の扉が開かれると、ザァザァと勢いよく流れる水の音が聞こえた。
菊花は、好奇心を隠しきれない表情で扉から顔を覗かせた。
目に入ったのは色とりどりの石を組み上げたモザイク柄の噴水だ。
地域によっては死活問題になる水が、ここでは潤沢なようである。
色とりどりの石も、宝石みたいにキラキラして綺麗だ。
菊花は噴水のあまりの美しさに、ここは桃源郷かしらとうっとりした。
(すごいわぁ)
惜しげもなく水を噴き上げ続ける噴水が、菊花は物珍しくて仕方がない。
興味津々で馬車を降りた彼女は、いそいそと噴水へ駆け寄った。
「菊花。行きますよ」
なんでもないことのように噴水を素通りする登月が、菊花には不思議である。
(きっと、登月様にとってはこれが当たり前なのね。こんなにすてきで、こんなに不思議なものなのに。後宮って、こんなのがたくさんあるのかしら?)
やっぱり、登月について来て良かったかもしれない。
住み慣れたわが家を後にする時は少し寂しく──否、だいぶ感傷的な気分になったが、菊花のあふれんばかりの好奇心を満たすには、後宮はもってこいの場所だ。
到着して早々にこんな面白いものを見られたのだから、と菊花は嬉しそうに微笑んだ。
「ついて来なさい」
「はい!」
菊花はいつまでも噴水を見続けていたかったが、置いていかれたら困る。
名残惜しげに指先で水面を撫でて、慌てて登月の後を追った。
「ここは、前の皇帝陛下の後宮です」
「へぇ、ここが……」
「ええ。今は、宮女候補たちの宿舎と女大学を兼ねていますが、宮女が決まる頃には新しい後宮が完成するでしょう」
そう言って、登月は廊下の窓から見える土埃の方を指差した。
木々に遮られて、菊花には何も見えない。
(まぁ、私なんかが宮女になれるわけがないし。関係ないところね)
噴水ほど興味をそそられず、菊花は止まることなく歩いた。
登月も詳しく説明するつもりがないのか、カツカツと廊下を歩いて行く。
右へ曲がって左へ曲がって、部屋を抜けて、今度は真っすぐ。
複雑な道のりを、登月は迷いなく歩く。
菊花は最初こそ道順を覚えようと頑張ってみたが、途中で諦めた。
だって、無理だ。興味を引くものが多すぎて、とても記憶していられない。
仕方なく、菊花は登月に置いて行かれないよう、なるべく脇目を振らないようにしながら歩いた。
巳の国の西、崔英に到着する。
そこからは手配しておいた馬車に乗るのだと、登月は言った。
崔英から宮城までは馬車で三日ほどかかるそうだ。
登月が手配した馬車は、貴族が乗るような豪奢な馬車だった。
馬車の中も外観に劣らず高級そうな造りで、菊花はどこへ座るべきだろうかと悩む。
普通に考えれば、両脇に設置されたフカフカの椅子に座るのだろうが、そんな椅子、生まれてこの方座ったことがない。
庶民な菊花は座ることさえ恐れ多く思えて、おたおたと困惑しながら後ろに居た登月を見た。
「あの」
「どうしましたか?」
「どこへ座れば良いのでしょうか?」
「はい?」
登月の反応は当然だろう。
馬車の中にはちゃんと、椅子がある。それならば、椅子に座れば良い。
だというのに、これである。
登月は菊花に分からないようにそっとため息を吐くと、彼女を追い越して馬車の中へ先に入った。
向かって右の席に腰を下ろし、どうぞと促すように向かいの席を手で示す。
「あぁ、そうですよね。椅子があるならそこに座れば良いんですよね! すみません。私ったら、つい。宦官様とご一緒することなんて初めてだから、座って良いのか焦っちゃいました」
「宦官様、はやめてくれ。登月と呼んでくれないか?」
「えっと、呼び捨ては恐れ多いので……登月様、ではいけませんか?」
「それでも良い」
「良かった。じゃあ、登月様と呼ばせていただきますね! 私はしがない田舎娘ですから、どうぞ菊花と呼んでくださいませ」
「ああ、そうしよう」
会話を終えるのを待っていたように、馬車が走り出す。
崔英には、一般市民にも移動手段として乗合馬車があるらしい。
座席はほぼなく、立って乗るのが普通のようだ。
馬車の窓に引かれた布の隙間からそっと外を眺めて、菊花は「ほぅ」だとか「へぇ」だとかひたすら声を漏らしていた。
菊花の感嘆の声が「へぇ」から「おぉ!」に変わったのは、崔英を出て一週間後のことである。
一週間かけて移動した先──そこは、巳の国の都だった。
馬車が何台も横並びで通れそうな、幅の広い道。その両端を、色とりどりの屋根の屋台がズラリと並ぶ。
さらにその奥には、見たこともないくらい大きくて、絢爛豪華という言葉がぴったりな建物が、菊花を乗せた馬車の先でそびえ立っていた。
「ここは、大路。都で一番大きな道です」
ホァァと驚きの吐息を吐く菊花に、登月はそう教えてくれた。
「おおじ!」
コクリと頷きながら、菊花は感嘆のため息を吐いた。
なにもかもが珍しい。
まず、歩いている人からして、菊花が生まれ育った町とは違った。
菊花と同じような質素な格好をする者もいるにはいるが、目を見張るような──どうやって着るのかと首をかしげたくなるような煌びやかな服をまとう者が多い。
馬車が走る合間を、人々は慣れた様子でスイスイと歩いて行く。
どの人も忙しいのか、脇目も振らずに足早である。
これが都かと、菊花はひたすら感嘆の声を漏らし続けた。
そんな中、馬車は大路をどんどん進む。
気付けば大路の奥で、見たこともないような巨大な門を通過しようとしていた。
門の先に、屋台はもうない。洗練された高級感を醸す空間は、どこか神聖ささえ漂う。
菊花は無意識に、背を正した。
それからしばらくして、カタンと大した音も立てずに馬車が止まる。
御者の手で馬車の扉が開かれると、ザァザァと勢いよく流れる水の音が聞こえた。
菊花は、好奇心を隠しきれない表情で扉から顔を覗かせた。
目に入ったのは色とりどりの石を組み上げたモザイク柄の噴水だ。
地域によっては死活問題になる水が、ここでは潤沢なようである。
色とりどりの石も、宝石みたいにキラキラして綺麗だ。
菊花は噴水のあまりの美しさに、ここは桃源郷かしらとうっとりした。
(すごいわぁ)
惜しげもなく水を噴き上げ続ける噴水が、菊花は物珍しくて仕方がない。
興味津々で馬車を降りた彼女は、いそいそと噴水へ駆け寄った。
「菊花。行きますよ」
なんでもないことのように噴水を素通りする登月が、菊花には不思議である。
(きっと、登月様にとってはこれが当たり前なのね。こんなにすてきで、こんなに不思議なものなのに。後宮って、こんなのがたくさんあるのかしら?)
やっぱり、登月について来て良かったかもしれない。
住み慣れたわが家を後にする時は少し寂しく──否、だいぶ感傷的な気分になったが、菊花のあふれんばかりの好奇心を満たすには、後宮はもってこいの場所だ。
到着して早々にこんな面白いものを見られたのだから、と菊花は嬉しそうに微笑んだ。
「ついて来なさい」
「はい!」
菊花はいつまでも噴水を見続けていたかったが、置いていかれたら困る。
名残惜しげに指先で水面を撫でて、慌てて登月の後を追った。
「ここは、前の皇帝陛下の後宮です」
「へぇ、ここが……」
「ええ。今は、宮女候補たちの宿舎と女大学を兼ねていますが、宮女が決まる頃には新しい後宮が完成するでしょう」
そう言って、登月は廊下の窓から見える土埃の方を指差した。
木々に遮られて、菊花には何も見えない。
(まぁ、私なんかが宮女になれるわけがないし。関係ないところね)
噴水ほど興味をそそられず、菊花は止まることなく歩いた。
登月も詳しく説明するつもりがないのか、カツカツと廊下を歩いて行く。
右へ曲がって左へ曲がって、部屋を抜けて、今度は真っすぐ。
複雑な道のりを、登月は迷いなく歩く。
菊花は最初こそ道順を覚えようと頑張ってみたが、途中で諦めた。
だって、無理だ。興味を引くものが多すぎて、とても記憶していられない。
仕方なく、菊花は登月に置いて行かれないよう、なるべく脇目を振らないようにしながら歩いた。