皇帝陛下のあたため係

 夕飯を終えて自室へ戻り、今日習ったばかりの『()の国の歴史』と『歴代皇帝たちの偉業』を復習しようとしていた時だった。

「おい、おまえ。ちょっと来い」

 扉をたたかれ、男が勝手に入ってくる。
 振り返った菊花(きっか)の目に入ったのは、油で撫で付けたような髪に、残念な頭頂部。見事に育った腹が、歩く度にポヨンポヨンと揺れる。
 鼻の下のささやかなひげを大事そうに弄るその男は、宦官の落陽(らくよう)であった。

「落陽様。ですが、夕食後の外出は禁止されております」

 ここでの決まり事は多い。
 夕食後の外出禁止もその一つである。

 決まり事を破る。
 それは、ここを追い出されることを意味していた。

 菊花は、ここでの生活を気に入っている。
 三食昼寝付き。その上、無償で勉強までできる。

 こんな好待遇、どこへ行ったって見つからないだろう。
 だから、追い出されるわけにはいかないのだ。

 しかも、呼び出そうとしている落陽は、菊花のことを良く思っていない。
 機会さえあれば、菊花を出し抜き、自身が推薦する(こう)珠瑛(しゅえい)の株を上げようと必死である。

 大して優秀な部類でもない菊花が、目の敵にされるのはなぜなのか。
 それは、彼女を推薦した宦官が、落陽が好敵手と認識している登月(とうげつ)だからである。もっとも、登月には出世意欲などないので、落陽の独り相撲ではあるのだが。

「うるさい。口答えするな。いいから、とっととついて来い!」

 まるで子供のように、落陽はその場で地団駄(じだんだ)を踏む。菊花はそれを、少々哀れみがにじむ目で眺めた。

(宦官になると怒りっぽくなるとは言うけれど、それにしたって落陽様は怒り過ぎだわ。いつもカッカしているから頭頂部(てっぺん)がなくなってしまったのね)

「おい、どこを見ている」

 (スカート)がはだけてしまった女性が恥じらうように、落陽が頭を撫でる。
 言いたいことは山ほどあったが、言わぬが花だ。菊花はしれっと視線をさ迷わせながら答えた。

「外を見ておりました。真っ暗だなぁって」

「ふんっ。まあ、良い。それより、早く来い。あの方がお待ちなのだ」

「ですから、夕食後の外出は……ん? あの方、とは?」

「あの方はあの方だ。早くしないと、大変なことになる。決まり事などと言っていられない事態になるぞ」

 落陽の言っていることは、抽象的でよく分からない。

 だが、少なくとも彼が本気で焦っているのは確かなようだ。
 先程から、ひげを弄る手が止まらない。
 落陽は、不安になるとひげを弄る癖があった。

「分かりました。そのような緊急事態に私なんぞが役に立つとは思えませんが、行きましょう」

 ようやく行く気になったかと、落陽は鼻息も荒く歩き出した。その後ろを、菊花も小走りでついて行く。

(落陽様は、どこへ向かっているのかしら?)

 右へ左へ、落陽は何度も廊下を曲がる。
 記憶力には自信がある菊花だが、帰り道が怪しくなりそうだ。

(もしかして、私を迷わせようとしている?)

 もしやこの所業はイビリかと菊花が疑い出した時、落陽は止まった。
 あまりに唐突に止まったものだから、菊花は裾を踏んで転びそうになる。
 たたらを踏んでいる間にタイミング悪く落陽が扉を開けたものだから、菊花はそのまま部屋の中へ倒れ込んだ。

「いったぁ」

「これは仕方のないことで、決しておまえが選ばれたわけではない。それだけは、忘れるなよ」

「え?」

 倒れたまま振り返ると、ギリギリと口惜しそうな顔をした落陽の顔が見えなくなった。
 扉を閉められたのだ。

 ガタン、ガチャガチャガチャン!

 ご丁寧に、施錠までされる。
 菊花は閉まりきった扉を見上げ、ぼうぜんと呟いた。

「なんなのよ、もう。やっぱりイビリだったの?」

 油断した自分が悪いが、まさか閉じ込められるとは。
 菊花は諦めたようにため息を吐くと、のろのろと立ち上がった。

「油断するといつもこう。足を引っ張り合って、みにくいったらないわ。せっかく素晴らしい機会に恵まれたのに、こんなんじゃあ追い出されるのも時間の問題じゃない」

 独り言ち、菊花は再びため息を吐いた。
 だが、いくらため息を吐こうと事態が改善するわけもなく。菊花は最後にもう一度だけため息を吐くと、気を取りなおすように(スカート)を払った。

「確か、あの方が待っているって言っていたわよね。施錠したってことは、既に来ているのかしら?」

 周囲を見回すと、奥に灯りが見えた。
 灯りに誘われるように、菊花は部屋の奥へと歩いて行く。

 部屋の奥には、天蓋付きの寝台が鎮座していた。
 菊花が三人は眠れそうな大きな寝台。
 あまりの大きさに「ほぁぁ」と呆けた声を漏らしていたら、中から衣擦れの音が聞こえてきた。

「来たか」

 ボソリと呟かれた声は低く、掠れた音をしている。
 男にも女にも聞こえる声だが、どちらだろうか。

(もしかして……?)

 この人が、落陽の言っていた『あの方』だろうか。
 とはいえ、他人の寝台を勝手に暴くのは恥ずかしい。

 モジモジしていると、寝台の中から再び衣擦れの音がした。
 音は、ズリ、ズリ、と這うように近づいてくる。

「早くしろ。寒くて死にそうだ」

「……⁉︎」

 ニュッと飛び出てきた白い腕が、菊花の脇の下に入る。
 悲鳴を上げる間もなく、菊花は寝台の中へ引き摺り込まれた。

「ああ、これだ、この肉。これを待っていたのだ、私は」

「は? えっ? 肉ぅ⁈」

 素っ頓狂な声を上げる菊花に構わず、寝台の主人は彼女の体に自身の長い腕を巻き付け、それでも足りないとばかりに足を絡みつかせた。
 まるで菊花が抱き枕であるかのように、寝台の主人は隙間なく体を密着させてくる。

「ひゃっ。つ、冷たっ!」

 寝台の主人の肌は、氷のように冷たかった。人間のものとは思えない温度に、菊花の肌が粟立つ。

「どうしてこんなに冷たいのですか⁉︎」

 これじゃあ、冬眠中の蛇みたい。
 そう言った菊花に、寝台の主人は「そうか」と笑った。

「今夜は冷える。仕方がないことなのだ」

「仕方がない? でもこれじゃあ、心臓が止まってしまいます」

 人は、体温が二十度以下になると死に至ります。
 そう教えてくれたのは、(らん)先生だったか。
 温める方法までは教わっていなかったと、菊花は焦った。

「そうだ。だから、おまえを呼んだ。菊花、あたためてくれ」

「…………はい?」

 思わず見上げると、至近距離でじっと見つめられる。
 赤い目だ。眠そうにトロリとした目は、ずっと昔に一度だけ食べた、真っ赤な林檎飴のよう。

(甘そう)

 知らず、舌舐めずりをしていたらしい。
 寝台の主人の長い指が、菊花の濡れた唇を拭うように動いた。

「ひゃっ!」

 冷たい指先に、反射的に身が竦む。
 ブルリと震える菊花の熱をさらに奪うように、寝台の主人の生足が菊花の裳の隙間から侵入し、彼女の足にねっとりと絡みつく。

(お、おおおお男の人だ!?)

 身じろいだ拍子に、菊花は気がついてしまった。

 なぜ、どうして。意味が分からない。
 ここは後宮で、男の人は入れない。そう、宦官にならなければ入れないはずなのだ。

 知らない間に、後宮の外に連れ出されていたのだろうか。
 それとも、まさか……?

 思い当たる答えに、でもでもだってと自問自答する。
 後宮に入れる男の人。それも、宦官じゃない男の人。
 それはこの世でただ一人である。

「寒い。あたためてくれ」

「ふぇっ⁈」

「おまえしかいないのだ。頼む」

「うえぇぇ⁈」

 寝台の主人の手が、上衣を裳から引っ張り出して、裾から侵入してくる。
 菊花の柔らかな腹を、無遠慮に撫で回した。
 それから満足したように「ほぅ」と妙に色気のある吐息を漏らし、彼女の腹の肉を摘みながらこう言った。

「この肉……癒やされる」

(にく……肉って言ったよ、この人!)

 確かに、菊花のおなかはポヨンポヨンである。触り心地だって抜群だ。

(だけど! 肉って言わなくたって良いじゃない!)

 こう見えて、年頃の女の子なのだ。
 遠慮なく肉肉言われて、傷つかないこともない。

(事実だけれども! でも!)

 そういえば、先程も肉と言っていなかったか。
 思い出すとますます腹が立ってきた。
 プクリと頬を膨らませて、分かりやすく不満を表す菊花に、寝台の主人がククッと笑う。

()いな」

 寝台の主人の手が、楽しげに肉を──否、菊花のおなかを摘む。

「菊花。おまえを、私のあたため係に任命する。私が呼んだらやって来て、こうしてあたためよ。良いな?」

 最後の方は、まるで寝言を言っているように判然としない。
 菊花の返答を待たずして寝入ってしまった寝台の主人に、彼女は今更ながらに思った。

(どうして、こうなったの……?)

 菊花がこの度、冷たい男にあたため係を任命されるまでには、さまざまな経緯があった。
 どこから回想するのが妥当だろうか。
 それはもう、当然のことながら、彼女がここ──後宮へ来るまでのところからであろう。
「お父さん、お母さん、いってきます」

 家の隅に置かれた、祭壇とも呼べない粗末な棚の上に置かれた小さな置物に、少女は手を合わせた。
 軽くうつむき礼をすると、少女の額にハラリと金の髪が一筋かかる。

 明るい金の髪は、この国ではとても珍しい。
 生前の両親から口酸っぱく「隠すように」と言われていた彼女は、今日も布を被って家を出た。

 ()の国の西、崔英(さいえい)の田舎にある、名もなき町。その町の外れに、少女ーー菊花の家はある。
 一年前に両親が流行病で相次いで亡くなって以来、彼女は一人でその家に住んでいた。

 竹でできた家は、ほどほどに強く、ほどほどにボロい。冬は隙間風で寒いが、夏は心地よい風が入ってきて気持ちが良い。
 難点は多いし、菊花独りで住むには広すぎる家だけれど、両親との思い出が詰まったこの家を、離れる気はなかった。

 砂利さえない獣道のようなあぜ道を黙々と三十分ほど歩くと、町に出る。
 菊花はそこで、山で採った山菜や薬草を売って生計を立てていた。

 その日も、いつものようになじみの店で山菜と薬草を買い取ってもらい、もらったお金で食べ物を買い込んだ。
 いつもより少しだけ多くもらったお金だが、あっという間に消えていく。

(でも、良いの。今日は奮発して、鴨肉が買えたから!)

 裕福な暮らしではないが、少しのぜいたくは良いだろう。
 背負ったかごの重みにニヤニヤとしながら帰路につこうとしていた菊花は、町の中央にある広場が騒々しいことに気がついた。

「今日はお祭りでもあるのかしら?」

 一人つぶやいた言葉に、近くに居た乾物屋の店主が「違うよ」と笑った。

「宮女狩りさ。先月、蛇晶(じゃしょう)帝が崩御されただろう? それで、後宮が解散したんだ。今度は新しい皇帝陛下の後宮を作るってンで、宮女を募集しているのさ」

 店主が指差した先、広場の中央には高札が立てられている。
 学のない菊花には何て書いてあるのかさっぱりだ。ただグニャグニャと線が書いてあるだけにしか見えない。
 菊花に分かる文字といえば、『菊花』と『慧生』と『梨花』だけだった。

「おじさん、宮女って皇帝陛下のお嫁さんのことよね?」

「ああ、そうだ。国で一番偉いお方の妻だ。といっても、一人じゃねェけどな」

 店主が言うことが本当なら、高札には宮女狩りについて書かれているのだろう。

 高札の周りに居る者の反応はさまざまだ。
 ある者は「やってやるわ」と拳を握り、またある者は顔を青ざめてブルブルと震えている。

 女の側で崩れている男には、一体何があったというのだろう。
 もしかしたら、皇帝の妃になるつもりの女に捨てられたのかもしれない。菊花は「どんまい」と手を合わせた。

「一体、どんな美女が選ばれるのかねェ。きっと、目も(くら)むような女に違いねェ」

「へぇ、そうなの」

 菊花はそう言って、背負っていたかごをよっこいしょと背負い直した。

 今日は鴨鍋にしようか。
 焼いて塩をつけたのも捨てがたい。

(私には関係のないことだわ)

 だって、菊花は美女とは正反対の女である。
 この国において美女とは、射干玉(ぬばたま)色の目に烏の濡れ羽色をした髪、それから抜けるような白い肌をしていて、体がほっそりとした女性なのである。

 菊花は白い肌だけは該当しているが、それ以外はかすりもしない。
 明るい金の髪に菫のような紫色の目、それからもっちりとした、焼いて膨れた餅のような体形。()の国では、菊花のような体形を棉花糖体(マシュマロボディ)というらしいが、果たしてそれは褒め言葉なのだろうか。

 早々に見切りをつけて今晩のごはんに思いをはせる菊花に、通りすがりのおばさんが「いやだよォ」と笑う。

「あんた、関係ないって顔しているけどね。十六歳以上二十五歳未満の未婚女性はみぃんな宦官の登月様の面接を受けなきゃいけないんだよ。見たところ、あんたも対象じゃないか。羨ましいねぇ。見事宮女に選ばれりゃあ、三食昼寝付きの至れり尽くせりさァ。あたしもあと十歳若ければねぇ。こんな男と結婚しなくて済んだのに」

 そう言って、おばさんは隣でたたずんでいた線の細いおじさんの背を、遠慮なしにバンバンたたいた。かわいそうなおじさんは、おばさんにされるがままで、助けてくれと(すが)るような視線を菊花に向けてくる。

「あの、おばさん? おじさんが苦しそうだけれど、大丈夫?」

「ん? 大丈夫よォ。これくらいで倒れるような柔な男、旦那になんてするもんか!」

 おばさんはますます強気で、夫であるおじさんの背をバンバンたたく。
 ゲホゲホと咳き込んでいるけれど大丈夫かしらと思っていたら、乾物屋の店主が助け舟を出した。

「奥さん。今日の夕飯はもうお決まりかい? もしまだ決まっていないってンなら、これなんてどうだい?」

「あら、見たことない乾物だけど、これなんだい?」

「珍しい、海の生き物の干物さ。烏賊(いか)っていうンだけどな、これが炙るとうまいのよ」

 茶色の薄い干物からは、何やら美味しそうな匂いがする。
 思わず「買います」と身を乗り出そうとした菊花だったが、握りしめていたお金では買えそうにないことを思い出した。

(いつまでも見ていてはお店に迷惑ね。次は、あれを買うことを目標にしましょう)

 炙って焼いたら美味しいと言っていた、烏賊という名前の海の生き物の干物。
 菊花の唇がジュルリと動いて、喉がゴクンと鳴る。

(あぁ、でも……干した魚を酒で戻して、それから焼いても美味しいのよね。烏賊も同じ方法で美味しくなるかもしれないわ)

 そうと決まれば、次は酒も買わなければ。
 早々に切り替えた菊花は、かごを背負っていそいそと町を出て行った。
「……あれ?」

 ボロ家とまではいかないがすてきな家とも言い難いわが家。
 その前に見慣れないものを見つけて、菊花(きっか)は首をかしげた。

 いつものように食費を稼ぐために山へ分け入り、帰ってきたところだった。
 そんな彼女はかごを背負ったまま、服はドロドロのひどいありさまである。どこかで転んだのか、あごのあたりにも泥がついていた。

「どうして馬車がこんな場所に?」

 馬車なんて、貴族が乗るものである。
 平民である菊花はもちろん、今は亡き両親だって縁があったとは思えない。
 こんな田舎の、さらに町外れにある菊花の家の前に停まっているなんて、おかしな話だ。

(道に迷ったのかしら?)

 この辺りまで馬車で来るのは、さぞ大変だっただろう。
 道は整備されていないし、菊花の家は山のそばにあるのだから。
 馬にとっては、迷惑な話である。

(山を越えてきたのか、これから越えるのか……どちらにしても、馬からしてみれば地獄のような仕打ちね)

 菊花は背負っていたかごを下ろすと、畑の隅に転がっていた桶に水を汲み、どこか疲れた顔をしている馬たちに水を与えた。
 馬たちにつけられた装飾品は、それなりに上等なものだ。その後ろにつながれた、馬車もしかり。

「貴族ってまではいかないけれど、それなりに裕福そうな馬車ねぇ」

 商売に成功した商人あたりが乗っていそうな馬車だ。
 こんな田舎でも、それくらいなら見たことはある。

 もっとも、貴族の馬車なんて菊花は見たこともなかったから、あくまで彼女の独断と偏見による感想でしかない。
 貴族といえば、皇帝陛下より偉くはないけれど雲の上のお人なのだから、目も(くら)むような豪華な馬車に乗っているに違いないと、思ったことがポロリと口から滑り出ただけである。

「おい」

 馬車を見上げていたら、不機嫌そうな声がして、窓から男が顔を出した。
 その瞬間、眩しい光が菊花の目に降り注ぐ。
 慌てて目を背けていると、一人の男が馬車からえっちらおっちら降りてきた。

 ふくよかな体形をした男だ。
 髪の両脇は油のようなもので塗り固められていて、てっぺんである頭頂部はビカビカと日の光を反射させている。

(眩しかったのは、これのせいね)

 脂ぎった頭頂部は、鏡のようになるらしい。
 初めて知った知識を、菊花はこっそり心の手帳に書き記した。

 菊花は、いろいろなことを知るのが大好きだ。
 貴族ではないために学校へは行けないが、新しいことを知るたびに心の手帳に書き込むことにしている。
 本当は紙に書いておきたいのだが、残念なことに家計の問題で難しいのだ。

 新しい知識に上機嫌になっていると、男が菊花の方へ歩み寄ってきた。
 でっぷりとした腹は、歩くたびにタプタプ揺れる。

(走る時、大変なのよねぇ)

 菊花の場合は、腹より胸の方がよく揺れる。
 走るとボヨンボヨンして、非常に走りにくいのだ。今日だって、山で遭遇した瓜坊に追いかけられて大変だった。

(美味しそう、って言ったのがまずかったのかしら?)

 しかし、本当に美味しそうに見えたのだ。
 猪の肉は、ごちそうである。

「おまえ、名は?」

 男の目が、いやらしげに濁る。
 猪の肉に思いをはせる菊花は、男の値踏みするような露骨な視線に気付かない。

「おい。聞いているのか?」

「へっ?! あぁ、すみません。菊花と申しますです」

 男の苛立たしげな声に、菊花は慌てて答えた。

「ふむ。声は悪くないな」

 首と一体化したような丸い顎を撫でながら、男は満足げに頷く。
 その視線は相変わらず、ねっとりと菊花を捉えたままだ。
 男は鼻の下に申し訳程度に生えたひげを撫でつけながら、ゆったりと菊花の周りを一周した。

(この人は、一体何をしているのかしら?)

「あのぅ……?」

 問いかけて背後を見れば、男は前を向けと言わんばかりにシッシッと手を振る。

(私、犬じゃないのだけれど!)

 これには菊花も腹が立ったようで、ムスリと顔をしかめた。
 唇を尖らせて、男のお望み通りに前をにらみつける。

「ふぅむ。登月(とうげつ)が目をかけていると聞いたからここまでやってきたが……無駄骨だったな。白い肌は合格だが、それ以外はまるでなっておらん。まぁ、それで良い。私は私で選んだ女を連れて行けば良いだけのこと。このような醜女であれば、早々に脱落するに違いない。とうとう登月にやり返す機会がやってきたぞ」

 菊花のことを犬くらいにしか思っていない男は、彼女の背後でそのように独白していた。

 菊花に学はない。
 だが、常日頃から心の手帳を書き込む習慣があるせいか、記憶力だけは秀でていた。
 そのため、男の何気ないこの独白も、彼女はしっかりと記憶していた。

 そうとも知らず、男はグフグフと変な声を上げながら笑う。

(豚みたいな笑い方ねぇ)

 菊花が失礼なことを考えているとも知らず、男は再びニンマリと気持ちが悪い笑みを浮かべた。
 なんだか背中がゾゾゾとする。菊花は、迫り上がる悪寒に体を震わせた。

「さて、菊花とやら。残念ながら、おまえは私のお眼鏡には適わなかった。だが、諦めることはない。これより数日後、宦官の登月という男がやって来る。その男は、おまえのことを後宮へ連れて行ってくれるだろう。せいぜい、都の素晴らしい光景を目に焼き付けて、すごすごと帰郷するが良い。ではな」

 いかにも悪党というような高らかな笑い声を上げながら、男はえっちらおっちらと馬車に乗り込む。
 言いたいことを言い終えたのか、男の顔は満足げである。

 重たい体は自力で馬車に乗り込むこともできないようで、御者が必死の形相で男を押し上げる。
 ようやく男の体が馬車の中に入ると、車体がギィギィと悲鳴を上げた。

(馬車って、どれくらいの重さなら耐えられるのかしら?)

 ギィギィと悲鳴を上げているあたり、男の体重は許容範囲を超えているのだろう。

(貴族だったらなぁ。こんな計算も、ちょちょいのちょいってできちゃうんだろうなぁ。いいなぁ、貴族。せめてこの人くらい稼げたら、少しくらい学校に潜り込めたりしないかしら?)

 ギッコギッコと音を立てながら、馬車が動き出す。
 菊花はそれを羨ましそうに、見えなくなるまで見つめていた。
 謎の男の予言は、どうやら本当だったらしい。
 それなりに良い馬車に乗ったあの男は、気まぐれに下界へ降りてきた神仙(かみさま)だったのかと、菊花(きっか)は無礼な態度を取った自分を恥じた。

 男の予言を聞いてから三日後、家の前の畑で草むしりに精を出していた菊花の前に、一頭の馬が止まった。

 馬のいななきと、それをいさめる「どうどう」という声。
 何事だと慌てて立ち上がると、馬上の男と目が合った。

 ぞんざいに結い上げられた黒く艶やかな髪が、春風に(たなび)く。
 どこからか飛んできた花弁が、男の髪を彩るようにひとひら絡まった。

 まるで絵巻物のような情景に、その顔の造形に期待が高まる。
 だが残念なことに、菊花と目が合ったその男の顔は、至って平々凡々とした、特筆すべき点もない普通の顔だった。黒い髪に黒い目。()の国では一般的な容姿である。

 馬を落ち着かせた男は、菊花を見下ろしてこう言った。

「私は宦官の登月(とうげつ)である。菊花殿で、お間違いないか?」

 登月と名乗った男の丁寧な物言いに、菊花は驚いた。

 宦官といえば、選良(エリート)である。
 特に自ら志願して男の証を切除した宦官は、皇帝や寵妃たちの側近として重用されるらしい。
 目の前にいる宦官が自ら志願したのかそうでないのかは定かではないが、どちらにしても選良であることに変わりはない。

 そんな宦官が、ただの田舎娘でしかない菊花に偉ぶるそぶりもみせない。
 偉い人は偉そうに振る舞うものだと思っていた菊花にとって、登月の態度は異質にも思えた。

「へいっ」

 返答しようと開いた口から、おかしな声が出る。
 だが、それも仕方がないことだ。だって菊花は、驚いていたのだから。

 しかし、登月は菊花のおかしな声を聞いても、表情一つ変えずに「そうか」と頷いただけだった。

蛇香(じゃこう)帝が宮女を募集している旨は、既に知っているか?」

「はい、知っております」

「私は其方を推薦するつもりで来た。もしもついて来てくれるのならば、今よりももっと良い生活を約束しよう」

「今よりも、もっと……?」

「そうだ。まず、三食出る」

 登月はそう言うと、指を三本立てた。朝食、昼食、夕食という意味だろう。

「三食……」

 働かなくても食べられる。
 これは、菊花にとってかなり魅力的だ。狼や猪が出る山に、分け入らなくても良くなる。
 引き寄せられるように、登月の方へ一歩足が出た。

「その上、昼寝つき」

「昼寝つき……!」

 なんということか。ご飯がある上に、昼寝までついてくる。
 宮女ってなんてすてきなのだろうと、菊花の心がグラングラン揺れた。
 そしてまた一歩、登月の方へ足が進む。

「さらに、宮女候補だけが入学できる女大学で、好きなだけ勉強ができる」

 好きなだけ勉強ができる。
 これは、三食昼寝つきよりも魅力的だ。

(こ、これほどまでに魅力的なお誘いがあるでしょうか……答えは、否! あるわけがありませんっ!)

 菊花の足がまた一歩、登月の方へ向かう。
 あと一歩前へ進めば、登月が乗る馬に触れることができるだろう。
 だが、彼女には一つだけ、不安なことがあった。

「あの……」

「なんだ?」

「それは、分割払いが可能でしょうか?」

 三食昼寝つきで勉強までさせてもらえる。
 しかもこんな、田舎娘が。

 美人だったらまだ良い。
 皇帝陛下のお嫁さんになれる可能性は十分にある。

 だけれど、菊花はお世辞にも美人とは言えないし、むしろ真逆だと自信を持って言える。
 宮女になれるのが一体何人かは知らないが、少なくとも菊花のような者が皇帝のお手つきになることはまずないだろう。

(金の髪に菫みたいな色をした目。その上、棉花糖体(マシュマロボディ)……どう考えたって、皇帝陛下の好みじゃないはず。つまり、これは……賄賂を渡して便宜を図るっていうお誘いね!)

 そう思ったからこそのせりふだったが、言われた登月は何を言っているのだという顔で菊花を見下ろした。

(あら、何か違った?)

 首をかしげる菊花に、登月はハァとため息を吐いた。

「学費も食費も必要ない。後宮には後宮の予算があるから、安心して来ると良い」

 今度は菊花が、何を言っているのだという顔をする番だった。

(どうやら私は、大きな勘違いをしていたみたい?)

 賄賂のつもりで聞いたのに、学費や食費の心配をしていると思われたらしい。
 それはつまり、登月は本気で、菊花を宮女候補として──つまり、皇帝陛下の嫁になる資格がある女として彼女を迎えに来たということだ。

「そう、ですか……」

 これには菊花も驚いた。

(もしや、蛇香帝はゲテモノがお好き……?)

 そういえば、お金持ちは『燕の巣』とか『鹿の陰茎』とか、菊花が食べようとも思わないものを食べると聞いたことがある。
 もしかしたら菊花は、そういう枠で推薦されるのかもしれない。

(でも、これはチャンスよ? 食費も学費も無料で、その上昼寝つき。宮女になれるかは別として、貴族でもないのに勉強できるのは、これしかないんじゃない?)

「……なら、逃す手はないわよね」

「来るか?」

「はい! 行かせて頂きます!」

 元気良く返事をした菊花に、登月はホッと息を吐いた。
 来てくれなかったらどうしようと、内心思っていたからだ。

 宦官、登月。
 彼は、蛇香帝お気に入りの宦官である。

 出世意欲なんてまるでないのに、彼に気に入られたせいでいつの間にか偉くなっていた。
 気に入られた理由はただ一つ──彼は、誰よりも茶を淹れることがうまかったのである。
 名もなき町から馬に揺られて約一日。
 ()の国の西、崔英(さいえい)に到着する。

 そこからは手配しておいた馬車に乗るのだと、登月(とうげつ)は言った。
 崔英から宮城(きゅうじょう)までは馬車で三日ほどかかるそうだ。

 登月が手配した馬車は、貴族が乗るような豪奢(ごうしゃ)な馬車だった。
 馬車の中も外観に劣らず高級そうな造りで、菊花(きっか)はどこへ座るべきだろうかと悩む。

 普通に考えれば、両脇に設置されたフカフカの椅子に座るのだろうが、そんな椅子、生まれてこの方座ったことがない。
 庶民な菊花は座ることさえ恐れ多く思えて、おたおたと困惑しながら後ろに居た登月を見た。

「あの」

「どうしましたか?」

「どこへ座れば良いのでしょうか?」

「はい?」

 登月の反応は当然だろう。
 馬車の中にはちゃんと、椅子がある。それならば、椅子に座れば良い。
 だというのに、これである。

 登月は菊花に分からないようにそっとため息を吐くと、彼女を追い越して馬車の中へ先に入った。
 向かって右の席に腰を下ろし、どうぞと促すように向かいの席を手で示す。

「あぁ、そうですよね。椅子があるならそこに座れば良いんですよね! すみません。私ったら、つい。宦官様とご一緒することなんて初めてだから、座って良いのか焦っちゃいました」

「宦官様、はやめてくれ。登月と呼んでくれないか?」

「えっと、呼び捨ては恐れ多いので……登月様、ではいけませんか?」

「それでも良い」

「良かった。じゃあ、登月様と呼ばせていただきますね! 私はしがない田舎娘ですから、どうぞ菊花と呼んでくださいませ」

「ああ、そうしよう」

 会話を終えるのを待っていたように、馬車が走り出す。
 崔英には、一般市民にも移動手段として乗合馬車があるらしい。
 座席はほぼなく、立って乗るのが普通のようだ。

 馬車の窓に引かれた布の隙間からそっと外を眺めて、菊花は「ほぅ」だとか「へぇ」だとかひたすら声を漏らしていた。
 菊花の感嘆の声が「へぇ」から「おぉ!」に変わったのは、崔英を出て一週間後のことである。

 一週間かけて移動した先──そこは、巳の国の都だった。

 馬車が何台も横並びで通れそうな、幅の広い道。その両端を、色とりどりの屋根の屋台がズラリと並ぶ。
 さらにその奥には、見たこともないくらい大きくて、絢爛豪華(けんらんごうか)という言葉がぴったりな建物が、菊花を乗せた馬車の先でそびえ立っていた。

「ここは、大路。都で一番大きな道です」

 ホァァと驚きの吐息を吐く菊花に、登月はそう教えてくれた。

「おおじ!」

 コクリと頷きながら、菊花は感嘆のため息を吐いた。

 なにもかもが珍しい。
 まず、歩いている人からして、菊花が生まれ育った町とは違った。

 菊花と同じような質素な格好をする者もいるにはいるが、目を見張るような──どうやって着るのかと首をかしげたくなるような煌びやかな服をまとう者が多い。

 馬車が走る合間を、人々は慣れた様子でスイスイと歩いて行く。
 どの人も忙しいのか、脇目も振らずに足早である。

 これが都かと、菊花はひたすら感嘆の声を漏らし続けた。
 そんな中、馬車は大路をどんどん進む。

 気付けば大路の奥で、見たこともないような巨大な門を通過しようとしていた。
 門の先に、屋台はもうない。洗練された高級感を醸す空間は、どこか神聖ささえ漂う。
 菊花は無意識に、背を正した。

 それからしばらくして、カタンと大した音も立てずに馬車が止まる。
 御者の手で馬車の扉が開かれると、ザァザァと勢いよく流れる水の音が聞こえた。

 菊花は、好奇心を隠しきれない表情で扉から顔を覗かせた。
 目に入ったのは色とりどりの石を組み上げたモザイク柄の噴水だ。

 地域によっては死活問題になる水が、ここでは潤沢なようである。
 色とりどりの石も、宝石みたいにキラキラして綺麗だ。
 菊花は噴水のあまりの美しさに、ここは桃源郷かしらとうっとりした。

(すごいわぁ)

 惜しげもなく水を噴き上げ続ける噴水が、菊花は物珍しくて仕方がない。
 興味津々で馬車を降りた彼女は、いそいそと噴水へ駆け寄った。

「菊花。行きますよ」

 なんでもないことのように噴水を素通りする登月が、菊花には不思議である。

(きっと、登月様にとってはこれが当たり前なのね。こんなにすてきで、こんなに不思議なものなのに。後宮って、こんなのがたくさんあるのかしら?)

 やっぱり、登月について来て良かったかもしれない。
 住み慣れたわが家を後にする時は少し寂しく──否、だいぶ感傷的な気分になったが、菊花のあふれんばかりの好奇心を満たすには、後宮(ここ)はもってこいの場所だ。

 到着して早々にこんな面白いものを見られたのだから、と菊花は嬉しそうに微笑んだ。

「ついて来なさい」

「はい!」

 菊花はいつまでも噴水を見続けていたかったが、置いていかれたら困る。
 名残惜しげに指先で水面を撫でて、慌てて登月の後を追った。

「ここは、前の皇帝陛下の後宮です」

「へぇ、ここが……」

「ええ。今は、宮女候補たちの宿舎と女大学を兼ねていますが、宮女が決まる頃には新しい後宮が完成するでしょう」

 そう言って、登月は廊下の窓から見える土埃の方を指差した。
 木々に遮られて、菊花には何も見えない。

(まぁ、私なんかが宮女になれるわけがないし。関係ないところね)

 噴水ほど興味をそそられず、菊花は止まることなく歩いた。
 登月も詳しく説明するつもりがないのか、カツカツと廊下を歩いて行く。

 右へ曲がって左へ曲がって、部屋を抜けて、今度は真っすぐ。
 複雑な道のりを、登月は迷いなく歩く。

 菊花は最初こそ道順を覚えようと頑張ってみたが、途中で諦めた。
 だって、無理だ。興味を引くものが多すぎて、とても記憶していられない。
 仕方なく、菊花は登月に置いて行かれないよう、なるべく脇目を振らないようにしながら歩いた。
 後宮というところは、とても広いらしい。
 菊花(きっか)が生まれ育った名もなき町が、丸ごと入ってしまうのではないだろうか。
 もしかしたら、それ以上かもしれない。

 かなり歩いたところで、登月はとある扉の前で止まった。

 目の前には、朱塗りの豪奢(ごうしゃ)な扉。
 登月(とうげつ)が扉を押すと、ギギギギィと音を立てて扉は開かれた。

(ここは、猛獣の檻の中かしら?)

 菊花はとっさに、そう思った。
 まるで、肉食獣の前に突き出された子豚のような気分だ。今にも食い殺されてしまいそう。

 部屋の中には、たくさんの少女たちがワラワラとひしめいていた。
 綺麗な子、かわいい子、利口そうな子……ありとあらゆる少女たちが、一堂に会している。

(うぅ、場違い感が半端ないわ)

 入室してすぐに感じた突き刺さるような視線は、菊花を認識すると次々逸らされていく。

(ゲテモノ枠だしね。張り合おうなんて気は間違っても起きないでしょうよ)

 分かってはいたけれど、少しだけやさぐれたくもなる。
 なにもそんなに露骨にしなくてもいいじゃないと思っていた菊花の後から、別の宦官が一人の少女を連れて来た。

 黒い髪に黒い目。白い肌には傷一つない。パッチリとした二重の目と長いまつ毛が印象的で、いかにも大事に育てられましたというような優しい顔立ちをした少女である。
 彼女もまた、菊花と同じように突き刺さるような視線を感じたのだろう。持っていた荷物を、(すが)るようにぎゅうっと胸に抱く。

「あーら。ちょっと、そこのあなた。こちらへいらっしゃいな」

 菊花より後に入ってきた少女は、洗礼とばかりに身分が高そうな少女のもとへ連行されて行く。
 抱えていた荷物を取り上げられた彼女は、その中に入った(かんざし)を奪われていた。

「やめてください! お願いだから、返して。それは、お祖母様の形見なの!」

 少女は目に涙を浮かべながら、簪を取り戻そうと手を伸ばす。
 しかし、意地悪な取り巻きたちがそれを許さない。取り上げられた簪は、少女の手に戻ることなく、身分が高そうな少女の髪に挿されてしまった。

「あなたみたいな田舎娘より、わたくしのような高貴な女性にこそ似合うわ。ねぇ、そうでしょう?」

「ええ、そうですわ」

(こう)家の姫君、珠瑛(しゅえい)様にこそ似合います」

「あなたのような小娘に、真珠の簪なんて勿体ないわ」

 取り巻きたちは、口々に高貴な少女──珠瑛を褒め称える。
 それを当然と頷き返している珠瑛に、菊花は虫唾が走る思いがした。

 射干玉(ぬばたま)色の目に、烏の濡れ羽色の髪。
 確かに、乳白色の真珠の簪は映えるだろう。だが、持ち主の少女だって同じ色である。

 珠瑛は、貴族というやつなのだろう。
 菊花は貴族というものを見たことがなかったが、きっと珠瑛は貴族に違いないと思った。

 だって彼女は、歩くたびにシャナリシャナリと音がしそうなのだ。
 そんなクネクネした歩き方をした人は、つい先ほど見たばかりの大路にだっていなかった。

(うわぁ……あの子には絶対関わりたくない)

 菊花がゲンナリとした顔でその一幕を眺めていると、隣で深いため息が聞こえた。
 見上げれば、菊花と同じようにゲンナリとした顔をした登月がいる。

「黄家の長女ですか。おおかた、落陽(らくよう)あたりが連れて来たのでしょう」

「こうけ? らくよう?」

「黄蘭瑛(らんえい)。重臣の一人です。それから……ほら、あそこでふんぞりがえっている女性がいるでしょう。あの方が黄家の姫君、珠瑛です。巷では、彼女が正妃になるだろうとうわさされていますが、果たしてどうなるのか」

 登月はそう言うと、ククッと意味深な笑みを浮かべた。
 まるで彼は、珠瑛が正妃になれないと知っているようにも見える。

(気のせいかしら?)

 菊花が不思議そうに見上げていると、登月はコホンと咳払いをした。
 もう、意味深な笑みは浮かんでいない。あるのは、平々凡々とした表情の乏しい顔だけである。

「落陽は、私と同じ宦官です。昔から、事あるごとに私に突っかかってくる。面倒な事にね。黄珠瑛に、落陽。この二人には近づかない方が良いですよ」

「どうしてですか?」

 もちろん近づくつもりなんてさらさらないが、どうしてなのかは気になる。
 菊花の問いかけに、登月はこう返した。

「私が菊花を推薦するからです」

「登月様が私を推薦すると、何かあるのですか?」

「私はこう見えて宦官の中でも地位が高い。宦官たちは今、月派と陽派の二派に分かれています。月派の頭は私、陽派の頭が落陽。つまり、あなたは珠瑛の対抗馬ということになりますね」

「なるほど、対抗馬……って、私がですか⁉︎」

 さらりと衝撃的なことを告げられて、菊花は素っ頓狂な声を上げた。
 途端、周囲が静まり返り、訝しげな視線が向けられる。

 菊花は体を小さくして「すみません」と呟くと、登月の背にそっと隠れた。

 登月が偉い人というのも驚きだが、それよりもっと驚きなのが、正妃になるかもしれないと言われている珠瑛の対抗馬が菊花ということである。
 自他共に認める醜女である菊花が正妃になるなんて、天地がひっくり返ったってないはずだ。

(いやいやいや、あり得ないから。対抗馬とか、うそでしょ? 登月様、賭けに出過ぎじゃない? だって私、ゲテモノ枠よ? あんな正統派美女に勝てるわけがないじゃない)

 珠瑛より勝っていることと言えば、一人で生きていけることと、触り心地最高の棉花糖体(マシュマロボディ)くらいだ。

(いやぁ、無理でしょ)

 菊花はチラリと珠瑛を見た。
 先ほどはすぐに興味を失ったように真っ先に目を逸らしたのに、なぜかネズミを追いかける猫のような意地が悪そうな目で菊花を見ている。

(え、もしかして見られている?)

 まさかね、と菊花は移動してみた。
 右へ一歩、登月の背に隠れてから、今度は左へ一歩。珠瑛の視線は、スススと菊花を追いかけて来る。

(気のせいじゃなかったぁぁぁぁ!)

 焦る菊花の隣で、登月が「ふむ」とうなる。
 そして、細いあごをひと撫でして一言。

「さっそく、敵認定されたようですね?」

 登月の無慈悲な言葉に、菊花はガクリと肩を落とした。

(訂正するわ。登月様について来たのは、間違いだったかもしれない……)
 ここは後宮。女の園。
 新たな皇帝、蛇香(じゃこう)帝の妃になるために集められた女たちが、(しの)ぎを削る魔窟である。

 それと同時に、宦官たちの戦場でもあった。
 落陽が率いる陽派、登月が率いる月派。二つの勢力が、日々にらみ合っている。

 誰が宮女として後宮に残るのか。誰が、正妃となるのか。
 それによって、宦官たちの勢力図は変わるだろう。

 落陽(らくよう)が推す妃候補は、代々重臣を務めてきた(こう)家の麗しき姫君、珠瑛(しゅえい)
 家柄、教養、美貌、何を取っても不足なしのお嬢様だ。

 対する登月(とうげつ)が推す妃候補は、名もしれぬ田舎娘。
 ()の国では珍しい金の髪に菫色の目を持つが、美人とは掛け離れた娘である。
 名は菊花(きっか)と言う。

 宮廷内では、登月の敗戦であろうとうわさされていた。
 もとより、彼には出世意欲がない。
 皇帝や寵妃たちに茶を振る舞うだけで満足という男だ。落陽と張り合わないように、わざと泥臭い田舎娘を選んだに違いないともっぱらのうわさである──らしい。

「それならそれで、構わないんですよ? 私はね。正直、自分でも宮女になれると思っていませんから。でもそれなら、こんなことをする必要がありますか? ないですよね?」

 火炙りにされた服の残骸を前にして、菊花は重くため息を吐いた。
 真っ黒に焼け焦げた、服だったもの。
 それは、菊花の亡き母が繕ってくれたものだ。菊花にとって、母の形見と言っても良い。

 両親が亡くなり、生活のためにいろいろ売り払ったけれど、これだけは必要なものだからと言い訳して売らなかった。
 それが、彼女の私服だったのだ。

 普段着二着と寝間着。たった三着しかないというのに、そのうちの二着が燃やされてしまった。
 残りの一着は着ていたおかげで無事だったが、いつまで保つやら。

 誰がやったのかは分かっている。
 実行犯は珠瑛の取り巻き三人、(しゅ)紅葉(こうよう)()氷霧(ひょうむ)(りょく)桜桃(おうとう)。首謀者はもちろん、珠瑛である。

 彼女たちの言い分は、こうだ──。

「汚れていたから、洗ってあげようと思ったのです」

「ええ。洗って、庭に干しておきました」

「しかし、あいにくのお天気でしょう? 乾かないと大変だと思って、火を()きましたの」

「これは、事故ですわ。ごめんなさいね、菊花さん」

 んなわけあるか。
 菊花はその言葉を飲み込んだ。

 代表して謝罪した珠瑛は、申し訳なさそうに眉をハの字にしているが、扇子で隠れた口元は、きっと笑っている。
 意地悪くニヤニヤとしているのが、透けて見えるようだ。

(汚れていたから洗った。これはまぁ、優しいと言えなくもない。ただ、顔見知りってだけの親しくもない人が私物を触るのはちょっと……というか、だいぶ嫌だわ。それから、洗ったから干した。これはまぁ、普通っちゃ普通。一人目と同じく触ったことに嫌悪感はあるけれど、濡れていたら干すしかないもんね。問題は、三人目よ。乾かないと大変だと思って、火を焚いた。これは、どう考えたっておかしいでしょ。普通、洗った服を乾かすのに火を焚く? 焚かないよねぇ。どんな天然だっていうのよ)

 そもそも今日は、とてもよく晴れた日である。
 しかも、ソヨソヨと気持ちの良い風も吹いていた。濡れた服が、乾かないはずがないのだ。

 まともな宦官か、もしくは月派の宦官であれば、それなりの罰を下せただろう。
 だが残念なことに、この事件を解決するために呼ばれた宦官は、陽派の筆頭、落陽であった。

(呼んだというか、待機していたというか……用意周到なことで)

 菊花は、女大学での授業を終えて、わからないところがあったので担当の宦官のもとへ行っていた。
 その間に、彼女の部屋のたんすに入っていた服は引っ張り出され、水責めに遭い、そして火炙りにされたらしい。

 部屋に戻った菊花の目に入ったのは、半開きになったたんす。
 中を見たら空っぽで、慌てて探しに外へ出てみたら、庭で焼かれていた。

 慌てて水をかけたが、もう手遅れ。
 服は、黒い塊になっていた。

 ぼうぜんとする菊花の前に現れたのが、落陽と珠瑛、そして取り巻き三人娘だったのだ。
 珠瑛たちの言い分を聞いた落陽は、鼻の下にあるひげを弄りながら、でっぷりとした腹を突き出すようにして「まぁまぁ」と笑った。

「彼女たちも善意でやったこと。菊花様とは違ってお嬢様育ち故、仕方のないことなのだ。これくらいで怒っていては、正妃になんてとてもとても」

 落陽は、菊花が田舎娘だと馬鹿にしている。自分で洗濯するような、庶民だと。
 高貴な身分である彼女たちの善意を、責めるものではないと笑っている。

 この落陽という男、実は菊花は以前にも会ったことがあった。

 菊花に「数日後に登月が来る」と予言をしていった男。
 あの時は名乗らなかったが、後宮生活二日目に菊花は知ることとなった。
 女大学で使用する教本を配られた際、登月が教えてくれたのだ。

「あの男が落陽です。珠瑛にはもう目をつけられてしまいましたが、こちらには気をつけてくださいね」

 そう言って登月がこっそり指差して教えてくれた男こそ、登月よりも早く菊花に接触し、後宮へ連れて行ってもらえると予言した男だった。

「登月様。もう、手遅れかもしれません。だってあの人、登月様よりも早く、私に会いに来ましたから」

「え?」

「登月様が来る三日前にやって来たんです。自分のお眼鏡には敵わなかったが、数日後に登月様が迎えに来ると言っていました。その通りになったから、私てっきり、神仙の類だと思っていたんですけど……あれが落陽様だったのですね」

「なるほど。おおかた、私があなたを迎えに行くことを、どこかから聞いたのでしょう。珠瑛以上の逸材ならば、私に先んじて連れて行こうとしていたのでしょうね」

「はは。残念ながら、お眼鏡には敵わなかったわけですけど」

「でもまぁ、もう目をつけられているのなら諦めるしかありませんね。菊花、先に謝っておきます。あの二人は何をしてくるか分からない。何かあったら、すぐに私を呼びなさい。いいですね?」

「はい、わかりました!」

(──そうよ。それなのにどうして私は、登月様を呼ばずに行動しちゃったのかしら!)

 火炙りにされている現場を見てすぐに登月を呼んでいれば、もう少しまともな対応がなされたものを。
 今更悔いても遅いが、そう思わざるを得ない。

「さて。誤解は解けたことですし、これで良いですかな? 服なんて、また買えば良いではないですか。そうでしょう? 菊花様」

 菊花にそんな財力がないことを知っていて、落陽はそう言う。
 意地悪な言葉に、菊花はギリリと拳を握った。

 登月がいない今、下手に言い返すのは得策ではない。
 彼に出世意欲があろうとなかろうと、菊花のせいで彼の地位を失墜させるわけにはいかないのだ。

 物言いたげににらみながら、それでも言い返すことのない菊花に、調子に乗った取り巻き三人娘が楽しげに「ほほほ」と笑う。

「あら、意地悪な落陽様」

「彼女には服を買うようなお金がありませんのよ」

「そうですわ。ほら、ご覧になって? 今着ている服も、擦り切れて今にも破れてしまいそう」

「おやめなさいな、三人とも。菊花様、ごめんなさいね。彼女たちも悪気があって言っているわけではないのよ? 素直だからつい、言ってしまっただけなの。許してちょうだいね」

 んなわけあるか。
 菊花は本日二度目のその言葉を、また飲み込んだ。

 落陽と珠瑛、それから取り巻き三人娘は、もう用は済んだとばかりに去っていく。
 事件なんてちっとも解決していない。

 首謀者と実行犯は野放しのまま。菊花の服は弁償さえしてもらえない。
 もっとも、弁償できる代物でもないのだけれど。
 幸いなことに、登月(とうげつ)に事情を話したら、すぐに寝間着と普段着を用意してもらうことができた。
 母の形見よりも随分と上等なそれらに、菊花(きっか)はオロオロと困惑する。

 だって、菊花には過ぎたものだ。
 こんな上等なもの、冠婚葬祭でだって着られない。慌てて突き返そうとする菊花に、登月は押し返しながらこう言った。

「私が推薦したせいで、あなたはそのような目に遭ったのです。これくらい、させてください。お母様の形見だったのでしょう? 守れず、申し訳ございません」

「頭を上げてください、登月様!」

 頭を下げてそう言われてしまっては、受け取るしかない。
 登月ほどの人が、田舎娘でしかない菊花に頭を下げるなんて、してはいけないことなのだ。

「では、受け取ってくれますね?」

 にっこり。
 登月の細い目がさらに細くなる。

 反論は許さない。
 そう言われているような気がして、菊花はコクコクとうなずきながら手を出した。

 改めて受け取った服は、どれも軽くて柔らかな触り心地だった。
 少し前に大路で見た、都人たちがまとっていた煌びやかな服よりも上等そうである。

(こんな服、一生かかったって私には買えそうにないわ)

 さすが後宮、と菊花はもらったばかりの服をまじまじと眺めた。
 ゆったりとした袖や(スカート)は、歩くたびにふわふわと揺れそうだ。

 透明感のある生地だから、風に吹かれて(たなび)く様はさぞ美しいに違いない。
 淡い色合いも、菊花の好みだった。似合うかどうかは別として。

(ただ、残念なことに、着るのが私っていう……)

 菊花のようなぽっちゃり体形の人は、暗い色合いのものを着る方が引き締まって見えるものだ。
 菊花の母も彼女が気にしているのを知っていたから、比較的地味な色合いのものを作ってくれていた。

「登月様」

「どうしました? もしかして、気に入りませんか?」

「いえ、とてもすてきですし、好みの色なんですけれど……これ、私に似合うでしょうか?」

 もらったばかりの服をあてて見せる。

 田舎娘には恐れ多い貴族のような服は、あてているだけで目が(くら)みそうだ。
 登月はそんな菊花と服を見比べて「似合っていると思いますよ」と笑った。

「今までの服は地味な色合いのものでしたが、あなたは全体的に淡い色合いをしていますので、こういう色味の方が女性らしくて良いかと。白状しますと、この服は私が用意したものではないのです。あなたを宮女にどうかと紹介してくださった方が、もしものためにと用意したものなので。着てあげたら喜ぶと思いますよ」

「そんな奇特な方がいらっしゃるのですか⁉︎」

「いらっしゃるのですよ。今はお教えできませんけれどね」

 一体誰ですかと聞く前に、登月は釘を刺すようにそう言った。
 途端に、菊花はションボリと肩を落とす。

「そうなんですか。その方のおかげで三食昼寝付きで勉強までできるわけだから、お礼を言いたかったんですけど……今はということは、いつかは教えてもらえるのでしょうか?」

「そうですね。時期がくれば」

 そう遠くない未来ですよ、とつぶやくように登月は言った。
 菊花を登月に推薦してくれた人が誰なのか、彼女には見当もつかない。

 だって菊花は天涯孤独の身。
 特別親しくしていた人なんて思いつかないし、あえて挙げるなら、蛇の(はく)になる。

(でも白が推薦できるわけがないし……。そもそも白とは、もう何年も会っていない。またいつか、どこかで会えたら良いのだけれど)

 白銀に金を混ぜたような神々しい鱗を思い出して、菊花は懐しむように、胸に手を当てたのだった。
 それからも、珠瑛(しゅえい)と取り巻き三人娘による嫌がらせは続いた。

 物を隠す、物を捨てる。
 そんなことは日常茶飯事だ。

(よくもまぁ、いろいろ思いつくわね)

 部屋を荒らされるのも、そろそろ日常になるかもしれない。
 残念ながら、貧乏暮らしが長い菊花は、彼女たちのように荷物が多くないので、そろそろネタ切れかもしれないけれど。

 最初こそイライラしたりモヤモヤしたりしていた菊花だが、一周回って尊敬してしまいそうになってきた。

(こんなことをする暇があるなら、少しでも勉強すれば良いのに)

 菊花は知っている。
 ここ最近、彼女たちはとある宦官に興味津々なのだ。暇さえあれば呼びつけて、無理難題を吹っかけている。

 宦官の名は、柚安(ゆあん)
 菊花と同じ金の髪を持ち、秋の空のような澄んだ青色の目をした、若い宦官である。
 ほんの少し彼の方が細身ではあるが、ぱっと見は菊花に似ていた。

 散々嫌がらせをしても、菊花に堪える様子がないからだろうか。
 菊花に似た柚安を身代わりにして、彼女たちは憂さ晴らしをしているらしい。

「ほんと、ごめんなさいね」

「いえ、これが僕の役目ですから」

 ハハハと乾いた笑みを浮かべて、柚安は重いため息を吐いた。

 丸めた背中に、哀愁が漂っている。
 菊花は慰めるように、彼の肩をポンポンとたたいた。

 実のところ、柚安は珠瑛たちに目をつけられたわけではない。
 月派に属する彼は、登月の指示で珠瑛たちに目を付けられるように自ら仕向けたのである。

 その目的は、菊花を珠瑛たちから守るため。
 彼女がより良い後宮生活を送れるようにすることが、登月の、ひいては柚安の願いなのだ。

「菊花様。最近、嫌がらせは減りましたか?」

「うん、減った。(かわや)に閉じ込められることはまだあるけど、窓から脱出できるからそこは問題なし。物がなくなる回数も、かなり減った気がする。柚安のおかげだよ、ありがとう……っていうのもおかしいかな?」

「いいえ。それなら良かったです」

 ふにゃり。
 柚安はいつも、しまりのない顔で笑う。
 まるで無邪気な子犬のようで、菊花はかわいいと毎度のように思っていた。

(癒やされるぅぅ)

 ふわん、ほわわん。
 柚安からは、()の国で言う【癒やしの風(マイナスイオン)】が出ているに違いない。
 習ったばかりの言葉を思い出して、菊花は納得したように一人うなずいた。

「ところで、菊花様。まもなく宮女候補の選別があるのはご存じですか?」

「選別? なにそれ」

「正式に宮女が決まるまで、月に数人ずつ後宮から追い出されるのです。菊花様は勉強熱心でいらっしゃるので大丈夫かと思いますが、決まり事だけは破らないように気をつけてくださいね」

 小指同士を絡ませて「約束ですよ」と指切りげんまんをしたのは、つい最近のことだった──。