謎の男の予言は、どうやら本当だったらしい。
 それなりに良い馬車に乗ったあの男は、気まぐれに下界へ降りてきた神仙(かみさま)だったのかと、菊花(きっか)は無礼な態度を取った自分を恥じた。

 男の予言を聞いてから三日後、家の前の畑で草むしりに精を出していた菊花の前に、一頭の馬が止まった。

 馬のいななきと、それをいさめる「どうどう」という声。
 何事だと慌てて立ち上がると、馬上の男と目が合った。

 ぞんざいに結い上げられた黒く艶やかな髪が、春風に(たなび)く。
 どこからか飛んできた花弁が、男の髪を彩るようにひとひら絡まった。

 まるで絵巻物のような情景に、その顔の造形に期待が高まる。
 だが残念なことに、菊花と目が合ったその男の顔は、至って平々凡々とした、特筆すべき点もない普通の顔だった。黒い髪に黒い目。()の国では一般的な容姿である。

 馬を落ち着かせた男は、菊花を見下ろしてこう言った。

「私は宦官の登月(とうげつ)である。菊花殿で、お間違いないか?」

 登月と名乗った男の丁寧な物言いに、菊花は驚いた。

 宦官といえば、選良(エリート)である。
 特に自ら志願して男の証を切除した宦官は、皇帝や寵妃たちの側近として重用されるらしい。
 目の前にいる宦官が自ら志願したのかそうでないのかは定かではないが、どちらにしても選良であることに変わりはない。

 そんな宦官が、ただの田舎娘でしかない菊花に偉ぶるそぶりもみせない。
 偉い人は偉そうに振る舞うものだと思っていた菊花にとって、登月の態度は異質にも思えた。

「へいっ」

 返答しようと開いた口から、おかしな声が出る。
 だが、それも仕方がないことだ。だって菊花は、驚いていたのだから。

 しかし、登月は菊花のおかしな声を聞いても、表情一つ変えずに「そうか」と頷いただけだった。

蛇香(じゃこう)帝が宮女を募集している旨は、既に知っているか?」

「はい、知っております」

「私は其方を推薦するつもりで来た。もしもついて来てくれるのならば、今よりももっと良い生活を約束しよう」

「今よりも、もっと……?」

「そうだ。まず、三食出る」

 登月はそう言うと、指を三本立てた。朝食、昼食、夕食という意味だろう。

「三食……」

 働かなくても食べられる。
 これは、菊花にとってかなり魅力的だ。狼や猪が出る山に、分け入らなくても良くなる。
 引き寄せられるように、登月の方へ一歩足が出た。

「その上、昼寝つき」

「昼寝つき……!」

 なんということか。ご飯がある上に、昼寝までついてくる。
 宮女ってなんてすてきなのだろうと、菊花の心がグラングラン揺れた。
 そしてまた一歩、登月の方へ足が進む。

「さらに、宮女候補だけが入学できる女大学で、好きなだけ勉強ができる」

 好きなだけ勉強ができる。
 これは、三食昼寝つきよりも魅力的だ。

(こ、これほどまでに魅力的なお誘いがあるでしょうか……答えは、否! あるわけがありませんっ!)

 菊花の足がまた一歩、登月の方へ向かう。
 あと一歩前へ進めば、登月が乗る馬に触れることができるだろう。
 だが、彼女には一つだけ、不安なことがあった。

「あの……」

「なんだ?」

「それは、分割払いが可能でしょうか?」

 三食昼寝つきで勉強までさせてもらえる。
 しかもこんな、田舎娘が。

 美人だったらまだ良い。
 皇帝陛下のお嫁さんになれる可能性は十分にある。

 だけれど、菊花はお世辞にも美人とは言えないし、むしろ真逆だと自信を持って言える。
 宮女になれるのが一体何人かは知らないが、少なくとも菊花のような者が皇帝のお手つきになることはまずないだろう。

(金の髪に菫みたいな色をした目。その上、棉花糖体(マシュマロボディ)……どう考えたって、皇帝陛下の好みじゃないはず。つまり、これは……賄賂を渡して便宜を図るっていうお誘いね!)

 そう思ったからこそのせりふだったが、言われた登月は何を言っているのだという顔で菊花を見下ろした。

(あら、何か違った?)

 首をかしげる菊花に、登月はハァとため息を吐いた。

「学費も食費も必要ない。後宮には後宮の予算があるから、安心して来ると良い」

 今度は菊花が、何を言っているのだという顔をする番だった。

(どうやら私は、大きな勘違いをしていたみたい?)

 賄賂のつもりで聞いたのに、学費や食費の心配をしていると思われたらしい。
 それはつまり、登月は本気で、菊花を宮女候補として──つまり、皇帝陛下の嫁になる資格がある女として彼女を迎えに来たということだ。

「そう、ですか……」

 これには菊花も驚いた。

(もしや、蛇香帝はゲテモノがお好き……?)

 そういえば、お金持ちは『燕の巣』とか『鹿の陰茎』とか、菊花が食べようとも思わないものを食べると聞いたことがある。
 もしかしたら菊花は、そういう枠で推薦されるのかもしれない。

(でも、これはチャンスよ? 食費も学費も無料で、その上昼寝つき。宮女になれるかは別として、貴族でもないのに勉強できるのは、これしかないんじゃない?)

「……なら、逃す手はないわよね」

「来るか?」

「はい! 行かせて頂きます!」

 元気良く返事をした菊花に、登月はホッと息を吐いた。
 来てくれなかったらどうしようと、内心思っていたからだ。

 宦官、登月。
 彼は、蛇香帝お気に入りの宦官である。

 出世意欲なんてまるでないのに、彼に気に入られたせいでいつの間にか偉くなっていた。
 気に入られた理由はただ一つ──彼は、誰よりも茶を淹れることがうまかったのである。