皇帝陛下のあたため係

 必死に頭を働かせる菊花(きっか)の傍らで、香樹(こうじゅ)はむくりと体を起こした。

「菊花、大丈夫か?」

 毒のせいでしゃべることができない菊花は、驚きつつも香樹の問いかけにうなずく。
 香樹の顔は、今まで見たことがないくらいに蒼白で、再会したあの日以上にひどい顔色だった。

 香樹の体温は今、ひどく低いのではないだろうか。

 心配そうに見つめてくる菊花に、香樹は「心配するな」と笑う。
 だがその顔はどう見てもはかなげで、今にも消えてしまいそうな危うさがあった。

(香樹の方こそ、大丈夫なの?)

 問いかけられないことが、もどかしい。
 物言いたげに見つめてくる菊花の前で、香樹は隠し持っていた小刀を取り出すと、彼女を拘束する縄を切り始める。
 はらりと解けた縄を払い除け、香樹は菊花を掻き抱いた。

「菊花……怖い思いをさせたな」

 香樹の胸に押し付けられるように強く抱きしめられて、彼の匂いに包まれた菊花はようやくホッと息を吐いた。

 もう随分と慣れ親しんだ彼の匂いが、菊花の焦りを和らげる。
 ぐずる子どものように香樹の胸に顔を押し付けて、菊花はしゃべれない代わりにぎゅっと彼を抱きしめ返した。

「良かった、間に合って。おまえがいなくなったと聞いて、どうしようかと思ったぞ」

 毒のせいで体温が上昇しているからだろうか。
 香樹の体は、信じられないくらい冷たかった。

 皇帝陛下のあたため係として、初めて呼ばれたあの日よりも冷たく感じる。
 ひんやりとした肌は火照る菊花の肌から熱を奪うのに、それでもあたたまる気配がなかった。

(本当に大丈夫なの? だってあなた、白い紅梅草(こうばいそう)の毒を飲まされたのでしょう?)

 問いかけられない代わりに、菊花は抱きついていた手で香樹の背をたたく。
 だが、香樹はより一層強く菊花を抱きしめてくる。と、そこで菊花は気がついた。

 香樹の体が、カタカタと小刻みに震えているのだ。
 寒くて寒くてたまらないのか、すがるように菊花に身を寄せてくる。

 いつもだったらすぐに体温を分かち合えるのに。
 菊花はこんなにも熱いのに、香樹には足りないらしい。

(どうして……)

 珠瑛(しゅえい)白梅草(はくばいそう)と言っていたものは、おそらく白い紅梅草のことだろう。
 そして、彼女はなんと言っていたか。

『滞りなく。香樹様には、白梅草の毒を飲ませてありますわ。毒蛇ですら死に至る、特別な毒……眠るように死ねるなんて、ちょっと、つまらないですけれど』

 まるで、期待していた玩具が予想していたほど面白くなかった子どものように。
 彼女は残酷なことを平然と言い捨てながら、心底つまらなそうな顔をしていた。

 蛇晶(じゃしょう)帝や、香樹の兄を殺したという、毒。
 それを、香樹にも飲ませたというのなら。

(あなたにしか、できないわ!)

 もはや、安全性など構っていられない。
 可能性はゼロではないと自らに言い聞かせながら、菊花は動いた。

 足首に巻き付いていた蛇を掴むと、香樹の腕にその口を持っていく。
 蛇は心得たとばかり、腕にガブリと噛みついた。

 白梅草の毒で死んだ、蛇晶帝。
 彼の体から採取した血液から毒を特定できたのなら、同じ毒で亡くなった兄には抗体があるのではないかと菊花は考えたのだ。

 とんでもない荒療治だと思う。
 しかしこのまま死を待つくらいなら、最後まで抗ってやりたかった。

 祈るように待つ間も、部屋の仕掛けは止まらない。
 床の一部がぐるりと回転して、筒状のものが上を向く。小さな煙突のようなそれから、シュウシュウと毒が流れ始めた。

(もう、香樹をあたためることもできなくなるのね)

 その時ふと、(らん)先生から聞いた話を菊花は思い出した。
 このタイミングで思い出したのは、それが死ぬ前にしておきたいことだったからかもしれない。

(男の人の体温を上げる、最も効率が良い方法。それは房中術だと、藍先生は仰っていました)

 菊花の喉がゴキュンと鳴る。
 覚悟を決めた彼女は、眠っているように静かな香樹の唇に、自身の唇をゆっくりと近づけていった。

 ドキドキと胸が早鐘を打つ。
 心臓が、口から飛び出そうなくらいだった。

 もうすぐ出る、今すぐ出る! というところでようやく、唇が目的地に到着する。
 少し的は外したが、唇の端に口付けることに成功した。

「ふふ。やわらかい」

 菊花は満足そうな笑みを浮かべ、コトリと倒れ伏した。
 ふっと意識が浮上する。
 目を覚ました香樹(こうじゅ)は、傍らで倒れ伏している菊花(きっか)を見て青ざめた。

「菊花!」

 抱き起こし、息を確かめる。
 微かに上下する胸に安心したのもつかの間、周囲を見回し状況を把握した彼は、このままでは菊花が危ないと慌てて抱き上げた。

「しっかりしろ。頼むから、私を一人にするな」

 幸い、この部屋のことはよく知っていた。
 にわかの蘭瑛(らんえい)よりも、ずっとくわしく。

 この部屋は、毒で満たされてから一定時間が経過しないと開閉できないようになっている。
 使用される毒は非常に特殊で、ある一定の高さまでしか満たされない。背の高い者、あるいは何かに上がりさえすれば、助かる仕組みになっていた。

 香樹はすぐさま菊花を担ぎ上げると、椅子に上がった。
 菊花の顔が天井近くにいくよう、できる限り持ち上げる。

「もうすぐの辛抱だからな」

 宥めるように背中をたたくと、微かな反応が返ってくる。
 自らへ言い聞かせるように菊花を激励しながら、香樹は部屋の扉が開錠されるのを待った。

柚安(ゆあん)なら、合図に気がつくはずだ」

 待つだけしかできない自分が、歯がゆかった。

 万全を期したつもりだったのに、この体たらく。
 いっそのこと死んでしまいたいくらいだったが、菊花だけは死なせたくない。

 香樹は菊花の無事だけを祈りながら、永遠にも思える時間を耐えた。

 どれくらい、そうしていただろう。
 やがて仕掛けは毒を吐き終え、霧が晴れるように消え去っていく。
 見計らったかのように、柚安は入室してきた。

「……意外と元気そうですね?」

「菊花のおかげでな。兄の毒で白梅草(はくばいそう)を中和させたようだ」

「へぇ……やりますね」

「それより、菊花は夾蓮花(きょうれんか)の毒を注射されたようだ。中和剤はあるか?」

「もちろん」

 柚安はすばやく準備をすると、慣れた手つきで菊花に中和剤を注射した。
 おそらく数日は寝込むでしょうと告げながら、まくった袖を直す。

「そちらはどうなった?」

 香樹は床へあぐらをかくと、股の間に菊花を座らせながら柚安を見た。
 その様は、命の次に大事にしているおもちゃを取られそうになっている子どものようで、柚安はひょいと肩を竦ませる。

「そんなに警戒しなくても、菊花様を取ったりしないって。僕にはこわくてかわいい妻がいますからねぇ……で、こっちですが。問題なく片付きましたよ。(こう)蘭瑛(らんえい)、並びに娘の珠瑛(しゅえい)はすでに捕らえ、牢にぶち込んである。(しゅ)紅葉(こうよう)(りょく)桜桃(おうとう)もね」

「リリーベルの方は?」

「黄家屋敷の地下より、白い紅梅草を見つけたそうだ。リリーベル様が確認したところ、皇族殺害に使用された毒と完全に一致」

「そうか」

「黄家屋敷は今頃、火だるまですよ。残っていた使用人が火を放ったのだとか」

「証拠隠滅を図ったか」

「でしょうね。でも、問題ない。証拠は全て、そろっている」

 すべて、あなたの望むままに。
 そう言って、柚安は胸に手を当て仰々しく頭を下げた。

「そうか」

 何を考えているのだろうか。
 香樹は菊花の乱れた髪を撫でつけながら、どこを見るでもなく視線を彷徨(さまよ)わせている。
 その顔は、安心したような、しかし寂しそうな表情をしていた。

 黄父娘は捕まり、屋敷は燃やされた。
 これから、どうなるのか。

 皇族を殺すなど、大罪だ。
 法に(のっと)るのならば、主犯は処刑。一族は財産を奪われ、大小の違いはあれど肉刑に処される。

 近い未来、菊花は少なからず心を痛めるだろう。
 そのことを思うと、香樹は少しだけ胸が苦しくなるのだった。
 その後、菊花(きっか)香樹(こうじゅ)はそれぞれの部屋へ運ばれた。
 といっても、香樹が菊花と離れたくないと年甲斐もなく駄々をこねたため、菊花の部屋は香樹の部屋の隣である。

 夾蓮花(きょうれんか)の毒の影響で、菊花は三日三晩寝込んだ。
 声帯を使えなくする毒もリリーベルが薬で中和してくれたが、こちらは効果が出るまでしばらくかかるらしい。

 その間の香樹はと言えば、リリーベルが呆れるくらいの強靭(きょうじん)さで、翌日には自ら菊花の看病をするくらいまでには回復していた。
 菊花が施した一か八かの早期治療が功を奏したのもあるのだろう。

 表向きは療養とされているが、実際にはちっとも休んでいない。
 四六時中菊花のそばにいて、寝込む彼女を甲斐甲斐しく世話していた。

 とはいえ、香樹は看病などしたこともない。
 慣れない手つきで懸命に菊花に何かしてやろうとする姿は滑稽だが、愛に満ちている。

「まるで子どもみたいに無邪気に笑うねぇ」

「あの方も、あどけない顔をするのですね」

 扉の隙間からこっそりとその様子を窺っていたリリーベルと登月(とうげつ)は、同じタイミングでつぶやいて、苦笑いを浮かべながら互いに顔を見合わせた。

 扉の向こうでは、ドンガラガッシャンと何かをひっくり返した音がしている。
 それから、謝る香樹の声と、まだ本調子ではない菊花の掠れた笑い声も。

 心の中で「陛下、がんばれ」と声援を送りながら、二人はそっと扉を閉めた。

 廊下に出ると、騒がしい音が聞こえてくる。
 蛇晶(じゃしょう)帝の後宮をあとにする、宮女候補たちが里帰りの準備をしているのだ。

「なぁ、登月」

「なんですか、リリーベル様」

「私は夫に会いたくなってしまったよ」

「では、そろそろお帰りになるのですか?」

「そうだねぇ。かわいい妹の声が戻るまではと思っていたけれど、仲睦まじい二人を見ていたら、無性に会いたくなってしまってね。もうだいぶ回復しているし、そろそろ良いかとも思っている」

「寂しくなりますね」

「それは本心かい? ちっとも感情が篭もっていないけれど」

「寂しくなるのは菊花ですから」

「なるほど」

 それなら納得だと、リリーベルはカラカラと笑った。

 まもなく、ここは取り壊される。
 蛇晶帝の後宮が解体されることで、蛇香(じゃこう)帝の新たな後宮が完成するのだ。

 遠い()の国の方を見つめて、リリーベルは愛しい夫の名をつぶやいた。
 (こう)蘭瑛(らんえい)、並びに娘の珠瑛(しゅえい)は、皇族だけでなく数多(あまた)の人を殺害した罪により、斬首の刑が下された。
 しかし、あまりにも多い罪の数と、当人たちに反省の色が全く見られないことから、それだけでは償いきれないとされ、本来はどんな者であろうと死者は埋葬するのが()の国の風習であるにもかかわらず、遺体は埋葬されることなく山奥へ打ち捨てられた。

 黄一族は全財産を没収。
 大小の違いはあれど、肉刑に処された。

 また、黄一族に加担していた(しゅ)一族と(りょく)一族にも刑が言い渡された。
 結果、肉刑は免れたものの、財産の半分以上が没収。実質、没落である。

 朱紅葉(こうよう)は皇帝陛下殺害に加担した罪で、緑桜桃(おうとう)は宮女候補である菊花(きっか)(かどわ)かした罪により、()詠明(えいめい)と同じく貴族専用の牢獄の中である。

 懲役は十年。
 刑期を終えて外へ出られたとしても、もう以前のような華やかな生活には戻れない。泥水をすするような人生が待っているだろう。

 のちに、この一連の事件は物語として語り継がれることとなる。
 正妃になるために手段を(いと)わない残忍な娘が、毒を使って邪魔者を消していくという、背筋の凍るような話として。

 夏の夜には、涼を求めてそこかしこで語られるようになるだろう。
 今も、とある山の奥からは彼女の断末魔が聞こえるのだとか。

 これらは全て、菊花は知らないことになっている。
 思いのほか過保護な香樹(こうじゅ)が、彼女から遠ざけたためだ。

(でも、それでは私があなたを守れない)

 菊花は、守られるだけのか弱いお姫様ではない。
 野を駆け、野草を摘み、時に猪から逃げ果せる……何もない田舎村で生き抜ける、たくましい少女なのだ。

(たとえあなたが、私を守るために皇帝陛下になったのだとしても。私は、守られるだけなんてまっぴらごめんよ)

 香樹を守るためならば、どんなことも受け入れる。努力してみせる。
 だってそうしないと、香樹は菊花を守るために何をしでかすか分かったものではないのだ。

 現に菊花が(さら)われた時、最も手っ取り早いのが毒を飲むことだったという理由で、彼は珠瑛が出した茶を白梅草入りと分かっていながら飲んだらしい。

(お兄さんの毒が効かなかったら……)

 考えるだけで、心臓が止まりそうになる。

「──教えてくれてありがとう、柚安(ゆあん)

「いえいえ。こちらも仕事なんで」

 宦官の柚安は、もういない。
 今、菊花の目の前にいるのは、密偵(おつかい)の柚安である。

 日焼けして色褪せた黒髪に、青い目をした青年。
 それが、本来の彼の姿らしい。

 柚安は、香樹の命令で菊花の護衛兼密偵として宦官に成り済まして後宮に入っていた。
 本来、後宮には皇帝陛下以外の男は居られないが、香樹が信頼できる人物であること、そして柚安が恐妻家であることで、特例として許可されていたそうだ。

「僕が教えたって、陛下には言わんでくださいよ?」

「言わないわ。教えてくれてありがとうね、柚安。お礼はそれで良かったの?」

 菊花の言葉に、柚安はひょいっと肩を竦めた。どういたしまして、と言うように。
 それから、穴蔵から出てきた野兎のように部屋の外を気にかける。

「ええ、十分ですよ。毎晩飲んでいたせいで、すっかり習慣付いてしまいまして。毎日飲まないとどうにも調子が出ない。正妃自ら淹れた茶なんて、そうそう飲めるものでもないですしね。情報料は、これで結構です」

 茶杯をクイっと傾けて、柚安は茶を飲み干した。

「では、そろそろ陛下が来るみたいなんで、僕は行くとします。また何かありましたら、遠慮なく呼んでください」

「ええ、分かったわ。茶飲み友達がいなくて寂しくなったら、呼ばせてもらう」

「その際は、女官の花林(かりん)に言付けを」

「ふふ。あなたの奥さんにね? 分かった」

「では」

 柚安はクスクスと笑う菊花に、バツが悪そうに唇を尖らせて去っていった。
 ほどなくして、女官が「皇帝陛下のおなりです」と告げてくる。
 長椅子に腰掛けていた菊花は、部屋の入り口へと歩いていった。

「こちらへおいで、菊花」

 優しい声が、名前を呼ぶ。
 くすぐったそうに微笑んで、菊花は差し出された手を取った。
 あたたかな日差しの下を、手に手を取って歩き行く。
 
 日に照らされて、白銀色の髪が光り輝いていた。
 菊花(きっか)は眩しそうに、それを見上げる。

 煮詰めた蜜のように甘い視線。
 菊花の唇がむずむずしてくる。

 宮女候補として後宮へやって来てから、約一年。
 まさかこんな日が来ようとは、誰が思うだろうか。

 ただの田舎娘でしかなかった少女、菊花。
 彼女は正式に、蛇香(じゃこう)帝の正妃となった。

 といっても、大々的なお披露目はまだ先である。
 今日は今から、引っ越し。菊花の少ない持ち物はすでに運ばれ、あとは彼女だけとなっている。

 花弁が敷き詰められた小径の先にあるのは、これから菊花が生きていく場所──蛇香帝の後宮である。
 香樹と菊花の名前から取って、名を菊香殿(きっこうでん)というらしい。

 菊香殿は、蛇晶帝の後宮よりもこぢんまりしているそうだ。
 香樹曰く、家は小さければ小さいほど良いのだとか。

「その方が、おまえとくっついていられる」

「くっつかなくちゃいけないほど小さな家なの?」

 夜、戯れながらそんなことを言い合ったのは、つい最近のことである。

 気持ちが通じ合ってから、香樹は以前にも増して菊花をそばに置きたがるようになった。
 夜と寒い日だけだったのが、最近はずっとである。

 菊花の看病で、そばにいる居心地の良さにすっかり味をしめてしまったらしい。
 困った皇帝陛下である。

 蛇晶(じゃしょう)帝だが、彼はまだ生きている。
 菊花はてっきり、(こう)一族の後始末が終わったらお別れだと思っていたのだが、そういうわけにはいかないらしい。

「孫を見るまでは死ねぬ! 菊花、頼む! ぜひ、女の子を! 女の子を見せておくれ!」

 菊花の隣で、香樹が「子の性別は男側で決まると教わったのに、何を言っているのだこのじじいは」と言っていたが、見事に聞き流されていた。

 香樹の兄は、すべての刑が執行されるのを見届けた日に、ひっそりと姿を消した。
 香樹は淡々と、

「おそらくは呪いが解けて自由になったのだろう」

 と言っていたけれど、菊花は知っている。本当は、もっと一緒にいたかったことを。

「あっ」

 菊香殿の屋根が見えてきた。
 サラサラと聞こえるのは水の音だろうか。
 ()の国より結婚祝いで噴水が贈られたと言っていたから、それかもしれない。

 後宮へ来た初日、噴水を齧り付くように見入っていた菊花のことを、登月(とうげつ)が覚えていたらしい。
 それを聞いたリリーベルが王妃と相談し、贈るに至ったのだとか。

 登月といえば、彼は宦官を二分していた月派の頭を次の世代へ引き継いだそうだ。

「これからはのんびりと、あなたと陛下に茶を振る舞って生きていきます」

 と、まるで隠居した老人のようなことを言いながら、登月は笑っていた。

 その顔が少し寂しげに見えたのは、もしかしたら落陽(らくよう)のせいかもしれない。
 落陽が罪に問われることはなかったけれど、珠瑛を推薦した以上自身にも(とが)はあるとして、彼は自ら後宮を去った。

 リリーベルは、菊花の回復を待たずして戌の国へと帰っていった。
 菊花と香樹を見ていたら、夫君に逢いたくてたまらなくなったそうだ。
 一刻も早く逢いたいのだと、用意した馬車ではなく早馬で駆けて行った。

 つい先日届いたばかりの手紙には、さっそく「夫が鬱陶しい」なんて愚痴が書いてあったけれど、次の行では「夫がかわいくてたまらん」と書いてあって、結局惚気だった。
 王妃からは孫の催促をされているらしいが、惚気るくらいだからそう遠くない未来に王妃の願いは叶いそうだとも思う。

(私もいつかは、香樹との間に子どもがほしいわ)

 香樹との子どもは、卵で生まれるという。
 どのように生まれて、どのように育つのか。菊花は興味津々である。

 楽しげにほおを緩ませる菊花に、香樹も笑みが浮かぶ。

「何を考えている?」

「あなたとの子どもはどんな子かしらって考えていたわ」

「……それなのだが」

 言いづらそうに淀む香樹。
 らしくない彼に、菊花は首をかしげた。

「うん?」

「しばらくは、その……二人きりが良い」

 駄目か、とねだるように耳元でささやかれては、たまったものではない。
 とんでもない破壊力だ。
 菊花は、熱で耳が溶けるのではないかと思った。

 溶けないように両手で耳を押さえ、真っ赤になった顔で香樹をにらむ。
 そこに居たのは、情けない顔で(たたず)む一人の男。
 冷酷だと恐れられている皇帝陛下にはとても見えない、甘ったれた表情を浮かべている。

「もう」

 臆病なくせに、愛する人を守りたい一心で皇帝陛下にまでなった、菊花の大好きな人。

 本当は知っている。
 二人きりが良い理由がそれだけではないことを。
 見た目によらず、彼は家族を大事にする人なのだ。

(おじさまと……まだ離れたくないのでしょう?)

「仕方のない人ね」

 そう言って、両手を広げてみせれば、

「ありがとう、菊花」

 と言って、ひんやりとした体をすり寄せて抱き竦めてくる。

 フッと笑んだ香樹の手が菊花の顎に触れ、赤い双眸(そうぼう)が甘くにじんで境目をなくした。

「愛しているよ、私のあたため係」

 菊花の唇へ、香樹の唇が重なる。
 ひんやりとしていた唇が菊花の熱に触れてじわりと熱を帯びていく。

(ああ、これこそ皇帝陛下のあたため係(私のあるべき姿)

 徐々になじむ温度に、菊花はうっとりと目を閉じた。

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