皇帝陛下のあたため係

 宮女候補たちの最終選考、当日。
 講堂へ集められた宮女候補たちには、試験の順番と場所が告知された。

 菊花(きっか)は一番初め、場所はもっとも入り口に近いところである。
 対する珠瑛(しゅえい)は、最後。もっとも入り口から遠い、けれど景色は最上級である薔薇園の近くになっていた。

「最後って、どういうことですの⁉︎」

 珠瑛は不機嫌そうだ。
 分からなくもない。

 最終選考は、茶会で皇帝陛下をもてなすという内容。
 最後では、きっと腹に余裕なんてなくて、豪華な食事も茶も口にできないだろう。

 しかし、この順番は変えられない。
 だってこの試験は、(こう)一族を足止めするためのものなのだ。

 黄家の屋敷から、蛇晶(じゃしょう)帝や香樹の兄を殺した毒草、白い紅梅草(こうばいそう)を見つける。
 全ては、そこから始まっているのだから。

「そうですわ! 珠瑛様が最後なんて、おかしいです。今すぐ、交換を!」

 取り巻きの紅葉(こうよう)がチラチラと菊花を見てくる。
 交換を申し出ろとでも言いたいのだろう。

 知らん顔をしていたら、珠瑛と紅葉とは別の方向からジトリと陰湿な視線を向けられた。
 一体誰だと振り返ると、取り巻きをやめたはずの桜桃(おうとう)が、むっすりと顔を歪めて菊花をにらみつけている。

(取り巻きに戻ったのかな?)

 それにしては、妙である。
 取り巻きに戻ったのなら、紅葉と一緒になって文句を言っているはずだ。
 しかし、彼女はそうしていない。

(なぜ……?)

 だが、考える菊花を邪魔するように、説明を終えた落陽(らくよう)銅鑼(どら)を鳴らす。
 試験開始の合図に、宮女候補たちは我先にと講堂から出て行った。

 珠瑛は紅葉を伴って出て行く。
 話しかけようとした桜桃の隣をすり抜けて、わざとらしく紅葉とおしゃべりしながら。
 まるで、桜桃なんて子は知らないと言わんばかりである。

 伸ばした手をギュッと握って、桜桃は唇をギリギリと噛み締めていた。
 菊花の視線に気付いたのだろう。憎々しげな視線を菊花に向けて、桜桃は珠瑛たちの後を追いかけていった。

 講堂を出た宮女候補たちが、呼び寄せた一族とともにそれぞれの試験場所へ散っていく。
 大掛かりな舞台を作る者、美麗なやぐらを建てる者、一面を花畑にする者……さまざまな方法で、宮女候補とその一族たちは皇帝陛下を満足させようと必死である。

 誰もが、皇帝陛下の正妃になろうと足掻いていた。
 天涯孤独の身の上である菊花には、到底できないことだ。

(でも、私には仲間がいる)

 父も母もいないが、菊花には大切な仲間がいる。

「さぁ、菊花。まずは設営しようか」

「そうですよ。()の国から、すてきな家具が届いていますからね」

 リリーベルと柚安(ゆあん)が、菊花の背中を押す。
 菊花は満面の笑みを浮かべて、二人とともに自身の試験場所へと足を向けた。

 誰もが平等であるように、庭には紐が張られ、均等に分けられている。
 どんな身分であろうと、平等に審査するためだ。

 この一週間でぞくぞくと届いた戌の国からの贈り物は、素晴らしいものばかりだった。
 木製の丸い卓に、曲木が美しい椅子。卓に掛けられた布の、レース模様がなんとも美しい。

 リリーベル監修のもと、菊花は柚安と協力して、それらをせっせと配置した。
 異国の家具は、後宮の庭の雰囲気に合わないかもしれないという懸念もあったが、実際に置いてみたら意外にもしっくりなじんでいる。

「うん。なかなか良いんじゃないか?」

「そうですね。僕も、良いと思います」

「そうね。とてもすてきなアフタヌーンティーができそうだわ」

 白を基調とした家具は、黒や朱を基調とした後宮の建物を背景にすると、とても映える。
 三段重ねの皿を飾る茶菓子や、茶道具を並べれば、さらに良くなるだろう。

 リリーベルが仕立ててくれたドレスを着て、ここで香樹に給仕する。
 それはとても、すてきな時間になるだろうと想像できた。

 隣の宮女候補は、舞を披露するようだ。
 何人もの男が小さな舞台を作っている。
 彼らは大工だろうか。作る手つきに迷いがない。

「おいおいおい、嬢ちゃん。そんな貧相な会場で皇帝陛下がご満足なさるわけがないだろう」

「そうだぜ? 煌びやかなもてなしをしなくっちゃなあ?」

 菊花のささやかな会場を見て、男たちは鼻で笑った。

 確かに、菊花の会場は派手さがない。
 どれも上質なものなのは確かだけれど、菊花らしい、落ち着いた雰囲気が漂っていた。

「派手ならば良いっていうわけじゃありませんから」

 ムッとする菊花に、柚安は癒やし効果抜群の気の抜けた笑みを向ける。
 ほわん、と心が解れたところで、彼は「さぁ、行ってください」と菊花を促した。

 柚安とは、ここでしばらくお別れである。
 彼はここで、この場所を警備する役目なのだ。

 最終選考ともなれば、きっと妨害工作がある。
 それを見越してのことだった。

「ここは僕に、お任せください!」

 そう言ってどんと胸をたたく柚安に、菊花は手を振って厨房へ急いだ。
 その後ろを、リリーベルが爽やかに追い抜いていく。

 男装の麗人を見かけた宮女候補やその一族の女性が、作業の手を止め足を止めて魅入る。
 そんな彼女たちに手を振って応えながら、リリーベルは菊花とは別の方向へ走っていった。

 リリーベルはこれから、最終選考の裏側で行われる作戦に同行する予定だ。
 黄家の屋敷で白い紅梅草が見つかった場合、判定できるのは彼女しかいないから。

 戦地へ赴く友人を見送るような気持ちで、菊花はリリーベルの背中へ密やかに声援を送ったのだった。
   飛び込むようにして厨房へやって来た菊花(きっか)を待っていたのは、腕輪ほどに小さくなった香樹(こうじゅ)の兄だった。

 父である蛇晶(じゃしょう)帝は蛇であるにもかかわらず一部の人間と会話できるが、香樹の兄はサイズを自在に変えられるらしい。
 鎌首をもたげて警戒するように出入り口を見つめる蛇に促されるように、菊花は扉と窓をしっかりと施錠した。

 いつどこで、何をされるか分かったものではない。必要過多なくらい用心せよと、香樹(こうじゅ)から言い渡されている。
 しっかりと厨房を密室にしてから、菊花はリリーベルから贈られた白いエプロンをつけた。
 ()の国では、フリルがついたエプロンは新婚夫婦のお嫁さんの定番らしい。

「まだ、嫁じゃないけどね」

 照れ隠しに蛇の頭をチョンと突くと、抗議するように舌をピルピルされる。
 笑って謝りながら、菊花は作業に取り掛かった。

 アフタヌーンティーのメニューは、戌の国ではわりとよくある内容になっている。
 きゅうりをパンに挟んだサンドイッチにクッキーやケーキ。スコーンにはジャムとクリームを添えて。

 もともと食べることが好きな菊花だ。美味しいものを作ることも、大好きである。
 嬉しそうに鼻歌を歌いながら、菊花は手早く準備を進めていった。

 今回作るものは、リリーベルが王妃である義母から教わったという王家伝統のレシピだ。
 義母から嫁へと伝えられてきた、王族に嫁いできた者にしか教えてもらえない特別なもの。
 それをなんと、菊花は教えてもらうことができたのである。

 こんなこと、通常ではあり得ない。
 本来は王家に嫁いできた者にだけ教えてもらえるものなのだが、菊花は香樹が選んだ娘ということで、やすやすと公開してくれたのだ。

 リリーベル曰く、王妃は天涯孤独の身の上である菊花をすごく心配していて、「リリーベルが姉ならば、わたくしは母……はおこがましいので、おばと思って頼ってほしい」と言ってくれたのだとか。
 その隣で国王が涙を流して王妃を「女神のようだ」褒め称え、飛びつかんばかりに褒め称える夫に、王妃は「ステイ」と叫んでいた──とリリーベルの夫からの手紙には書いてあったらしい。

 その話を聞いて、菊花はなるほどと頷いた。
 もっとも、さすがに隣国の王妃様をおば扱いするのは気が引けて、丁重に断ったのだけれど。

 リリーベルが言っていたように、獣人やその伴侶たちは、菊花に優しい。
 いつか恩返しせねばと意気込んでいたら、リリーベルは「いらないよ」と笑って答えた。

「獣人に番が見つかることは、喜ばしいことだ。中には、一生見つからない場合もあるからね。だから、協力するのも当たり前。そう難しく考えないで。そうだな……いつか、菊花の力が必要になる時がくるかもしれない。その時は、私や義母がそうしたように、菊花も協力してほしい。それが、恩返しになるのだから」

 私の時もね、いろいろな人が助けてくれたのだよ。
 言いながら、リリーベルは菊花の隣でクツクツとジャムを煮ていた。

 赤い林檎は皮と一緒に煮ると、黄色の実が淡い赤色に染まってとても綺麗だ。
 それに、林檎の赤は香樹の目を思い出させる。
 菊花は迷いなく、たくさんあった果物の中から林檎を選んだのだった。

「思い出し笑いしている暇があったら、どんどんやっていかないとね!」

 やることはいっぱいである。
 なにしろ、パンを焼いたりジャムを煮たりするところから始めなくてはいけないのだ。

 正妃になるのは菊花だと、香樹の中で決まっているのだとしても。
 やはり菊花としては、全力で試験に臨みたい。

(正々堂々戦って、(こう)珠瑛(しゅえい)に勝つ!)

 菊花の気持ちは、きっと香樹に伝わるはずだ。
 自分ができる精一杯で、香樹を喜ばせよう。
 冷たい横顔が解ける瞬間を想像して、菊花はむん! と気合いを入れた。

 窯からパンの香ばしい匂いが漂う。
 焼き立てのそれを窯から取り出し、代わりにスコーンを入れる。そうかと思えば、鍋の中身をかき混ぜてーーと、時間はあっという間に過ぎていった。

 サンドイッチに、クッキーやケーキ。スコーンにはジャムとクリーム。
 ようやっと完成した料理を前にして、菊花は仁王立ちして得意げにうなずいた。

「これは……満身の出来だわ!」

 あとはこれを会場へ持って行って、三段重ねの皿に並べ、紅茶を準備したら完成である。
 満足げに息を吐いたのとほぼ同時に、銅羅(どら)の音が遠くで響いた。
 準備時間終了まであと半刻(いちじかん)、という合図である。

「いけない! そろそろ着替えをしないと間に合わないかも」

 でき上がった料理を、持ち運びできるように箱に入れる。
 毒なんて入れられたらたまったものではないから、着替えの時も手放したくない。
 倒れないように気をつけながら、菊花は箱を持ち上げようとした。と、その時である。

 コンコンコン。

 施錠していた厨房の戸が、叩かれた。

「菊花様? そこにいらっしゃるのでしょう?」

 聞こえてきた声は、桜桃(おうとう)のものだった。

(どうして、桜桃がここへ……?)

 身構える菊花の気配を察したのか、少しの間を空けて、桜桃が再び声をかけてくる。

「あの、私、謝りたくてここへ来たの。あなたには、随分と嫌なことをしてしまったでしょう? きっと私は、最終選考で落とされるから……だからせめて、悔いだけは残さないように、謝る機会をくれないかしら?」

 桜桃は、涙声だった。
 彼女が心から後悔しているように思えて、菊花は扉へ近づく。

「本当に、そう思っているの?」

「私のわがままだって、分かっているわ。でも、お願い。そうしないと私……。私ね、妃に選ばれなかったら、別の人と結婚することが決まっているの。相手は、すごく年上で、私は後妻。お金には苦労しないだろうけれど、幸せとは言い難いと思うわ。だからせめて、あなたのことだけはちゃんと終わりにして、気持ちよく嫁ぎたいの。お願い、菊花様。私に、機会をちょうだい」

 桜桃はしゃくり上げながら、そう言った。
 聞いている菊花の胸が締め付けられるような切ない声。
 だから菊花はつい絆されて──扉を、開けてしまった。

 開いた扉の先に居た桜桃は、目に涙なんて浮かべていなかった。
 菊花を見るなり、「やっと出てきた」と無機質な硝子玉のような目でにらみつけてくる。

「遅いのよ、あなた。さっさと出てきてくださる? 私だって、暇じゃないの」

 菊花は反射的に、くるりと(きびす)を返した。
 後ろは厨房で、外へ逃げる道は窓しかない。
 調理台の上に置きっぱなしになっていた鍋を掴んで、なんとか武器を確保する。

 だけれど、それも無駄だった。
 桜桃の後ろから出てきた男にあっという間に捕まって、菊花は床へ引き倒された。

「うぅっ!」

 逃げようともがく菊花の前に、桜桃はしゃがみ込んだ。
 桜桃の手には香炉があって、彼女は煙が立ちのぼるそれを菊花の目の前に置く。
 気持ち悪いくらい甘ったるい匂いが、菊花の鼻に届いた。

 嫌な予感しかしなくて、菊花は匂いを嗅がないように顔を背ける。
 だが、男が背を押さえつけてくるせいで胸が苦しく、耐えきれずに吸ってしまう。

 甘い匂いが、意識を奪い去っていく。
 朦朧とする菊花に、桜桃は楽しげにささやいた。

「あなたを捕まえて引き渡しさえすれば、蘭瑛(らんえい)様が私を後宮に残してくださるのですって。後宮に残れれば、こっちのもの。珠瑛様が正妃だとしても、陛下の子を身籠もれば……私にだって好機(チャンス)はある

 桜桃の声が、ぐわんぐわんと頭に響く。
 足首に感じたヒヤリとした温度を最後に、菊花の意識は底へ底へと沈んでいった。
「……っ!」

 プツンと肌を刺す痛みに、菊花(きっか)は目を覚ました。
 痛みはすぐに広がって、じわじわと熱を帯びる。

(な、に?)

 ぼんやりとした意識の中、菊花は痛みを覚えた腕をさすろうと手を動かした。が、動かない。

 ゆっくりと体を見下ろせば、菊花は椅子に拘束されているようだった。
 手足が椅子に括り付けられている。

桜桃(おうとう)(だま)されたんだ)

 かわいそうに思って戸を開けたら、桜桃の後ろに隠れていた男に引き倒されて、彼女が持ってきていた怪しい香を嗅がされた。
 あれはたぶん、意識を混濁させる香なのだろう。鼻の奥にまだ、甘ったるい匂いが残っている。

(この程度で済んだのは、訓練のおかげね)

 リリーベルに感謝だ。登月(とうげつ)柚安(ゆあん)にも。

 それにしても、ここはどこだろう。
 菊花は、焦点の合わない目を凝らして、周囲を見回した。

 華やかな部屋だ。壁には絵が描かれていて、朱塗りの柱も磨き抜かれている。
 見える範囲にある調度品はどれも、高価そうだった。

 身じろぎするようなかすかな音を頼りに視線を動かすと、椅子に腰掛けた男が見えた。

 ほっそりとした痩せこけた体に、不似合いなくらい上等そうな服。黒い髪には白髪が交じり、男が壮年であることが窺い知れた。
 ぼやけた視界で子細までは分からないが、神経質そうな雰囲気を持つ男である。

(確か桜桃は、私の身柄を蘭瑛(らんえい)に引き渡すと言っていたわ)

 もしや、この男が蘭瑛なのだろうか。
 年齢的には、珠瑛の父親と言われても納得ではあるが……。

「……、……?」

 意を決して声をかけようとして、菊花は驚いた。
 声を出そうとしているのに、ヒュウヒュウと息しか出てこない。
 菊花の喉は声の出し方を忘れてしまったかのように、機能していなかった。

(どうして?)

 その疑問は、目の前の男が答えてくれた。

「どうして、と思っているのだろう? 答えは簡単だ。私が、おまえの声を奪ってやったからだよ」

 男は立ち上がると、ゆらりゆらりと覚束ない足取りで菊花の前へ歩いてきた。
 そして、乱暴に彼女の髪を一房掴み上げる。

「……!」

 ブチブチと音がして、何本かの髪が千切れた。声が出ていたら、「痛い、離して!」と叫んでいたに違いない。
 痛みに顔をしかめながら、菊花は男をにらみつけた。

「おお、怖い怖い。さすが、蛇を手なずけるだけはある。この状況でそんな反抗的な態度が取れるとは。お見それするよ。なんて、愚かな娘だ。声帯を使えなくしておいて正解だったな。そんな状態では、きっとうるさく騒いでいたに違いない」

 私は、女の甲高い声が嫌いなのだ。
 そう言って、男は水たまりの中でふやけたみみずの死骸を見るような目で菊花を見た。

 自分から菊花の髪を掴んできたくせに、髪を掴むことさえ汚いと思ったのか、彼女の髪を投げ捨てて、懐から取り出した手巾で手を拭う。

「ところで、娘。おまえは知っているか? 夾蓮花(きょうれんか)という植物には毒があってな。それを摂取すると、どうなると思う?」

 夾蓮花。蓮の花によく似た綺麗な花だが、毒がある。
 その効果は、体温の上昇。異常なくらいに体温を上げ、死に至らせる。

 だが、薬として使われることもあった。
 薬として使われる場合、霜焼けに効果があるとされている。

 リリーベルの研究室で、菊花はさまざまな毒や薬に触れた。
 そのおかげで、夾蓮花の効果も十分過ぎるくらい理解している。

 先程のプツリと刺されたような感覚は、まさかこれを注射されたのだろうか。
 菊花は信じられないような思いで、目の前の男をにらみ続ける。

「熱が上がるのだ。人はな、体温が許容限界を超えた温度になると、六刻(じゅうにじかん)ほどで死に至る危険性が高くなり、さらにもっと高温になると短時間でも回復できなくなるのだ。ふぅむ。おまえには少々難しい話だったな。つまり、だ。馬鹿なおまえにも分かるように説明すると……」

 男の唇が、奇妙に引き攣れる。
 気持ち悪さに、思わず菊花は身を引いた。

「おまえは、ここで、毒殺される。私の手によって、な」

 男の手から、注射器がスルリと落ちた。
 かたい石の床の上に落ちたそれが、四方に飛び散る。

 注入された毒のせいだろう。
 自覚させられたせいなのか、菊花の体が信じられないくらい熱くなる。

 風邪をひいた時以上に、熱くてたまらない。
 今まで何度か死ぬかもしれないと思った菊花だったが、今度こそ本当に死ぬのだと思った。

(動いたら、早く毒が回る。おとなしくしていたら、少しは長く生きられるはず)

 試験に菊花が居なければ、きっと誰かが探してくれるはずだ。
 怖いけれど、それ以外にどうすることもできない。

 菊花のこめかみを、汗が伝う。
 それは毒のせいで熱があるせいなのか、恐怖による汗なのか。

 もっと早く毒に耐性をつけていれば。
 そう思っても、もう遅い。夾蓮花の毒の耐性は、まだなかった。

「死ぬのが怖いか? 大丈夫だ、一人では死なせない。もう一人、道連れを用意しているからな。ん? 誰かって? おまえと一緒に死にたがるやつなんて、一人しかいまいよ」

 男は笑う。楽しそうに。
 言っている内容と表情がちくはぐで、それがとても恐ろしい。
 震える菊花の後ろで、扉が開く音がした。
「お連れしましたわ」

 ドサリ。

 菊花(きっか)の隣に、何かが突き飛ばされた。
 綺麗に磨かれた床の上に、銀糸が散らばる。

 否、銀糸ではない。サラサラと流れるように散らばるのは、髪の毛だ。
 それも、菊花がよく知る人物の。

香樹(こうじゅ)……!)

 文字通り声にならない叫びを上げて、菊花は身をよじった。
 椅子に括り付けられているせいで、床に転がされている香樹の状態がよく分からない。
 ガタガタと椅子を揺らしていると、背後から「うるさいわよ」と不機嫌な声でたしなめられた。

(こう)家自慢の媚薬にも屈しないなんて。毒に慣れた体というのは本当に、厄介ですわね」

 カツカツ、と足音が近づく。
 床に転がされる香樹の横を通り、菊花の目の前にいる男の隣で、彼女──珠瑛(しゅえい)は止まった。

「媚薬も効かぬか。ならば、仕方あるまい。やはり当初の予定通り、この二人には死んでもらって、おまえには新しい皇帝の正妃になってもらう」

「そうしましょう、お父様」

 お父様、と珠瑛は確かに言った。
 目の前にいる男はやはり、蘭瑛(らんえい)だったのだ。

 だが菊花にとっては、そんなことは瑣末(さまつ)なことだった。
 心配なことがある。香樹だ。

 床に転がされたままの彼は、浅く息はしているものの身動き一つしない。
 体を丸めて、まるで冬眠中の蛇のようにピクリとも動かないのだ。

(香樹!)

 ガタガタと椅子を揺らし続けていたら、弾みで床に転がる。
 それでも芋虫みたいに床を這って香樹のもとへ行こうとする菊花に、黄父娘(おやこ)は嘲笑を向けた。

「なに、心配することはない。次の皇帝はもう、決めてある。先帝の妹御が産んだ男が、()の国にいるのだ。金の髪に青の目を持つらしい。異国の人形のように可愛らしい顔立ちをしているそうだからな。おまえもきっと気に入る。呼び寄せる手筈は既に、整っておる。おまえはただ、待っているだけで良い」

「まぁ! では、予定通り、彼女と陛下は殺すのですね? 菊花様は正妃に選ばれなかったことを苦にして無理心中を図り、恐れ多くも皇帝陛下を毒殺。そしてその後、服毒自殺をする……筋書きは、これでよろしかったでしょうか?」

「ああ、そうだ。既に娘の方には夾蓮花(きょうれんか)の毒を注射してある。ほら、見てみろ、あの真っ赤な顔を。じきに意識が混濁し、脳が破壊され、死んでいくだろうよ。それで? 珠瑛、おまえの方はどうなのだ?」

「滞りなく。香樹様には、白梅草(はくばいそう)の毒を飲ませてありますわ。毒蛇ですら死に至る、特別な毒……眠るように死ねるなんて、ちょっとつまらないですけれど」

 少しくらい苦しんだ方が、面白いですわ。
 そう言って、珠瑛は真っ赤な唇を歪めた。

 菊花の脳裏に、過ぎる動物がいる──猫鼬(マングース)だ。
 かわいらしい見た目をしているが、毒蛇をも食らう生き物である。

「そう言うな。毒に慣らされた皇族をも殺す毒など、早々作れぬ。白梅草とて、何十年も研究してようやく完成したのだぞ」

「皇族しか殺せないなんて、つまらない毒ですわ。もがき苦しんで、苦しんで苦しんで死んでいくのが面白いのですよ? ああ、嫌ですわ。また殺したくなってきてしまいました」

「仕方のない子だなぁ。じわじわとやるつもりだったが、とっておきの仕掛けを教えてやろう。実はな、この部屋には毒が仕込まれているのだ。皇族は殺せないが、もう一人は……見るも無残な死体になるだろう」

「まぁ、すてき! でもお父様。こんなに一気に殺してしまって宜しいんですの? お父様の破壊衝動は、皇族が死ぬことで落ち着かれるのでしょう?」

「構わぬ。その時はその時だ。どうにもならない時は適当に選んで気分転換させてもらえば良い」

 黄父娘は、まるで雑談をするように笑い声を上げながら話し続ける。
 信じられない話ばかりで、菊花は夢だと思いたくなった。

(だけど、これは現実)

 どうにかして、現状を打破しないといけない。
 唇を噛みしめ、菊花は熱に耐えながら考える。

(たとえ私が死んでしまったとしても。せめて香樹だけは、生き延びてもらわないといけない)

 なにか、なにかないだろうか。
 必死になって周囲を観察する菊花の目に映ったのは、足首に巻き付いている香樹の兄の姿。

(白い紅梅草の毒で亡くなった、香樹のお兄さん。彼なら、もしかして……)

 ある可能性を見いだして、菊花の目が輝く。

 その時、微かに足音が聞こえてきた。
 近くなったり、遠くなったり、何かを探しているような声も聞こえてくる。

「おっと、もうこんな近くまで探しに来たか。では珠瑛、私たちも陛下を探しに行くとしよう」

「そうですね、お父様。死にざまを観察できないのは残念ですけれど、せめて最期くらいは二人きりにしてあげますわ。だから、ちゃんと死んでくださいね? では、ごきげんよう。あの世でお幸せに」

 まるで結婚した二人を祝福するような口ぶりで、珠瑛はクスクスと笑った。
 その顔はとびきり美しくて、とびきり醜悪である。

 珠瑛を連れ立って、蘭瑛は部屋を出て行く。
 それからすぐに、仕掛けは動き出した。

 カラカラカラ、と。
 歯車が回る不気味な音が聞こえだし、何かがはじまる。
 不気味なカラクリ音は、まるで菊花の命の残り時間を数える悪鬼の声のよう。

 絶望に目の前が真っ暗になりそうだ。
 それでも菊花はなんとか香樹だけでもと、その一心で耳を澄ませた。
 扉の向こうで、大勢の話し声が聞こえてくる。

「蘭瑛様! 陛下は……」

「こちらにはいないようだ」

「そうですか」

「ええ。あちこち見てきましたが、陛下はいらっしゃいませんでしたわ。別の所へ行っているのかもしれません」

 助けてと叫べたら、どんなに良かったか。
 だけれど、菊花はしゃべれない。
 声は、足音とともに遠ざかって行ってしまった。
 必死に頭を働かせる菊花(きっか)の傍らで、香樹(こうじゅ)はむくりと体を起こした。

「菊花、大丈夫か?」

 毒のせいでしゃべることができない菊花は、驚きつつも香樹の問いかけにうなずく。
 香樹の顔は、今まで見たことがないくらいに蒼白で、再会したあの日以上にひどい顔色だった。

 香樹の体温は今、ひどく低いのではないだろうか。

 心配そうに見つめてくる菊花に、香樹は「心配するな」と笑う。
 だがその顔はどう見てもはかなげで、今にも消えてしまいそうな危うさがあった。

(香樹の方こそ、大丈夫なの?)

 問いかけられないことが、もどかしい。
 物言いたげに見つめてくる菊花の前で、香樹は隠し持っていた小刀を取り出すと、彼女を拘束する縄を切り始める。
 はらりと解けた縄を払い除け、香樹は菊花を掻き抱いた。

「菊花……怖い思いをさせたな」

 香樹の胸に押し付けられるように強く抱きしめられて、彼の匂いに包まれた菊花はようやくホッと息を吐いた。

 もう随分と慣れ親しんだ彼の匂いが、菊花の焦りを和らげる。
 ぐずる子どものように香樹の胸に顔を押し付けて、菊花はしゃべれない代わりにぎゅっと彼を抱きしめ返した。

「良かった、間に合って。おまえがいなくなったと聞いて、どうしようかと思ったぞ」

 毒のせいで体温が上昇しているからだろうか。
 香樹の体は、信じられないくらい冷たかった。

 皇帝陛下のあたため係として、初めて呼ばれたあの日よりも冷たく感じる。
 ひんやりとした肌は火照る菊花の肌から熱を奪うのに、それでもあたたまる気配がなかった。

(本当に大丈夫なの? だってあなた、白い紅梅草(こうばいそう)の毒を飲まされたのでしょう?)

 問いかけられない代わりに、菊花は抱きついていた手で香樹の背をたたく。
 だが、香樹はより一層強く菊花を抱きしめてくる。と、そこで菊花は気がついた。

 香樹の体が、カタカタと小刻みに震えているのだ。
 寒くて寒くてたまらないのか、すがるように菊花に身を寄せてくる。

 いつもだったらすぐに体温を分かち合えるのに。
 菊花はこんなにも熱いのに、香樹には足りないらしい。

(どうして……)

 珠瑛(しゅえい)白梅草(はくばいそう)と言っていたものは、おそらく白い紅梅草のことだろう。
 そして、彼女はなんと言っていたか。

『滞りなく。香樹様には、白梅草の毒を飲ませてありますわ。毒蛇ですら死に至る、特別な毒……眠るように死ねるなんて、ちょっと、つまらないですけれど』

 まるで、期待していた玩具が予想していたほど面白くなかった子どものように。
 彼女は残酷なことを平然と言い捨てながら、心底つまらなそうな顔をしていた。

 蛇晶(じゃしょう)帝や、香樹の兄を殺したという、毒。
 それを、香樹にも飲ませたというのなら。

(あなたにしか、できないわ!)

 もはや、安全性など構っていられない。
 可能性はゼロではないと自らに言い聞かせながら、菊花は動いた。

 足首に巻き付いていた蛇を掴むと、香樹の腕にその口を持っていく。
 蛇は心得たとばかり、腕にガブリと噛みついた。

 白梅草の毒で死んだ、蛇晶帝。
 彼の体から採取した血液から毒を特定できたのなら、同じ毒で亡くなった兄には抗体があるのではないかと菊花は考えたのだ。

 とんでもない荒療治だと思う。
 しかしこのまま死を待つくらいなら、最後まで抗ってやりたかった。

 祈るように待つ間も、部屋の仕掛けは止まらない。
 床の一部がぐるりと回転して、筒状のものが上を向く。小さな煙突のようなそれから、シュウシュウと毒が流れ始めた。

(もう、香樹をあたためることもできなくなるのね)

 その時ふと、(らん)先生から聞いた話を菊花は思い出した。
 このタイミングで思い出したのは、それが死ぬ前にしておきたいことだったからかもしれない。

(男の人の体温を上げる、最も効率が良い方法。それは房中術だと、藍先生は仰っていました)

 菊花の喉がゴキュンと鳴る。
 覚悟を決めた彼女は、眠っているように静かな香樹の唇に、自身の唇をゆっくりと近づけていった。

 ドキドキと胸が早鐘を打つ。
 心臓が、口から飛び出そうなくらいだった。

 もうすぐ出る、今すぐ出る! というところでようやく、唇が目的地に到着する。
 少し的は外したが、唇の端に口付けることに成功した。

「ふふ。やわらかい」

 菊花は満足そうな笑みを浮かべ、コトリと倒れ伏した。
 ふっと意識が浮上する。
 目を覚ました香樹(こうじゅ)は、傍らで倒れ伏している菊花(きっか)を見て青ざめた。

「菊花!」

 抱き起こし、息を確かめる。
 微かに上下する胸に安心したのもつかの間、周囲を見回し状況を把握した彼は、このままでは菊花が危ないと慌てて抱き上げた。

「しっかりしろ。頼むから、私を一人にするな」

 幸い、この部屋のことはよく知っていた。
 にわかの蘭瑛(らんえい)よりも、ずっとくわしく。

 この部屋は、毒で満たされてから一定時間が経過しないと開閉できないようになっている。
 使用される毒は非常に特殊で、ある一定の高さまでしか満たされない。背の高い者、あるいは何かに上がりさえすれば、助かる仕組みになっていた。

 香樹はすぐさま菊花を担ぎ上げると、椅子に上がった。
 菊花の顔が天井近くにいくよう、できる限り持ち上げる。

「もうすぐの辛抱だからな」

 宥めるように背中をたたくと、微かな反応が返ってくる。
 自らへ言い聞かせるように菊花を激励しながら、香樹は部屋の扉が開錠されるのを待った。

柚安(ゆあん)なら、合図に気がつくはずだ」

 待つだけしかできない自分が、歯がゆかった。

 万全を期したつもりだったのに、この体たらく。
 いっそのこと死んでしまいたいくらいだったが、菊花だけは死なせたくない。

 香樹は菊花の無事だけを祈りながら、永遠にも思える時間を耐えた。

 どれくらい、そうしていただろう。
 やがて仕掛けは毒を吐き終え、霧が晴れるように消え去っていく。
 見計らったかのように、柚安は入室してきた。

「……意外と元気そうですね?」

「菊花のおかげでな。兄の毒で白梅草(はくばいそう)を中和させたようだ」

「へぇ……やりますね」

「それより、菊花は夾蓮花(きょうれんか)の毒を注射されたようだ。中和剤はあるか?」

「もちろん」

 柚安はすばやく準備をすると、慣れた手つきで菊花に中和剤を注射した。
 おそらく数日は寝込むでしょうと告げながら、まくった袖を直す。

「そちらはどうなった?」

 香樹は床へあぐらをかくと、股の間に菊花を座らせながら柚安を見た。
 その様は、命の次に大事にしているおもちゃを取られそうになっている子どものようで、柚安はひょいと肩を竦ませる。

「そんなに警戒しなくても、菊花様を取ったりしないって。僕にはこわくてかわいい妻がいますからねぇ……で、こっちですが。問題なく片付きましたよ。(こう)蘭瑛(らんえい)、並びに娘の珠瑛(しゅえい)はすでに捕らえ、牢にぶち込んである。(しゅ)紅葉(こうよう)(りょく)桜桃(おうとう)もね」

「リリーベルの方は?」

「黄家屋敷の地下より、白い紅梅草を見つけたそうだ。リリーベル様が確認したところ、皇族殺害に使用された毒と完全に一致」

「そうか」

「黄家屋敷は今頃、火だるまですよ。残っていた使用人が火を放ったのだとか」

「証拠隠滅を図ったか」

「でしょうね。でも、問題ない。証拠は全て、そろっている」

 すべて、あなたの望むままに。
 そう言って、柚安は胸に手を当て仰々しく頭を下げた。

「そうか」

 何を考えているのだろうか。
 香樹は菊花の乱れた髪を撫でつけながら、どこを見るでもなく視線を彷徨(さまよ)わせている。
 その顔は、安心したような、しかし寂しそうな表情をしていた。

 黄父娘は捕まり、屋敷は燃やされた。
 これから、どうなるのか。

 皇族を殺すなど、大罪だ。
 法に(のっと)るのならば、主犯は処刑。一族は財産を奪われ、大小の違いはあれど肉刑に処される。

 近い未来、菊花は少なからず心を痛めるだろう。
 そのことを思うと、香樹は少しだけ胸が苦しくなるのだった。
 その後、菊花(きっか)香樹(こうじゅ)はそれぞれの部屋へ運ばれた。
 といっても、香樹が菊花と離れたくないと年甲斐もなく駄々をこねたため、菊花の部屋は香樹の部屋の隣である。

 夾蓮花(きょうれんか)の毒の影響で、菊花は三日三晩寝込んだ。
 声帯を使えなくする毒もリリーベルが薬で中和してくれたが、こちらは効果が出るまでしばらくかかるらしい。

 その間の香樹はと言えば、リリーベルが呆れるくらいの強靭(きょうじん)さで、翌日には自ら菊花の看病をするくらいまでには回復していた。
 菊花が施した一か八かの早期治療が功を奏したのもあるのだろう。

 表向きは療養とされているが、実際にはちっとも休んでいない。
 四六時中菊花のそばにいて、寝込む彼女を甲斐甲斐しく世話していた。

 とはいえ、香樹は看病などしたこともない。
 慣れない手つきで懸命に菊花に何かしてやろうとする姿は滑稽だが、愛に満ちている。

「まるで子どもみたいに無邪気に笑うねぇ」

「あの方も、あどけない顔をするのですね」

 扉の隙間からこっそりとその様子を窺っていたリリーベルと登月(とうげつ)は、同じタイミングでつぶやいて、苦笑いを浮かべながら互いに顔を見合わせた。

 扉の向こうでは、ドンガラガッシャンと何かをひっくり返した音がしている。
 それから、謝る香樹の声と、まだ本調子ではない菊花の掠れた笑い声も。

 心の中で「陛下、がんばれ」と声援を送りながら、二人はそっと扉を閉めた。

 廊下に出ると、騒がしい音が聞こえてくる。
 蛇晶(じゃしょう)帝の後宮をあとにする、宮女候補たちが里帰りの準備をしているのだ。

「なぁ、登月」

「なんですか、リリーベル様」

「私は夫に会いたくなってしまったよ」

「では、そろそろお帰りになるのですか?」

「そうだねぇ。かわいい妹の声が戻るまではと思っていたけれど、仲睦まじい二人を見ていたら、無性に会いたくなってしまってね。もうだいぶ回復しているし、そろそろ良いかとも思っている」

「寂しくなりますね」

「それは本心かい? ちっとも感情が篭もっていないけれど」

「寂しくなるのは菊花ですから」

「なるほど」

 それなら納得だと、リリーベルはカラカラと笑った。

 まもなく、ここは取り壊される。
 蛇晶帝の後宮が解体されることで、蛇香(じゃこう)帝の新たな後宮が完成するのだ。

 遠い()の国の方を見つめて、リリーベルは愛しい夫の名をつぶやいた。
 (こう)蘭瑛(らんえい)、並びに娘の珠瑛(しゅえい)は、皇族だけでなく数多(あまた)の人を殺害した罪により、斬首の刑が下された。
 しかし、あまりにも多い罪の数と、当人たちに反省の色が全く見られないことから、それだけでは償いきれないとされ、本来はどんな者であろうと死者は埋葬するのが()の国の風習であるにもかかわらず、遺体は埋葬されることなく山奥へ打ち捨てられた。

 黄一族は全財産を没収。
 大小の違いはあれど、肉刑に処された。

 また、黄一族に加担していた(しゅ)一族と(りょく)一族にも刑が言い渡された。
 結果、肉刑は免れたものの、財産の半分以上が没収。実質、没落である。

 朱紅葉(こうよう)は皇帝陛下殺害に加担した罪で、緑桜桃(おうとう)は宮女候補である菊花(きっか)(かどわ)かした罪により、()詠明(えいめい)と同じく貴族専用の牢獄の中である。

 懲役は十年。
 刑期を終えて外へ出られたとしても、もう以前のような華やかな生活には戻れない。泥水をすするような人生が待っているだろう。

 のちに、この一連の事件は物語として語り継がれることとなる。
 正妃になるために手段を(いと)わない残忍な娘が、毒を使って邪魔者を消していくという、背筋の凍るような話として。

 夏の夜には、涼を求めてそこかしこで語られるようになるだろう。
 今も、とある山の奥からは彼女の断末魔が聞こえるのだとか。

 これらは全て、菊花は知らないことになっている。
 思いのほか過保護な香樹(こうじゅ)が、彼女から遠ざけたためだ。

(でも、それでは私があなたを守れない)

 菊花は、守られるだけのか弱いお姫様ではない。
 野を駆け、野草を摘み、時に猪から逃げ果せる……何もない田舎村で生き抜ける、たくましい少女なのだ。

(たとえあなたが、私を守るために皇帝陛下になったのだとしても。私は、守られるだけなんてまっぴらごめんよ)

 香樹を守るためならば、どんなことも受け入れる。努力してみせる。
 だってそうしないと、香樹は菊花を守るために何をしでかすか分かったものではないのだ。

 現に菊花が(さら)われた時、最も手っ取り早いのが毒を飲むことだったという理由で、彼は珠瑛が出した茶を白梅草入りと分かっていながら飲んだらしい。

(お兄さんの毒が効かなかったら……)

 考えるだけで、心臓が止まりそうになる。

「──教えてくれてありがとう、柚安(ゆあん)

「いえいえ。こちらも仕事なんで」

 宦官の柚安は、もういない。
 今、菊花の目の前にいるのは、密偵(おつかい)の柚安である。

 日焼けして色褪せた黒髪に、青い目をした青年。
 それが、本来の彼の姿らしい。

 柚安は、香樹の命令で菊花の護衛兼密偵として宦官に成り済まして後宮に入っていた。
 本来、後宮には皇帝陛下以外の男は居られないが、香樹が信頼できる人物であること、そして柚安が恐妻家であることで、特例として許可されていたそうだ。

「僕が教えたって、陛下には言わんでくださいよ?」

「言わないわ。教えてくれてありがとうね、柚安。お礼はそれで良かったの?」

 菊花の言葉に、柚安はひょいっと肩を竦めた。どういたしまして、と言うように。
 それから、穴蔵から出てきた野兎のように部屋の外を気にかける。

「ええ、十分ですよ。毎晩飲んでいたせいで、すっかり習慣付いてしまいまして。毎日飲まないとどうにも調子が出ない。正妃自ら淹れた茶なんて、そうそう飲めるものでもないですしね。情報料は、これで結構です」

 茶杯をクイっと傾けて、柚安は茶を飲み干した。

「では、そろそろ陛下が来るみたいなんで、僕は行くとします。また何かありましたら、遠慮なく呼んでください」

「ええ、分かったわ。茶飲み友達がいなくて寂しくなったら、呼ばせてもらう」

「その際は、女官の花林(かりん)に言付けを」

「ふふ。あなたの奥さんにね? 分かった」

「では」

 柚安はクスクスと笑う菊花に、バツが悪そうに唇を尖らせて去っていった。
 ほどなくして、女官が「皇帝陛下のおなりです」と告げてくる。
 長椅子に腰掛けていた菊花は、部屋の入り口へと歩いていった。

「こちらへおいで、菊花」

 優しい声が、名前を呼ぶ。
 くすぐったそうに微笑んで、菊花は差し出された手を取った。
 あたたかな日差しの下を、手に手を取って歩き行く。
 
 日に照らされて、白銀色の髪が光り輝いていた。
 菊花(きっか)は眩しそうに、それを見上げる。

 煮詰めた蜜のように甘い視線。
 菊花の唇がむずむずしてくる。

 宮女候補として後宮へやって来てから、約一年。
 まさかこんな日が来ようとは、誰が思うだろうか。

 ただの田舎娘でしかなかった少女、菊花。
 彼女は正式に、蛇香(じゃこう)帝の正妃となった。

 といっても、大々的なお披露目はまだ先である。
 今日は今から、引っ越し。菊花の少ない持ち物はすでに運ばれ、あとは彼女だけとなっている。

 花弁が敷き詰められた小径の先にあるのは、これから菊花が生きていく場所──蛇香帝の後宮である。
 香樹と菊花の名前から取って、名を菊香殿(きっこうでん)というらしい。

 菊香殿は、蛇晶帝の後宮よりもこぢんまりしているそうだ。
 香樹曰く、家は小さければ小さいほど良いのだとか。

「その方が、おまえとくっついていられる」

「くっつかなくちゃいけないほど小さな家なの?」

 夜、戯れながらそんなことを言い合ったのは、つい最近のことである。

 気持ちが通じ合ってから、香樹は以前にも増して菊花をそばに置きたがるようになった。
 夜と寒い日だけだったのが、最近はずっとである。

 菊花の看病で、そばにいる居心地の良さにすっかり味をしめてしまったらしい。
 困った皇帝陛下である。

 蛇晶(じゃしょう)帝だが、彼はまだ生きている。
 菊花はてっきり、(こう)一族の後始末が終わったらお別れだと思っていたのだが、そういうわけにはいかないらしい。

「孫を見るまでは死ねぬ! 菊花、頼む! ぜひ、女の子を! 女の子を見せておくれ!」

 菊花の隣で、香樹が「子の性別は男側で決まると教わったのに、何を言っているのだこのじじいは」と言っていたが、見事に聞き流されていた。

 香樹の兄は、すべての刑が執行されるのを見届けた日に、ひっそりと姿を消した。
 香樹は淡々と、

「おそらくは呪いが解けて自由になったのだろう」

 と言っていたけれど、菊花は知っている。本当は、もっと一緒にいたかったことを。

「あっ」

 菊香殿の屋根が見えてきた。
 サラサラと聞こえるのは水の音だろうか。
 ()の国より結婚祝いで噴水が贈られたと言っていたから、それかもしれない。

 後宮へ来た初日、噴水を齧り付くように見入っていた菊花のことを、登月(とうげつ)が覚えていたらしい。
 それを聞いたリリーベルが王妃と相談し、贈るに至ったのだとか。

 登月といえば、彼は宦官を二分していた月派の頭を次の世代へ引き継いだそうだ。

「これからはのんびりと、あなたと陛下に茶を振る舞って生きていきます」

 と、まるで隠居した老人のようなことを言いながら、登月は笑っていた。

 その顔が少し寂しげに見えたのは、もしかしたら落陽(らくよう)のせいかもしれない。
 落陽が罪に問われることはなかったけれど、珠瑛を推薦した以上自身にも(とが)はあるとして、彼は自ら後宮を去った。

 リリーベルは、菊花の回復を待たずして戌の国へと帰っていった。
 菊花と香樹を見ていたら、夫君に逢いたくてたまらなくなったそうだ。
 一刻も早く逢いたいのだと、用意した馬車ではなく早馬で駆けて行った。

 つい先日届いたばかりの手紙には、さっそく「夫が鬱陶しい」なんて愚痴が書いてあったけれど、次の行では「夫がかわいくてたまらん」と書いてあって、結局惚気だった。
 王妃からは孫の催促をされているらしいが、惚気るくらいだからそう遠くない未来に王妃の願いは叶いそうだとも思う。

(私もいつかは、香樹との間に子どもがほしいわ)

 香樹との子どもは、卵で生まれるという。
 どのように生まれて、どのように育つのか。菊花は興味津々である。

 楽しげにほおを緩ませる菊花に、香樹も笑みが浮かぶ。

「何を考えている?」

「あなたとの子どもはどんな子かしらって考えていたわ」

「……それなのだが」

 言いづらそうに淀む香樹。
 らしくない彼に、菊花は首をかしげた。

「うん?」

「しばらくは、その……二人きりが良い」

 駄目か、とねだるように耳元でささやかれては、たまったものではない。
 とんでもない破壊力だ。
 菊花は、熱で耳が溶けるのではないかと思った。

 溶けないように両手で耳を押さえ、真っ赤になった顔で香樹をにらむ。
 そこに居たのは、情けない顔で(たたず)む一人の男。
 冷酷だと恐れられている皇帝陛下にはとても見えない、甘ったれた表情を浮かべている。

「もう」

 臆病なくせに、愛する人を守りたい一心で皇帝陛下にまでなった、菊花の大好きな人。

 本当は知っている。
 二人きりが良い理由がそれだけではないことを。
 見た目によらず、彼は家族を大事にする人なのだ。

(おじさまと……まだ離れたくないのでしょう?)

「仕方のない人ね」

 そう言って、両手を広げてみせれば、

「ありがとう、菊花」

 と言って、ひんやりとした体をすり寄せて抱き竦めてくる。

 フッと笑んだ香樹の手が菊花の顎に触れ、赤い双眸(そうぼう)が甘くにじんで境目をなくした。

「愛しているよ、私のあたため係」

 菊花の唇へ、香樹の唇が重なる。
 ひんやりとしていた唇が菊花の熱に触れてじわりと熱を帯びていく。

(ああ、これこそ皇帝陛下のあたため係(私のあるべき姿)

 徐々になじむ温度に、菊花はうっとりと目を閉じた。

作品を評価しよう!

ひとこと感想を投票しよう!

あなたはこの作品を・・・

と評価しました。
すべての感想数:44

この作品の感想を3つまで選択できます。

この作家の他の作品

公開作品はありません

この作品を見ている人にオススメ

読み込み中…

この作品をシェア