「……あれ?」
ボロ家とまではいかないがすてきな家とも言い難いわが家。
その前に見慣れないものを見つけて、菊花は首をかしげた。
いつものように食費を稼ぐために山へ分け入り、帰ってきたところだった。
そんな彼女はかごを背負ったまま、服はドロドロのひどいありさまである。どこかで転んだのか、あごのあたりにも泥がついていた。
「どうして馬車がこんな場所に?」
馬車なんて、貴族が乗るものである。
平民である菊花はもちろん、今は亡き両親だって縁があったとは思えない。
こんな田舎の、さらに町外れにある菊花の家の前に停まっているなんて、おかしな話だ。
(道に迷ったのかしら?)
この辺りまで馬車で来るのは、さぞ大変だっただろう。
道は整備されていないし、菊花の家は山のそばにあるのだから。
馬にとっては、迷惑な話である。
(山を越えてきたのか、これから越えるのか……どちらにしても、馬からしてみれば地獄のような仕打ちね)
菊花は背負っていたかごを下ろすと、畑の隅に転がっていた桶に水を汲み、どこか疲れた顔をしている馬たちに水を与えた。
馬たちにつけられた装飾品は、それなりに上等なものだ。その後ろにつながれた、馬車もしかり。
「貴族ってまではいかないけれど、それなりに裕福そうな馬車ねぇ」
商売に成功した商人あたりが乗っていそうな馬車だ。
こんな田舎でも、それくらいなら見たことはある。
もっとも、貴族の馬車なんて菊花は見たこともなかったから、あくまで彼女の独断と偏見による感想でしかない。
貴族といえば、皇帝陛下より偉くはないけれど雲の上のお人なのだから、目も眩むような豪華な馬車に乗っているに違いないと、思ったことがポロリと口から滑り出ただけである。
「おい」
馬車を見上げていたら、不機嫌そうな声がして、窓から男が顔を出した。
その瞬間、眩しい光が菊花の目に降り注ぐ。
慌てて目を背けていると、一人の男が馬車からえっちらおっちら降りてきた。
ふくよかな体形をした男だ。
髪の両脇は油のようなもので塗り固められていて、てっぺんである頭頂部はビカビカと日の光を反射させている。
(眩しかったのは、これのせいね)
脂ぎった頭頂部は、鏡のようになるらしい。
初めて知った知識を、菊花はこっそり心の手帳に書き記した。
菊花は、いろいろなことを知るのが大好きだ。
貴族ではないために学校へは行けないが、新しいことを知るたびに心の手帳に書き込むことにしている。
本当は紙に書いておきたいのだが、残念なことに家計の問題で難しいのだ。
新しい知識に上機嫌になっていると、男が菊花の方へ歩み寄ってきた。
でっぷりとした腹は、歩くたびにタプタプ揺れる。
(走る時、大変なのよねぇ)
菊花の場合は、腹より胸の方がよく揺れる。
走るとボヨンボヨンして、非常に走りにくいのだ。今日だって、山で遭遇した瓜坊に追いかけられて大変だった。
(美味しそう、って言ったのがまずかったのかしら?)
しかし、本当に美味しそうに見えたのだ。
猪の肉は、ごちそうである。
「おまえ、名は?」
男の目が、いやらしげに濁る。
猪の肉に思いをはせる菊花は、男の値踏みするような露骨な視線に気付かない。
「おい。聞いているのか?」
「へっ?! あぁ、すみません。菊花と申しますです」
男の苛立たしげな声に、菊花は慌てて答えた。
「ふむ。声は悪くないな」
首と一体化したような丸い顎を撫でながら、男は満足げに頷く。
その視線は相変わらず、ねっとりと菊花を捉えたままだ。
男は鼻の下に申し訳程度に生えたひげを撫でつけながら、ゆったりと菊花の周りを一周した。
(この人は、一体何をしているのかしら?)
「あのぅ……?」
問いかけて背後を見れば、男は前を向けと言わんばかりにシッシッと手を振る。
(私、犬じゃないのだけれど!)
これには菊花も腹が立ったようで、ムスリと顔をしかめた。
唇を尖らせて、男のお望み通りに前をにらみつける。
「ふぅむ。登月が目をかけていると聞いたからここまでやってきたが……無駄骨だったな。白い肌は合格だが、それ以外はまるでなっておらん。まぁ、それで良い。私は私で選んだ女を連れて行けば良いだけのこと。このような醜女であれば、早々に脱落するに違いない。とうとう登月にやり返す機会がやってきたぞ」
菊花のことを犬くらいにしか思っていない男は、彼女の背後でそのように独白していた。
菊花に学はない。
だが、常日頃から心の手帳を書き込む習慣があるせいか、記憶力だけは秀でていた。
そのため、男の何気ないこの独白も、彼女はしっかりと記憶していた。
そうとも知らず、男はグフグフと変な声を上げながら笑う。
(豚みたいな笑い方ねぇ)
菊花が失礼なことを考えているとも知らず、男は再びニンマリと気持ちが悪い笑みを浮かべた。
なんだか背中がゾゾゾとする。菊花は、迫り上がる悪寒に体を震わせた。
「さて、菊花とやら。残念ながら、おまえは私のお眼鏡には適わなかった。だが、諦めることはない。これより数日後、宦官の登月という男がやって来る。その男は、おまえのことを後宮へ連れて行ってくれるだろう。せいぜい、都の素晴らしい光景を目に焼き付けて、すごすごと帰郷するが良い。ではな」
いかにも悪党というような高らかな笑い声を上げながら、男はえっちらおっちらと馬車に乗り込む。
言いたいことを言い終えたのか、男の顔は満足げである。
重たい体は自力で馬車に乗り込むこともできないようで、御者が必死の形相で男を押し上げる。
ようやく男の体が馬車の中に入ると、車体がギィギィと悲鳴を上げた。
(馬車って、どれくらいの重さなら耐えられるのかしら?)
ギィギィと悲鳴を上げているあたり、男の体重は許容範囲を超えているのだろう。
(貴族だったらなぁ。こんな計算も、ちょちょいのちょいってできちゃうんだろうなぁ。いいなぁ、貴族。せめてこの人くらい稼げたら、少しくらい学校に潜り込めたりしないかしら?)
ギッコギッコと音を立てながら、馬車が動き出す。
菊花はそれを羨ましそうに、見えなくなるまで見つめていた。
ボロ家とまではいかないがすてきな家とも言い難いわが家。
その前に見慣れないものを見つけて、菊花は首をかしげた。
いつものように食費を稼ぐために山へ分け入り、帰ってきたところだった。
そんな彼女はかごを背負ったまま、服はドロドロのひどいありさまである。どこかで転んだのか、あごのあたりにも泥がついていた。
「どうして馬車がこんな場所に?」
馬車なんて、貴族が乗るものである。
平民である菊花はもちろん、今は亡き両親だって縁があったとは思えない。
こんな田舎の、さらに町外れにある菊花の家の前に停まっているなんて、おかしな話だ。
(道に迷ったのかしら?)
この辺りまで馬車で来るのは、さぞ大変だっただろう。
道は整備されていないし、菊花の家は山のそばにあるのだから。
馬にとっては、迷惑な話である。
(山を越えてきたのか、これから越えるのか……どちらにしても、馬からしてみれば地獄のような仕打ちね)
菊花は背負っていたかごを下ろすと、畑の隅に転がっていた桶に水を汲み、どこか疲れた顔をしている馬たちに水を与えた。
馬たちにつけられた装飾品は、それなりに上等なものだ。その後ろにつながれた、馬車もしかり。
「貴族ってまではいかないけれど、それなりに裕福そうな馬車ねぇ」
商売に成功した商人あたりが乗っていそうな馬車だ。
こんな田舎でも、それくらいなら見たことはある。
もっとも、貴族の馬車なんて菊花は見たこともなかったから、あくまで彼女の独断と偏見による感想でしかない。
貴族といえば、皇帝陛下より偉くはないけれど雲の上のお人なのだから、目も眩むような豪華な馬車に乗っているに違いないと、思ったことがポロリと口から滑り出ただけである。
「おい」
馬車を見上げていたら、不機嫌そうな声がして、窓から男が顔を出した。
その瞬間、眩しい光が菊花の目に降り注ぐ。
慌てて目を背けていると、一人の男が馬車からえっちらおっちら降りてきた。
ふくよかな体形をした男だ。
髪の両脇は油のようなもので塗り固められていて、てっぺんである頭頂部はビカビカと日の光を反射させている。
(眩しかったのは、これのせいね)
脂ぎった頭頂部は、鏡のようになるらしい。
初めて知った知識を、菊花はこっそり心の手帳に書き記した。
菊花は、いろいろなことを知るのが大好きだ。
貴族ではないために学校へは行けないが、新しいことを知るたびに心の手帳に書き込むことにしている。
本当は紙に書いておきたいのだが、残念なことに家計の問題で難しいのだ。
新しい知識に上機嫌になっていると、男が菊花の方へ歩み寄ってきた。
でっぷりとした腹は、歩くたびにタプタプ揺れる。
(走る時、大変なのよねぇ)
菊花の場合は、腹より胸の方がよく揺れる。
走るとボヨンボヨンして、非常に走りにくいのだ。今日だって、山で遭遇した瓜坊に追いかけられて大変だった。
(美味しそう、って言ったのがまずかったのかしら?)
しかし、本当に美味しそうに見えたのだ。
猪の肉は、ごちそうである。
「おまえ、名は?」
男の目が、いやらしげに濁る。
猪の肉に思いをはせる菊花は、男の値踏みするような露骨な視線に気付かない。
「おい。聞いているのか?」
「へっ?! あぁ、すみません。菊花と申しますです」
男の苛立たしげな声に、菊花は慌てて答えた。
「ふむ。声は悪くないな」
首と一体化したような丸い顎を撫でながら、男は満足げに頷く。
その視線は相変わらず、ねっとりと菊花を捉えたままだ。
男は鼻の下に申し訳程度に生えたひげを撫でつけながら、ゆったりと菊花の周りを一周した。
(この人は、一体何をしているのかしら?)
「あのぅ……?」
問いかけて背後を見れば、男は前を向けと言わんばかりにシッシッと手を振る。
(私、犬じゃないのだけれど!)
これには菊花も腹が立ったようで、ムスリと顔をしかめた。
唇を尖らせて、男のお望み通りに前をにらみつける。
「ふぅむ。登月が目をかけていると聞いたからここまでやってきたが……無駄骨だったな。白い肌は合格だが、それ以外はまるでなっておらん。まぁ、それで良い。私は私で選んだ女を連れて行けば良いだけのこと。このような醜女であれば、早々に脱落するに違いない。とうとう登月にやり返す機会がやってきたぞ」
菊花のことを犬くらいにしか思っていない男は、彼女の背後でそのように独白していた。
菊花に学はない。
だが、常日頃から心の手帳を書き込む習慣があるせいか、記憶力だけは秀でていた。
そのため、男の何気ないこの独白も、彼女はしっかりと記憶していた。
そうとも知らず、男はグフグフと変な声を上げながら笑う。
(豚みたいな笑い方ねぇ)
菊花が失礼なことを考えているとも知らず、男は再びニンマリと気持ちが悪い笑みを浮かべた。
なんだか背中がゾゾゾとする。菊花は、迫り上がる悪寒に体を震わせた。
「さて、菊花とやら。残念ながら、おまえは私のお眼鏡には適わなかった。だが、諦めることはない。これより数日後、宦官の登月という男がやって来る。その男は、おまえのことを後宮へ連れて行ってくれるだろう。せいぜい、都の素晴らしい光景を目に焼き付けて、すごすごと帰郷するが良い。ではな」
いかにも悪党というような高らかな笑い声を上げながら、男はえっちらおっちらと馬車に乗り込む。
言いたいことを言い終えたのか、男の顔は満足げである。
重たい体は自力で馬車に乗り込むこともできないようで、御者が必死の形相で男を押し上げる。
ようやく男の体が馬車の中に入ると、車体がギィギィと悲鳴を上げた。
(馬車って、どれくらいの重さなら耐えられるのかしら?)
ギィギィと悲鳴を上げているあたり、男の体重は許容範囲を超えているのだろう。
(貴族だったらなぁ。こんな計算も、ちょちょいのちょいってできちゃうんだろうなぁ。いいなぁ、貴族。せめてこの人くらい稼げたら、少しくらい学校に潜り込めたりしないかしら?)
ギッコギッコと音を立てながら、馬車が動き出す。
菊花はそれを羨ましそうに、見えなくなるまで見つめていた。