「どうしてうまくいかないのかしら」
毎夜恒例のお茶会。今日あった出来事を話し終えた菊花は、項垂れた。
今夜ばかりは茶を淹れる気分になれず、「じゃあ僕が」と珍しく柚安が淹れてくれている。
甘い匂いが湯気とともに立ちのぼり、部屋の中を漂う。
辰の国ではよく飲まれる、甘茶という茶らしい。
蜜も入れていないのに、甘い。菊花は一口飲んで、ほぅと息を吐いた。
「でもさ、菊花。今まで随分と悩んでいたみたいだけれど、これで納得しただろう? 自分の、気持ち」
とは、リリーベルの言葉である。
「そうですね。それはもう、確実に理解しました。だって、あんな気持ちを知らないふりなんて、できないもの」
思い出すのは、香樹と並び立つ珠瑛に覚えた、殺意にも似たおどろおどろしい気持ち。
その場所は自分のもの。誰にも、譲れない。
母のような愛では、絶対に抱くことがない気持ちだ。
あれは、香樹を異性として見ているからこそ、生まれた気持ちだと思う。
「これからどうしたら良いのかしら。だって、香樹は皇帝陛下なのよ? 皇帝陛下の責任は、とても重い。支えるためには、たくさんの妃が必要なの」
香樹が抱える重責を、たった一人で支えることなんて不可能だ。
正妃だけでは支えきれないから、皇帝陛下だけは例外的に一夫多妻制が許されている。
「でも菊花様は……」
目を伏せて悩む菊花を、柚安が痛ましげに見つめる。
「そう。私は大勢の中の一人なんて、とても耐えられない。もしも香樹が私以外の人と手をつないだり、口づけしたり、抱擁したりしていたら、私は許せない。今日だって、珠瑛様を突き飛ばすところだった。ちょっと近くで話していただけなのに。こんなにも狭量な私が、後宮でやっていけると思う?」
「やっていけないだろうね」
茶を飲み干したリリーベルが、静かに茶杯を卓に置く。
でも、と彼女は話を続けた。
「私は、一夫多妻制にこだわる必要もないと思う。菊花は支えられないなんて言うけれど、本当にそうかな? きみは、きみが思っているよりずっと賢いよ。蝗害のことや紅梅草のこと。菊花は偶然だって言うけれど、必要な時に必要なことを正確に思い出すのは、すごいことだ。しかも菊花のそれは、多岐にわたる。私みたいに、毒が専門というわけじゃない」
「私は、ただ記憶力が良いだけで……」
「その上、皇帝陛下に面と向かってものを言える。誰もが息を潜めて時が過ぎ去るのを待つ中、きみだけは意見を申し上げたそうじゃないか」
「でも……」
「ねぇ、菊花、知っているかい? 蛇ってさ、とても臆病な生き物なんだよ。人が蛇を怖がるように、蛇も人を怖がっているんだ。そんな臆病な蛇を祖に持つ香樹様が、どうして人の上に立つ皇帝なんてできると思う?」
「彼以外に、いなかったから」
「それもある。けれど、それだけではないよ。彼はね、菊花と一緒にいるために、力を得たんだ」
「私のため?」
巳の国の皇族は、人ではない。蛇神を祖にする獣人だ。
卵で生まれ、幼少期を蛇の姿で過ごし、成人してようやく人の姿になる。
彼らは人ではなく獣人だ。
獣人は、人からしてみたら異端である。
獣人はみな、人が異端を嫌うことを理解している。
リリーベルの夫も、そうだと言う。
「だからこそ獣人は、自分が愛し、そして愛してくれる相手を、殊更大事にしようとする。異形のものを愛してくれる人なんて、そうそういやしないからね。そりゃあもう、こっちが呆れるくらい大事にするんだ。大事にしすぎて心配になって、もしも自分のせいで相手が傷つけられたらどうしようなんて思う。行き過ぎた心配は、力を得るという結論に至り、結果、獣人たちは王族として政権を握ったわけだ」
リリーベルの夫は、戌の国の王族である。
この世界には五つの国があって、それぞれを獣の王がおさめている。
五つの国にいるそれぞれの王たちはみな、そんな理由で王になったというのか。
まさか、と菊花が信じられないでいると、リリーベルは苦く笑んだ。
「まさかって顔をしているけれど、本当なんだよ。香樹様は、菊花と一緒にいたくて、ずっといるためには守る必要があって、そのために力を得た。そうじゃなかったら、成人したからってわざわざ菊花と離れて都に行ったりしないさ。獣人は寂しがりやだからね。好いた相手から離れるのは身を切られるような思いらしい。重い愛だよ、本当に」
夫から毎日のように手紙が届くんだ、と惚気るリリーベルに、菊花は反射的に笑い返した──が。
もしやこれは、またしても聞いてはいけない類の話だったのでは。
だって、こんな話、どう考えたってまずいだろう。各国の王族に関する話だ。
ただの宮女候補が聞いて良い話ではない。絶対ない。万が一、菊花が香樹を諦めて帰郷の道を選ぶ場合、彼女に与えられるのは死──!
「ああ、柚安。これは他言無用で頼むよ」
ケロリと話すリリーベルに、柚安も澄ました顔で「かしこまりました」と答えている。
(これは、もしかして、もしかしなくても、外堀を埋められたのでは?)
外堀程度では済まされないかもしれない。
もう抜け出すことができない底無し沼に落ちている気がするのは、大げさではないだろう。
(それならもう、腹を括るしかないのかも)
どうしようなんて言いながら、菊花の中ではほぼ、香樹を諦めていた。
大勢の一人になるくらいなら、香樹を諦めて実家に帰ろう。そう、思っていたのに。
「菊花」
「はい、リリーベルおねえさま」
「私を身内だと思ってと、言っただろう? だからさ」
意味ありげに、リリーベルがニヤリと笑う。
リリーベルの言葉が、ストンと腑に落ちた。
(ああ、おねえさまは……)
あの時からもう、分かっていたのだろう。
姉と呼んでくれと言った、あの時にはもう。
「ええ、そうですね」
リリーベルも、今の菊花のように悩んだのかもしれない。
だからこそ、この結末も察しがついていたのだろう。
菊花がもう、香樹から逃げられないことを。
毎夜恒例のお茶会。今日あった出来事を話し終えた菊花は、項垂れた。
今夜ばかりは茶を淹れる気分になれず、「じゃあ僕が」と珍しく柚安が淹れてくれている。
甘い匂いが湯気とともに立ちのぼり、部屋の中を漂う。
辰の国ではよく飲まれる、甘茶という茶らしい。
蜜も入れていないのに、甘い。菊花は一口飲んで、ほぅと息を吐いた。
「でもさ、菊花。今まで随分と悩んでいたみたいだけれど、これで納得しただろう? 自分の、気持ち」
とは、リリーベルの言葉である。
「そうですね。それはもう、確実に理解しました。だって、あんな気持ちを知らないふりなんて、できないもの」
思い出すのは、香樹と並び立つ珠瑛に覚えた、殺意にも似たおどろおどろしい気持ち。
その場所は自分のもの。誰にも、譲れない。
母のような愛では、絶対に抱くことがない気持ちだ。
あれは、香樹を異性として見ているからこそ、生まれた気持ちだと思う。
「これからどうしたら良いのかしら。だって、香樹は皇帝陛下なのよ? 皇帝陛下の責任は、とても重い。支えるためには、たくさんの妃が必要なの」
香樹が抱える重責を、たった一人で支えることなんて不可能だ。
正妃だけでは支えきれないから、皇帝陛下だけは例外的に一夫多妻制が許されている。
「でも菊花様は……」
目を伏せて悩む菊花を、柚安が痛ましげに見つめる。
「そう。私は大勢の中の一人なんて、とても耐えられない。もしも香樹が私以外の人と手をつないだり、口づけしたり、抱擁したりしていたら、私は許せない。今日だって、珠瑛様を突き飛ばすところだった。ちょっと近くで話していただけなのに。こんなにも狭量な私が、後宮でやっていけると思う?」
「やっていけないだろうね」
茶を飲み干したリリーベルが、静かに茶杯を卓に置く。
でも、と彼女は話を続けた。
「私は、一夫多妻制にこだわる必要もないと思う。菊花は支えられないなんて言うけれど、本当にそうかな? きみは、きみが思っているよりずっと賢いよ。蝗害のことや紅梅草のこと。菊花は偶然だって言うけれど、必要な時に必要なことを正確に思い出すのは、すごいことだ。しかも菊花のそれは、多岐にわたる。私みたいに、毒が専門というわけじゃない」
「私は、ただ記憶力が良いだけで……」
「その上、皇帝陛下に面と向かってものを言える。誰もが息を潜めて時が過ぎ去るのを待つ中、きみだけは意見を申し上げたそうじゃないか」
「でも……」
「ねぇ、菊花、知っているかい? 蛇ってさ、とても臆病な生き物なんだよ。人が蛇を怖がるように、蛇も人を怖がっているんだ。そんな臆病な蛇を祖に持つ香樹様が、どうして人の上に立つ皇帝なんてできると思う?」
「彼以外に、いなかったから」
「それもある。けれど、それだけではないよ。彼はね、菊花と一緒にいるために、力を得たんだ」
「私のため?」
巳の国の皇族は、人ではない。蛇神を祖にする獣人だ。
卵で生まれ、幼少期を蛇の姿で過ごし、成人してようやく人の姿になる。
彼らは人ではなく獣人だ。
獣人は、人からしてみたら異端である。
獣人はみな、人が異端を嫌うことを理解している。
リリーベルの夫も、そうだと言う。
「だからこそ獣人は、自分が愛し、そして愛してくれる相手を、殊更大事にしようとする。異形のものを愛してくれる人なんて、そうそういやしないからね。そりゃあもう、こっちが呆れるくらい大事にするんだ。大事にしすぎて心配になって、もしも自分のせいで相手が傷つけられたらどうしようなんて思う。行き過ぎた心配は、力を得るという結論に至り、結果、獣人たちは王族として政権を握ったわけだ」
リリーベルの夫は、戌の国の王族である。
この世界には五つの国があって、それぞれを獣の王がおさめている。
五つの国にいるそれぞれの王たちはみな、そんな理由で王になったというのか。
まさか、と菊花が信じられないでいると、リリーベルは苦く笑んだ。
「まさかって顔をしているけれど、本当なんだよ。香樹様は、菊花と一緒にいたくて、ずっといるためには守る必要があって、そのために力を得た。そうじゃなかったら、成人したからってわざわざ菊花と離れて都に行ったりしないさ。獣人は寂しがりやだからね。好いた相手から離れるのは身を切られるような思いらしい。重い愛だよ、本当に」
夫から毎日のように手紙が届くんだ、と惚気るリリーベルに、菊花は反射的に笑い返した──が。
もしやこれは、またしても聞いてはいけない類の話だったのでは。
だって、こんな話、どう考えたってまずいだろう。各国の王族に関する話だ。
ただの宮女候補が聞いて良い話ではない。絶対ない。万が一、菊花が香樹を諦めて帰郷の道を選ぶ場合、彼女に与えられるのは死──!
「ああ、柚安。これは他言無用で頼むよ」
ケロリと話すリリーベルに、柚安も澄ました顔で「かしこまりました」と答えている。
(これは、もしかして、もしかしなくても、外堀を埋められたのでは?)
外堀程度では済まされないかもしれない。
もう抜け出すことができない底無し沼に落ちている気がするのは、大げさではないだろう。
(それならもう、腹を括るしかないのかも)
どうしようなんて言いながら、菊花の中ではほぼ、香樹を諦めていた。
大勢の一人になるくらいなら、香樹を諦めて実家に帰ろう。そう、思っていたのに。
「菊花」
「はい、リリーベルおねえさま」
「私を身内だと思ってと、言っただろう? だからさ」
意味ありげに、リリーベルがニヤリと笑う。
リリーベルの言葉が、ストンと腑に落ちた。
(ああ、おねえさまは……)
あの時からもう、分かっていたのだろう。
姉と呼んでくれと言った、あの時にはもう。
「ええ、そうですね」
リリーベルも、今の菊花のように悩んだのかもしれない。
だからこそ、この結末も察しがついていたのだろう。
菊花がもう、香樹から逃げられないことを。