皇帝陛下のあたため係

 香樹(こうじゅ)蛇晶(じゃしょう)帝、登月(とうげつ)とリリーベル、それから菊花(きっか)を交えての話し合いから半月が経った。
 何度も対話を重ね、香樹は茶会を──つまり、自身や菊花を(おとり)にして、(こう)家屋敷を捜索することを決めた。




 講堂へ集められた宮女候補たちを前に、宦官の落陽(らくよう)は鼻息も荒く宣言した。

「宮女候補の最終選考の内容が決まった!」

 ざわり。
 そう多くない宮女候補たちが、顔に喜色を浮かべる。

 当然だろう。
 これでようやく、長かった宮女候補生活が終わるのだから。

 その先へ続く道は、妃への道か、それとも故郷への帰り道か。
 どちらにしても、故郷へ錦を飾れるだろう。
 最終選考に残っているということは、それだけの価値があるという証明になる。

(今日は随分、声が響くわね)

 でっぷりとした腹を揺らし、落陽は試験内容を読み上げている。
 彼の大きな声は、講堂の天井でウワンウワンと反響しているようだった。

 後宮へ初めて来た時、講堂の中にはあふれんばかりに美女や美少女たちが居たというのに、今では数えるほどしかいない。
 講堂がやけに広く感じるのは、今まで人が多かったせいなのだろう。

 菊花は、中央付近の席に座る珠瑛(しゅえい)を盗み見た。
 真っすぐに背を伸ばした、凛とした佇まい。射干玉(ぬばたま)色の髪は結い上げられ、さらけ出された細い首が艶めかしい。

 見えないけれど、その顔はきっと自信満々な表情を浮かべているに違いない。
 先程から、訳知り顔の落陽のニヤケ具合がひどいから。

 珠瑛の隣の席には、距離を置いていたはずの紅葉(こうよう)がいて、親しげに話しかけている。

 おそらく、紅葉の生家である(しゅ)家は、黄家についたのだろう。
 傍観の時期を終え、おもねることにしたようだ。

(朱家は、私を殺しに来た武官を都に呼び寄せたのだものね)

 菊花の暗殺は失敗に終わり、朱家は何を土産にその傘下へ下ったのだろう。

(紅葉が珠瑛の取り巻きに戻るだけでは、割に合わないだろうし)

 菊花は首をかしげながら、落陽の話に耳を傾けた。

「これよりひと月後、後宮の庭を開放し、茶会を開催する。そこで各々の一族が一丸となって、趣向を凝らした茶会で皇帝陛下をもてなすのだ。最も陛下を楽しませた一族の娘が、正妃となる」

 本来、後宮は皇帝陛下以外男子禁制であるが、この茶会の間だけは例外である。
 正妃が決まれば、蛇晶帝の後宮であったここは取り壊される。母との思い出が残るこの場所を、華やかな思い出で終わりにしたい──というのが蛇香(じゃこう)帝からのお言葉らしい。

 蛇香帝の母、華香(かこう)が産後すぐに亡くなっているのは周知の事実である。
 母を早くに亡くし、後宮に残る母の面影を頼りに寂しい幼少期を過ごしていたであろう、かわいそうな蛇香帝を想った宮女候補は、そっと涙を拭った。

 もちろん、菊花は事実を知っているので泣いたりはしない。
 それに、お母さんの代わりになろうと頑張っていた菊花にあんなことをする男が、母恋しさに後宮を彷徨(さまよ)い歩くなんてことをするわけがない。
 彼はなかなかに、ふてぶてしい男なのだ。

(くぅぅ。思い出したら、恥ずかしいやら腹が立つやら……! でも、それでも香樹から離れようと思わない私も、きっと同罪だわ)

 寝台(ベッド)の上でされた恥ずかしいあれこれを思い出さないように、習ったばかりの異国の数式を思い出しながら、菊花は落陽が語る素晴らしい茶会とやらの演説を右から左に聞き流したのだった。
「でもねぇ……私、まだ疑問があるのよ」

 毎夜お馴染みの柚安(ゆあん)とのお茶会で、菊花(きっか)は工芸茶を淹れながら言った。

 今夜のお茶は、花籠という名前のお茶らしい。
 緑茶と薔薇、菊と金盞花(きんせんか)の工芸茶である。

 厨房からくすねてきた饅頭をほお張りながら、柚安が首をかしげた。

「ひほん? はんへふ?」

「どうして蘭瑛(らんえい)様は、自分の娘を宮女候補に送り込んだのかしら。殺したいほど憎い相手の嫁にするなんて、気が狂っているとしか思えないのだけれど」

 柚安は考え込みながら、饅頭を咀嚼し、ごくんと飲み込んだ。

「狂っているのでしょう。それ以外に考えられることですと……そうですねぇ……乗っ取り、でしょうか」

「乗っ取り?」

「憎くて仕方がなかった男を殺し、自分と血のつながった孫が皇帝になる。孫が幼く、(まつりごと)も行えないような年齢だったら、後見人として権威を振りかざせます。それは、自身が皇帝になったも同然。自分のものになるはずだった女を奪った、憎い男の位を乗っ取る……と。僕だったら、そう考えます」

「でもさ、その場合、憎い男の血も流れているわけでしょう?」

 茶を三つの茶杯に注ぎ入れながら、菊花はますます分からないと困惑の表情を浮かべた。
 差し出された茶杯を受け取りながら、今夜初参加となったリリーベルが「ふむ」と考え込む。

「こうは考えられない? 好きな女と結ばれなかった哀れな男は、自分の娘と好いた女の息子を(つが)わせて、自分の代わりにする……というのは」

 それはそれで、なかなかに気持ち悪い。
 平気な顔で毒殺する男に、そんな乙女な一面があるかと思うと、笑うに笑えない。

 引き攣るほおをごまかすように饅頭を口に放り込んだ菊花に、リリーベルは苦く笑い返した。

「まぁ、理由はなんであれ、罪を犯したら償うのが道理だ。ところで菊花、お茶会の準備は進んでいるかい?」

「ああ、はい。リリーベル様のおかげで、滞りなく」

 菊花の茶会は、()の国式のお茶会を予定している。
 天涯孤独の身の上の彼女を心配したリリーベルが、協力を申し出たのだ。

 戌の国で茶会は、アフタヌーンティーと呼ばれているそうだ。
 三段重ねの皿に軽食や菓子を並べ、紅茶を提供するらしい。

 当日は、菊花自ら厨房で菓子を焼く予定だ。
 今は、こっそりと菓子作りの特訓中である。
 ドレスの採寸はもう済ませているので、試食でサイズアップしないように必死だったりする。

「そうか、それは良かった。私が懇意にしている仕立屋でドレスを仕立ててもらっているから、衣装については安心して。茶葉やティーセットも、もうじき国から届く」

「何から何まで、ありがとうございます」

「ああもう。そんなに畏まらなくて良いんだよ? 私のことは姉だと思って、遠慮なく甘えてほしい」

「姉、ですか?」

「うん、そう。これから私たちは長い付き合いになるだろうからね。ほら、言ってごらん? おねえさまって」

「……リリーベルおねえさま?」

「っっ! なんというか、新しい扉が開きそうだね!」

 楽しげに笑いながら頭を撫でてくるリリーベルに、菊花もつられるように笑う。
 楽しそうにはしゃぐ二人に置いてけぼりを食らったような顔で柚安は寂しそうにしていたが、ほどなく二人に絡まれ始める。

 こうして楽しい夜は、にぎやかに更けていくのであった。
「菊花様、大丈夫ですか?」

「……くぅ!」

 アンダードレスなるものを着せられ、コルセットという拘束具のような服で体を締め上げられる。
 見守る柚安(ゆあん)に、菊花(きっか)ではなくリリーベルが爽やかな笑顔とともに「大丈夫さ」と答えた。

「だいじょうぶじゃ、ない」

 うっぷ。
 菊花は締め上げられてくびれができた腰を撫でさすりながら、胃がせり上がってくるような感覚に涙を浮かべた。

 宮女候補の最終試験であるお茶会まで、二週間を切った。

 最終試験の内容が告知されて以来、菊花は一度も香樹(こうじゅ)に呼ばれていない。
 母のような愛を捧げるつもりだった菊花に、求めているものは別の感情だと行動で示してからは、毎日のようにお呼びの声がかかっていたというのに。

 最終試験の裏側で行われる黄家屋敷の捜索に向けて、多忙な日々を送っているからだと理解していても、なんだか肩透かしを食ったような気分になる。

(でもまぁ、考える時間をもらったと思えば……)

 毎日毎日、考える間もなく「愛い」だの「良い匂い」だの言われて全身を撫で回されていた。
 そうされると菊花は、羞恥のせいなのか、それとも別の何かなのか、頭が沸くような判断しがたい謎の気持ちに支配されて、考えることができなくなる。
 最終的には酒に酔ったように頭がぼんやりして、ぽっぽと火照った体を大事そうに抱きかかえられながら意識を失うというのが常だった。

 香樹のことは、大切だと思っている。幼馴染みとして、親友として、家族として。
 だけれど最近は、それだけでは収まらない域に達している気がする。

(例えば、そう。恋人、とか)

 菊花の頬がほんのりと赤らむ。
 恋人。なんて甘美な響きだろう。

(私は香樹のことが、好き……なのかしら?)

 白蛇時代の香樹を、好きだと思ったことは何度もあった。
 綺麗な見た目が好き。優しい目が好き。なにより、懐いてくれたのが嬉しかった。
 一番の親友で、大切な存在だ。

 だけれど今は。
 それだけではない、と思った。

 姿が見えれば嬉しくて、そばにいたらもっと嬉しくて、見えなければ無性に会いたくてたまらなくなる。
 現に今も、菊花は香樹に会いたいと思っていた。
 ()の国の衣装に身を包んだ自分を見て、かわいいって言ってほしい……なんて思っている。

 こんな気持ちは、初めてだ。
 なんだか気恥ずかしくて、胸がきゅうっと締め付けられる。

(これは本当に、恋というものなのかしら?)

 いまいち、よく分からない。
 なにせ菊花は、恋愛経験がないのである。

 齢十六になるまで両親は町へ菊花を行かせなかったし、両親が亡くなってからは生きることで必死だった。
 恋愛がどういうものなのか、教えてくれる人もいなかった。
 だから、この感情が恋というものなのか、菊花には分かりかねている。

「ぐふぅ……」

「はいはい、菊花。そんな声、出さない。これでも緩くしているくらいだからね? 戌の国じゃ、もっとギュッと締め上げるのだから。おっ! いいねぇ。きみの胸が強調されて、実にエロティックだ」

「えっ、えろ?」

「官能的、という意味さ」

「官能的⁉︎ 私が?」

 烏の濡れ羽色の髪も、射干玉(ぬばたま)色の目もないのに。

 そっと視線を落とせば、ぎゅむっと押し上げられた見事な胸元がそこにある。
 そういえば白蛇時代の香樹はよく胸元に入り込んでいたなぁと思い出して、菊花は猛烈に恥ずかしくなった。

(え……まさか香樹は、そういうつもりで胸にいたわけじゃないよね?)

 香樹はまもなく二十二歳になる。
 白蛇だった香樹が菊花と一緒にいたのは、たぶん、十七歳くらいまで。
 となると、そういったことに興味津々な時期を彼は菊花と過ごしていたわけで──。

(ひえぇぇぇぇ)

「菊花は胸も大きくて綺麗な形をしているよね。普段着ている服もさ、もう少し胸を強調するようにしたら、もっとかわいくなると思うんだよなぁ」

 普段は、上衣の襟を交差して重ねている。
 それを交差させずに並行にして、(スカート)を胸の上まで引き上げたらどうか、とリリーベルは言った。
 そうすると、視線が胸元にいって、足長効果があるらしい。

「リリーベル様。菊花様、苦しそうですよ? 顔が赤いです」

「んー……これはコルセットのせいだけじゃないと思うなぁ。おおかた、香樹様とのあまぁいひとときでも思い出しているのではないかな?」

「そうでしょうか」

 菊花は考え事をしていたので、柚安とリリーベルの破廉恥な会話を聞いていなかった。
 聞いていなくて良かったのかもしれない。聞いていたらきっと、とてもではないけれど、この場にはいられなかっただろうから。
『お茶会の用意をするにあたり、宮女候補たちには、蛇香(じゃこう)帝へ質問する時間を与えるものとする』

 その通知がなされたのは、最終選考まであと一週間を切ったところだった。

 場所は後宮の庭で、蛇香帝と二人きり。
 ちょっとした散策をしながら、質疑応答するらしい。

 どうして、今更。
 試験まであと一週間しかないというのに、このタイミングでそんなことをする意味があるとは思えない。

 (いぶか)しむ菊花(きっか)に反し、宮女候補たちは大わらわだ。
 突然すぎる通知に、これも試験の一環に違いないと、彼女たちは大慌てで自室に引き篭もって衣装合わせや化粧を始めた。

 菊花は自室でワヤワヤと身支度する宮女候補たちの声を遠くに聞きながら、人気のない廊下を歩いていく。

「何か意図があってのことかしら?」

 菊花は歩きながら、考える。
 最終選考の裏側で行われることに、何か関係があるのだろうか。あるとすれば、考えられるのは珠瑛に対してだが……。

「与えられた時間は、長くない。わずかな時間で、何を仕掛けるっていうの?」

 何かがおかしい気がする。
 漠然とした違和感だが、こういう時の嫌な予感は当たることを、菊花はよく知っていた。

「私は、何も聞かされていない。私に聞かせたくない理由があるの? それとも、関係がないところで決められた?」

 何もわからないが、胸騒ぎがする。
 それも、とびきり嫌な予感だ。

「こういう時、いつもなら何か思いつくのに。今日はなにも頭を過ぎらないわ」

 無意識に歩き続けて、廊下が途切れる。
 いつの間にか、ずいぶんと歩いてきてしまったらしい。
 ふと顔を上げると、目の前には手入れの行き届いた後宮の庭が広がっていた。

「……!」

 ()の国から贈られたという薔薇園の前に、二人の人物がいた。
 白銀に金を少しだけ混ぜたような色合いの、絹糸のようにサラサラとした長い髪と、烏の濡れ羽色をした艶々の長い髪。相反する二色の髪が、風になびく。

香樹(こうじゅ)と、珠瑛(しゅえい)様……)

 色とりどりの薔薇を背景に、美しい男女が並んでいる。

 なんて、絵になる光景だろう。
 思わず足を止めて見入ってしまうほどに、完成している。

 息を飲む菊花の目の前でサァァと風が吹いて、薔薇の花びらを(さら)っていく。
 香樹の髪にひとひらの花びらが絡んだ。

「あら、陛下。御髪に花びらが」

 珠瑛の手が香樹の髪へ伸ばされたその瞬間、菊花は反射的に両手で口を覆った。

(私は今、なにを……⁉)

 危うく菊花は「私の香樹に触らないで」と叫ぶところだった。
 眉にギュッと力が入って、険しい顔をしているのが分かる。
 ズキズキと、眉間の奥が痛んだ。

 怒り過ぎで頭が痛くなるなんて、初めての経験である。
 ああ、これは。これが──、

(嫉妬というものか)

 珠瑛が憎い。
 あれほど執拗(しつよう)に嫌がらせをされていた時でさえ、怒りを覚えるまでには至らなかったのに、今は彼女が憎くて仕方がない。
 できることなら今すぐ飛び出していって、珠瑛を突き飛ばしてでも香樹を取り戻したいくらいだ。

(でも、そんなことをしたら、だめ)

 すんでのところで思いとどまる。
 誰がどんな意図でこの状況を生み出したのか分からない以上、菊花が余計なことをするべきではない。
 仲睦まじげに歩いているように見えているが、もしかしたら水面下では、菊花には分からないような罠が、張り巡らされているのかもしれないのだ。

(わかる。わかるけど、でも……)

 割り切れるかと問われれば、菊花は割り切れないと答えるだろう。
 身の内を焼くような強烈な怒りは、まだ鎮まる様子がない。

 恋とはなんて、残酷なのだろう。
 甘いだけなら、良かったのに。

 ()い、かわいいと構われるだけの関係だったら、どんなに良かったか。

 蛇香帝、(はく)香樹。
 彼を好きになるということは、後宮の花の一輪になるということだ。

 皇帝陛下は、一夫多妻制。
 全国民の生活を背負う彼を支えるには、菊花だけでは到底、力不足だ。

 大勢のうちの一人。
 菊花が愛する人は一人だけれど、香樹にとってはそうではない。

(私は、耐えられる?)

 答えは、否だ。
 珠瑛と一緒に歩いているだけで、こんなに気持ちがささくれ立つのに。

(手を握る? 抱きしめる? 口づける? とろけるように無防備な顔をして、「愛い」とささやくの?)

 そんなの、絶対無理だ。
 とてもではないが、許容できない。

 手を握るのも、抱きしめるのも、口づけるのも、寝起きのぼんやりした顔で「おはよう」と無防備に笑うのも、菊花だけじゃないと嫌だ。

(他の人と分け合うなんて、無理)

 たとえ菊花が、大勢の妃の中で一番だとしても。
 菊花だけの香樹でなくちゃ、我慢ならない。

 自分の中に、こんな激情とも言える独占欲があるなんて、菊花は知らなかった。

「──ええ。当日を楽しみにしていてくださいね」

「そうか。楽しみにしている」

 珠瑛の笑い声が、聞こえてくる。続いて、控えめに笑う香樹の声も。
 それ以上聞いていられなくて、菊花は(きびす)を返して逃げ出した。
 最終選考まであと一週間という今この時期に、悠長なことをしている暇などない。
 通常の執務に加え、最終選考の裏側で実行する(こう)家屋敷の捜索についても考えなくてはならないのだ。

 自分の命と菊花(きっか)の命、どちらも守った上で、長年にわたり隠蔽(いんぺい)されてきた黄家の悪しき歴史を、香樹(こうじゅ)が終わりにする。
 そんなことが、できるだろうか。否。そんな弱気なことではいけない。できるかどうかではなく、やるしかないのだ。

(だというのに、なんなのか。分かっていて、嫌がらせしているのか。この狸じじいめが)

 香樹は、形の良い眉を歪めた。
 美形の顔は、眉を顰めていても美しい。

 首謀者と目をつけている黄家当主である蘭瑛(らんえい)本人が、お願いがあるとやって来た。
 聞けば、娘の珠瑛(しゅえい)が最終選考について悩んでいるという。

「陛下に不愉快な思いをさせるくらいなら、恥を忍んでいくつか質問させていただきたいことがあるのです」

 と、珠瑛は言ってきたそうだ。

 無駄なことを。
 香樹は、鼻で笑いそうになった。

 正妃の座は、菊花のものだと決まっている。
 珠瑛など、妃に残す価値もない。

 香樹は知っているのだ。
 珠瑛とその仲間が、菊花に何をしたのか。

 香樹のおつかいは非常に優秀だ。
 菊花が知らないことも知っている。なんでも、知っている。

 亡き母の形見である菊花の服を、彼女たちがどのようにぞんざいな扱いをしたのか。
 菊花のことを、何度、(かわや)に閉じ込めたのか。
 菊花のものを何度隠し、何度捨てたのか。

 菊花の部屋にある小さな置物を始末しようとした時は、頭に血が上った。
 あれは彼女にとって、とても大事なものだ。落陽(らくよう)を呼び立てて怒鳴りつけ、菊花が気づかないうちに戻させた。

 香樹はなんでも、聞き知っている。
 菊花が泣くようなら叩きつぶすつもりだったが、彼女は全く堪えていないようだ。
 頼られたかった香樹は、それをほんの少しだけ、残念に思っていた。

 話が逸れた。

 今現在、黄家に怪しまれる行動は慎むべきである。
 部屋の隅に控えていた登月(とうげつ)に目配せすると、微かに顎を引く。

(受けるべき、ということか)

 香樹は渋々、蘭瑛の申し出を受けた。

 どうでもいい女とおしゃべりに興じるくらいなら、もうずっと会えていない菊花を呼び出して、思う存分甘えて、愛でていたい。

 蘭瑛の提案は、宮女候補全員にやらせるべきだろう。
 それが、公平というものだ。

 宮女候補の中にはもちろん、菊花がいる。
 彼女との久々の逢瀬を楽しみに、香樹はもうひと頑張りすることにした。

 だというのに。だというのに、だ。
 いざ菊花の順番がきたら、なぜか彼女は仏頂面。
 香樹はわけがわからず、困惑した。

 最近の鬱憤をここで晴らそうとしていた香樹は、途方に暮れた。
 表情筋が仕事をしないせいで無表情に見えるが、彼の頭の中はどうしようでいっぱいである。

 ずっと会えなかったことを怒っているのか。
 それとも、会えない埋め合わせに贈り物をしたらどうですかという登月の意見を聞かなかったのがいけなかったのか。

 もしや、また珠瑛に何かされて、今度こそ腹に据えかねているのか。
 それなら、今度こそあの女を成敗してやろう。黄家屋敷の捜索を待たずに、彼女を後宮から追い出すための材料はそろっている。

 そう思って聞き出そうとしても、菊花はプイッと顔を背けるばかり。
 これには香樹も、かわいいのか腹が立つのか分からない。否、菊花はどんな顔をしていても、かわいいの一言に尽きるのだが。

 菊花が香樹を望んでくれるなら、どんな障害だって跳ね除けるつもりだ。
 それだけの力を、香樹は手に入れた。
 あとは菊花が、香樹の腕の中に落ちてきてくれさえすれば良かった。

 そのための宮女候補であり、そのためのあたため係。
 それなのにどうして、そんな顔をしているのか。

 菊花は香樹に甘い。いつだって、香樹のことを甘やかしてくれる。
 そんな彼女に母を求めたことがあったけれど、昔のことだ。
 今は、好いた女として、(つがい)として、愛している。

 彼女がいなければ、香樹など生きる価値もない。
 小さく弱い白蛇は、死ぬ運命だったのだから。

 息絶えそうになっていた香樹を拾い、介抱し、生き存えさせたのは他ならぬ菊花だ。
 死んでもいいやと自暴自棄になっていた香樹に、この子と生きたいと思わせたのは菊花。

 菊花がいるから、香樹は生きている。
 菊花がいなくちゃ、生きたいとも思わない。

 香樹の全ては、菊花のためにある。
 皇帝陛下の地位など、副産物に過ぎないのだ。

「菊花。どうして、目を合わせてくれないのだ?」

「別に」

「私が、何かしたか?」

「何も」

「じゃあ、何が足りない?」

「……香樹は……ううん、なんでもない」

 言いかけた言葉は何だったのか。
 問いかけても、おざなりに返されるだけ。

 無常にも、宦官が終わりを告げてくる。
 離れていく彼女に何を言うべきかも分からず、香樹は肩を落とした。

 こういう時、登月だったら何と言うだろうか。
 否、登月は優秀な男だ。好いた女に仏頂面をさせるようなヘマはしない。

『そんな腑抜けた顔をして、どうした? 息子よ』

「父上……」

『道に迷った子どものような顔をしておる。皇帝たるもの、そのような顔では示しがつかぬ』

「力を得ても、女人の心は分かりませぬ」

『菊花と何かあったか。どれ、酒を用意せよ。こういう話は、酒を飲みながらと決まっておる』

 蛇の姿だというのに、ニンマリと意地悪く笑う顔は人の姿の時と同じだ。
 香樹は苦笑いを浮かべて「かしこまりました」と答えた。
「どうしてうまくいかないのかしら」

 毎夜恒例のお茶会。今日あった出来事を話し終えた菊花(きっか)は、項垂(うなだ)れた。
 今夜ばかりは茶を淹れる気分になれず、「じゃあ僕が」と珍しく柚安(ゆあん)が淹れてくれている。

 甘い匂いが湯気とともに立ちのぼり、部屋の中を漂う。
 (しん)の国ではよく飲まれる、甘茶という茶らしい。
 蜜も入れていないのに、甘い。菊花は一口飲んで、ほぅと息を吐いた。

「でもさ、菊花。今まで随分と悩んでいたみたいだけれど、これで納得しただろう? 自分の、気持ち」

 とは、リリーベルの言葉である。

「そうですね。それはもう、確実に理解しました。だって、あんな気持ちを知らないふりなんて、できないもの」

 思い出すのは、香樹(こうじゅ)と並び立つ珠瑛(しゅえい)に覚えた、殺意にも似たおどろおどろしい気持ち。

 その場所は自分のもの。誰にも、譲れない。

 母のような愛では、絶対に抱くことがない気持ちだ。
 あれは、香樹を異性として見ているからこそ、生まれた気持ちだと思う。

「これからどうしたら良いのかしら。だって、香樹は皇帝陛下なのよ? 皇帝陛下の責任は、とても重い。支えるためには、たくさんの妃が必要なの」

 香樹が抱える重責を、たった一人で支えることなんて不可能だ。
 正妃だけでは支えきれないから、皇帝陛下だけは例外的に一夫多妻制が許されている。

「でも菊花様は……」

 目を伏せて悩む菊花を、柚安が痛ましげに見つめる。

「そう。私は大勢の中の一人なんて、とても耐えられない。もしも香樹が私以外の人と手をつないだり、口づけしたり、抱擁したりしていたら、私は許せない。今日だって、珠瑛様を突き飛ばすところだった。ちょっと近くで話していただけなのに。こんなにも狭量な私が、後宮でやっていけると思う?」

「やっていけないだろうね」

 茶を飲み干したリリーベルが、静かに茶杯を卓に置く。
 でも、と彼女は話を続けた。

「私は、一夫多妻制にこだわる必要もないと思う。菊花は支えられないなんて言うけれど、本当にそうかな? きみは、きみが思っているよりずっと賢いよ。蝗害(こうがい)のことや紅梅草(こうばいそう)のこと。菊花は偶然だって言うけれど、必要な時に必要なことを正確に思い出すのは、すごいことだ。しかも菊花のそれは、多岐にわたる。私みたいに、毒が専門というわけじゃない」

「私は、ただ記憶力が良いだけで……」

「その上、皇帝陛下に面と向かってものを言える。誰もが息を潜めて時が過ぎ去るのを待つ中、きみだけは意見を申し上げたそうじゃないか」

「でも……」

「ねぇ、菊花、知っているかい? 蛇ってさ、とても臆病な生き物なんだよ。人が蛇を怖がるように、蛇も人を怖がっているんだ。そんな臆病な蛇を祖に持つ香樹様が、どうして人の上に立つ皇帝なんてできると思う?」

「彼以外に、いなかったから」

「それもある。けれど、それだけではないよ。彼はね、菊花と一緒にいるために、力を得たんだ」

「私のため?」

 ()の国の皇族は、人ではない。蛇神を祖にする獣人だ。
 卵で生まれ、幼少期を蛇の姿で過ごし、成人してようやく人の姿になる。

 彼らは人ではなく獣人だ。
 獣人は、人からしてみたら異端である。

 獣人はみな、人が異端を嫌うことを理解している。
 リリーベルの夫も、そうだと言う。

「だからこそ獣人は、自分が愛し、そして愛してくれる相手を、殊更大事にしようとする。異形のものを愛してくれる人なんて、そうそういやしないからね。そりゃあもう、こっちが呆れるくらい大事にするんだ。大事にしすぎて心配になって、もしも自分のせいで相手が傷つけられたらどうしようなんて思う。行き過ぎた心配は、力を得るという結論に至り、結果、獣人たちは王族として政権を握ったわけだ」

 リリーベルの夫は、()の国の王族である。
 この世界には五つの国があって、それぞれを獣の王がおさめている。

 五つの国にいるそれぞれの王たちはみな、そんな理由で王になったというのか。
 まさか、と菊花が信じられないでいると、リリーベルは苦く笑んだ。

「まさかって顔をしているけれど、本当なんだよ。香樹様は、菊花と一緒にいたくて、ずっといるためには守る必要があって、そのために力を得た。そうじゃなかったら、成人したからってわざわざ菊花と離れて都に行ったりしないさ。獣人は寂しがりやだからね。好いた相手から離れるのは身を切られるような思いらしい。重い愛だよ、本当に」

 夫から毎日のように手紙が届くんだ、と惚気るリリーベルに、菊花は反射的に笑い返した──が。
 もしやこれは、またしても聞いてはいけない類の話だったのでは。

 だって、こんな話、どう考えたってまずいだろう。各国の王族に関する話だ。
 ただの宮女候補が聞いて良い話ではない。絶対ない。万が一、菊花が香樹を諦めて帰郷の道を選ぶ場合、彼女に与えられるのは死──!

「ああ、柚安。これは他言無用で頼むよ」

 ケロリと話すリリーベルに、柚安も澄ました顔で「かしこまりました」と答えている。

(これは、もしかして、もしかしなくても、外堀を埋められたのでは?)

 外堀程度では済まされないかもしれない。
 もう抜け出すことができない底無し沼に落ちている気がするのは、大げさではないだろう。

(それならもう、腹を括るしかないのかも)

 どうしようなんて言いながら、菊花の中ではほぼ、香樹を諦めていた。
 大勢の一人になるくらいなら、香樹を諦めて実家に帰ろう。そう、思っていたのに。

「菊花」

「はい、リリーベルおねえさま」

「私を身内(おねえさま)だと思ってと、言っただろう? だからさ」

 意味ありげに、リリーベルがニヤリと笑う。
 リリーベルの言葉が、ストンと腑に落ちた。

(ああ、おねえさまは……)

 あの時からもう、分かっていたのだろう。
 姉と呼んでくれと言った、あの時にはもう。

「ええ、そうですね」

 リリーベルも、今の菊花のように悩んだのかもしれない。
 だからこそ、この結末も察しがついていたのだろう。
 菊花がもう、香樹から逃げられないことを。
 お茶会が終わり、柚安(ゆあん)とリリーベルを見送った菊花(きっか)は、ふらりと自室の窓辺に腰掛けた。

 本当は庭に出たかったけれど、あたため係の仕事もないのに夕食後に出歩くのは御法度である。
 たぶん出たところで今更(とが)められることはないだろうが、一応けじめだ。

「……ふぅ」

 窓越しに見上げた夜空には、白い月がぽっかりと浮かんでいる。
 黒い夜空に、()()えと冷たく光る月。それはまるで、執務中の香樹(こうじゅ)のようだ。
 周りを拒絶するように、冷たい表情を浮かべているところが、そっくりである。

(たぶんそれは、怖いからなのでしょうね)

 蛇は臆病な生き物だ。リリーベルに言われるまでもなく、菊花は知っている。
 だって、彼女の親友は白蛇なのだ。それくらい、よく知っている。

「怖いから、威嚇しているのだわ。なまじ顔が整っているから、余計に冷たく見えてしまって、周りは必要以上に萎縮してしまう。悪循環ね」

 聞いたばかりの獣人の話が、頭を巡る。
 香樹はいつから、菊花と決めていたのだろう。
 少なくとも、忽然(こつぜん)と姿を消した時にはもう、菊花と決めていたはずだ。
 おそらく、十七歳くらいの頃にはもう──。

「香樹に聞いても、教えてくれないだろうな」

 独り言ち、菊花は一つため息を吐いた。

「何が聞きたい?」

 独り言に声を返されて、菊花は吐き途中の息をヒュッと飲んだ。

 いきなりのことにびっくりし過ぎて、思わず()せる。
 咽せながら恐る恐る、声がした方──自室の扉を振り返ると、扉はいつの間にか開いていて、一人の男が立っていた。

 窓から差し込む月明かりが、扉を開けた人物を照らす。
 訪れたその人物は、菊花がよく知る男だった。

「香樹? こんな時間に、どうしたの? 今日は、呼ばれていないはずよね?」

「来てはいけないのか?」

 返された声は聞いたこともないくらい寂しげで。
 捨てられた子犬の幻影が見えるようである。
 眉を下げ、唇をへの字にし、目は潤んで、今にも泣きそうな顔だ。

「そんなことは、ないけれど」

「入っても、良いだろうか?」

「どうぞ」

 菊花の部屋に香樹が来るのは、これで二度目だ。
 前に来た時と同じように、小さな置物へ会釈して、香樹は真っすぐ菊花のそばへ歩いてくる。

 菊花のそばで(たたず)み、ぼんやりと彼女を見下ろす。
 潤んだ目は、菊花に何か求めるような視線を送ってきた。

「香樹? どうしたの? 何かあった?」

 なんだか放って置けなくて、菊花は尋ねた。

「……こそ」

「え?」

「おまえこそ、何があった?」

「何がって……?」

「昼間の態度だ。どうして、あんなに不機嫌だった? 私が何かしたのか? もし何かしてしまったのだとしたら、教えてほしい」

 わけも分からず謝ることは、不誠実だ。
 そう言って、香樹は沙汰を待つ罪人のように、菊花の前でひざまずいた。

 香樹の誠実すぎる態度に、菊花は気まずい。
 オロオロと視線を泳がせた後、彼女は覚悟を決めるように息を吐き、口を開いた。

「香樹……あの、あなたは、何も悪くないのよ。私が、狭量なだけで……」

「菊花が狭量なわけがないだろう。我慢しなくて良い。言ってくれ。どんなことを言われても、私は受け入れる。必要ならば、直すから」

「そうじゃないの。そうじゃないのよ。だって私、私は……」

 嫉妬していただけなの。

 そう言うだけに、菊花はかなりの時間を要した。
 ようやっと口にした時、香樹は鳩が豆鉄砲を食ったように、真っ赤な目をまん丸にして菊花を見上げた。

「嫉妬、だと?」

 菊花は、林檎飴みたいだと思った。
 丸くて、赤くて、ピカピカしている。
 潤んだ瞳が月光を反射して、美味しそうに見えてきそう。

 ポカンと唇を半開きにして、信じられないものを見るように菊花を見上げてくる香樹に、彼女は苦く笑みながら答えた。

「昼間、珠瑛(しゅえい)様と歩いていたでしょう? 私、たまたま見てしまって。薔薇園の前で美男美女が並んでいて、とても綺麗だったわ。お似合いだとも思った」

「珠瑛は、」

 口を挟む香樹を視線で黙らせて、菊花は被せるように「でもね」と話し続ける。

「同時に珠瑛様がすごく憎くてたまらなくなった。香樹から離れてって、突き飛ばしそうになったわ。私、人に対してこんなに怒ったこと、今までなかったの。だから、びっくりした。その上、なかなか鎮まらないの。ずっとずっと怒りっぱなし。せっかく香樹と話す順番が来たのに、私、仏頂面だったでしょう? ごめんなさい。でも、あれでもマシになった方だったのよ。内心、どうして珠瑛様とおしゃべりしたのって八つ当たりしそうで怖かった」

 きっと珠瑛でなくとも、ほかの宮女候補だったとしても、菊花は同じことになっただろう。
 自覚はなかったが、菊花はとても嫉妬深い、独占欲の強い性格のようだ。

「こんな私でも、()いって言ってくれる?」

 自嘲するように薄笑いを浮かべる菊花。

 突き放すなら、今だよ。
 菊花が言外にそう言っているように思えて、香樹は声を荒らげる※言った。

「当然だ!」

 母のように愛していると言われて、母のような愛は要らぬと知らしめて。
 さて次はどんなことをすれば手の内に落ちてくるだろうと考えていたら、勝手に落ちてきた。それも、可愛らしいことに、嫉妬していたと言うではないか。

 何がいけないというのか。
 香樹からしてみたら、願ったり叶ったりでしかない。

 香樹は湧き上がる愛しさのままに、菊花を強く抱きしめた。
 菊花の髪を飾っていた(かんざし)が、カシャンと落ちる。

 支えを失った結い髪がスルリと解けて、長い髪がこぼれ落ちた。
 月明かりに照らされて、金の髪が眩く光る。

「私は、菊花を愛している。どんなことがあっても、手放すことなどできはしない……。私は、菊花さえいれば良いのだ。私の妻に……正妃に、なってくれるな?」

「香樹……私もあなたが、大好きよ。もしもあなたが、私だけを妃にすると約束してくれるのなら、喜んで受けましょう」

「当然だ。私はおまえ以外、要らないのだから」

 嬉しさのあまり、菊花の目からポロリと涙がこぼれた。
 香樹は唇を近づけて吸い取り、それからふっくらとした彼女の唇に口づけを落とす。

 うっとりとまぶたを下ろして、香樹の口づけに酔いしれる菊花は知らない。
 まさか彼が、逃げようとするなら蛇の姿になって飲み込むつもりだと思っていたなんて、夢にも思わないだろう。

 蛇は臆病だが、独占欲が強い。
 警戒心が強い分、懐に入れた者に執着するのだ。

 奪う者に容赦なく、逃がすくらいなら丸呑みに。
 蛇とは兎角、厄介な生き物なのである。
 宮女候補たちの最終選考、当日。
 講堂へ集められた宮女候補たちには、試験の順番と場所が告知された。

 菊花(きっか)は一番初め、場所はもっとも入り口に近いところである。
 対する珠瑛(しゅえい)は、最後。もっとも入り口から遠い、けれど景色は最上級である薔薇園の近くになっていた。

「最後って、どういうことですの⁉︎」

 珠瑛は不機嫌そうだ。
 分からなくもない。

 最終選考は、茶会で皇帝陛下をもてなすという内容。
 最後では、きっと腹に余裕なんてなくて、豪華な食事も茶も口にできないだろう。

 しかし、この順番は変えられない。
 だってこの試験は、(こう)一族を足止めするためのものなのだ。

 黄家の屋敷から、蛇晶(じゃしょう)帝や香樹の兄を殺した毒草、白い紅梅草(こうばいそう)を見つける。
 全ては、そこから始まっているのだから。

「そうですわ! 珠瑛様が最後なんて、おかしいです。今すぐ、交換を!」

 取り巻きの紅葉(こうよう)がチラチラと菊花を見てくる。
 交換を申し出ろとでも言いたいのだろう。

 知らん顔をしていたら、珠瑛と紅葉とは別の方向からジトリと陰湿な視線を向けられた。
 一体誰だと振り返ると、取り巻きをやめたはずの桜桃(おうとう)が、むっすりと顔を歪めて菊花をにらみつけている。

(取り巻きに戻ったのかな?)

 それにしては、妙である。
 取り巻きに戻ったのなら、紅葉と一緒になって文句を言っているはずだ。
 しかし、彼女はそうしていない。

(なぜ……?)

 だが、考える菊花を邪魔するように、説明を終えた落陽(らくよう)銅鑼(どら)を鳴らす。
 試験開始の合図に、宮女候補たちは我先にと講堂から出て行った。

 珠瑛は紅葉を伴って出て行く。
 話しかけようとした桜桃の隣をすり抜けて、わざとらしく紅葉とおしゃべりしながら。
 まるで、桜桃なんて子は知らないと言わんばかりである。

 伸ばした手をギュッと握って、桜桃は唇をギリギリと噛み締めていた。
 菊花の視線に気付いたのだろう。憎々しげな視線を菊花に向けて、桜桃は珠瑛たちの後を追いかけていった。

 講堂を出た宮女候補たちが、呼び寄せた一族とともにそれぞれの試験場所へ散っていく。
 大掛かりな舞台を作る者、美麗なやぐらを建てる者、一面を花畑にする者……さまざまな方法で、宮女候補とその一族たちは皇帝陛下を満足させようと必死である。

 誰もが、皇帝陛下の正妃になろうと足掻いていた。
 天涯孤独の身の上である菊花には、到底できないことだ。

(でも、私には仲間がいる)

 父も母もいないが、菊花には大切な仲間がいる。

「さぁ、菊花。まずは設営しようか」

「そうですよ。()の国から、すてきな家具が届いていますからね」

 リリーベルと柚安(ゆあん)が、菊花の背中を押す。
 菊花は満面の笑みを浮かべて、二人とともに自身の試験場所へと足を向けた。

 誰もが平等であるように、庭には紐が張られ、均等に分けられている。
 どんな身分であろうと、平等に審査するためだ。

 この一週間でぞくぞくと届いた戌の国からの贈り物は、素晴らしいものばかりだった。
 木製の丸い卓に、曲木が美しい椅子。卓に掛けられた布の、レース模様がなんとも美しい。

 リリーベル監修のもと、菊花は柚安と協力して、それらをせっせと配置した。
 異国の家具は、後宮の庭の雰囲気に合わないかもしれないという懸念もあったが、実際に置いてみたら意外にもしっくりなじんでいる。

「うん。なかなか良いんじゃないか?」

「そうですね。僕も、良いと思います」

「そうね。とてもすてきなアフタヌーンティーができそうだわ」

 白を基調とした家具は、黒や朱を基調とした後宮の建物を背景にすると、とても映える。
 三段重ねの皿を飾る茶菓子や、茶道具を並べれば、さらに良くなるだろう。

 リリーベルが仕立ててくれたドレスを着て、ここで香樹に給仕する。
 それはとても、すてきな時間になるだろうと想像できた。

 隣の宮女候補は、舞を披露するようだ。
 何人もの男が小さな舞台を作っている。
 彼らは大工だろうか。作る手つきに迷いがない。

「おいおいおい、嬢ちゃん。そんな貧相な会場で皇帝陛下がご満足なさるわけがないだろう」

「そうだぜ? 煌びやかなもてなしをしなくっちゃなあ?」

 菊花のささやかな会場を見て、男たちは鼻で笑った。

 確かに、菊花の会場は派手さがない。
 どれも上質なものなのは確かだけれど、菊花らしい、落ち着いた雰囲気が漂っていた。

「派手ならば良いっていうわけじゃありませんから」

 ムッとする菊花に、柚安は癒やし効果抜群の気の抜けた笑みを向ける。
 ほわん、と心が解れたところで、彼は「さぁ、行ってください」と菊花を促した。

 柚安とは、ここでしばらくお別れである。
 彼はここで、この場所を警備する役目なのだ。

 最終選考ともなれば、きっと妨害工作がある。
 それを見越してのことだった。

「ここは僕に、お任せください!」

 そう言ってどんと胸をたたく柚安に、菊花は手を振って厨房へ急いだ。
 その後ろを、リリーベルが爽やかに追い抜いていく。

 男装の麗人を見かけた宮女候補やその一族の女性が、作業の手を止め足を止めて魅入る。
 そんな彼女たちに手を振って応えながら、リリーベルは菊花とは別の方向へ走っていった。

 リリーベルはこれから、最終選考の裏側で行われる作戦に同行する予定だ。
 黄家の屋敷で白い紅梅草が見つかった場合、判定できるのは彼女しかいないから。

 戦地へ赴く友人を見送るような気持ちで、菊花はリリーベルの背中へ密やかに声援を送ったのだった。
   飛び込むようにして厨房へやって来た菊花(きっか)を待っていたのは、腕輪ほどに小さくなった香樹(こうじゅ)の兄だった。

 父である蛇晶(じゃしょう)帝は蛇であるにもかかわらず一部の人間と会話できるが、香樹の兄はサイズを自在に変えられるらしい。
 鎌首をもたげて警戒するように出入り口を見つめる蛇に促されるように、菊花は扉と窓をしっかりと施錠した。

 いつどこで、何をされるか分かったものではない。必要過多なくらい用心せよと、香樹(こうじゅ)から言い渡されている。
 しっかりと厨房を密室にしてから、菊花はリリーベルから贈られた白いエプロンをつけた。
 ()の国では、フリルがついたエプロンは新婚夫婦のお嫁さんの定番らしい。

「まだ、嫁じゃないけどね」

 照れ隠しに蛇の頭をチョンと突くと、抗議するように舌をピルピルされる。
 笑って謝りながら、菊花は作業に取り掛かった。

 アフタヌーンティーのメニューは、戌の国ではわりとよくある内容になっている。
 きゅうりをパンに挟んだサンドイッチにクッキーやケーキ。スコーンにはジャムとクリームを添えて。

 もともと食べることが好きな菊花だ。美味しいものを作ることも、大好きである。
 嬉しそうに鼻歌を歌いながら、菊花は手早く準備を進めていった。

 今回作るものは、リリーベルが王妃である義母から教わったという王家伝統のレシピだ。
 義母から嫁へと伝えられてきた、王族に嫁いできた者にしか教えてもらえない特別なもの。
 それをなんと、菊花は教えてもらうことができたのである。

 こんなこと、通常ではあり得ない。
 本来は王家に嫁いできた者にだけ教えてもらえるものなのだが、菊花は香樹が選んだ娘ということで、やすやすと公開してくれたのだ。

 リリーベル曰く、王妃は天涯孤独の身の上である菊花をすごく心配していて、「リリーベルが姉ならば、わたくしは母……はおこがましいので、おばと思って頼ってほしい」と言ってくれたのだとか。
 その隣で国王が涙を流して王妃を「女神のようだ」褒め称え、飛びつかんばかりに褒め称える夫に、王妃は「ステイ」と叫んでいた──とリリーベルの夫からの手紙には書いてあったらしい。

 その話を聞いて、菊花はなるほどと頷いた。
 もっとも、さすがに隣国の王妃様をおば扱いするのは気が引けて、丁重に断ったのだけれど。

 リリーベルが言っていたように、獣人やその伴侶たちは、菊花に優しい。
 いつか恩返しせねばと意気込んでいたら、リリーベルは「いらないよ」と笑って答えた。

「獣人に番が見つかることは、喜ばしいことだ。中には、一生見つからない場合もあるからね。だから、協力するのも当たり前。そう難しく考えないで。そうだな……いつか、菊花の力が必要になる時がくるかもしれない。その時は、私や義母がそうしたように、菊花も協力してほしい。それが、恩返しになるのだから」

 私の時もね、いろいろな人が助けてくれたのだよ。
 言いながら、リリーベルは菊花の隣でクツクツとジャムを煮ていた。

 赤い林檎は皮と一緒に煮ると、黄色の実が淡い赤色に染まってとても綺麗だ。
 それに、林檎の赤は香樹の目を思い出させる。
 菊花は迷いなく、たくさんあった果物の中から林檎を選んだのだった。

「思い出し笑いしている暇があったら、どんどんやっていかないとね!」

 やることはいっぱいである。
 なにしろ、パンを焼いたりジャムを煮たりするところから始めなくてはいけないのだ。

 正妃になるのは菊花だと、香樹の中で決まっているのだとしても。
 やはり菊花としては、全力で試験に臨みたい。

(正々堂々戦って、(こう)珠瑛(しゅえい)に勝つ!)

 菊花の気持ちは、きっと香樹に伝わるはずだ。
 自分ができる精一杯で、香樹を喜ばせよう。
 冷たい横顔が解ける瞬間を想像して、菊花はむん! と気合いを入れた。

 窯からパンの香ばしい匂いが漂う。
 焼き立てのそれを窯から取り出し、代わりにスコーンを入れる。そうかと思えば、鍋の中身をかき混ぜてーーと、時間はあっという間に過ぎていった。

 サンドイッチに、クッキーやケーキ。スコーンにはジャムとクリーム。
 ようやっと完成した料理を前にして、菊花は仁王立ちして得意げにうなずいた。

「これは……満身の出来だわ!」

 あとはこれを会場へ持って行って、三段重ねの皿に並べ、紅茶を準備したら完成である。
 満足げに息を吐いたのとほぼ同時に、銅羅(どら)の音が遠くで響いた。
 準備時間終了まであと半刻(いちじかん)、という合図である。

「いけない! そろそろ着替えをしないと間に合わないかも」

 でき上がった料理を、持ち運びできるように箱に入れる。
 毒なんて入れられたらたまったものではないから、着替えの時も手放したくない。
 倒れないように気をつけながら、菊花は箱を持ち上げようとした。と、その時である。

 コンコンコン。

 施錠していた厨房の戸が、叩かれた。

「菊花様? そこにいらっしゃるのでしょう?」

 聞こえてきた声は、桜桃(おうとう)のものだった。

(どうして、桜桃がここへ……?)

 身構える菊花の気配を察したのか、少しの間を空けて、桜桃が再び声をかけてくる。

「あの、私、謝りたくてここへ来たの。あなたには、随分と嫌なことをしてしまったでしょう? きっと私は、最終選考で落とされるから……だからせめて、悔いだけは残さないように、謝る機会をくれないかしら?」

 桜桃は、涙声だった。
 彼女が心から後悔しているように思えて、菊花は扉へ近づく。

「本当に、そう思っているの?」

「私のわがままだって、分かっているわ。でも、お願い。そうしないと私……。私ね、妃に選ばれなかったら、別の人と結婚することが決まっているの。相手は、すごく年上で、私は後妻。お金には苦労しないだろうけれど、幸せとは言い難いと思うわ。だからせめて、あなたのことだけはちゃんと終わりにして、気持ちよく嫁ぎたいの。お願い、菊花様。私に、機会をちょうだい」

 桜桃はしゃくり上げながら、そう言った。
 聞いている菊花の胸が締め付けられるような切ない声。
 だから菊花はつい絆されて──扉を、開けてしまった。

 開いた扉の先に居た桜桃は、目に涙なんて浮かべていなかった。
 菊花を見るなり、「やっと出てきた」と無機質な硝子玉のような目でにらみつけてくる。

「遅いのよ、あなた。さっさと出てきてくださる? 私だって、暇じゃないの」

 菊花は反射的に、くるりと(きびす)を返した。
 後ろは厨房で、外へ逃げる道は窓しかない。
 調理台の上に置きっぱなしになっていた鍋を掴んで、なんとか武器を確保する。

 だけれど、それも無駄だった。
 桜桃の後ろから出てきた男にあっという間に捕まって、菊花は床へ引き倒された。

「うぅっ!」

 逃げようともがく菊花の前に、桜桃はしゃがみ込んだ。
 桜桃の手には香炉があって、彼女は煙が立ちのぼるそれを菊花の目の前に置く。
 気持ち悪いくらい甘ったるい匂いが、菊花の鼻に届いた。

 嫌な予感しかしなくて、菊花は匂いを嗅がないように顔を背ける。
 だが、男が背を押さえつけてくるせいで胸が苦しく、耐えきれずに吸ってしまう。

 甘い匂いが、意識を奪い去っていく。
 朦朧とする菊花に、桜桃は楽しげにささやいた。

「あなたを捕まえて引き渡しさえすれば、蘭瑛(らんえい)様が私を後宮に残してくださるのですって。後宮に残れれば、こっちのもの。珠瑛様が正妃だとしても、陛下の子を身籠もれば……私にだって好機(チャンス)はある

 桜桃の声が、ぐわんぐわんと頭に響く。
 足首に感じたヒヤリとした温度を最後に、菊花の意識は底へ底へと沈んでいった。