皇帝陛下のあたため係

 しばらく歩いて、香樹(こうじゅ)菊花(きっか)の部屋の前で止まった。
 両手がふさがっている香樹の代わりに、菊花が扉を開ける。

 私物なんてほとんどない、飾り気のない部屋。
 机の上に置かれた小さな置物に気付いた香樹は、あいさつするようにペコリと頭を下げた。
 なんでもないことのように。それが当たり前のことだというように、自然と。

「あ……」

 誰がどう見ても、価値なんてない小さな置物。
 珠瑛(しゅえい)たちでさえ、気にも留めなかったそれに、香樹は気付いてくれた。

 そのことがどうしようもなく、菊花は嬉しかった。
 だってその置物は、菊花の父であり、母だったから。

「ありがとう、香樹」

「礼を言うようなことではないだろう」

「でも、嬉しかったから」

「そうか」

 寝台の上に、(うやうや)しく下ろされる。
 菊花の目の前で、香樹はひざまずくように座った。

 部屋の中に蝋燭(ろうそく)はあるけれど、ついていなかった。
 今夜は満月のはずだけれど、雨雲が隠してしまっている。

 薄暗い中、香樹の深紅の目が菊花を見据えた。

「菊花」

 名前を呼ばれる。
 たったそれだけなのに、菊花の胸はドキリと脈打った。

(言われ慣れていないせい?)

 胸を押さえて息を潜める菊花の手を取った香樹は、無表情だった。
 その顔からは何も読み取れなくて、菊花は不安そうに彼の名前を呼ぶ。

「香樹?」

「……どうして逃げなかった?」

 怒っているような、何かを我慢しているような、静かで低い声だった。
 幼子を叱る母親のように、香樹の両手は菊花の手を掴んでいる。
 赤い目が、責めるように菊花をにらんだ。

「逃げたく、なかった、から」

 香樹が責めるのも、分からなくはない。
 しかし菊花だって、彼女なりの理由があってそうしたのだ。
 悪いことなんてしていないと、菊花は対抗するように香樹をにらみ返す。

(せき)先生は、逃げろと教えなかったか?」

「教わったけど……でも私は、そんな事できない」

「なぜ?」

(なぜ、なんて。そんなの、決まってる)

「だって私は、香樹のお母さんだもの」

 菊花は掴まれていた手で、香樹の手を握り返した。
 いつもなら冷たいはずの手が、今日は菊花よりもあたたかい。

「お母さんって、そういうものなのよ。子どものためなら、身の危険も顧みないの」

「そうか、母か」

 香樹は、笑った。
 美しい人が笑うとこんなにも綺麗なのかと、菊花は感動を覚えた。

 どんなに風光明媚(ふうこうめいび)な風景も、彼の笑顔には敵わない。
 それくらい、香樹の笑顔はとんでもない破壊力があった。

「そう、母よ」

 わかってくれたか、と菊花も笑い返す。

 ニコニコ。ニコニコ。
 笑い合う二人ーーだが、それも少しのこと。

 なぜだか香樹は菊花の手を持ち上げて万歳をさせて、そのまま体重をかけてきた。
 菊花に覆い被さるように、香樹が寝台(ベッド)に上がる。
 二人分の体重を受けて、寝台がギシリと音を立てた。

「あれ?」

「なんだ」

「どうして、私は押し倒されているの?」

 両手を一括りにされて、頭上で縫い止められる。
 そんなことをしなくても逃げたりしないのに、と菊花は不思議に思った。

「さぁて、どうしてだと思う?」

「眠たいの?」

「そうだな、それもある」

「えっと、じゃあ、寝る?」

「そうさせてもらおう」

 香樹の顔が、菊花の顔に近づいてくる。
 いつもなら、後ろから抱きついて首筋に顔を寄せて眠るのに、どうして今夜に限って違うのだろう。
 不思議に思って見つめていると、香樹の顔がどんどん近づいてくる。

 香樹は、それまで菊花が見たこともないような顔をしていた。
 抜けるように白い肌をうっすらと上気させ、熱っぽく目を潤ませている。
 彼の紅玉のような瞳には、仄暗い炎のようなものが揺らいでいた。

「香樹」

「なんだ」

「顔が近い」

「こういう時は目を閉じるものだと習わなかったか?」

「房中術では、そうだけど。でも、私はお母さんだから、関係ないでしょう?」

 香樹の目の揺らぎが大きくなる。
 だがそれも一瞬のことで、すぐに仄暗い炎に取って変わった。

 そうだ。菊花は母のような気持ちで香樹を想っている。
 だから、房中術なんて関係がないはずである。

 ケロリと答える菊花に、香樹は呆れたようにため息を吐いた。
 それから「まだそんなことを言っているのか」と口の中でボソボソつぶやく。

「なぁ、菊花。私とおまえは、本当の親子ではない。だから、本当の親子のようになるためには、普通の親子以上に密な接触が必要だと私は考えるが……どうだろうか?」

 香樹の提案に、菊花はなるほどとうなずいた。
 だって、本当にその通りだと思ったからだ。

(香樹と私は幼馴染みで親友であたため係だけれど、本当の親子じゃない。さっきのため息も、きっとなにか不足があって呆れてのことなんだわ。それなら私は、香樹が望むように、普通の親子のようになるために要求を飲むべきなんじゃ……?)

 それに、香樹と菊花には離れていた期間もある。
 埋めるためには、より一層仲良くする必要があるだろう。

 香樹の本心も知らず、うぶで無知な菊花は「それもそうね」と答えた。

「その言葉、忘れるなよ?」

 言質はとったからな。
 そう言った香樹の目は、まるで獲物を前にした蛇のように、意地悪で、楽しそうな色をしていた。
『ほうほう、それで? それから、どうしたのじゃ』

「お、お母さんにするとは思えないことを、され、ました」

『なんじゃ、それは。恥ずかしがっとらんで、素直に全部吐け! 母にしないこととは、どんな事なのじゃ!』

「そ、それ以上は、私の口からは、とても……」

 菊花(きっか)石榴(ざくろ)のように顔を真っ赤にして、手で顔を覆った。
 見れば、耳や首、鎖骨のあたりも真っ赤になっている。

()いのぉ』

 ニヤニヤとからかうような蛇晶(じゃしょう)帝の声に、菊花の肩がビクンと揺れる。

「ひっ! それ、その言葉! 使わないで下さい! 思い出しちゃいますから!」

 愛い。
 その言葉を、菊花は寝台(ベッド)の上で何度も聞かされた。

 母親に対して、愛いなんて言葉は使わない。
 さすがの菊花も香樹(こうじゅ)がどういうつもりで言っていたのか理解したらしく、恥ずかしさを爆発させたように奇声を上げた。

「そ、そそそそれよりも。リリーベル様から文が来たのですよね? 結果は、どうだったのですか?」

 わかりやすく話題を転換してくる菊花に、しかしそれ以上揶揄(からか)うつもりもなかった蛇晶帝は、『そうじゃの』と話に乗った。

『結論から言うと。菊花の実家にあった白い紅梅草(こうばいそう)は、似て非なるものだったそうじゃ』

 崔英(さいえい)の田舎にある名もない町の外れ、訳あり皇族の墓がある山の前に、菊花の実家はある。

 菊花が後宮へ行ってから、畑を世話する者など誰もいない。当然のことながら、菊花の小さな畑は荒れ放題だった。
 食べようと思って育てていた菜っ葉や(かぶ)はもちろん、全てを食い尽くそうとするように白い紅梅草は繁殖していたらしい。

 リリーベルは半数を刈り取ってその場で検査し、念のためにともう半分を持ち帰ってくる予定のようだ。
 結果として、菊花の畑は主人が労せず雑草の駆逐に成功したと言えよう。

(そういうつもりはなかったけれど……リリーベル様が戻ってきたら、お礼を言わなくちゃいけないわね)

 お礼の品はなにが良いかしらと思案する菊花の向かいで、蛇晶帝は当てが外れたと不満げに尻尾を振っている。
 リリーベルから文が来たのは昨日のことで、彼女の帰還は数日後になるだろうと蛇晶帝は言った。

「似ているけど、別のものってことですか?」

『ああ、そうじゃ。かなり似ているらしいが、少しだけ違うとリリーベルの文には書いてあった。もしかすると、菊花と同じように紅梅草を繁殖させようとした者が、たまたま作り出してしまったのかもしれぬ』

「そう、ですか」

 リリーベルは言っていた。
 紅梅草の栽培方法はまだ確立されていない、と。

 菊花と同じ理由とはいかないまでも、紅梅草の栽培に情熱を注ぐ人が存在してもおかしくはない。

(だけど、失敗した白い紅梅草の効能を調べて、それで皇帝陛下を毒殺する人というのは、なかなかいないわよね)

 その時、菊花の脳裏に天啓とも思える言葉が思い出された。
 そうだ。柚安(ゆあん)は言っていたじゃないか。「(こう)家は、黒いうわさが絶えないのです。歯向かった人が毒殺されたという話をよく耳にしますし。けれど、証拠がないので捕まえようがないのだとか」と。

(この感覚……なんか、覚えがあるような?)

 まさかね、と菊花は思った。
 だけれど、二度あることは三度あるとも言う。
 タイミング良く以前リリーベルから言われた「少しの可能性でもあるのなら、聞く価値はある」という言葉を思い出して、菊花は思い切ることにした。

「あのぅ……ちょっと、よろしいでしょうか?」

『なんじゃ、菊花』

「おじさまは、黄家と問題なくお付き合いできていましたか?」

『なんじゃ、藪から棒に。だがまぁ、そうだな……良好とは言えんかった』

 黄家の当主である蘭瑛(らんえい)は、若い頃、華香(かこう)を嫁にすると息巻いていた時期がある。

 黄家の分家に生まれた華香は、美しく聡明な女性だと、素晴らしい評判だった。
 黄家本家の嫁にふさわしいと、当時の黄家当主が無理やり縁談を持ってきたらしい。

『そんな中、わしは華香と出会い、婚約した』

 皇太子殿下の正妃ともなれば、黄家に否やは言えない。
 結果、華香は蛇晶帝の正妃となり、蘭瑛は別の女性と結婚した。

 しかし、本当は自分のものになるはずだったという思いが捨てきれない蘭瑛は、しばらく荒れていたのだと聞く。

『だが、華香が死ぬと、憑き物が落ちたように落ち着いたそうじゃ』

 それからしばらく蘭瑛は大人しかったが、また荒れた。
 すると今度は、皇子が死んだ。

 華香と、皇子二人。
 不幸がある度に蘭瑛が落ち着いたものだから、口さがない者は蘭瑛が皇子を殺したのではないか、などとうわさした。

『だが、そんなものは根も葉もないうわさじゃ。息子の死は、他殺ではない。病気や寒さによるものだったのだからな』

 蛇晶帝言う通り、因果関係は証明できない。
 だが、話を聞いた菊花は、嫌な予感が拭えなかった。
 むしろ、聞く前よりも増したくらいである。

 自分なんかが言うことではない。
 そう思ったが、言わないで後悔するより言って後悔した方がマシだ。
 汗がにじむ手で(スカート)手繰(たぐ)るように握りながら、菊花は口を開いた。

「もしも、もしもですよ? 蛇晶帝の家族が死ぬことで留飲を下げていたのだとしたら? それまではたまたま、誰かが不幸になっていたけれど、待っても待っても誰も不幸にならなかったら……我慢できなくなって殺そうとするのではないでしょうか」

『まさか。そんなことがあるわけ……なかろう』

「本当に、ほんの少しも、思わないのですか?」

 畳み掛けるような菊花の問いかけに、蛇晶帝が「ぐ」と押し黙った。

 菊花だって、確証があるわけではない。
 あるのはただ、嫌な予感だけなのだ。

『わしが毒殺されたのも、皇太子が殺されたのも、蘭瑛の仕業だと言うのか?』

「分かりません。でも、本当に蘭瑛様が主犯なのだとしたら……おじさまが毒殺されてから、香樹のお兄様が殺されるまでの間隔が、短くなっています」

 長く我慢していたからなのか、見境がなくなっているのか、それとも別の理由があるのか。
 分からないけれど、もしも、見境がなくなっている場合、香樹を毒殺するのも時間の問題である。

 菊花の言葉に、蛇晶帝は「ううむ」とうなり、それきり何も話さなかった。
 リリーベルが戻ってきたのは、文が届いた三日後のことだった。
 自分がいなかった間に大事な助手が危険な目に遭っていたと聞かされて、彼女はかなりご立腹である。

「きっかぁぁ?」

「は、はい、なんでしょう? リリーベル様」

 美人が怒ると、凡人よりも迫力がある。
 般若の面のような顔をするリリーベルに、菊花(きっか)は顔を引き攣らせた。

 菊花の両肩を掴んで顔を覗き込みながら、リリーベルは武官でもない菊花がどれほど無謀だったのか、それによってもたらされる驚異と結末を懇々(こんこん)と話して聞かせた。

「いい? 今後同じようなことがあったら、絶対に、何がなんでも逃げること。分かった?」

「……わかりました」

「間が気になるけど……分かったのなら、よろしい」

 菊花が渋々うなずいたのを見て、リリーベルはようやく怖い顔をやめた。
 それから優しい笑みを浮かべて、菊花の頭を撫でてくれる。
 お姉さんがいたらこんな感じなのかなと、菊花は目を(すが)めて身を任せた。

「それで? 菊花を狙っていた男の素性は分かったのかい?」

 リリーベルの問いに答えたのは登月(とうげつ)だった。
 いつものようにしれっとした顔で、彼はこの場に立っている。

「ええ。私が検分いたしました」

「登月が?」

「ええ、何か問題でも?」

「いや、ご愁傷様だなぁと思っただけさ。それで?」

「暴漢の見当がつきました。()李平(りへい)(しゅ)家の口添えで地方から異動になってきた、武官です」

 ぞくり。
 その時、菊花の背中を悪寒が走った。

(朱家の口添えってことは、やっぱり黄家が関係している?)

 朱家といえば、朱紅葉(こうよう)が真っ先に思い浮かぶ。
 紅葉は、珠瑛(しゅえい)の取り巻きの一人だ。

 同じことを思ったのだろう。
 菊花の足元にいた蛇晶(じゃしょう)帝が、ゆるりと頭を起こして見上げてくる。

『菊花。あの件を、皆に伝えてくれ』

「父上。あの件、とは?」

 意味深な言葉に、香樹(こうじゅ)が眉をひそめて蛇晶帝を見る。
 登月とリリーベルは蛇晶帝の言葉が聞こえないためか、様子を窺うように静観を保っていた。

「これはあくまで私の推測だけれど……私たちが探している白い紅梅草(こうばいそう)は、(こう)家が栽培しているのではないかと思うのです」

 黄蘭瑛(らんえい)華香(かこう)の過去。それから、荒れた蘭瑛と亡くなった者たち。
 たまたまといえばそれまでだが、菊花はそう思えなくなっていた。

「黄家は昔から、黒いうわさが絶えないそうですね。それも毎回、毒殺と言うではありませんか。蘭瑛様の荒れた時期と、蛇晶帝周辺で起きた不幸の時期、それらを鑑みて、一部の出来事は蘭瑛様が指示していることなのではないかと思ったのです。確証はありません。ただの勘でしかない。けれど今回、暴漢が黄家と無関係ではないかもしれない武官だと聞いて、私はますます怪しいと思いました」

 菊花の言葉を、香樹は難しい顔をして聞いていた。

 彼女が言っていることは、分からなくもない。
 父や兄が毒殺されたと聞いて、香樹がまっさきに疑ったのが蘭瑛だったからだ。

 十七年ぶりに突然現れた末の皇子に、それまで皇太子の正妃にと推していた珠瑛を香樹の嫁にどうかと打診してきた蘭瑛。
 だから香樹は、皇太子を殺す前提で打診してきていたのではないかと考えた。

 だが、それはあくまで香樹の推測に過ぎない。
 毒殺された父や兄の周辺からは黄家の関与を示す証拠は見つからず、犯人は未だ野放しのままだった。

「黄家は前々から怪しい動きをしていた。だが、いずれも証拠がない。証拠がなければ、大々的に家探しすることも難しいだろう」

 頭が痛い。
 鈍い痛みを散らすように、香樹は頭を振った。

「そうですよね。だから、思ったんです。彼らの留守を狙って、こっそり家探しできないかなって。証拠さえ見つかれば、黄家は言い逃れできないでしょう?」

「しかし、そう簡単に留守になることなどあるのだろうか? 毒草を栽培しているのなら、離れることなど考えられまい」

 そうなのである。それが、問題だった。
 しかし菊花はそれ以上を考えておらず、困り果てて(スカート)を握りしめることしかできない。
 そんな中、沈黙を破ったのは登月だった。

「いいえ。留守にさせるのですよ。間もなく、宮女候補たちの最終選考の時期に入ります。陛下はその最終選考の方法として、茶会を提案するのです。自分を最も喜ばせた一族の娘を正妃にする。そう言えば、一族を挙げて茶会を盛り上げようとするのではないでしょうか」

 登月の案に、リリーベルが「まさか」と異を唱えた。

「皇帝陛下を毒殺するような男が、それくらいで尻尾を出すかな?」

 リリーベルの言い分は、もっともだ。

 しかし、もしも蘭瑛が狂っているのだとすれば。
 もしも、香樹や菊花を、蛇晶帝に関係する者を殺すことで気持ちを落ち着けているのだとすれば。

 我慢できずに動くはずだと、菊花は思った。

「茶会は、うってつけの機会だと思います。だって、堂々と毒殺できますから。機会はたくさんある。隙を作ってわざと泳がせたら、もしかすると現行犯で捕まえられるかもしれません」

 言いながら、菊花は足が竦むような思いだった。
 だって、もしかしたら殺されてしまうかもしれない話をしているのだ。怖くないわけがない。
 震える手を押さえつけるように握りしめていたら、ひんやりとした手が菊花の手を包み込む。

「よく分かった。黄家については、私も前々から気にはなっていたのだ。調べられる機会があるのならば、やってみたいと思う。だが、菊花が危険な目に遭うのは困る。万全の態勢で実行できるよう、入念な準備が必要であろうな」

 菊花の手の甲を唇に寄せて、香樹は恭しく口づけを落とした。
 途端、菊花の震えはおさまり、代わりに彼女の肌が真っ赤に染め上がる。

「陛下。ちょっと仲が進展したからって、この場で見せつけないでください」

 登月の冷ややかな視線に、香樹がおかしそうにククッと笑う。

「なんだ、登月。やきもちか?」

「さて、なんのことでしょう?」

 軽口の応酬に、不穏な空気が少しだけ和らぐ。
 ホッと息を吐きながらも、しかし菊花の胸の内は黒い霧がたちこめたままだった。
 香樹(こうじゅ)蛇晶(じゃしょう)帝、登月(とうげつ)とリリーベル、それから菊花(きっか)を交えての話し合いから半月が経った。
 何度も対話を重ね、香樹は茶会を──つまり、自身や菊花を(おとり)にして、(こう)家屋敷を捜索することを決めた。




 講堂へ集められた宮女候補たちを前に、宦官の落陽(らくよう)は鼻息も荒く宣言した。

「宮女候補の最終選考の内容が決まった!」

 ざわり。
 そう多くない宮女候補たちが、顔に喜色を浮かべる。

 当然だろう。
 これでようやく、長かった宮女候補生活が終わるのだから。

 その先へ続く道は、妃への道か、それとも故郷への帰り道か。
 どちらにしても、故郷へ錦を飾れるだろう。
 最終選考に残っているということは、それだけの価値があるという証明になる。

(今日は随分、声が響くわね)

 でっぷりとした腹を揺らし、落陽は試験内容を読み上げている。
 彼の大きな声は、講堂の天井でウワンウワンと反響しているようだった。

 後宮へ初めて来た時、講堂の中にはあふれんばかりに美女や美少女たちが居たというのに、今では数えるほどしかいない。
 講堂がやけに広く感じるのは、今まで人が多かったせいなのだろう。

 菊花は、中央付近の席に座る珠瑛(しゅえい)を盗み見た。
 真っすぐに背を伸ばした、凛とした佇まい。射干玉(ぬばたま)色の髪は結い上げられ、さらけ出された細い首が艶めかしい。

 見えないけれど、その顔はきっと自信満々な表情を浮かべているに違いない。
 先程から、訳知り顔の落陽のニヤケ具合がひどいから。

 珠瑛の隣の席には、距離を置いていたはずの紅葉(こうよう)がいて、親しげに話しかけている。

 おそらく、紅葉の生家である(しゅ)家は、黄家についたのだろう。
 傍観の時期を終え、おもねることにしたようだ。

(朱家は、私を殺しに来た武官を都に呼び寄せたのだものね)

 菊花の暗殺は失敗に終わり、朱家は何を土産にその傘下へ下ったのだろう。

(紅葉が珠瑛の取り巻きに戻るだけでは、割に合わないだろうし)

 菊花は首をかしげながら、落陽の話に耳を傾けた。

「これよりひと月後、後宮の庭を開放し、茶会を開催する。そこで各々の一族が一丸となって、趣向を凝らした茶会で皇帝陛下をもてなすのだ。最も陛下を楽しませた一族の娘が、正妃となる」

 本来、後宮は皇帝陛下以外男子禁制であるが、この茶会の間だけは例外である。
 正妃が決まれば、蛇晶帝の後宮であったここは取り壊される。母との思い出が残るこの場所を、華やかな思い出で終わりにしたい──というのが蛇香(じゃこう)帝からのお言葉らしい。

 蛇香帝の母、華香(かこう)が産後すぐに亡くなっているのは周知の事実である。
 母を早くに亡くし、後宮に残る母の面影を頼りに寂しい幼少期を過ごしていたであろう、かわいそうな蛇香帝を想った宮女候補は、そっと涙を拭った。

 もちろん、菊花は事実を知っているので泣いたりはしない。
 それに、お母さんの代わりになろうと頑張っていた菊花にあんなことをする男が、母恋しさに後宮を彷徨(さまよ)い歩くなんてことをするわけがない。
 彼はなかなかに、ふてぶてしい男なのだ。

(くぅぅ。思い出したら、恥ずかしいやら腹が立つやら……! でも、それでも香樹から離れようと思わない私も、きっと同罪だわ)

 寝台(ベッド)の上でされた恥ずかしいあれこれを思い出さないように、習ったばかりの異国の数式を思い出しながら、菊花は落陽が語る素晴らしい茶会とやらの演説を右から左に聞き流したのだった。
「でもねぇ……私、まだ疑問があるのよ」

 毎夜お馴染みの柚安(ゆあん)とのお茶会で、菊花(きっか)は工芸茶を淹れながら言った。

 今夜のお茶は、花籠という名前のお茶らしい。
 緑茶と薔薇、菊と金盞花(きんせんか)の工芸茶である。

 厨房からくすねてきた饅頭をほお張りながら、柚安が首をかしげた。

「ひほん? はんへふ?」

「どうして蘭瑛(らんえい)様は、自分の娘を宮女候補に送り込んだのかしら。殺したいほど憎い相手の嫁にするなんて、気が狂っているとしか思えないのだけれど」

 柚安は考え込みながら、饅頭を咀嚼し、ごくんと飲み込んだ。

「狂っているのでしょう。それ以外に考えられることですと……そうですねぇ……乗っ取り、でしょうか」

「乗っ取り?」

「憎くて仕方がなかった男を殺し、自分と血のつながった孫が皇帝になる。孫が幼く、(まつりごと)も行えないような年齢だったら、後見人として権威を振りかざせます。それは、自身が皇帝になったも同然。自分のものになるはずだった女を奪った、憎い男の位を乗っ取る……と。僕だったら、そう考えます」

「でもさ、その場合、憎い男の血も流れているわけでしょう?」

 茶を三つの茶杯に注ぎ入れながら、菊花はますます分からないと困惑の表情を浮かべた。
 差し出された茶杯を受け取りながら、今夜初参加となったリリーベルが「ふむ」と考え込む。

「こうは考えられない? 好きな女と結ばれなかった哀れな男は、自分の娘と好いた女の息子を(つが)わせて、自分の代わりにする……というのは」

 それはそれで、なかなかに気持ち悪い。
 平気な顔で毒殺する男に、そんな乙女な一面があるかと思うと、笑うに笑えない。

 引き攣るほおをごまかすように饅頭を口に放り込んだ菊花に、リリーベルは苦く笑い返した。

「まぁ、理由はなんであれ、罪を犯したら償うのが道理だ。ところで菊花、お茶会の準備は進んでいるかい?」

「ああ、はい。リリーベル様のおかげで、滞りなく」

 菊花の茶会は、()の国式のお茶会を予定している。
 天涯孤独の身の上の彼女を心配したリリーベルが、協力を申し出たのだ。

 戌の国で茶会は、アフタヌーンティーと呼ばれているそうだ。
 三段重ねの皿に軽食や菓子を並べ、紅茶を提供するらしい。

 当日は、菊花自ら厨房で菓子を焼く予定だ。
 今は、こっそりと菓子作りの特訓中である。
 ドレスの採寸はもう済ませているので、試食でサイズアップしないように必死だったりする。

「そうか、それは良かった。私が懇意にしている仕立屋でドレスを仕立ててもらっているから、衣装については安心して。茶葉やティーセットも、もうじき国から届く」

「何から何まで、ありがとうございます」

「ああもう。そんなに畏まらなくて良いんだよ? 私のことは姉だと思って、遠慮なく甘えてほしい」

「姉、ですか?」

「うん、そう。これから私たちは長い付き合いになるだろうからね。ほら、言ってごらん? おねえさまって」

「……リリーベルおねえさま?」

「っっ! なんというか、新しい扉が開きそうだね!」

 楽しげに笑いながら頭を撫でてくるリリーベルに、菊花もつられるように笑う。
 楽しそうにはしゃぐ二人に置いてけぼりを食らったような顔で柚安は寂しそうにしていたが、ほどなく二人に絡まれ始める。

 こうして楽しい夜は、にぎやかに更けていくのであった。
「菊花様、大丈夫ですか?」

「……くぅ!」

 アンダードレスなるものを着せられ、コルセットという拘束具のような服で体を締め上げられる。
 見守る柚安(ゆあん)に、菊花(きっか)ではなくリリーベルが爽やかな笑顔とともに「大丈夫さ」と答えた。

「だいじょうぶじゃ、ない」

 うっぷ。
 菊花は締め上げられてくびれができた腰を撫でさすりながら、胃がせり上がってくるような感覚に涙を浮かべた。

 宮女候補の最終試験であるお茶会まで、二週間を切った。

 最終試験の内容が告知されて以来、菊花は一度も香樹(こうじゅ)に呼ばれていない。
 母のような愛を捧げるつもりだった菊花に、求めているものは別の感情だと行動で示してからは、毎日のようにお呼びの声がかかっていたというのに。

 最終試験の裏側で行われる黄家屋敷の捜索に向けて、多忙な日々を送っているからだと理解していても、なんだか肩透かしを食ったような気分になる。

(でもまぁ、考える時間をもらったと思えば……)

 毎日毎日、考える間もなく「愛い」だの「良い匂い」だの言われて全身を撫で回されていた。
 そうされると菊花は、羞恥のせいなのか、それとも別の何かなのか、頭が沸くような判断しがたい謎の気持ちに支配されて、考えることができなくなる。
 最終的には酒に酔ったように頭がぼんやりして、ぽっぽと火照った体を大事そうに抱きかかえられながら意識を失うというのが常だった。

 香樹のことは、大切だと思っている。幼馴染みとして、親友として、家族として。
 だけれど最近は、それだけでは収まらない域に達している気がする。

(例えば、そう。恋人、とか)

 菊花の頬がほんのりと赤らむ。
 恋人。なんて甘美な響きだろう。

(私は香樹のことが、好き……なのかしら?)

 白蛇時代の香樹を、好きだと思ったことは何度もあった。
 綺麗な見た目が好き。優しい目が好き。なにより、懐いてくれたのが嬉しかった。
 一番の親友で、大切な存在だ。

 だけれど今は。
 それだけではない、と思った。

 姿が見えれば嬉しくて、そばにいたらもっと嬉しくて、見えなければ無性に会いたくてたまらなくなる。
 現に今も、菊花は香樹に会いたいと思っていた。
 ()の国の衣装に身を包んだ自分を見て、かわいいって言ってほしい……なんて思っている。

 こんな気持ちは、初めてだ。
 なんだか気恥ずかしくて、胸がきゅうっと締め付けられる。

(これは本当に、恋というものなのかしら?)

 いまいち、よく分からない。
 なにせ菊花は、恋愛経験がないのである。

 齢十六になるまで両親は町へ菊花を行かせなかったし、両親が亡くなってからは生きることで必死だった。
 恋愛がどういうものなのか、教えてくれる人もいなかった。
 だから、この感情が恋というものなのか、菊花には分かりかねている。

「ぐふぅ……」

「はいはい、菊花。そんな声、出さない。これでも緩くしているくらいだからね? 戌の国じゃ、もっとギュッと締め上げるのだから。おっ! いいねぇ。きみの胸が強調されて、実にエロティックだ」

「えっ、えろ?」

「官能的、という意味さ」

「官能的⁉︎ 私が?」

 烏の濡れ羽色の髪も、射干玉(ぬばたま)色の目もないのに。

 そっと視線を落とせば、ぎゅむっと押し上げられた見事な胸元がそこにある。
 そういえば白蛇時代の香樹はよく胸元に入り込んでいたなぁと思い出して、菊花は猛烈に恥ずかしくなった。

(え……まさか香樹は、そういうつもりで胸にいたわけじゃないよね?)

 香樹はまもなく二十二歳になる。
 白蛇だった香樹が菊花と一緒にいたのは、たぶん、十七歳くらいまで。
 となると、そういったことに興味津々な時期を彼は菊花と過ごしていたわけで──。

(ひえぇぇぇぇ)

「菊花は胸も大きくて綺麗な形をしているよね。普段着ている服もさ、もう少し胸を強調するようにしたら、もっとかわいくなると思うんだよなぁ」

 普段は、上衣の襟を交差して重ねている。
 それを交差させずに並行にして、(スカート)を胸の上まで引き上げたらどうか、とリリーベルは言った。
 そうすると、視線が胸元にいって、足長効果があるらしい。

「リリーベル様。菊花様、苦しそうですよ? 顔が赤いです」

「んー……これはコルセットのせいだけじゃないと思うなぁ。おおかた、香樹様とのあまぁいひとときでも思い出しているのではないかな?」

「そうでしょうか」

 菊花は考え事をしていたので、柚安とリリーベルの破廉恥な会話を聞いていなかった。
 聞いていなくて良かったのかもしれない。聞いていたらきっと、とてもではないけれど、この場にはいられなかっただろうから。
『お茶会の用意をするにあたり、宮女候補たちには、蛇香(じゃこう)帝へ質問する時間を与えるものとする』

 その通知がなされたのは、最終選考まであと一週間を切ったところだった。

 場所は後宮の庭で、蛇香帝と二人きり。
 ちょっとした散策をしながら、質疑応答するらしい。

 どうして、今更。
 試験まであと一週間しかないというのに、このタイミングでそんなことをする意味があるとは思えない。

 (いぶか)しむ菊花(きっか)に反し、宮女候補たちは大わらわだ。
 突然すぎる通知に、これも試験の一環に違いないと、彼女たちは大慌てで自室に引き篭もって衣装合わせや化粧を始めた。

 菊花は自室でワヤワヤと身支度する宮女候補たちの声を遠くに聞きながら、人気のない廊下を歩いていく。

「何か意図があってのことかしら?」

 菊花は歩きながら、考える。
 最終選考の裏側で行われることに、何か関係があるのだろうか。あるとすれば、考えられるのは珠瑛に対してだが……。

「与えられた時間は、長くない。わずかな時間で、何を仕掛けるっていうの?」

 何かがおかしい気がする。
 漠然とした違和感だが、こういう時の嫌な予感は当たることを、菊花はよく知っていた。

「私は、何も聞かされていない。私に聞かせたくない理由があるの? それとも、関係がないところで決められた?」

 何もわからないが、胸騒ぎがする。
 それも、とびきり嫌な予感だ。

「こういう時、いつもなら何か思いつくのに。今日はなにも頭を過ぎらないわ」

 無意識に歩き続けて、廊下が途切れる。
 いつの間にか、ずいぶんと歩いてきてしまったらしい。
 ふと顔を上げると、目の前には手入れの行き届いた後宮の庭が広がっていた。

「……!」

 ()の国から贈られたという薔薇園の前に、二人の人物がいた。
 白銀に金を少しだけ混ぜたような色合いの、絹糸のようにサラサラとした長い髪と、烏の濡れ羽色をした艶々の長い髪。相反する二色の髪が、風になびく。

香樹(こうじゅ)と、珠瑛(しゅえい)様……)

 色とりどりの薔薇を背景に、美しい男女が並んでいる。

 なんて、絵になる光景だろう。
 思わず足を止めて見入ってしまうほどに、完成している。

 息を飲む菊花の目の前でサァァと風が吹いて、薔薇の花びらを(さら)っていく。
 香樹の髪にひとひらの花びらが絡んだ。

「あら、陛下。御髪に花びらが」

 珠瑛の手が香樹の髪へ伸ばされたその瞬間、菊花は反射的に両手で口を覆った。

(私は今、なにを……⁉)

 危うく菊花は「私の香樹に触らないで」と叫ぶところだった。
 眉にギュッと力が入って、険しい顔をしているのが分かる。
 ズキズキと、眉間の奥が痛んだ。

 怒り過ぎで頭が痛くなるなんて、初めての経験である。
 ああ、これは。これが──、

(嫉妬というものか)

 珠瑛が憎い。
 あれほど執拗(しつよう)に嫌がらせをされていた時でさえ、怒りを覚えるまでには至らなかったのに、今は彼女が憎くて仕方がない。
 できることなら今すぐ飛び出していって、珠瑛を突き飛ばしてでも香樹を取り戻したいくらいだ。

(でも、そんなことをしたら、だめ)

 すんでのところで思いとどまる。
 誰がどんな意図でこの状況を生み出したのか分からない以上、菊花が余計なことをするべきではない。
 仲睦まじげに歩いているように見えているが、もしかしたら水面下では、菊花には分からないような罠が、張り巡らされているのかもしれないのだ。

(わかる。わかるけど、でも……)

 割り切れるかと問われれば、菊花は割り切れないと答えるだろう。
 身の内を焼くような強烈な怒りは、まだ鎮まる様子がない。

 恋とはなんて、残酷なのだろう。
 甘いだけなら、良かったのに。

 ()い、かわいいと構われるだけの関係だったら、どんなに良かったか。

 蛇香帝、(はく)香樹。
 彼を好きになるということは、後宮の花の一輪になるということだ。

 皇帝陛下は、一夫多妻制。
 全国民の生活を背負う彼を支えるには、菊花だけでは到底、力不足だ。

 大勢のうちの一人。
 菊花が愛する人は一人だけれど、香樹にとってはそうではない。

(私は、耐えられる?)

 答えは、否だ。
 珠瑛と一緒に歩いているだけで、こんなに気持ちがささくれ立つのに。

(手を握る? 抱きしめる? 口づける? とろけるように無防備な顔をして、「愛い」とささやくの?)

 そんなの、絶対無理だ。
 とてもではないが、許容できない。

 手を握るのも、抱きしめるのも、口づけるのも、寝起きのぼんやりした顔で「おはよう」と無防備に笑うのも、菊花だけじゃないと嫌だ。

(他の人と分け合うなんて、無理)

 たとえ菊花が、大勢の妃の中で一番だとしても。
 菊花だけの香樹でなくちゃ、我慢ならない。

 自分の中に、こんな激情とも言える独占欲があるなんて、菊花は知らなかった。

「──ええ。当日を楽しみにしていてくださいね」

「そうか。楽しみにしている」

 珠瑛の笑い声が、聞こえてくる。続いて、控えめに笑う香樹の声も。
 それ以上聞いていられなくて、菊花は(きびす)を返して逃げ出した。
 最終選考まであと一週間という今この時期に、悠長なことをしている暇などない。
 通常の執務に加え、最終選考の裏側で実行する(こう)家屋敷の捜索についても考えなくてはならないのだ。

 自分の命と菊花(きっか)の命、どちらも守った上で、長年にわたり隠蔽(いんぺい)されてきた黄家の悪しき歴史を、香樹(こうじゅ)が終わりにする。
 そんなことが、できるだろうか。否。そんな弱気なことではいけない。できるかどうかではなく、やるしかないのだ。

(だというのに、なんなのか。分かっていて、嫌がらせしているのか。この狸じじいめが)

 香樹は、形の良い眉を歪めた。
 美形の顔は、眉を顰めていても美しい。

 首謀者と目をつけている黄家当主である蘭瑛(らんえい)本人が、お願いがあるとやって来た。
 聞けば、娘の珠瑛(しゅえい)が最終選考について悩んでいるという。

「陛下に不愉快な思いをさせるくらいなら、恥を忍んでいくつか質問させていただきたいことがあるのです」

 と、珠瑛は言ってきたそうだ。

 無駄なことを。
 香樹は、鼻で笑いそうになった。

 正妃の座は、菊花のものだと決まっている。
 珠瑛など、妃に残す価値もない。

 香樹は知っているのだ。
 珠瑛とその仲間が、菊花に何をしたのか。

 香樹のおつかいは非常に優秀だ。
 菊花が知らないことも知っている。なんでも、知っている。

 亡き母の形見である菊花の服を、彼女たちがどのようにぞんざいな扱いをしたのか。
 菊花のことを、何度、(かわや)に閉じ込めたのか。
 菊花のものを何度隠し、何度捨てたのか。

 菊花の部屋にある小さな置物を始末しようとした時は、頭に血が上った。
 あれは彼女にとって、とても大事なものだ。落陽(らくよう)を呼び立てて怒鳴りつけ、菊花が気づかないうちに戻させた。

 香樹はなんでも、聞き知っている。
 菊花が泣くようなら叩きつぶすつもりだったが、彼女は全く堪えていないようだ。
 頼られたかった香樹は、それをほんの少しだけ、残念に思っていた。

 話が逸れた。

 今現在、黄家に怪しまれる行動は慎むべきである。
 部屋の隅に控えていた登月(とうげつ)に目配せすると、微かに顎を引く。

(受けるべき、ということか)

 香樹は渋々、蘭瑛の申し出を受けた。

 どうでもいい女とおしゃべりに興じるくらいなら、もうずっと会えていない菊花を呼び出して、思う存分甘えて、愛でていたい。

 蘭瑛の提案は、宮女候補全員にやらせるべきだろう。
 それが、公平というものだ。

 宮女候補の中にはもちろん、菊花がいる。
 彼女との久々の逢瀬を楽しみに、香樹はもうひと頑張りすることにした。

 だというのに。だというのに、だ。
 いざ菊花の順番がきたら、なぜか彼女は仏頂面。
 香樹はわけがわからず、困惑した。

 最近の鬱憤をここで晴らそうとしていた香樹は、途方に暮れた。
 表情筋が仕事をしないせいで無表情に見えるが、彼の頭の中はどうしようでいっぱいである。

 ずっと会えなかったことを怒っているのか。
 それとも、会えない埋め合わせに贈り物をしたらどうですかという登月の意見を聞かなかったのがいけなかったのか。

 もしや、また珠瑛に何かされて、今度こそ腹に据えかねているのか。
 それなら、今度こそあの女を成敗してやろう。黄家屋敷の捜索を待たずに、彼女を後宮から追い出すための材料はそろっている。

 そう思って聞き出そうとしても、菊花はプイッと顔を背けるばかり。
 これには香樹も、かわいいのか腹が立つのか分からない。否、菊花はどんな顔をしていても、かわいいの一言に尽きるのだが。

 菊花が香樹を望んでくれるなら、どんな障害だって跳ね除けるつもりだ。
 それだけの力を、香樹は手に入れた。
 あとは菊花が、香樹の腕の中に落ちてきてくれさえすれば良かった。

 そのための宮女候補であり、そのためのあたため係。
 それなのにどうして、そんな顔をしているのか。

 菊花は香樹に甘い。いつだって、香樹のことを甘やかしてくれる。
 そんな彼女に母を求めたことがあったけれど、昔のことだ。
 今は、好いた女として、(つがい)として、愛している。

 彼女がいなければ、香樹など生きる価値もない。
 小さく弱い白蛇は、死ぬ運命だったのだから。

 息絶えそうになっていた香樹を拾い、介抱し、生き存えさせたのは他ならぬ菊花だ。
 死んでもいいやと自暴自棄になっていた香樹に、この子と生きたいと思わせたのは菊花。

 菊花がいるから、香樹は生きている。
 菊花がいなくちゃ、生きたいとも思わない。

 香樹の全ては、菊花のためにある。
 皇帝陛下の地位など、副産物に過ぎないのだ。

「菊花。どうして、目を合わせてくれないのだ?」

「別に」

「私が、何かしたか?」

「何も」

「じゃあ、何が足りない?」

「……香樹は……ううん、なんでもない」

 言いかけた言葉は何だったのか。
 問いかけても、おざなりに返されるだけ。

 無常にも、宦官が終わりを告げてくる。
 離れていく彼女に何を言うべきかも分からず、香樹は肩を落とした。

 こういう時、登月だったら何と言うだろうか。
 否、登月は優秀な男だ。好いた女に仏頂面をさせるようなヘマはしない。

『そんな腑抜けた顔をして、どうした? 息子よ』

「父上……」

『道に迷った子どものような顔をしておる。皇帝たるもの、そのような顔では示しがつかぬ』

「力を得ても、女人の心は分かりませぬ」

『菊花と何かあったか。どれ、酒を用意せよ。こういう話は、酒を飲みながらと決まっておる』

 蛇の姿だというのに、ニンマリと意地悪く笑う顔は人の姿の時と同じだ。
 香樹は苦笑いを浮かべて「かしこまりました」と答えた。
「どうしてうまくいかないのかしら」

 毎夜恒例のお茶会。今日あった出来事を話し終えた菊花(きっか)は、項垂(うなだ)れた。
 今夜ばかりは茶を淹れる気分になれず、「じゃあ僕が」と珍しく柚安(ゆあん)が淹れてくれている。

 甘い匂いが湯気とともに立ちのぼり、部屋の中を漂う。
 (しん)の国ではよく飲まれる、甘茶という茶らしい。
 蜜も入れていないのに、甘い。菊花は一口飲んで、ほぅと息を吐いた。

「でもさ、菊花。今まで随分と悩んでいたみたいだけれど、これで納得しただろう? 自分の、気持ち」

 とは、リリーベルの言葉である。

「そうですね。それはもう、確実に理解しました。だって、あんな気持ちを知らないふりなんて、できないもの」

 思い出すのは、香樹(こうじゅ)と並び立つ珠瑛(しゅえい)に覚えた、殺意にも似たおどろおどろしい気持ち。

 その場所は自分のもの。誰にも、譲れない。

 母のような愛では、絶対に抱くことがない気持ちだ。
 あれは、香樹を異性として見ているからこそ、生まれた気持ちだと思う。

「これからどうしたら良いのかしら。だって、香樹は皇帝陛下なのよ? 皇帝陛下の責任は、とても重い。支えるためには、たくさんの妃が必要なの」

 香樹が抱える重責を、たった一人で支えることなんて不可能だ。
 正妃だけでは支えきれないから、皇帝陛下だけは例外的に一夫多妻制が許されている。

「でも菊花様は……」

 目を伏せて悩む菊花を、柚安が痛ましげに見つめる。

「そう。私は大勢の中の一人なんて、とても耐えられない。もしも香樹が私以外の人と手をつないだり、口づけしたり、抱擁したりしていたら、私は許せない。今日だって、珠瑛様を突き飛ばすところだった。ちょっと近くで話していただけなのに。こんなにも狭量な私が、後宮でやっていけると思う?」

「やっていけないだろうね」

 茶を飲み干したリリーベルが、静かに茶杯を卓に置く。
 でも、と彼女は話を続けた。

「私は、一夫多妻制にこだわる必要もないと思う。菊花は支えられないなんて言うけれど、本当にそうかな? きみは、きみが思っているよりずっと賢いよ。蝗害(こうがい)のことや紅梅草(こうばいそう)のこと。菊花は偶然だって言うけれど、必要な時に必要なことを正確に思い出すのは、すごいことだ。しかも菊花のそれは、多岐にわたる。私みたいに、毒が専門というわけじゃない」

「私は、ただ記憶力が良いだけで……」

「その上、皇帝陛下に面と向かってものを言える。誰もが息を潜めて時が過ぎ去るのを待つ中、きみだけは意見を申し上げたそうじゃないか」

「でも……」

「ねぇ、菊花、知っているかい? 蛇ってさ、とても臆病な生き物なんだよ。人が蛇を怖がるように、蛇も人を怖がっているんだ。そんな臆病な蛇を祖に持つ香樹様が、どうして人の上に立つ皇帝なんてできると思う?」

「彼以外に、いなかったから」

「それもある。けれど、それだけではないよ。彼はね、菊花と一緒にいるために、力を得たんだ」

「私のため?」

 ()の国の皇族は、人ではない。蛇神を祖にする獣人だ。
 卵で生まれ、幼少期を蛇の姿で過ごし、成人してようやく人の姿になる。

 彼らは人ではなく獣人だ。
 獣人は、人からしてみたら異端である。

 獣人はみな、人が異端を嫌うことを理解している。
 リリーベルの夫も、そうだと言う。

「だからこそ獣人は、自分が愛し、そして愛してくれる相手を、殊更大事にしようとする。異形のものを愛してくれる人なんて、そうそういやしないからね。そりゃあもう、こっちが呆れるくらい大事にするんだ。大事にしすぎて心配になって、もしも自分のせいで相手が傷つけられたらどうしようなんて思う。行き過ぎた心配は、力を得るという結論に至り、結果、獣人たちは王族として政権を握ったわけだ」

 リリーベルの夫は、()の国の王族である。
 この世界には五つの国があって、それぞれを獣の王がおさめている。

 五つの国にいるそれぞれの王たちはみな、そんな理由で王になったというのか。
 まさか、と菊花が信じられないでいると、リリーベルは苦く笑んだ。

「まさかって顔をしているけれど、本当なんだよ。香樹様は、菊花と一緒にいたくて、ずっといるためには守る必要があって、そのために力を得た。そうじゃなかったら、成人したからってわざわざ菊花と離れて都に行ったりしないさ。獣人は寂しがりやだからね。好いた相手から離れるのは身を切られるような思いらしい。重い愛だよ、本当に」

 夫から毎日のように手紙が届くんだ、と惚気るリリーベルに、菊花は反射的に笑い返した──が。
 もしやこれは、またしても聞いてはいけない類の話だったのでは。

 だって、こんな話、どう考えたってまずいだろう。各国の王族に関する話だ。
 ただの宮女候補が聞いて良い話ではない。絶対ない。万が一、菊花が香樹を諦めて帰郷の道を選ぶ場合、彼女に与えられるのは死──!

「ああ、柚安。これは他言無用で頼むよ」

 ケロリと話すリリーベルに、柚安も澄ました顔で「かしこまりました」と答えている。

(これは、もしかして、もしかしなくても、外堀を埋められたのでは?)

 外堀程度では済まされないかもしれない。
 もう抜け出すことができない底無し沼に落ちている気がするのは、大げさではないだろう。

(それならもう、腹を括るしかないのかも)

 どうしようなんて言いながら、菊花の中ではほぼ、香樹を諦めていた。
 大勢の一人になるくらいなら、香樹を諦めて実家に帰ろう。そう、思っていたのに。

「菊花」

「はい、リリーベルおねえさま」

「私を身内(おねえさま)だと思ってと、言っただろう? だからさ」

 意味ありげに、リリーベルがニヤリと笑う。
 リリーベルの言葉が、ストンと腑に落ちた。

(ああ、おねえさまは……)

 あの時からもう、分かっていたのだろう。
 姉と呼んでくれと言った、あの時にはもう。

「ええ、そうですね」

 リリーベルも、今の菊花のように悩んだのかもしれない。
 だからこそ、この結末も察しがついていたのだろう。
 菊花がもう、香樹から逃げられないことを。