「お父さん、お母さん、いってきます」

 家の隅に置かれた、祭壇とも呼べない粗末な棚の上に置かれた小さな置物に、少女は手を合わせた。
 軽くうつむき礼をすると、少女の額にハラリと金の髪が一筋かかる。

 明るい金の髪は、この国ではとても珍しい。
 生前の両親から口酸っぱく「隠すように」と言われていた彼女は、今日も布を被って家を出た。

 ()の国の西、崔英(さいえい)の田舎にある、名もなき町。その町の外れに、少女ーー菊花の家はある。
 一年前に両親が流行病で相次いで亡くなって以来、彼女は一人でその家に住んでいた。

 竹でできた家は、ほどほどに強く、ほどほどにボロい。冬は隙間風で寒いが、夏は心地よい風が入ってきて気持ちが良い。
 難点は多いし、菊花独りで住むには広すぎる家だけれど、両親との思い出が詰まったこの家を、離れる気はなかった。

 砂利さえない獣道のようなあぜ道を黙々と三十分ほど歩くと、町に出る。
 菊花はそこで、山で採った山菜や薬草を売って生計を立てていた。

 その日も、いつものようになじみの店で山菜と薬草を買い取ってもらい、もらったお金で食べ物を買い込んだ。
 いつもより少しだけ多くもらったお金だが、あっという間に消えていく。

(でも、良いの。今日は奮発して、鴨肉が買えたから!)

 裕福な暮らしではないが、少しのぜいたくは良いだろう。
 背負ったかごの重みにニヤニヤとしながら帰路につこうとしていた菊花は、町の中央にある広場が騒々しいことに気がついた。

「今日はお祭りでもあるのかしら?」

 一人つぶやいた言葉に、近くに居た乾物屋の店主が「違うよ」と笑った。

「宮女狩りさ。先月、蛇晶(じゃしょう)帝が崩御されただろう? それで、後宮が解散したんだ。今度は新しい皇帝陛下の後宮を作るってンで、宮女を募集しているのさ」

 店主が指差した先、広場の中央には高札が立てられている。
 学のない菊花には何て書いてあるのかさっぱりだ。ただグニャグニャと線が書いてあるだけにしか見えない。
 菊花に分かる文字といえば、『菊花』と『慧生』と『梨花』だけだった。

「おじさん、宮女って皇帝陛下のお嫁さんのことよね?」

「ああ、そうだ。国で一番偉いお方の妻だ。といっても、一人じゃねェけどな」

 店主が言うことが本当なら、高札には宮女狩りについて書かれているのだろう。

 高札の周りに居る者の反応はさまざまだ。
 ある者は「やってやるわ」と拳を握り、またある者は顔を青ざめてブルブルと震えている。

 女の側で崩れている男には、一体何があったというのだろう。
 もしかしたら、皇帝の妃になるつもりの女に捨てられたのかもしれない。菊花は「どんまい」と手を合わせた。

「一体、どんな美女が選ばれるのかねェ。きっと、目も(くら)むような女に違いねェ」

「へぇ、そうなの」

 菊花はそう言って、背負っていたかごをよっこいしょと背負い直した。

 今日は鴨鍋にしようか。
 焼いて塩をつけたのも捨てがたい。

(私には関係のないことだわ)

 だって、菊花は美女とは正反対の女である。
 この国において美女とは、射干玉(ぬばたま)色の目に烏の濡れ羽色をした髪、それから抜けるような白い肌をしていて、体がほっそりとした女性なのである。

 菊花は白い肌だけは該当しているが、それ以外はかすりもしない。
 明るい金の髪に菫のような紫色の目、それからもっちりとした、焼いて膨れた餅のような体形。()の国では、菊花のような体形を棉花糖体(マシュマロボディ)というらしいが、果たしてそれは褒め言葉なのだろうか。

 早々に見切りをつけて今晩のごはんに思いをはせる菊花に、通りすがりのおばさんが「いやだよォ」と笑う。

「あんた、関係ないって顔しているけどね。十六歳以上二十五歳未満の未婚女性はみぃんな宦官の登月様の面接を受けなきゃいけないんだよ。見たところ、あんたも対象じゃないか。羨ましいねぇ。見事宮女に選ばれりゃあ、三食昼寝付きの至れり尽くせりさァ。あたしもあと十歳若ければねぇ。こんな男と結婚しなくて済んだのに」

 そう言って、おばさんは隣でたたずんでいた線の細いおじさんの背を、遠慮なしにバンバンたたいた。かわいそうなおじさんは、おばさんにされるがままで、助けてくれと(すが)るような視線を菊花に向けてくる。

「あの、おばさん? おじさんが苦しそうだけれど、大丈夫?」

「ん? 大丈夫よォ。これくらいで倒れるような柔な男、旦那になんてするもんか!」

 おばさんはますます強気で、夫であるおじさんの背をバンバンたたく。
 ゲホゲホと咳き込んでいるけれど大丈夫かしらと思っていたら、乾物屋の店主が助け舟を出した。

「奥さん。今日の夕飯はもうお決まりかい? もしまだ決まっていないってンなら、これなんてどうだい?」

「あら、見たことない乾物だけど、これなんだい?」

「珍しい、海の生き物の干物さ。烏賊(いか)っていうンだけどな、これが炙るとうまいのよ」

 茶色の薄い干物からは、何やら美味しそうな匂いがする。
 思わず「買います」と身を乗り出そうとした菊花だったが、握りしめていたお金では買えそうにないことを思い出した。

(いつまでも見ていてはお店に迷惑ね。次は、あれを買うことを目標にしましょう)

 炙って焼いたら美味しいと言っていた、烏賊という名前の海の生き物の干物。
 菊花の唇がジュルリと動いて、喉がゴクンと鳴る。

(あぁ、でも……干した魚を酒で戻して、それから焼いても美味しいのよね。烏賊も同じ方法で美味しくなるかもしれないわ)

 そうと決まれば、次は酒も買わなければ。
 早々に切り替えた菊花は、かごを背負っていそいそと町を出て行った。